生きることについての定点観測(42歳になったばかりの目線)

子供が生まれた辺りから(私が30歳の時に長男が生まれている)、初詣等の神社でのお参りでは、「家族みんなが平穏に暮らせますように」といった願い事になった。
平穏に暮らすことがいかに難しいか。それを理解し始めたのが、ちょうど30歳になった頃だろうか。

生きていると、本当にいろんなことがある。
機嫌良く、平穏に、死ぬ瞬間まで生きることが、人生で一番目指すべき目的のように感じている。

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神様への願い事の変遷

子供の頃、思春期くらいまでは、〇〇が欲しいとか、〇〇に合格したいとか、私利私欲に走っていたような気がする。
高校生くらいまでだろう、明確にそういうお願いをしていたのは。その頃、自分の中で、何か満たされない思いがずっと根付いていたように思う。
やがて、だんだん、歳を取るにつれ、考え方が変わってきた。恋人ができ、結婚し、子供ができた。ライフステージは徐々に移り変わり、自分だけではなく家族という存在が増えてきた。そのうちに、価値観が変わったのだろう。私利私欲となるものはみるみるうちに無くなっていった。その結果、私を含めた家族全員が(時には私以外の家族が)、健康で幸せに、平穏でなにごともなく暮らせるように、という願いに変わった。多分、平穏に生きることの難しさが分かってきたからこそ、それを神頼みにしているのかもしれない。

別に、神様に責任を持ってもらおうとしている訳ではない。というか、そもそも、あまり神様を頼りにしていないか。神様のおかげ、という言い方も理解できるが、基本的にそこまで持っていくのは自分の実力だと考えているので、自分の努力が99%で、最後の1%くらいが運なのではないだろうか。
努力をすること自体は、意識の高いことなのだろうか。正しく生きることに対しての価値観に従い、自分がどれだけ努力するかどうかは生きるためにやるべきことなので、意識の高いとか低いとか、そういうレベルの話ではないだろう。そもそも意識の高い低いというのは相対的なのだから、考える必要はない。

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自死しちゃいけない理由についての定点観測

数年来に渡って考え続けている「自死しちゃいけない理由」については、未だに答えが出せていない。
頻度こそ減ったものの、未だに、月イチくらいの感覚で、それを肯定しようとする自分がいることに気づいている。周りが悲しむから、という至極真っ当な理由が一番適切、妥当なように感じるが、それはずいぶんと独りよがりだ。周りが悲しむかもしれない、というのは自分の思い込みなのだから。それに気づいてからは、いよいよ、この世に自分の生をつなぎ留めておくものがなくなったように感じている。つまり、何のために生きているか、何のためでもない、という程度の話。
死ぬ権利というのもあると思っている。どうせいずれはみんな死んでしまうのだから、それが早まっただけなのではないだろうか。もし自分が死んだとしても、自分を知ってくれている人たちの心(というか頭の中)には自分という存在が(ある程度は)残る。だから安心して、というわけでもなく、彼らの心に私が残るからどうということはないのだけど。
それでも、簡単には死んではいけないんだろうな、と思っている。周りのみんなが、その道を選んでいないから。日本は自死する人が数万人いると言われているものの、私の周りでは1人も聞いたことがない。もし、周りにそういう人がいたら、私は続けていくのだろうか。分からない。けれど、生きなければいけない、というのは、どうも偽善者な気がしてしまって、気が引けてしまう。