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  • 生きがいなんてなくたって生きていられる

    生きがいなんてなくたって生きていられる

    子供の頃から、「夢を持て」とか、「生きがいを持て」みたいなことをたくさん言われて育ってきた。それはそれで間違っていない。夢を持つことで,自分の可能性を狭めることなく,むしろ広げるように成長していくから。生きがいを持つと,生きる自信に繋がるから。おそらく,世界中の子供たちは皆,大人からそんなことを言われて育っているように思う。
    私が子供の頃,記憶にあるのは,小学校6年生の授業で,自分の夢というテーマで作文をしたことだ。それは授業参観で発表する形となっており,先生としては「子供が何を考えているか」を発表させ,そして親がそのことを受けてどうのこうのみたいなことを狙っていたのだろう。
    そこで私は,「サラリーマンになる」という夢を発表した。それは夢と言えるのか?と疑問を呈することもやぶさかではない発表だった。私はおそらく,夢というものを見ず、自分の延長線上に何があるかというのを現実的な目線で考え、そして発表したのだろう。

    そして46歳になった今、その夢は叶えられ、私はサラリーマンとして20年以上働き続けている。その時、同じように夢を発表した人たちの中で、その夢とやらを叶えることができた人はいったい何割いるだろうか。残念ながら私は誰の夢も覚えていないし、それよりも前に小学校時代の友人とはここ10年くらい連絡を取っておらず、だからその夢を検証することもできないのだけれど。
    私は夢を見ていたのだろうか、こんな生活をする夢を?と思ってしまう。サラリーマンなんて今の日本では大多数を占めるだろう。そんな、謂わば誰でもなれるような職業を夢に据えるなんて、当時の私、自分の可能性をきちんと理解していたか、もしくは、夢というものを誤解していたのではないだろうか。

    そもそも、タイトルにも据えたけれど、夢とか生きがいがなくたって、人間はちゃんと生きていけるのだ。私はここ数年の中で、何度、夢とか生きがいのことを考えただろうか。たまに、ぼんやり、生きがいというテーマで物事を考えると、家族、特に子供達が成長するまではきちんと見守る、そういった意味で生きがいなのかもなぁ、なんて鼻をほじりながら考えたりもしたものだ。だけどそれは見方を変えると、生きがいではなく、単純に、親としての義務というだけだ。それを生きがいなんてカッコ良い言葉に置き換えたところで、話は美化されないし、子供たちは勝手に成長していくし、だから生きがいなんて必要ないんじゃ、と思うのだ。
    夢とか生きがいとか、そういうものがないと,ちょっと焦ったりもする。私はこのままぼんやりと生き続けていいんだろうかと立ち止まって考えてしまったりもする。だけどその時点で改めて,夢とか生きがいを考えたって,自分の生活はいつも通り進んでいくし,私は目の前にある家事や仕事をこなしていかなければならないから,意味がないんだと思う。

    夢とか生きがいっていうのは,もしかすると幻想だったのか。それを抱かなくなるとジョージオーウェルの1984年みたいな、曇った世界、希望がない世界のようになってしまうような気もする。あの世界は私には強烈すぎた。現在の、かの国のように言論が統制され、至る所で監視されているような生活を送っている人にとっては、それこそ夢とか持ったら政府に殺されてしまう、みたいになってしまうのかもしれない。
    だけどもしかすると、夢とか生きがいを強制的に考えさせられるような現代日本の義務教育は、ちょっと考えものなのかもしれない。
    いや、私は、そういうものを持っちゃダメだ、とは言わない。そうではない。けれど、夢とか生きがいとかなくても、ちゃんと生きていけるし、無理やり見つけるようなものではないから、意識的に見つけるんじゃなくて、自然と身についてくるような気がしてしまうのだ。

  • 6月23日

    6月23日

    体調が微妙。
    身体がぼーっとする感覚。風邪をひいたのかなーと思う。
    こういう時は無理せず、こういう時こそ無理せず、ちょうど仕事の切れ目だったので14時で早退。本当は出社する予定だったんだけどそれもとりやめ。
    こんな金曜日でもまぁ、悪くはないと思う。

    ふと、今朝方に見た夢を思い出す。
    情景がありありと思い浮かぶのは、目覚め直前に見ていたからだろうと推測する。
    雑踏。
    背の高く、細いマンション。
    ヘッドフォン。
    マンションの踊り場。
    取り止めのない夢なはずだけれど、果たしてそれが何かしらの意味を作って要るのやもしれぬ、と考えるのはきっと人間だから。
    人間って、取り止めのない出来事が立て続けに起こると、それを結びつけたくなってしまうから。

  • 5月1日

    5月1日

    図書館で伊坂幸太郎の、フーガはユーガを借りられたのでとても嬉しかった。
    読むのは2回目で、1回目はだいぶ長い順番待ちをしたものだ。それが、もう予約は不要で借りることのできたという、時間の流れに少しだけ驚いた。
    あれからまだ1年くらいしか経ってないんじゃなかったっけ。

    伊坂幸太郎は、ストーリーの非現実性と、言葉の選び方や小ネタの挟み方がとてもオシャレなところが良い。あとは気持ち悪い性描写や、暴力的なところが少なくて、10代の若い人たちにもウケるような、健やかな風味がある。
    そういうところが、人気のあるところなのかななんて思ったりする。
    個人的には、彼の通った高校が私の自宅近くにあるという点でも、応援していたりする。

    伊坂幸太郎みたいな小説が書けたらなぁ、と何度か考えたことがある。
    彼のようになりたいのではなく、こんな感じで小ざっぱりとした読後感を与えてくれるような作品を仕上げてみたい。
    そんな意志を持って、5000文字くらいまで書くことは良くあるんだけど、そこから先が続かないような作品が、割とたくさんあったりする。

    そう考えると、小説家としてやっていくために必要なことって特別難しいようなことではなく、持続力が一番必要なのではないだろうか。
    物語を書き続ける、最後まで仕上げる力。あとはアイデアを生み出そうと考え続ける力。この二つがあれば、この二つを自分の中で地味にでも良いから続けていくことができれば、自分の理想とする作品を出せるのかな、とか思ったりするね。
    私の場合、アイデアを生み出そうと考えたり、着想を逃さないようにメモったりすることはできているので、そのアイデアの切れ味が鋭いかどうかはさておき、ひとまずその二つのうち一つはできているような気がする。
    そうなるとやっぱ、持続力なんだよなぁ。
    書きかけの5000字、もうちょっと引き伸ばしてみるか。

  • 鼻詰まりで起きる

    5時24分、むしろこのまま起床しても良い時間だな

    自分が結婚披露宴を催す夢を見た

    受付においていたゲストブックの光景が、参列された誰かのツイートにて紹介されていて、それを見てとても幸せな気分になった

    まぁ夢なんだけど

    夜が明けていく

  • いつか別れる

    いつか別れる

    家族に限った話ではないが、今、私がつながりを持っている人間は、今だけしかそのつながりが確約されていないということ。
    絆、って書いちゃうと日テレの黄色いTシャツを思い出してしまうので、そっちには寄せたくないので、あえてつながりという言葉を。

    シンプルに、寂しいなぁ、離れたくないなぁ、という気持ち。

    人生に別れはつきもの。出会いと同じくらいの頻度で、別れがやってくる。

    もう二度と再会できない死別というものは、とても辛い思いを纏う場合がある。
    再会できる場合としても、物理的にとても遠い場合や、近くとも他の物事に押されてしまい優先度が下がる場合など、多々ある。

    ぼんやりと考える。

    私は、いつ死ぬか分からないから、自分の思いが強い人とはなるべくたくさん、会っておきたいというエゴな気持ちが芽生えてしまう。
    たくさん会ったところで、その、いつか別れるという予測からやってくる「淋しさの先取り」は薄れることがないのに。

    数か月前、長男が遠くの国で暮らす夢を見たことがあった。
    18歳くらいの彼。
    今は12歳なので、ちょっと未来の話。
    東欧の、空気の乾いた、少し色褪せた風景の、やたらデカい施設で働いていた。
    その彼に、妻と二人で旅行がてら、会いに行く夢だった。
    今とは明らかに違う、口数の少ない彼。
    ランチを共にし、1時間程度一緒の時間を過ごし、あっという間に別れの瞬間が訪れ、そこで私はとても淋しい思いを抱きつつ、彼と別れた。
    私は号泣しながら、目を覚ました。

    今、私は彼と同居していて、早ければ数年後、大学入学のあたりで家を出る可能性があるので、夢の中で抱いた淋しさは、そのタイミングでやってくるのだろう。

    この夢、もしかしたら、私の両親から見た、私のことなのかもしれない。
    思い込みだろうけど、そんな風に考えてしまう。
    両親から甘やかされて育った(と思ってる)自分は、両親から優しさを一番に受け継いだ。
    彼らは優しい。めちゃくちゃ優しい。
    そして人とのつながりを大切にする人たち。
    無論、子供として育ててきた私が、あの家から離れると決めた時、ものすごく淋しい思いを抱いたのだろう。
    彼らの気持ちを考え、意図せず悲しい気持ちになってしまう。

    そんな彼らの気持ちとは裏腹に、今は、隔月程度で帰省し、両親に会いに帰る。
    1年で6日~7日。
    これが多いとか少ないとか、人によって感じ方に違いはあるだろうけど、まぁ、そういうもんだから、と優しい両親は考えているかな、と彼らのことを慮る。

    そういう見方をすると、私は、「家から出た人間」と、「これから家を出る予定のある人暮らす人間」、両方の目線で考えるのだな。

    子供たちについて、考える。
    彼の人生を奪うことはしたくないから、私の「別れたくない」という気持ちは、優先すべきではないと考える。
    考える、けど、淋しさをなんらか別のもので埋め合わせるなどしないと、自分が崩れてしまいそうな気がしたりもしている。
    彼に、家族に執着しているということになるのだろう。
    頭では、執着すべきではない、彼の、家族の人生を奪うべきではないと考えている一方で、心は、彼らと離れたくないという気持ちを抱いている。

    きっと、家族が好きということの現れだと思うけど。

    一方で、私がたまに抱く、この世から離れたいという思い。
    我儘だよなぁ。家族や、私を取り巻く関係の人たちと別れたくない、ずっと一緒にいたいと思いながらも、自分は別離を求めるという我儘。
    ずっと一緒にいたいと思うのならば、自分はこの世から離れるべきではないだろ。

    いや、違う。
    優先度がつけられていないだけか。
    彼らと別れたくないと、この世と別れたいを。
    そんなん、時と場合によるからなんとも言えないけど。

  • 夢とか持つべきではないのかもしれない

    夢とか持つべきではないのかもしれない

    理想の自分と比較するといつも、自分の至らないところが目に見えてきて、本当にイヤになる。
    この、思考の繰り返しについても、本当に嫌気が差す。

    なんでこうなったのか。

    つまるところ、めんどくさがることに起因しているのではないだろうか。
    めんどくさがることと、関連して、物事を先延ばししてしまうこと。

    理想の自分は万能型。なんでもできるタイプをイメージしている。
    現実の自分はというと、いろんなところに中途半端で、情熱を持って自分を磨いてこなかったことの結果だと容易に想像できてしまう。

    めんどくさがるのはなぜか。先延ばししてしまいたくなるのはなぜか。

    怠惰。怠けたくなってしまう。自分を律するのがめんどくさい。
    ぬくぬくしたところでぼんやりとお酒を飲み、生きていたい。

    多分、そんなところだろう。

    それはそれで良いのだ。それを選択したのだから。
    それならいっそのこと、理想の自分は「ぬくぬくしたところでぼんやりとお酒を飲みながら生きていくことです」と言い放てば良いだけ。

    けど、それができない。
    それは、自分の理想とは大きくかけ離れているから。

    理想とは。

    そもそも理想なんて持たない方が、幸せに生きていられるのかもしれない。
    夢なんて持たない方が、幸せに生きていられるのかもしれない。

    そもそも夢とは。持つべきものなのだろうか。理想も然り。

    人間は、成長すべきなのだろうか。

    自分のやりたいように生きる、ことが人生の目的なのであれば、やりたいように生きる≠自分を磨き、夢を実現させるというケースだってあるでしょ。