タグ: 価値観

  • 5月8日 心療内科では根本治療することができないものごとについて

    5月8日 心療内科では根本治療することができないものごとについて

    久しぶりにブログを書きます。
    ここのところ自分の気持ちを整理したり、処理することをサボっていて、だからブログを書くために文章を考えようという気持ちからもちょっと遠ざかっていたりして。

    近況はこのくらいで。

    「もういなくなってもいいかな」という気持ち

    タイトルに書いた「ものごと」というのは、もう死んじゃってもいいかなぁーという気持ちについてです。
    私、今日心療内科へ通院する日でしたので、病院の待合スペースで待つ間、ぼんやりと最近の気持ちについて考えてみたところ、以下のような気持ちでした。原文ママ。

    • めっちゃ楽しい!という日常ではない
    • まぁ、帰りに事故を起こして死んでしまっても、別にいっかな、くらいの
    • 心配なのは家族。私の代わりに家族を養いまっせ!っていう人がいたら甘えてしまうのでは
    • ってかさ、死んじゃってもいいかなー、っての、考え方を変えないとずーっと心療内科に通うことになるんじゃないの?!

    そこで、待てよ、と。
    最後のやつ。考え方を変えようぜ、ってやつ。私なりに考えてみたんですけど

    というか多分、同じ内容を何度かここに書いている気がするんですよね。
    根本を断ち切らないと、いつまで経っても同じところをぐるぐる回っているだけなのかな、と思い至りました。

    悩みの主役を変えろ。いい加減いつもと同じ主人公にばかり付き合ってちゃダメだ。

    読み人知らず

    結局私って、いつまで経っても「死んじゃってもいいかな、って思っているんだけど、これが正しくないことに気づいていて、だから考え方を変えた方が良いと思う(これが根本なんだと思う)一方で、ここに寄りかかってるのってなんか楽なんだよね。いつでもそっち側に行けるっていう保険がかかってるからなのかな」みたいなところから抜け出さずにいるんですよね。
    これって全くもって不健全で、不健全です!って言い切れるところにいるのだから、考え方をがらっと変えてみる必要があるのではないかと思うようになりました。

    では一体、どう変えたらいいのか。
    多分なんですが、ポジティブな方に寄せるのがとりあえずの逃げ道になるのかな、と思い、
    もう死んじゃってもいいや=後悔はないぜ!今まで歩んできた選択肢は全部正解だったぜ!
    ってことなのかなぁ。こっち側に全振りするのは難しくて、なぜなら私がそこまでポジティブ人間じゃないからなんですけど、
    だけど、これを一つの道標として掲げることで、少しだけ、今の自分にサヨナラを言って新しい自分になれるのかな、

    なんてことを考えたゴールデンウィーク明けの平日。

  • 9月15日 過去と現在と未来と私

    9月15日 過去と現在と未来と私

    うまくいったこと

    • 上長へのプレゼン。自分のやりたいことを心理的安全の中で話し、それに賛同してもらえるのって気持ち良い。単純に嬉しい。
    • お酒を飲まずに夜を迎えてる。昨日飲みすぎたってのもあるんだけど、金曜日から享受される開放感の中で、誘惑に負けずに飲まない時間を過ごしている。

    うまくいかなかったこと

    • 特になし。今日はだいたいうまくできた。花丸。

    改善できる点

    • お酒は毎日飲むものというマインドセットを切り替える。せめて1日おきとかにしないと。

    所感

    • 伊坂幸太郎のAXを読了した。読むのは3回目くらいだろうか。ちょっとネタバレになっちゃうのでアレなんだけど、過去と現在、そして未来を結ぶ話。そこからちょっと考えたんだけど、現在って今、この瞬間に過去というものになってしまう。数日前くらいの日記で、過去、自分が失敗してしまったと思う過去に対し、同じ過ちを繰り返さないようにしようと人間は考える。これは成長と言っても良いんだろう。未来のことは誰にも分からないけれど、現在を楽しむことで、また失敗しないように生きることで、それが「良いと思う過去」に結びつくんだと思う。失敗しないように生きるのって難しい。私は小心者で、多分慎重な人だと思うんだけれど、そんな私でもたくさんの失敗を経験してきた。いつまで経ってもそれは改善されることなく、同じような失敗を繰り返してしまうんだけど、それでも、現在を楽しく過ごそうという気持ちを持つことは、良い過去を作り出すために必要なことなんだと思う。明るく生きるとか、そういうのも同類なんだろうな。
  • 9月9日 もがき

    9月9日 もがき

    うまくいったこと

    • 1日を期限良く過ごすことができた。機嫌を良くしつつ生きることは、壮年世代の目標なのかもしれない。機嫌の悪いおっさんってただひたすらめんどくさいだけだもんね。

    うまくいかなかったこと

    • 特になし。ちゃんと生きられた時点で今日は花丸。

    改善できる点

    • 特になし。今日と同じような心持ちで生きていければ、死ぬ時に後悔しないんじゃないかと思う。

    所感

    • 機嫌を良くするのも悪くするのも、簡単なことのように思う。けれど機嫌って意識的に変えられるものでもなくて、たまたまイヤなことが重なった(信号が3つ連続で赤だったとか)時に、無意識のうちにイライラし、そして機嫌を損ねてしまうことがあるのだ。そうなると機嫌を取り戻すのは難しくて、よほどの良いことがないと、前を向くことができないような気がする。人生を長く生きている壮年世代にとっては、その培った経験の中で、自分が何をすれば機嫌を良くすることができるのか、分かったりするだろう。その、解決の糸口を慎重に掴み、手繰り寄せることによって、いつの間にか前を向いていたということになったりもする。私の場合はランニングとか、身体を動かすと自然と前を向けるような気がする。多分それって科学的にも証明されているようなことで、身体を動かすと良い感じのホルモンが分泌されて、その結果前を向く、みたいな理論があるだろう。つまりそういうことだ。
    • 一方思春期とか、その辺の世代には、自分が何をすれば機嫌を回復できるのか分からなかったりする。そういう時、いったいどうしたらいいのだろう。多分だけど、そこでもがくことが必要なのではないかと思う。一見無駄に見えるようなことでも、それを実直に続けることによって達成感が生まれ、その副産物として良い機嫌を手に入れることができるのではないだろうか。つっても、44歳になった今でももがくけどね。もがくことで何かが見えてくると確実にわかるのであれば、ガンガンもがくんだけどな。そういう場合だけではないことも知っているから、人生に正攻法ってないんだろうなぁ。
  • 9月4日 酔ってる

    9月4日 酔ってる

    他者から嫌われても良いから、自分の思うように、自由に生きよう。
    かねてよりいろんなところで叫ばれているこの言葉は、私は、嫌われる勇気から学んだ。
    それを実践するほどの強い心を持っていないから、結局は読む前と変わらず、他人に気を遣って生きている。

    別にそれが悪いことだとは思わない。
    これも嫌われる勇気から得た言葉だけれども他者への奉仕というマインドセットが、私の行動を引き起こしているような気がしてならない。
    別に自分の気分が良ければ、それで十分だと思うんだけどね。

    先日、過去に私がとった行動がたまに思い返され、私は、あぁするんじゃなかった!もっとこうしていれば!とジタバタしたくなってしまう、みたいなことを書いた。
    その頃の私に寄り添うのであれば、私は、当時私が取りえる選択肢の中で最良のものを選んできたはずだから、それが間違っているとは言えないよね。数年後の未来に、それを思い返したとしてもきっと、当時の私の背中を優しくさすることができるような私になっていたらいいな、と思う自分がいる。

    行動って自分の意思だったり、無意識に取ってしまったりするけれど、結局のところ私が悲しまない、悔しがらなければ良いのであって、必ずしも失敗だった!と思えるようなことって案外少ないんじゃないのかな。

    酔ってる。
    意見のポイントが右往左往しているのがわかる。

  • 8月31日 自分の理想と私

    8月31日 自分の理想と私

    夏休みが終わっていくー。
    明日を待ち侘びる少年少女と、明日が永遠に来ないほしいと思っている少年少女、それぞれいると思う。
    彼らの思いを、厳密に嗅ぎ取ることはできない。
    けれどそこにあるのは、おそらく、「自分の理想」というものがあるんだと思う。

    自分の理想を追い求めることは、もしかすると人間の生存本能に基づいて生まれることなのかもしれないから、持つこと自体は自然なことなのだろう。
    だけど、自分の理想通りに物事が進むとは考えにくい。
    44歳になった今でも、自分の理想通りになったら良いなと思う一方で、いい加減、自分の理想を追い求めていてもそれは叶わぬ願いなんだよね、ということに気づいたりしている。

    多分そこには、折り合いをつけるという考え方が新たに生まれる。
    まぁ、しょうがないもんね、自分の理想ばっか追いかけていても、それが叶わなかった時に傷つくのは自分だしね、と、自分を慰めるように諌める。
    諌める、というのはちょっと違うかなー。諦める、と言うと言い過ぎかもしれないけれど、それに近いマインドが醸成される。

    多分そこで、自分の理想=周りのみんなが思い描く理想と合点がいくのであれば、それを追求するのが良いのだろう。
    スティーブ・ジョブズのような天才には、それが綺麗な形となって描けていたんだろうと思う。
    私はどうか。
    私は凡人だから、私の思い描く理想は、それが周りの人も同じように感じてはいないんだろうな、と思ってしまう。
    そこで自分を慰め、そうやって9月1日を迎えるんだろうな、と思う。

  • 8月30日 だからこそ私は、自分の味方になってあげるべきなのでは

    8月30日 だからこそ私は、自分の味方になってあげるべきなのでは

    今日は疲れた。特に夕方の会議。
    司会を担当したんだけど思うように議論が続かず、コントロールできない展開。
    茶を濁して終わったのだけれど、まさかの延長戦。これがまた疲れた。
    議論はミーティング中に行いましょうよ、と思う一方で、時間配分とかをうまくコントロールできなかったという点で責任を感じてしまう。

    まぁそんなことなんていつものことだからね。別にうまくミーティングを回せなかったからって、自分の首が飛ぶわけではないのだから、
    と自分を宥めすかす。

    「こうしよう、こうなりたい」と自分が思いを持つことは大切なことだ。
    人間は成長する生き物だから、すいう思いをベースに、それに到達できるように努力していくんだろう。
    だけどそれに苦しめられてしまったら本末転倒だなと思う。
    自分は成長したいのだけれど、途中で躓いてしまった時に、そっと背中を押してまた立ち上がれるようにしてあげることも、成長と同じくらいの温度感で持つべきではないだろうか。
    このご時世、周りは人を叩くことで躍起になっている人が多い。
    つまり敵が多いってことなんだろうけど、だからこそ私は、自分の味方になってあげるべきなのでは。

  • 8月29日 信念と社会と私

    8月29日 信念と社会と私

    何年かぶりにジョージ・ウォーエルの1984年を読んでいます。
    前に読んだのは何年前だったか。確かスティーブ・ジョブズがこの話を題材に出して喋っていたことがあり、それで気になって読んだんだよな。

    物語はものすごく閉塞感の溢れる世界の中で綴られています。
    未来なんてもんはねぇよ、そんなの気にした時点でお前は死刑だわ(誇張ではなく)みたいな話。
    どこの国の、なに党がそうさせてしまったのかは分からないけれど、きっとめちゃくちゃ強いボスの下にはイエスマンしかいなかったから、そういう世界になってしまったんではないかな、と勝手に想像する。そう言う背景は描かれていなかったので、勝手に想像しています。

    そんな中で主人公のウィンストンは、必死に自由だとか、正しい過去を信じようとするんですね。
    過去なんてものはいくらでも書き換えられるから、それこそ私がここで最近書いたように「事実は変わらない、解釈だけが変えられる」に少し近いんですが、この物語常では事実すらも変えられてしまうんですね。様々な文書が書き換えられてしまって、人々の中にあった記憶の中の過去は、もしかしたら間違えてるんじゃね?みたいなノリ。

    だけどウィンストンは、戦おうとします。こっそり日記を書くための手帳を買って、今自分が考えていることを書いたりしています。

    もう、これは信念だよな、と思いました。

    信念って難しいですね。言い換えると、自分だけが持ってる正論だと思うんですけども。
    正論は時として人を攻撃してしまいます。誰から見ても正しいと思える正論って実は少なくて、それこそ誰から見た正義だよ、って話にも近いんですけど、同じように、信念を貫こうとすると弊害が起きたりしてしまったり。
    そのうちに懐疑的になってしまって、私の持っていた信念って本当に正しいんでしょうか、って葛藤が生まれたりとかね。
    自分の信念を貫くっていうのは、ある種の自己満足だと思うんです。
    人間は自分のことがかわいいから、自分の信念は大切にしようと思うはず。
    だけど、そこで、「社会」というものとの兼ね合いが生まれてしまう。
    社会を立てようとすると、自分の信念を曲げなければいけない、と。
    どっちつかずなんですね。

    多分、その答えって、どうしたら自分が一番気持ち良いかって話なんだと思います。
    奉仕の精神って言っちゃうと言い過ぎかもしれないんですけど、人間は、社会生活において誰かに奉仕することで自己実現を得られたりするので、プラス承認欲求が満たされるっていうところも関係してて、だから自分が気持ち良いのはどっちだ、って胸に手を当てて考えてみると良いのかもしれません。
    その中で、少しだけ自我を通したいと思う人は自分の信念を貫こうとするし、逆の人は譲っちゃったりするんですよね。
    そうやって、社会って成り立ってるんじゃないかなぁ。

  • 8月28日 私が今までについた嘘

    8月28日 私が今までについた嘘

    たまに、自分が今までに吐いてきた嘘を思い出しては、死にたくなってしまう。
    嘘なんてつかない方が良いに決まっているんだ。
    誰にも嘘をつくことなく、生きていけることができたら。
    それこそが、善人なんだろうか。
    嘘をついてない人なんて、多分いない。
    まだ十分に喋ることが出ない赤ちゃんだって、親の気を引くために嘘泣きをすることだってあるのだから。

    だからと言って、私のついた嘘が許されるのかというとそれは疑問。
    だって私以外の全員が嘘をついたことがある、という相対的な比較しかしていないのだから。

    自分のついた嘘って重い。
    こんなことになるくらいなら、嘘をつかずに生きてくれば良かった。
    どうしたら、倒れそうになる自分を支えることができるんだろうか。

    他人と過去は変えられない、とこのブログで書いたのはいつのことだっただろう。
    つい最近なように思う。
    つまり過去は変えられないのだ。私がいくらここで、自分がついた嘘を悔んだとしても、その事実を変えることはできない。
    無数の嘘は、私を苦しめるけれど、その事実を変えられることはできなんだ。
    だから、解釈を変えるしかない。
    誰かの心に付いてしまった傷を、私が癒すことができたら良いのだけれど。
    私がついた嘘で誰かを傷つけてしまったとしたら、その傷はすでに癒えているだろう、と楽天的に考えることができるかもしれない。

    未来は変えられるんだとすると、私はここから先、嘘をなるべくつかないで生きていけば良いんだろう。
    たぶん、考えすぎているんだと思う。
    難しく考えずにシンプルに、真摯に生きていけば良いだけなのではないだろうか。
    この先、嘘をつく必要が出てくるかもしれない。けれど、その嘘が誰も不幸にしないのであれば、良いのではないだろうか。
    私が今までについてしまった嘘については重たく受け止めておくべきだろう。
    だけどその事実を覆すことはできないのだから、私の解釈をポジティブに変えていくようにしよう。

  • 8月27日 腹黒い私

    8月27日 腹黒い私

    私はそこまで歴史に詳しい人間ではなく、学校の勉強で習った程度、それプラス、旅行した時にはそのあたりを治めていた領主のことをWikipediaで調べる程度なのですが、ちょっと思い立ってNHK大河ドラマの「どうする家康」を毎回欠かさずに観るようにしています。

    どうする家康、っていう言い方がまた、彼の優柔不断さを体現しているように感じるのですが、その家康も回を重ねるごとに逞しく、頼れる人に成長していく様が描かれていて、そこがとても良いです。

    徳川家康について、私はあまり好印象を持っていませんでした。
    というのも私は司馬遼太郎の関ヶ原をKindleで買って何度か読んでおり、あれは石田三成が主人公として描かれているから、どうしても徳川家康を悪役として考えてしまうところがあり。
    小説の中では調略家として描かれているように思います。実際はどうだったのかは分かりませんが。

    その、小説の中の家康をイメージしているところなので、どうする家康では主人公として描かれているから、どうしたってギャップが生まれてしまうのです。
    そこは私の中の解釈として、どちらも正解であり、正解ではないという感覚で捉えているのですが、

    人は見かけによらないよなぁということを常々考えています。どうする家康を観ながら。

    裏表がない人、って言われると良いイメージとして伝わってきます。
    裏表がない人というのは誰に対しても同じ態度、情熱で接するイメージがあり、分け隔てなく接する人=いい人、みたいなイメージが先行するのかな。
    逆に言うと腹黒い、とかそういう意味になると思うんですが、こちらは悪いイメージになりますね。

    では、腹黒いと言うことは、本当に悪いイメージなんでしょうか。
    腹黒いと言うのは、ベースに「自分に優しい」と言うことがあるように思います。
    なぜなら、自分が都合良くなるように物事を進めようとするわけで、それは自分が気持ちよくなりたいから、ということになるのかなと。
    だから、自分にとってはいい人であるということになりますね。
    自分にとって、良い人であるべきと言うのは、この世を滑らかに生きる人としては必要なことだと思います。
    私だって常々、自分を肯定するのは自分しかいないと考えているので、つまり私も、腹黒い人と言えなくもないのかな、と。
    表裏一体です。

  • 8月24日 表現方法と私

    8月24日 表現方法と私

    自分の深層意識から生まれた感情のすべてラベルをつけられるほどのボキャブラリーを持ち合わせていない私は、だいたいのことに「ヤバい」とか「すげぇ」みたいな、少し前に言われてた「小並感」のような、表現方法しか持っていない。ような気がする。

    私自身はそれを痛感しているので、だから、それを補うために日々、本を読んだり、ここでブログを書くことで、私なりの表現を勉強しているつもりだ。

    だけどどうしたって勝てない相手というものがある。
    芥川賞を取った作品を読んでいると、容易にぶち当たる。
    みんなすげぇよ。よくもまぁこんなに綺麗に表現できるよ、みたいな。

    私だってできる限り、自分の持っているボキャブラリーを最大限使い、表現してるんだけどなー。みたいな。

    いや、けど、今持ってるもので戦うことだってできるんじゃないのかなー、とかね。考えちゃったりしてる。
    自分は、自分の味方でいるべきだから、現在の自分を肯定してあげるスタンスになってあげないといけないんじゃないのかな、とか。

    小説をずーっと書き続けているんですが、一向に終わる気配のないそれの持っていき方を考えているのと並行して上記のようなことを考えたりしている。
    私なりの味、とでも言うのかな、そういうのもあるのかもしれないから、今以上に文章を変えなくても良いかなーとか思ったり。

    ふらりふらりと文章を書いています。