ふと、気になったサイトの記事。
割と有名なメディアサイト「キナリノ」の、「誰かのための人生になってない?幸せな「自分の人生を生きる」ヒント」というタイトルの記事。
誰かのための人生ってなんだろう。自分の人生ってなんだろう。
人間は、自分のために人生を歩んでいると思っている。
子供だととてもわかりやすい。
自分の欲求を満たすために、自分の欲望に対して真っ直ぐに向き合って生きている。
それが理想だとすると、大人(と呼ばれる人たち)は、自分の欲望に向き合って生きてはいないのだろうか。
向き合って生きてはいないのだと思う。
なぜなら、それをやってしまうと、ワガママだとか、周りから叩かれてしまうから。
だから、そうならないように、世間の目を伺いながら、生きている人が多い。
たまに、そんなの気にしてらんないわー、私は私の人生を歩むんだから、という人がいる。
言い換えると「ロックな人」。
そういう人に、憧れる人は多い。内田裕也に憧れてる人とか、ね。
憧れるのと、そうなりたいと思う願望って、ちょっと違うと思う。
仮に、私が内田裕也に憧れているとして、今、私が、仕事をやめて音楽で生きていくぜ!ロックだぜ!それがやりたかったんだぜ!となると、どうだろう。
私の家族は、食べていけなくなってしまう。
私には責任がある。家族を養っていくという責任。
だから、本当はロックがやりたいのに、それを我慢して仕事したりしている。
文句あるか、別にないだろ、大好きな家族が、美味しいご飯を食べる時に見せる笑顔が見たいという欲望を満たすために、働いているんだからな。
ここまで考えるとどうだろう、私のやりたかったことって、「家族の喜ぶ顔が見たい」のであり、それは「ロックをやりたい」という欲望よりも上位に来ることがわかる。
ロックをやりたい、けども、それよりも家族の喜ぶ顔が見たい。
なんか話がずれてきた気がする。
自分の人生を生きるために、自分の欲望を明確にすることってすごく大切だと思う。
だけど、上で思考実験をしてわかったのは、100個の欲望があったとしても、それが全部同じ位置にならんでないよな、ということ。
優先度が重要度があって、それに応じて、時には世間に合わせて生きたりしてるんだろうなぁ。