コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

これは私の場合に限るのかもしれませんが、頑張ればコミュニケーションをきちんと取ることができて、つっても年相応の、45歳の普通の社会人って感じの程度ではあるのですが。

だけど、そんな風にコミュニケーションをたくさん取った時、例えば会社の社員交流会みたいな、いわゆる飲み会みたいな場を経て、帰宅したらどっと疲れを感じることが多いです。

シンプルに、コミュニケーションを頑張って取った証な気がしていて、例えば、コミュニケーションの強者みたいな人って、疲れたりしないのかな、と思いました。

コミュニケーションは疲れる?

本来、人が構成する社会生活って、コミュニケーションがあってしかるものだから、そこに払うコストってしょうがない、払わなきゃいけないような気がするんですけど、そもそも、コミュニケーションって疲れるものなんですかね?

生きていくには必要なコストって今言ったばかりですが、果たしてそれは本当なのかと。

というよりも、コミュニケーションって、頭を使う?のかもしれないですが、どういう時に頭を使うんでしょうか。

  • 雑談をする時、(いい意味で)適当な話題を探す時
  • 雑談をする時、相手が気持ちよく話せるように相槌を打つ時
  • 仕事をする時、みんなで課題に向かって解決策を練る時に、いい感じのアイデアを出す時

いや、3番目のやつは厳密にはコミュニケーションのためのコストではないか。

どちらかというと問題解決のためのアイデアを考える時ですね。

私の場合、私はどちらかというと聞く方に回りがちなので、その時の相槌の打ち方、話を引き伸ばしたほうが良いのか、終わり二持っていくべきなのかみたいな時に、結構頭を使っているような気がします。

疲れるけど、それが必要なコストかどうか

ぐだぐだと書いてしまいましたが、肝心なのって、自分にとって、それが必要かそうではないか、という価値観なのかもしれません。

不要だわ、そのために消費するカロリーがもったいない、という人はだんだんコミュニケーションの頻度を下げていき、最終的には殻に閉じこもってしまうのでしょう。

私は、私の中での最上の理想はそっちがわなんですけど、それだと生きていくために得る必要のあるお金を手に入れることができなくなってしまうので、「頑張って必要と感じているコスト」と思っているような気がします。

生きていくには社会生活に溶け込む必要があって、それには必要なコミュニケーションを取って、そうやって自分をすり減らして生きていくことになるわけですが、一方で、やっていくと慣れていくってこともありますよね。

慣れてくるとコストが下がっていくので、気にするほどでもないレベルまでコストが下がっていけば、それはコミュニケーション強者ということになるのでしょう。

これって難しいですよね。十人十色の考え方の中で、相手はどんな人かっていうのを見極め、今までの経験の中から同じタイプを思い出し、その引き出しを開け、そこから出てくる「雑談の作り方」や「相槌の打ち方」みたいな素材を、相手に合わせて出していく必要があるんです。

慣れていけば、その引き出しがどこにあるかを瞬時に見つけることができるから、探す手間とか、そういうコストは最小限になるのでしょう。

コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん強くなっていく

コミュニケーションを取っていけば、相手がある程度の種類に分かれていくワケで、上述のいわゆる引き出しがどんどん増えていくんですよね。

それは相乗効果で、ロジカルに考えるとこんな感じかな。

  1. 会話を開始する
  2. 相手を見極める
  3. 新しいタイプ?
    1. 新しいタイプを受け入れる
    2. 引き出しが増える
  4. 既存のタイプ?
    1. 過去の引き出しの中を見に行く
    2. その人に合った素材を出し、会話に合わせていく
  5. 次のターンへ

こうして、コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん引き出しが増えていくんですよね。

タモリさんなんてのは何十年も色んな人とテレホンショッキングをしてきた人なので、ものすごく膨大な引き出しを持っているのでしょう。

どっちがいいとか、そういう話ではないので、自分に合ったペースで、コミュニケーションの幅を増やしていくと良いのでしょう。

生きていくのって難しいです。