世の中、白黒つかないことばっか

一日いちにちが、継ぎ目なくぼんやりと過ぎていく。
人間は寝るから、それが継ぎ目のように感じられる。
けれど実際は、それは意識があるかないかという観点なだけで、
呼吸とか、時間とか、違う観点で考えると、なんてことはない日々が続いているだけなのである。

季節だって、ゆっくりと入れ替わっていく。
辛うじて、雨が多くなってきたなとか、ベランダで飼っている植物が葉っぱをつけてきた、花を咲かせてきたというように、目に見える変化がある場合があると、それがきっかけとなり「季節が変わってきたなぁ、、」と感じることができるものの、そういうものに目を向けずにぼんやりと生きていると、いつの間にか春が来て、梅雨になり、夏が過ぎ去っていったりするものである。

人間の成長だってそうだ。
昨日まで19歳だった私が、今日になって20歳を迎えた。
社会という切り口では、私は今日、成人になった。犯罪を犯せば名前が公表される。
だけどそれは社会が決めた物差しなだけで、自分そのものを考えてみると、昨日と今日では、ほんの少し髪の毛が伸びた程度で、それ以外は全くもって何も変わっていないのである。

先日、ツイッターでフォローしている方が「グラデーション」という言葉を使って、この辺を表現していた。
そうなのだ。人生はすべてグラデーションで表現される。
小学生、就職、結婚など、人生の節目というものはあるものの、それは外側の世界なだけであって、内面的には何も変わっていない。その、外側の世界で定義された物差しで自分の大きさを測り、そして、「私は成人になったんだ」と実感したりするのだ。
昨日と今日では、いったい何が違うというのだ。
成人になったから、お酒をガンガン飲めるようになる?
お酒って飲みなれないうちはおいしくないし、すぐに気持ち悪くなるし、なんでこんなものを世界中の人間は飲むのだろう、そう思う時代が私にもあった。

つかみどころのない話になってしまった。
私自身も、つかみどころのない人間だよなぁ、と思う。

そう考えると、自分というものの実体は、いったいどれが本当なのだろうと訝しんでしまう。

42歳。
会社員。
二児の父。
茨城で育った人間。
レイソルのサポーター。
マラソンランナー。
山登りにあこがれる人。
カラオケが好きな人。
物書き。
妄想家。

もっと考えれば、もっと出てくるだろう。外から見たら42歳で、ただの、どこにでもいるような普通の父親に見えるかもしれない。
だけど普通ってなんだろう、どこにでもいるようなってなんだろう。
結局そういうところが分からないまま、死んでいくのかもしれない。