図書館で借りました。
人生相談のフィロソフィー。悩む人。高橋秀実さん。
この作者のことは存じ上げなかったんだけど、書いてある文章がとても砕けていて読みやすかったです。
私はなんとなくニーチェが好きで、彼のこともこの本に書いてあったのでもうちょっと深めてみようと思ったのが借りた経緯になります。
永遠回帰という考え方
過去、あぁしておけば良かったと人間は考えがちで、私も数え切れないほどの失敗を経て今に至るわけですが、それを生かしてこれからは失敗しないようにしよう!と考えても結局は、また何か失敗をしてしまうんですよね。
お酒を飲みすぎて泥酔してしまうとか。これは最近よくある私の失敗で、だから飲みすぎないようにしようと心に誓うのですが、それでもまた、案の定飲みすぎてしまうとか。失敗って分かってるんならもうすんなよ、とメタな自分が自分に呟いたりしています。
この本ではその辺りにも触れていて、私は「悩む人」の代表格でもあるので、ズーンと心に響くものがありました。
そもそも私たちが考える「時間」も定時法という一種の約束事に過ぎないわけで、約束事を外してみれば、ニーチェが言うように「砂時計のように、何遍もひっくりがえって、はじめにもど」(ツァラトゥストラはこう言った(下))っているような気もする。私たちは「時間の経過」などとよく言うが、時間が経過しているわけではなく、経過を確かなものにするために定時法の「時間」を作り出し、それを前提とすることで「成長」や「進歩」、さらには「目的」や「目標」という概念を正当化しようとしたのではないだろうか。
時間という考え方をはずして考えてみよう、という突飛なアイデアはかなり独特で、それくらい私たちの生活に時間が密着しているわけですが、確かに私は何度も同じ失敗を繰り返しているし、そこから学ぶことはあれど、自分という器が少しずつ大きくなってまた新たな生活を繰り返すことになるんですね。
私は、永遠に繰り返して、細大漏らさず、そっくりそのままの人生に戻ってくるのだ。(ツァラトゥストラはこう言った(下))
人生は永遠に繰り返す。
ただしその過程で手に入れた経験を糧にして、もう一度!と同じ経験を繰り返すってことなんだろうなぁ。
だけど人間は成長するから、今度こそ同じ間違いを繰り返さないぞ!と思うわけで、それで成功したらオッケー、もし同じ間違いをしたとしてもそのまた次には失敗しなければ良いわけで。
もしくは、それを失敗と捉えずに、エジソンのように「うまくいかなかったやり方に気づく」と考え方を変えてもいいんだろうなぁ。
これが私の理解する、永遠回帰という考え方でした。もしかしたら捉え方を間違えているかもしれないけれど。
事実と解釈
現象に立ち止まって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。 (権力への意志 下)
なかなかかっこいい考え方だと思いました。この言葉に出会ったのは10年くらい前でしょうか。私はこの「事実」と「解釈」と言う考え方が好きで、ある事実に対して1000人いれば1000通りの解釈があるわけで、たとえば2011年に大きな地震がおきました、そこから得られた解釈は日本国民それぞれ違うわけですね。私はあれで防災の大切さを考えましたし、また、私の家族はそういう天災に巻き込まれないと嬉しいみたいなことを思ったりもしました。
そこまで言ってしまうと単なる開き直りのようだが、時間軸が円形で実は同じことを繰り返しているのだとしたら、「事実」とは事柄を直線上の時間軸に配置した一つの捏造に過ぎず、同じことをどう解釈したいのか、と言う欲求の反映になる。(213ページ)
事実は捏造の一つである、という考え方もなかなかキレがあるなぁと思いました。確かに捏造なのかも。事実を正確に捉えるのって本当に難しくて、それは自分の解釈が挟まってしまうからで、ああすれば良かった、こうすれば良かったと言うのが挟まってしまうことで、事実は捻じ曲げられてしまうんですね。
そう考えると、私が今まで起こしてきた失敗というのも、私は失敗と捉えているからそう見えるだけで、事実として、たとえば私が酔っ払って記憶を無くしてしまうとか、それによって私の家族が何か抱いた思いというものが、家族それぞれの解釈が挟まっているから、本当の失敗というのが、どんなものなのか分からなくなってきました。
もしかしたら、失敗なんてものはなくて、私がそう捉えているだけだから、その枠を取っ払って考え方を変えてしまうか、もっというとその「私の考える失敗」というものを忘れてしまうことも良いアイデアなのかもしれません。
どこまで考えれば良いのかわからず、際限なく自分の思考が続いていくように感じます。これこそが哲学ってことなのかもしれない。
いい本に出会いました。