「好き」が、「かつて好きだったもの」や「もう好きじゃない」と心が移り変わっていくのは心の成長なのだろうか

木曜に飲む酒が一番旨いよな。

え、なんで?普通金曜か土曜じゃないの?

木曜はさ、「明日働いたら休みだ!」って思えるじゃん。あと1日!って。あと1日くらい、勢いでバーッて働いたらあっという間に終わっちゃう気がするんだよね。だから木曜に飲む酒が一番好き。

(説得力あるように見えるけど…相変わらず変わった思考だ…

好きなものに囲まれて暮らすような努力を

自分の好きなものは何だろう、と考えた時に、ぱっと思いつくものがそんなになくて、自分はいったいなにが好きなんだろう、と思わずじっと考えてしまった。

好きなもの、好きなこと、好きな人、など対象を具体的に落とし込んでいくことで、ある程度見えてくる気がする。最初に、「好きなもの」と対象をぼんやりさせたせいで、自分の中にその具体的なイメージが結びつかなかったのだろう。

とは言え、そうやって好きなものを具体化させたところでも、大して好きなものは出てこなかった。

静かな部屋。柔らかな陽射し。ベランダの観葉植物たち。
家族。友人たち。
本。音楽。
ハイボール。お米。

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ざっとこんなものだろう。今のところ、という限定ではあるが、これらに囲まれて生きていければ、多少の波はあるだろうけど最期まで穏やかに過ごすことができるのではないだろうか。

私がもっと若かった頃はどうだったのだろうか。音楽などは十代の頃から好きだったから、その辺りはずっと変わっていないように感じるが、一行目に挙げたものは私が30代を過ぎて40歳に差し掛かった頃に好きになったものたちである。

ここから消えたものは。
つい最近まで「ランニング」が入っていたが、最近はだいぶ腰が引けている。特に理由はないのだが、シンプルに他に時間を費やしたくなったのが理由だろうか。
身体を動かすこと自体は嫌いではなく、今でも子供たちと走ったり、動いたりしているものの、それが好きかと言われると、わざわざ明記するほどではないような気がする。

昔からあまり、お金をかけた趣味には興味を注いでこなかった。
お金がかかるとそれに興味がなくなった時に、そのお金がもったいないと感じてしまうのだ。昔からその感覚は変わらない。
数年前に結構なお金を払ってロードバイクを手に入れたが、そのような理由からほぼカスタムせず、そのままの状態で乗っている。

好きの反対ってなんだろう

好きの反対は、嫌いなのか。それとも無関心か。
意見が分かれるかもしれない。真実としては後者、無関心のほうが近いような気がしているが、どちらも正解なのではないだろうか。

うーん。シンプルに、好きの反対は、好きじゃない、と考えた場合。
好きじゃない=嫌い、と言えるだろうか。

私は言えないと思う。嫌いは、怒りや、妬みなどの感情がプラスされているから。
好きじゃない、は、そもそも興味がないのだ。怒りや、妬みなどの気分は起きてこない。
興味がないから。

だけど視点を変えてみると、好きの反対は、嫌いで正解な気もしてくる。

好き=自分の期待に応えてくれるもの、応えてくれる人、である。
あれを手に入れたらきっと生活が豊かになるんだろうなぁ。
あの人に相談したらきっと期待してる応えを返してくれるんだろうなぁ。

この視点で考えると、上記のように応えてくれないのが否定になる訳だから、それが嫌いということになるのではないだろうか。
嫌いというのは、自分が何を期待しているかが明確になる。
嫌いと思うものを排除していくと、好きだけが凝縮された世界になっていくのだろうか。
パレートの法則のように、常に下位に所属する2割の好きが、「かつて好きだったもの」に代わり、最終的には「興味がない」、むしろ「嫌い」になったりすることだってあるような気がする。人間だもの、心の移り変わりを否定する必要はないのだ。