友人は、簡単には選べないけど、自分の人生を大きく左右することがある

いい人生を歩みたいと思ったら、前向きに生きている人間を近くに置くべきである。
と考えたのだけれど、いい人生っていうのは相対的なものだから、いい人生とか悪い人生っていうのは、なにかを基準に置くんだよな、とふと考えた。
違う、相対的に見ていい人生とか悪い人生とか、そういうことを書きたいわけではないので、修正する。

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自分は、周りにいる人たちによって染められることが多い(気がする)

あくまで私個人や、私の周りにいる人を観察して感じること、という前置きをさせていただく。
自分の思想に基づいて人を選んでいくという趣向があるはずだから、自分の思いに賛同してくれる、もしくは、賛同してくれるまではいかずとも肯定してくれる人間が集まるような気がする。

自分がそういう人と一緒にいたい、同じ時間を過ごしたいと感じるのは、彼ら彼女らがとても心地良いからだ。

なぜ、心地良いと感じるのだろう。

それは、自分の思い通り、もしくは思いと近いものを、彼ら彼女らが持っているからだ。
すると、だんだん自分の思いが強くなっていく。自分の生き方は間違っていなかったんだ、と周りの人間が反応する様を見て、気づく。

多分、その時点での自分が考える生き方以外にも、様々な生き方があるはずだ。180度違う考え方を持っている人間だっているはずだ。
しかし、その時点での自分は、それ以外のことを思いつかない。
思いつく術がないから。

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自分の考えに近い人間が集まる世界は、是か非か

是でも非でもない。
心地良いのだから、そこから抜け出そうとする気持ちというのは、自然に弱まっていく。
居心地の良い場所、安全な場所に留まっていこうとするのは、生き物の本能なのだろう。
それを是と考えるか、非と考えるかは、自分の外に世界があるかどうか、その世界に対して魅力を感じるかどうかである。

井の中の蛙として、自分がいる世界で十分だという考え方がある。
外の大海に気づいて、そっちに魅力を感じるという考え方もある。
どっちが良いかは、自分の考え方次第である。

一般的に、後者のほうが、人生を俯瞰した時に、浮き沈みがあったものの経験という物差しで見たら、プラスだった、と考える人が多いような気がする。
だけどこれはあくまで価値観だから、私はどちらが良いかとは言えない。
私は、ある程度後者、大海に思いを馳せて生きてきたが、ある時を境に自分がいる世界で十分だと思うようになった。
ある時と言っても大きな出来事があった訳ではなく、なんとなく、そっち側を目指すことに疲れを感じた時だ。

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最後に満足するかどうか

死ぬ直前まで大海を目指す人がいるかもしれない。
私のように、どこか人生の途中で、大海を目指すことに興味がなくなる人がいるかもしれない。
どっちも正解である。
間違いではない。

では、どっちを選ぶのか、と考えた時に、私が思いついたのは、後悔という言葉だった。
死ぬ間際になって、後悔をしない人生を選ぶのが、自分にとって一番良いことなのではないだろうか。
もしかしたら、大海を目指すことを早々に諦めたほうが、後悔をしないかもしれない。
大海を死ぬ直前まで目指す方が。
どっちが良いと感じるか、なんとなく想像は付くものの、死ぬ直前まで分からない。
それまでは、少なくとも、自分が気持ち良いと感じる方を選ぶべきである。