タグ: 価値観

  • 余命

    余命

    余命が分かったら、生き方を変えるだろうか。
    いずれ死んでしまうのだから、に続ける言葉は、いったい何を。

    私はこの言葉に、何をつなげるだろうか。
    余命が分かっていたとしても、今の生活を変えることはしないだろう。
    やりたいことをやってから死ぬ、というのは多くの人が抱く思いなはずで、「やりたいこと」に何が含まれるかは人それぞれだ。
    行きたい場所、やりたいことなど、自分の好奇心に従った行動や言動が生まれてくるだろう。

    私は、良くも悪くもやり残した思いというのはあまり多くなくて、涸沢ヒュッテをこの目で見てみたい、子供の成長を見たい、くらいなもので、それ以外については、うーん、と首をかしげてしまう。
    もうやり残したことはない!という前向きな姿勢ではなく、もういいや別に、、という気分から来るものであるから、あまり幸せな形ではないのかもしれない。
    冒頭に書いた、余命がもし分かったとしても、多分、生き方を変えないだろう。
    一番大切に思っている家族たちと最期を迎えるまでいつも通り過ごし、別れに寂しく感じることもあるだろうけど、変えられないものだろうから、それを静かに受け入れるだろう。

    余命が分かったら、多くの人は、怠惰に生きている生活習慣を変えるだろうか。
    やりたいことをやってから死にたい、と、先延ばしにしていた自分の大切に思っていることに対してもっと真剣に向き合うだろうか。
    多くの人が、真剣に向き合っていないように思う。
    目の前にある刺激にばかり夢中になり、自分の本当に大切なことをきちんと、やり遂げようとする気持ちを持つべきだ。

  • 今の世界に満足することだって必要なことだろ

    今の世界に満足することだって必要なことだろ

    地球はデカい。
    おそらく、多くの人は地球の全てを見る前にこの世を去ってしまうだろう。
    いくら金があったとしても、いくら時間があったとしても、さすがに限界がある。

    別に良いのだ。
    私は、世界の全てを見てみたいとは思うけれど、全て目にする必要はないのだから。

    世界の多くを見てみたいと憧れることは良いことなのかもしれない。
    が、今いる世界、今の私が、今のあなたが見ることのできる世界をきちんと見ること、きちんと知ることだって、ものすごく大切なのだ。

    要は、今の世界に満足しているかどうか。

    今、自分が見ることのできる世界に不満があるのなら、外の世界が気になってしまうだろう。
    そして、不満があるからこそ、外の世界がとても美しく、自分が満足する要素を多く含んでいるように見えるだろう。
    だが、今まで自分がそのように考えて、外に飛び出した時、想定していたほどの満足を手に入れたであろうか。
    今の自分は、その満足を従えて、生きているのだろうか。

    逆に、外の世界を知ることで、元々持っていた世界の良さに気づくことだってあるだろう。

    だから、外にばかり憧れていないで、今自分が持っているものを見つめ直し、価値を再認識するべきではないだろうか。

  • 君が見てる白は、あの人が見てる白と同じ色じゃない

    君が見てる白は、あの人が見てる白と同じ色じゃない

    白って清潔。何にも染まっていない。まばゆい。雪。牛乳。

    先天的に目の見えない人に、白という色を伝えるにはどうしたら良いのか。
    適切に、最低限の言葉を使って伝える場合の、正解が見つからない。

    目の見えない人、って言い方をしたけれど、違う言語を使う人に対して、適切なニュアンスを含んだ意味を伝えるのが難しい。

    例えば、どうも。っていう言葉、これを日本語を知らない人に対して伝えるにはどうしたら良いのか。
    先に挙げた、白と同じ話。
    こんなにも難しい世界で、戦争をなくそうって言うのは到底簡単なことじゃないんだろうなと思う。
    戦争がなくなったほうが良い、ということがどういうことなのか、意味が分からない人だっているのだから。
    そんな世界に生を受けた人は、戦争のない世界がどんなに良いものなのか、想像がつかない。
    日本という国で、穏やかな西日を受けながら、こんな風にブログを書いている人間のことを想像することができない。

  • 自分の思いは過去の積み重ねだから、

    自分の思いは過去の積み重ねだから、

    今、抱いている気持ちは自分の未来を作るのだよね。

    自分なんてそうそう変わらないから、と思うんだけど、「いつもすき家ばかりだから、たまには吉牛にしてみよう」「いつもスニーカーばっか履いてるけど、たまにはブーツにしてみようかな」みたいな、そんな軽い気持ちの切り替えによって、自分の新しい未来が生まれたりするんだよな。

    そう考えると、自分なりのルーティンワークっていうのは、自分を固める効果があるけど、変わらないというリスクを孕んでいるのだよね。

    変わる自分を肯定しているのは、それは向上心から来ているもので、たぶん、今の自分はちょっとポジティブなバイオリズムで生きているのかなぁ。

    変わることは怖くない。

    人間は今、現在の自分を保とうとする人間だから、変わることに臆病になってしまう。

    変わらなくても良いのよね。そっち側も肯定したい。それは全部、自分の意思だから。

  • 自分探しという活動の意味が分からない

    自分探しという活動の意味が分からない

    20歳の頃、自分探しと銘打って、ニュージーランドに住んでたことがありました。半年くらい。
    半年とは言え、その大半は「早く日本に帰りたい」と思ってばかりで、あまり楽しんでなかったです。

    その理由は、シャイで、あまり自分からガツガツ行くタイプではないので、純粋に楽しくなかったから。
    そんな人が自分探しで行ったとしても、結局シャイな自分を再確認して終わり。
    積極的とは言えない自分の性格、なのに、自ら海外に行こうとする、という積極的な姿勢、相反しますよね。

    その心には、今の自分に満足していないという気持ちが存在しているはずで、だからこそ新しい自分を見つけに行きたいでしょう。
    けど、新しい自分はそこにはいません。急に、別の環境に放り込まれたからって、新しい自分が生まれるかというとそんな簡単な話ではないからです。

    自分を見つける、という態度がそもそもおかしいよな。受動的なのが気に入らない。
    新しい自分を作りに行くという姿勢なら納得できます。こうなると肯定的だから。

    あの時、もし、積極的な自分になっていたら、今とは違う人生を送っていたのかな、と思うこともあります。
    そこには自分の願望はあまり入っていなくて、あくまで選択肢の一つという範疇でしかないけど。

    積極的になる、という人間性についても、結局相対的なものでしかなくて、ある人から見たら私は積極的に見えるのだろうし、ある人と比べたら随分と消極的な人生を送っているようにも見えるはずだから、なにを以って積極的なのかはわかりませんけども。

    少なくとも、自分がやりたいと思ったことについては、なるべくやり遂げてから死にたいなぁと思います。
    その目線で、もしかしたら、大学を留年することが決まったあの日、海外で暮らしたいって思ったのかもしれないなぁ。

  • 罪悪感は何も生まないだろ

    罪悪感は何も生まないだろ

    これを読んでまして。

    https://www.amazon.co.jp/dp/B07T2CCC8K?encoding=UTF8&redirect=true&ref=ku_mi_rw_edp

    自分の心をクヨクヨさせる大きな要因に、この罪悪感があるということが。

    例えば、私は家族のために、私の時間を費やすとします。
    そうすると「私は、私のことを大切にしていない」と罪悪感が湧き、それが態度に表れ、家族に八つ当たりしてしまう。
    いや、違う、正確には「私はあなたたちのために時間を費やしていますよ」というアピールをしてしまうのです。

    そして、それが負の連鎖になっちゃうんですよ。

    家族は、私がそんな思いを抱きながら時間を費やしているのを理解し、家族もまた、罪悪感を抱いてしまう、と。

    それは、自分の中で期待していること、自分の中にある正しさが正義で、それに応えられないから、罪悪感を抱いてしまう、ということだそうで。

    期待していること、正しさ、ってつまり価値観ですよね。
    その価値観はどうやってできたのか、どうやっても揺るぐことがないのか、立ち止まって考える必要があるように思うんですよね。

    そして気づくんです、価値観なんていつでも変わるんだから、その価値観を変えることに抵抗を持つ必要はないのだ、と。そうなんすよ。自分の殻を破るのって実はそんなに難しくないよな、と最近感じるようになりました。マジ最近。ここ1ヶ月くらい。

    根本的に、自分の行いを肯定することが大切

    ストレートに言うと、自分のことをきちんと愛してあげることが必要なんですって。

    私、自分のことが嫌いって公言するほどに否定的だったのですが、そこを少しずつ意識を変えるようにしました。

    もっと、なんでもっとさ、って思っていた日々。

    自分は自分に対し、随分と高い期待値を持っていたことがあり、それを達成することができなくて、どんどん自分が嫌いになり、そして追い詰めていったことがありました。

    それは、良く考えると誰かに対して自分が達していないから、ということの裏返しだったんですね。

    それは上述した価値観のこと。

    そもそも、罪悪感、という、自分が悪いと思う必要は一切ないんですよね。
    誰に対して悪いのか、全く分からないし。自分に対して、自分が悪い?
    そういう風に思っているから、いつまで経っても自分のことを肯定できず、罪悪感でいっぱいで、前を向くことができない、と。

    良くないですね。良くないんですよ。自分を無条件に愛するだけで、解決するというのに。

  • 正義はその時の気分だろ

    正義はその時の気分だろ

    私が考える「正義」とは、結局そのタイミングにおいて抱く、その時の気分によって決まるんでしょ、と思います。

    ずっと同じ気持ちを抱きながら生きていくのって案外難しくて、情報を手に入れることにより自分の考えが変わることがあります。あります、っていうか、結構頻繁にあるんじゃないかと思います。
    ずっと同じ気持ちを抱くのって、吉野家の牛丼はいつ食べても美味しい、くらいなものですよね。
    味覚か。味覚は子供から大人になると割と変わるけど、30歳をすぎたくらいからはあまり変わらない気がします。

    政治が悪い、首相が悪いというのは、いつの時代も言われることです。今ですとコロナウィルス対策の是非についてマスコミが毎日のように報道していますが、ストレートに言うと今の政治が進めているやり方が悪い、というように描かれているように見えます。
    私は直接的な当事者ではないので、100%その心情を理解することはできないですが、飲食店やホテル・旅館を経営する方々が考える正義とは、今でいうとGoToキャンペーンを止める政治が悪い、なのかもしれません。
    それによって飲食店、ホテル、旅館への客足が止まってしまうから。
    そりゃそうですよね、GoToキャンペーンによって上がるはずだった売り上げが上がらなくなってしまったんですから。

    大切なのは自分はどう考えるか」をじっくり考えることなのかな

    テレビを見てれば政治が悪い、の一辺倒です。
    上記のGoToトラベル中止が悪い悪いと叫ばれていますが、GoToトラベル中止発表前は、GoToトラベルが悪者のように叫ばれていたように感じます。
    結局なにがどうなればマスコミは騒がなくなるのかな。
    彼らの考える「正義」というのは、いったいどういうことなんだろう。

    と、テレビをずっと見てても、結局今の政治が悪いとしか思えないだけなので、テレビを見るのをやめ、自分で考えることにしました。

    私は、私の正義を、どう考えるのか。

    で、到達したのがこの投稿のタイトルです。
    結局その時々でしか自分の正義って作られないのだから、その時にあった正義を選び、生きていくことになるんだろうな。
    というか、そうしながら生きてきたんだろうな。

    正義って言い方をしてるからよくわからなくなっているのですけど、人生を渡ってくる中で、選んできたもの、それらはその時々で自分が考えた正義に基づいて、選択してきたんだろうな、と。

    大事なのは、今、自分はどういう正義なのか。

  • 幸せの形は人それぞれだろ

    幸せの形は人それぞれだろ

    公私に関わらず自分の思い通りにいかない日々が続くと、
    「なんか全然楽しくないぜ人生」と思ってしまいます。

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    生きているだけで「うまくいってる」

    期待通りの結果が得られない日々を送っていると、生きてる意味ってあるのかな、
    こんな楽しくないことばっかで、、と、だんだん気持ちが沈んでしまいます。

    これをバネに変えられる人間はすごいですね。私には無理だ。

    そう考えてしまい、負のスパイラルで、さらに落下してしまう。

    そんな人間はきっと、自分に対する期待値が高いのだと思います。

    安易に期待値を下げるようでは、成長できないじゃん、と悲観的になるのを
    いったんどこかに放り投げて、まずは、自分が元気になることが必要なのかな。

    自分に対する期待値を下げる。期間限定です。元気になるまで。

    そんな時は、生きられれば成功、それだけで「人生、うまくいってる」という
    スタンスに変えられるのかなと思います。

    Photo by Eternal Happiness on Pexels.com

    自分に対しての戒めとして、この記事を書いている

    ここまで書いていて、私は思いました。
    「はて、これはいったい誰のために書いているのだろう」と。

    これは誰かに投げかける手紙のような存在でありながら、

    実は、

    自分自身へ投げかけているのです。

    私は、周りから言われて気づくのですが、自分に対する期待値が高い人間で、
    いろんなことが一瞬でできるだろお前なら、と自分の実力を無視して
    勝手に期待してしまう人間なんです。

    だから、自分の首を絞めてしまうことになりかねない。

    なので、そうなる前に、定期的にこういうことを振り返って、予防する必要があるのかな、と。

  • 生きることが成果として認められるのか

    生きることが成果として認められるのか

    私はつい、日々、生きる時には何かしらの成果を出すべきだと思ってしまう。
    いったいなぜなんだろう。

    そんなにせかせかと生きるような人間ではなかったはずなのよね。
    沢山もがいて、成果を求めるようになったところで、結局見えるのは何?と考えてしまう。

    結局は自己満足、そもそも生きること自体が自己満足、私自身は両親の自己満足で生まれてきただけの生き物なのだから、私は、私が満足する生き方ができれば、それで十分なんだろうな。

    上記の「成果」ということについて、私は何に対しての「成果」を求めていたのだろう。
    もしそれが、私が満足するという視点での「成果」なのであれば、それは私が成果として認めるかどうかが焦点なのであって、そう考えると私の価値観というところを考えないといけないんだろうなぁ。

    価値観なんてふとした瞬間に180度変わることだってあり得るのだから、たいして当てにならないものだとしても、

    だとしても、それを何かの拠り所として持っておくことは、人生を順当に生きるためには、正解なのかもしれないなぁ、なんて。