タグ: 価値観

  • 人と比べるくらいなら、自分の生を全うしてみろよ

    人と比べるくらいなら、自分の生を全うしてみろよ

    自戒を込めて。

    ここ半年くらいで、だいぶ気持ちを切り替えてきているのだけれど、私はすぐ他人と自分を比べてしまうところがあって、自分はダメだと思うこともあれば、逆に、あいつはダメだと思うことがあったりもする。
    他人と自分を比べることで、相対的に自分が劣っているとか、優れているとか、そんなことを考えてしまうのはもしかしたら人間の性なのかもしれない。
    人間というか、生き物の性だったりするのかな。

    けどそれって人の生き方として正しいものではなくて、その先には自分が破滅する世界しか残っていないのだから、まず、人と比べるのをやめましょう、という教えに則り、その辺の考え方を改めるようにした。
    そしてその辺はだいぶ改まったような感覚がしていて、個人的にこの取り組みは非常に納得のできるものだったと思っている。

    と、思っていたのだけど、
    実は全然そんなことなかった。

    というのも、私は、他人が、当時の私と同じように、他人と比べているのを見ていると、まだそんなことを思いながら生きているのか、それはだいぶもったいない、と思うようになっていた。
    それはある意味では、私とその人を比べていることになる訳で、結局、私は堂々巡りしていて、自分と他人を比べることから抜け出せていなかったのだ。

    それに気づいた時、私は、このループから抜け出すことができないのだと痛感し、割とリアルに死にたくなった。
    抜け出したかったのだ、この、人と比べてしまうという愚かな思考から。

    この辺りは本当に最近気づいたことで、だから、まだ、現在進行形で、死にたいと思っている。
    楽になりたいから。

    だけど人間は、生き物は生にしがみつかないといけない。
    自然に死ぬまで生き続けないといけない。
    そんな罰を背負っているのだから、ここで投げ出して死を選ぶ訳にはいかないのだ。

    だったらどうするか。

    もっと、より良い人生を送ることができるよう、考え方を変えるのしかないのだろう。
    全く分からない。方向性が見えない。

    けど、それでも、生きていくという姿勢を貫かなければならないのであれば、
    いっそのこと、その、他人と比べてしまう自分をどこかに打ち捨てておいて、
    その抜け殻には目もくれずに前を向いて生きていった方が、

    人間の姿勢として正しい方向に向かっているのではないのだろうか。

    その抜け殻は、思い出した時に、拾いに行こう。

  • 雄弁に語るよりも、傾聴を大切にしたい

    雄弁に語るよりも、傾聴を大切にしたい

    このブログは、前置きを必要とする。
    それくらい怖い。これを表明することに自信がない。
    賛否両論あるだろう。
    そもそも賛と否だけで表すことはできない。
    それこそグラデーションのように、各種様々な意見があるのだろうと推測する。

    発端は、自分が成長するためには、どういうインプットと、どういうアウトプットを組み合わせていけば良いのかという自問だった。
    吸収するだけでは、人は成長しない。
    暗記しようと英単語帳ばかり見ていても、それをテストという形でアウトプットする機会がなければ、自分の実力がどの程度ついたのかは分からない。
    だからこそ、適切な量のインプットと、適切な量、そして適切なタイミングのアウトプットが必要なのだと感じている。

    そこで表題に戻る。
    私は、人前で雄弁に語ることが得意ではない。
    感覚の問題なのかもしれないが、根本的に好きではない。
    それよりも、アウトプットという観点では、相手のことを引き出すための相槌、より深いところへ切り込むための方便や算段など、そういう点で細かな武器を持っていたいと感じている。
    人と話す時の相槌が自分の成長を試すテストだなんて、だいぶ変わっているように感じる。我ながら。目指すべき職業として、インタビュアーを選ぶべきなのかもしれない。今更ながら。

    一般的には、雄弁に語ることの方が見栄えが良いだろう。
    自分のアウトプットを測る場所として、より最適だ。
    うまくやり遂げることで、自分の自信につながるのかもしれない。
    だけど私は、傾聴することで相手が気持ち良くなること、私が相手のことを十分に知ることが、自分に自信がつくように感じるのだ。
    屈折してるなぁこれ。

  • 障子の向こうが見たかったおじいさんのこと

    障子の向こうが見たかったおじいさんのこと

    先日Twitter断ちをした時に、彼と同じ心境なのかもな、と思う瞬間があった。
    何度か。
    彼は「絶対に見ちゃダメですよ」という忠告を無視し、障子を開けてしまった。
    そしてその障子の向こうにいた鶴はそれに憤慨し、飛び立ってしまう。

    お爺さんはなぜ、我慢できなかったのだろう。
    人間はなぜ、「やっちゃダメですよ」と制限をかけられたものに対して、強い興味を示してしまうのだろう。

    先週、Twitter断ちをした時に、何度も何度も、TwitterのTLを閲覧したいという思いに駆られた。
    フォローしている人のツイートに、それほどまでの魅力があったのだろうか。
    自分の日常を誰かのシェアすることに、それほどまでの魅力があったのだろうか。
    なぜそこまでの魅力を感じるのか。禁断症状とまではいかないけれど、一日に一回以上はTwitterのことを考えた。

    多分、いくらか誇張している部分があるように思う。
    正直なところ、私が、暇だったのだ。
    Twitter以外に時間を潰す方法は、思いに耽ることか、本を読むことくらいしかなく、それにはどちらも気力を使うので、なるべく気力を使わない方法ということで、Twitterという選択肢がとても魅力的だったのだ。
    だから、多分、それに代替できる楽しみを見つけることができたら、自然とTwitterから離れていくのではないかと思う。今のところは全く思いつかないけれど。

    考えたいことがたくさんあって困る。
    お爺さんはなぜ、その忠告を守れなかったのか。
    お爺さんは多分、障子の向こうで何かしているのだけれど、それがなんなのかものすごく気になったのだろう。気になるということは、魅力を感じるということだ。忠告を破るほどの魅力とは。ここが私が持つ想像力の限界である。

    次に私が考えたかったのは、Twitterとの付き合い方。
    多分、私はゼロかイチに決めつけたがる性格なのだろう。
    その間にある、0.5でTwitterと付き合っていきたい。ほどほどに。

  • 可能性の話

    可能性の話

    不惑というのは40歳のことを指す。
    これは自分の可能性についてどのように捉えるかという点において、そういう年なのかな、とふと考えた。

    自分の将来について、可能性は無限大で、極端なことを言うと死ぬ直前まで自分の将来というものの可能性は無限大に広がっていると考えることもできるのだろう。
    私は自分が今持っているリソース、例えば身体能力、思考力、財産、家族、といったものの枠を超えて広げて考えるほどの突飛な可能性を考えないタイプなので、多分そんなに大それたことを考えることはできないだろう。

    これは見方を考えると、自分の可能性を狭めているのかもしれない。
    自分が持っている、制限と言い換えることもできるだろうこれらのリソースを元に、自分の将来を考える。ある種真っ当なことのように思えるが、例えば今、私が「国会議員になり、その先に総理大臣、そしてその暁にはこの日本を明るい国にしたい」のようなことを考えなくなってしまう。

    別に私が大志を抱き、国会議員を目指そうとしても良いのだろうけど。

    話を戻す。40歳が不惑と言われる所以。
    多分、そこには、私が上述したようなリソースが固まってくる頃なのだろう。
    仕事に就く、家族と生活を営む、この辺りの観念が定まることによって、将来の方向性が狭まってくる頃。
    人生は細かな選択というのだろうけど、私はその都度で自分の最善と思える選択をしてきて、今の自分が出来上がっている。
    だから今の自分がこうなっているということに対して後悔をするのは違う。その都度で選択をしてきた自分を否定することになるからだ。

    今の自分自身、そして自分を取り巻く生活の色々な部分を考えると不満があるかもしれない。けど、過去の自分が選択してきた結果こうなっているのであって、それによって将来の選択肢が狭まってきたとしても、それはそれとして納得して、その狭まった選択肢の中で自分が機嫌良く生きていくためにはどうしたら良いか、それについて真剣に考えれば、良いだけなのだろうか。

  • 機は熟さない

    機は熟さない

    AmazonのKindleで電子書籍を無料で出すことができると知ってから、無性に小説が描きたくなっている。

    いくつかアイデアがあるものの、小説を書くことに向き合う時間が取れないという理由、というか言い訳で、小説を描けていない。

    理由は単純で、小説を描くことが生活の優先順位で下の方にいるからだ。
    これが、もしかしたら自分の食い扶持になっていくかもしれないというのに、その未来をあまり信用できず、それよりは重要な本業、家族との生活を優先してしまっている。

    多分、小説を描いて暮らすというのは、ロマンの一つなのだろう。
    理想とは少し違う。
    けど、現実とは明らかに一線を画す。夢物語とでも言うべきか。

    もし、十分に時間もあって、気力や体力が充実していたら、それに向き合うのだろうか。
    向き合うかもしれない。
    だが、残念ながらそのような瞬間は訪れない。
    十分に時間があり、気力や体力が充実していると、小説を描くこと以外に時間を割こうとするからだ。
    自分にとって小説を描くことは、所詮その程度なのだろう。

    と、客観的に見る自分に対し、良し、そんなにまで言うのならやってやろうじゃないか、と思う自分がいないか、というと否定しきれない。
    もしかしたら小説を描くことの優先順位がぐっと上がり、あっという間に書きあげてしまうかもしれない。
    そんなことは実際に起きないような気がしてしまうけども。

    多分、一番現実的なやり方として、隙間時間を利用して作り上げるということだ。
    仕事の合間、休憩がてら、そんなことを考える。
    小説は構想を練り上げる時間がたっぷり必要なのだから、手元にあるメモ帳にでもそれを綴ってみるとか、そういう小さな一歩を踏み出し、踏み続けることで、やがて小説が出来上がってくるのだろう。
    そんなことを思いながらも、一歩を踏み出すことができず、地団駄だけの足音が聞こえてくるのである。

  • SNSに疲れてしまう時がある

    SNSに疲れてしまう時がある

    Twitter アプリをiPhoneから削除したら、iPhoneに触る時間が実質的に減った。
    私がiPhoneに触れる時間の70%くらいは、Twitterだったのかもしれない。

    たまに、1年に1回程度だが、全てのSNSからログアウトしたくなる時がある。
    理由は、他人と比べてしまう自分が許せないこと。
    それと、自分の生活において、シェアすることを目的に感じてしまうこと。
    多分、私は、それに強く依存してしまうのだ。
    他の人が気になってしまう。
    自分のことをシェアしたくなってしまう。
    そこから得られる刺激が快感となり、麻薬のように感じているのだ、きっと。

    SNSに浸るのをやめてみて、その代わりに生まれたのが、物思いに耽ることだった。
    物思いというのは自由だ。
    自分がどんなことを考えていようとも、誰からも制限されることはない。
    すごい。
    自由という世界がこんなにもすごいなんて。
    真の意味での自由とは、物思いに耽ることなのかもしれない。
    生きること自体は自由なのかもしれない。
    だが、そこには見えないモラル、ルールがあり、人間はそれに従いながら生きている。
    社会を共同で作っていく分には必要なことだろう。
    しかし、物思いは、そういう制限が一つもない。
    公序良俗に反するもの、社会不適合と思われるものすらも、思うことが自由なのだ。
    もちろんそれを行動に移すとなると上述したモラル、ルールに従って果たすべきだから、そこは勘違いしてはいけない。

    また、何度もここで取り上げる「妄想」という領域についても気を付けなければいけない。
    あの人が私を嫌っているのかも、私は生きている価値がないかも、といった類についても容易に思い至るのだが、それは考え続けても何の成果にもならないばかりか自分の精神を蝕む要因になりさえするので、すぐにやめるようにしている。
    SNSから離れている今、対象とする相手がぐんと減ったせいで(関わる人間が家族か、同僚しかいない)、それに至る妄想自体が減ったという事実もあるので、あまりそちら側に飛躍することはなくなった。

    だが、やがて、こういう、物思いに耽るのが気持ち良い、という気持ちもだんだん弱くなっていくのだろう。
    いつものように、飽きてくるのだ、きっと。
    飽きるというのは、人間が成長するための必要なものだと言われる。
    飽きて違うことをするのが、人間の成長に必要なことだと。
    少し分かる気がする。
    ずっと物思いばかりしていても、何も成長しないことは明白だ。

    そして多分、過去に数回あったように、Twitterが恋しくなるのだ。
    今はTwitterに全く触れていない。
    仲良くさせていただいていた方々の最近が、全く分からない。
    分からなくても正直なところ自分の生活で困るということにはならないのだが、少しだけ寂しさを感じることがある。
    満たされない、という思いが適切かどうかはなんとも言えないが、そんなような気持ち。

  • 「この中から選べ」以外

    「この中から選べ」以外

    今、自分の前に見えている選択肢だけが、答えではないという。

    誰かの手のひらで転がされている時には特に、選択肢が狭められて提示されることがある。
    相手にとって都合の良い選択肢しか、壇上に並ばない。
    いずれかを選んでも、結局は相手の手中から逃れることができない。
    だから、いつも、出された選択肢以外のものはないか、見極める必要がある。

    なんて書くとさぞ意識の高い人間が書いた文章のように思えるが、選択肢以外を考える必要のある機会など、そうそう現れない。
    私が出会う選択の機会など、今夜はワインにするか、ウイスキーにするか、くらいなものである。
    その程度の選択肢しか、目の前にしか現れない。
    今後も、よほど大きなイベント、例えば車を買うとか、転職をするとか、引っ越すなどのことが訪れなければ、選択肢以外のものを探る必要がないように思う。

    だからと言って、その訓練を怠っても良いのだろうか。
    確かに、私の生活では、日々訪れる選択の機会など、人生において重要ではないかもしれない。
    100歩譲って「今日は走ろうか」「もしくはだらだらとお酒を飲んでしまおうか」に関して、前者のほうが自身の健康にとってプラスなのだから、人生において重要なことなのかもしれない。
    だが、現時点の私からすると、どちらも同程度の魅力があり、その瞬間に私の身体や精神がどちらを欲しているかによって、あっけなく決まるような気がしている。
    その、ほぼ無意識に決めることが、大きな選択をする際に、選択する時の思考を鈍らせてしまうのではないかと思う。
    どちらにしても自分の人生に大きな影響がないようなことでも、それを短期的な視野で考えるのではなく、少なくとも中期的、できれば長期的な展望に立って考えることで、日々の一歩がやがて大きな成長につながるのではないか。

  • 誰に対しての責任か

    誰に対しての責任か

    責任の重たさに対する感性は一人ひとり違う。自分が考える責任は、他人のそれと一緒だと考えてしまいがちになるが、それは大きな失敗を産む。

    そもそも責任とは。役割などと近いイメージを持っている。何かをやり遂げるという、遂げる、のところに責任が生まれる。その、やり遂げるところの強度をどう捉えるか、その感覚に個人差が生まれる。

    普通に生きていく中では、個人的なところではあまり責任というものはないように思う。いろいろなことが思い浮かぶものの、玉ねぎの皮のようにどんどん削ぎ落としていくと最後に残るのは、生を全うする、くらいなものであろうか。

    一般的な社会で生きる人間には、他人に対しての責任というものが生まれる。しかも複数のレイヤーで生まれてくる。私の場合は父親として、会社の人間として、地域のコミュニティとして。おそらく、社会と呼ばれる世界が生まれるところのそれぞれに、責任も同時に生まれてくるようだ。

    個人的には、そのそれぞれで担うべき責任はもちろん重要だが、もっとも大切なのは生を全うするという、自分自身に対する責任だと感じる。社会の責任は、自分の生に対してプラスになるものだけではなく、時間を浪費する、ストレスを溜めるなどマイナスな面も生まれる。そしてなにより、そちらにばかり気を取られていると、自分の生に納得できないような気がしてしまう。

    自分の生を全うする、とは。

  • 時には雨が降ったって

    時には雨が降ったって

    関東地方は、なんとなく久しぶりな感じの雨。まとまって降ることが少ない季節なので、雨が降ってしっとりした空気になると少しだけ嬉しい。

    雨は煩わしい。傘を持つのが嫌いなので、なるべく雨の降る日には外出したくないと思ってしまう。服が濡れるとか、いろいろ面倒だと思ってしまう。

    そんなに嫌われる存在ではないだろう、本当は。ベランダでいくつかの植物を飼っているので、彼らにとってまさに恵みの雨なはずで(雨がかからない場所に置いているから、本当に恩恵を受けている訳ではないにせよ)、雨の良さというものは理解しているつもりだ。

    もっと言うと、晴れの良さを実感することもできる。イベントが雨で中止になり、まさに雨に泣いたことだっていくつかあったはず。そんな時に、晴れていれば…という気持ちにだってなったはずだ。

    また、雨は、感情や状況の比喩表現として使われることもある。クヨクヨしている人に対して「やまない雨はないよ」という声かけ、などは典型的な例だろう。そんな風にして、雨は、なんとなくぐずつくイメージを持っている。

    雨に対しての先入観をなくし、もっと肯定的になれれば。雨を味方につける、というと言い過ぎだろうけど、雨を愛することで、もしかしたら全天候に対してポジティブに、さらに天気が良かろうが悪かろうが機嫌を損ねることはなくなるのではないだろうか。

  • 続けられる人が一番強い

    続けられる人が一番強い

    自分の身に染みて感じるものだから英語を例として取り上げるのだけど、英語に関して「できない…」と挫折するのは、英語が難しいからではなくて、自分が続けられないから。

    英語だけではなく勉強全般に言えることだが、コツコツと続けることが一番難しい。
    義務教育ではその、コツコツと学び続けるということを身に着けるのではないだろか。
    大人になってから、そのコツコツと続けることがいかに難しいか。

    人間はすぐに逃げたがる。
    怠惰な方向にある誘惑はとても強力で、その誘惑から得られる快感も大きい。
    大人になるにつれ、自分の好きな誘惑が増えていく。
    そしてその快感を知っているからこそ、「今日ぐらいはいいか…」と気持ちがそっち側にゆらいでしまう。
    人間だもの、自分のことが可愛いのだから、それはそれとしてしょうがないのだ。
    そういう気分になるのは仕方がない。
    ぼーっとお酒を飲みながら、ゲームをする。
    お酒を飲むと気分が良くなるし、進めたかったゲームを進めることで得られる達成感は格別のものだろう。

    秘訣は、バランスを取ること。
    自分を磨くことと、自分を甘やかすこと。
    両方をバランス良く行っていく。
    前者だけだと生活が窮屈に感じるはずだし、後者だけだと怠惰な人間になってしまうから、それぞれのバランスを見極めて、生きていくべき。

    自分を磨くことと、自分を甘やかすことが、一つにまとめられたら強いだろうか。
    それが何か、見極めるのが難しい。趣味を仕事に?うーん。