タグ: 金曜日

  • 6月9日 お酒と私と低血糖

    6月9日 お酒と私と低血糖

    健康には常に気を配っておきたい。
    最近気づいたのだけれど、お酒をちょっと多めに飲んでしまった翌日、耳周りや指先が痺れるような感覚。あと急激な眩暈など。
    あまりにも頻繁に起きるよな、と気づいて、調べてみると、どうやら機能性低血糖というものらしい。
    らしい、だけでまだ病院とかに行ってないからなんとも言えないのだけれど。

    それが仕事中に起きたりすると、仕事に集中することなんてできないし、しばらくすると耐え難い空腹と発汗などの症状が出てきて、居ても立っても居られなくなってしまう。
    で、ゆっくりと私の過去を辿っていくと、どうやらお酒を飲みすぎた翌日に起きるような。
    そのまま知らないフリして過ごしていくと、たぶん、この先に糖尿病が待っているような気がしている。
    十分に運動しているのに?!とか思ったりもするんだけど、それよりもまずこのイヤな状態を脱するには、お酒を控えることが頭に浮かんだ。
    お酒を控えると言っても。うちにはたくさんのお酒があるんだよ。
    ついこの間買った知多なんて、まだ1杯しか飲んでないんだぜ。
    こりゃ困った、とは言いつつも、私には守るべき家族がいるのだから、そこは心を鬼にして、気持ちを切り替えようと思う。
    ちょうど良かったよ、痩せたいなと思ってたから、とかね、ポジティブに考えると、悪いことばかりではないと思うんだ。むしろ、お酒を飲んだせいでたくさんの時間を失ってきたんだから、お酒を飲まないことで得られるいつも通りの思考、それは飲んでるときと比較するといくらか正常な思考だと思うんだけど、それをうまく利用して読書したり、なにか書いたりすればいいと思うんだ。

    とは言っても、どうしても飲みたいときってあると思う。
    今日はその日だった。ということで、いきなり話の腰を折ってしまうのだけれど、缶ビールを1本だけ飲んだ。350mlの。
    いつもの私だったらここからワインとか、ウイスキーをロックで、といくところなんだけど、今日はなんとか踏ん張ってる。私にとって缶ビール1本ってのはほろ酔いにもならないレベルなので、飲んだうちには入らない!と自分で自分に言い聞かせている。
    健康第一だよね。なにはなくとも、健康第一。

  • 6月2日 自分で歌を作ってYouTubeにアップしてみたい

    6月2日 自分で歌を作ってYouTubeにアップしてみたい

    かねてより、自分で歌を作ってYouTubeにアップしてみたいと思っている。
    あ、これって「死ぬまでにしたいこと」のひとつな気がする。
    けど、腰が重く、進まない。

    まず、歌詞を作ろうとするところで、テーマが定まらず、立ち止まっている。
    悲哀をテーマにはしたいとは、思っている。
    けど、そこから、なんの?だれの?と思ってしまって、先に進まない。
    いつかどこかで、それっぽい神が降りてくるかなと思って待っているのだけれど、夜道をランニングしても、ベランダでタバコを吸ってみても、星新一さんが困ってた時のように歯磨きをしてみても、手を洗ってみてもなーんにも出てこないのである。
    なにか、歌詞を書き出してみると、自然に出てきたりするんだろうか。
    私が、小説を書く時と同じみたいに。

    私が小説を書こうとする時、よし、書くぞ!みたいな覚悟はなく、さらさらと書き出してみたりする。その時点では、誰かに見せるとか、ここに載せるとかは、まだ決めない。
    場合によって、内容によっては私の胸の中に秘めておくべきとなる場合もあるので、まずはEvernoteに無題、と銘打って、数行書き出してみる。

    そう考えると、この日記も、私が小説を書き出す時と非常によく似ているのではないだろうか。
    何かを書こう!と決めて始めないあたりとか。
    ここに載せる=人に見せるという前提だけは違うけれど、書くマインドセット、気合いのようなものは非常に良く似ている。

    そんなふうに、歌詞をまず考えてみても良いのかもしれない。
    ギターが弾けるので、ギターコードを混ぜながら。

  • 5月26日 流行について

    5月26日 流行について

    久しぶりに出社した。徐々に、出社する機会が増えてきている。
    今まではコロナ感染者がいれば社内で通知されるようになっていたが、最近ではその話を聞かなくなった。
    時代の流れというのもあるけれど、一言で言えばみんなコロナに飽きたんだと思う。
    よく3年も付き合ってきたよね。
    マスク生活。
    今ではもうマスクを外すことに照れてしまうような時代になりつつあり、なんのこっちゃ、と思っていたけれど、電車で通勤している時にはもう半分くらいの人がマスクをしていないように感じる。みんな飽きたんだろうな、こんなもの付けたくなかったよね。

    流行りというのは怖いもので、いつから流行ったかははっきりと分からないものが多い。流行の担い手としては、テレビが挙げられるだろうか。テレビで流すことで、ほんとは流行ってなんかいないのに、まるで大人気かのようになったりする。コロナも、最初の頃はあんま流行ってなくて、けれど何かのきっかけでテレビでは毎日、今日の感染者数を発表したりしていた。実際にはあんま流行ってないのにね、みたいなことは考えないようにさかんに、テレビで訴えかけるような、そんな3年間だった。

    私は決して、陰謀論者ではないので、その、テレビがさかんに訴えかけていたことが、実はワクチンを作る会社の陰謀だった、みたいなことは考えたくはない。人間にとって未知の、そしてタイミングによっては命を奪ってしまうようなウイルスだったから、世界では、テレビでは気をつけるよう警鐘を促していたのだろう。もしそれが本当に陰謀なのだとしたら、という想像は、ほぼ創作の範疇になると思う。

    この教訓を活かして、もし私がこのブログを流行らせたかったとしたら、どうすれば良いのだろう。まずコンテンツ自体に魅力を持たせる必要があるとして、それを評価し、周りに広める人が必要となるだろうか。私は大枚を叩いてそんな人を集め、広め、やがてテレビに取り上げられ、私は人気サイトの管理人を務めることができる。そんなことはやりたくないから想像の域を超えないのだけれど、やり方って意外と簡単なんだろうなーと思ったりする。

    だからこそ、流行りって怖いよなと思う。実体の伴わないものなんて関係ないんだから。なんか周りが騒いでるからー、で飛びつく人だってたくさんいるだろう。私は、自分の意思で、流行を見極めて生きていきたい。

  • 5月19日 誰にも迷惑をかけず、心配をかけずに消えることができるなら

    5月19日 誰にも迷惑をかけず、心配をかけずに消えることができるなら

    記憶に残らない日々の繰り返し。
    長期記憶のトリガーになるような、心が反応するような物事がなく、ただ、時間を過ごしているだけ。
    そんな日々にも意味があるのだとしたら、いったいどんな理由があるんだろう。

    いや、意味なんて必要なくて、死ぬまで生きれば良いだけなのではないか。
    そうやって本質を誤魔化し、食べる、寝るなどの要求をこなすだけ。
    それを数十年繰り返し、人生に諦めがついた時にようやく、呼吸を止めるようになる。

    目をつぶってみて、本当に最近の日々は心に引っかからずに過ごしてきたのか確かめてみる。
    すると、ぽつぽつと浮かび上がってくる、ごく短期的な思い出。
    と同時に、今朝方に見た夢を思い出した。
    路面電車の走る街。
    今いる場所から4つ先にある駅まで歩こうか、電車に乗ってしまうかを迷っている。
    そのそばには堤防が広がり、その先には大きな川が流れているのが容易に想像できる。

    現実に戻り、もしかしたらそれは、都電荒川線の、熊野前付近ではないかと勘繰る。
    夢に見た風景の答え合わせをしたところで、なんのプラスにもならないのは明確だけど、自分にとって思い出の場所ということに、改めて再確認することができる。

    現実が、つまらないのだろうか。
    自分の内面に聞いてみても、良く分からないんだよね、という回答しか思い浮かばない。
    なにか光でもあれば、その指し示す方向に向かって歩いていけるのかもしれない。
    その光は自分で放つべきものなのか。誰かに頼り、照らしてもらっても良いのだろうか。
    心の中にある光。それがないから、心が薄暗くて、自分がどう思っているのか、どう感じているのかすら、その輪郭すらも掴むことはできない。
    何かがあれば楽しい、とか、そういうレベルのものではない気がするんだよなぁ。
    逆にそれは、心の闇とでも言うべきか。
    理性なのか。分からない。消えたくなってくる。誰にも迷惑を、心配をかけずに消えることができるなら。

  • 5月12日 過去も未来も、列車が走るレールの上で

    5月12日 過去も未来も、列車が走るレールの上で

    チー、と高い周波数の音が聞こえる。
    私の耳鳴りだろうか、いや、今私の目の前にあるディスプレイの音だろうか。

    人生って正解がわからないことが多い。
    正解なんてものは、所詮その人が受け取る解釈のなかで生まれるものだから、私が思った正解が、そういうことになるんだと思う。

    ランニングが私の趣味です、と言い放った過去。
    実際にそういう時期があったのだろうけど、その時の自分と、今のそれでは到底思いもよらないほどに別人のように感じている。
    ランニングへのモチベーションが思いつかないからだ。
    なぜあんなに、走ることが好きだったのだろうか。
    おそらく、走っている時の、自分の身体から感じる筋肉の動き、痛み、苦しさ、そういうところから「私は生きている」というのを感じていたからなように思う。
    今、私は生きているのだろうか。
    その、ランニング中に感じるそれらの物事から遠ざかった今、私が生きているという実感があまり感じられないのである。
    いや、うーん、こうやってブログを書いているときに、私が考えているという感覚は、実は私が生きている証拠なのかもしれない。
    中村一義が、彼の放った歌の中で「そうだ、過去未来を乗せて、列車は走るよ」と綴っていた。
    過去も未来も、列車が走るレールの上で奏でられるもので、全ては地続きということになるのだろう。
    もしかすると、今の私は、途中下車をしている状態なのかもしれない。
    今、生きているという感覚がないのだから。

    だからと言って、決して、生き急ぐ必要はないのだろう。
    この世の中と別れるようなきっかけがないのだから。
    もしその、きっかけが私の目の前にあったとしたら。

  • 5月5日 モフモフ効果

    5月5日 モフモフ効果

    実家に帰っていたから、という口実で日記を書く時間がなかった。書く時間をきちんと取れば良かった。5月6日に書いている。しかもスマホから。

    実家には、新しく迎えられた子犬がいた。芝犬。まだ産まれて3週間とか。たくさん触り、癒されてきた。オキシトシンという成分が分泌され、脳の中で癒し効果が得られるのだとか。ソースはこちら

    すごいね。犬を触るだけで脳の中で特別な物質が分泌されるなんて。もしかすると古代の昔から、犬や猫はそんな形で人間の癒しに寄与してきたのではないのかと。

    これで実家に帰る楽しみができた。

  • 4月28日 話し相手の気を吸い取ってしまうらしい

    4月28日 話し相手の気を吸い取ってしまうらしい

    人と話しすぎると、疲れる。
    ちょっと久しぶりに、会社の同僚とランチする機会があり、たくさん話を聞き過ぎて、身体がぼーっとしてる。
    こういうことよくあるんだよなぁ。身体の症状を調べると、機能性低血糖の疑いが。知らんけど。

    どうも私は、話し相手の気を吸い取ってしまうらしい。
    重ための相談を受けた後、ずーんと気持ちが重たくなってしまう。
    良いことなのか、悪いことなのか。
    答えはきっとグレーで、どっちとも言えるし、どっちとも言えないんだけど、少なくとも私の身体に症状が出るようであれば、ちょっと避けるようにした方が良いのかな、と思ったりしてる。
    相手が気持ち良くなれるのならそれで良いのかもしれないけれど、時間は万人に共通に分け与えられるリソースだから、私は私のためにその時間を使いたい。

    また、今日、ランチに同席した同僚から、私の相槌の打ち方、共感しようとする力が絶妙で、話してる方は気持ち良くなってしまいずーっと喋り続けてしまうことがあるんです、と言われた。
    私は無意識にやっていることでも、それが相手から言われることで気づく、ジョハリの窓で言うところの、私は気づかない/相手は気づくエリア。
    だけど私は私を労わる必要があるはずで、話を途中で遮ったりして、自分の身体に影響のないように暮らしていきたいなぁ、と指先や手先などの末端が痺れている身体を感じながら、思う。

  • 4月21日 同じ悩みにそろそろ飽きろ。人生の登場人物を変えろ。

    4月21日 同じ悩みにそろそろ飽きろ。人生の登場人物を変えろ。

    同じ悩みにそろそろ飽きろ。
    人生の登場人物を変えろ。

    山本文緒 なぎさ

    Tumblrを徘徊していて見つけた言葉。
    思わず、はっ、となった。

    同じ悩みとはなにか。私の場合。
    それはくよくよと悲観的になることを許せない、ということ。
    それが私の個性になっているように感じる。良くも悪くも。
    というか、あんま良いようには感じないんだよなー。
    メタ的に自分のそういうところを認知して、しかもそれを悪い方に評価してしまうという、自分の悪い癖。

    自己肯定感が低いとかね、上述した個性がきっかけとなって
    自分のことをあまり前向きに捉えられないとか、あるんだけどさ。
    けど、こういうことをいつまでもいつまでも悩んでないで、新しい登場人物にフォーカスを当ててみても良いのでは、と思った。
    山本文緒さんも、そんな風に背中を押してみたかったから、上で引用した文章を書きたかったんじゃないのかな、と少し肯定的に考えてみる。

    いや、待てよ。

    考え方をポジティブにすると、私の場合、別の個性として「0か100か」を決めつけたがるところがあって、そのせいで、ポジティブ=いろんなことに全力で取り組む!意識高く!TOEICも Javaも、小説も!ってなっちゃって、結局疲れてしまうところがあるんだよな。
    しばらくはそれで頑張れるんだけど、その後にはネガティブな、ドヨーンとしたものがぶり返してくるから、ほどほどにやるくらいがちょうど良かったりするんだよな。

    中途半端に、やりたいことに目を向けて、やりたくないことには目を向けず、ぼんやりとして生きていくのが良いのかもしれない。

    話が脱線した。

  • 4月14日 自分探しの旅2023

    4月14日 自分探しの旅2023

    自由が幸せとは限らない

    スナフキンの名言

    多少の制約があったほうが、人生にハリが出てくるのだろうか。
    制約があるからこそ、その中での自由を噛み締めることができるような。

    昔、奴隷だった哲学者が、主人よりも奴隷の方が自由だ、みたいなことを言ったそうだ。
    理由は、依存度の違い。
    主人は奴隷に依存してて、奴隷がいなければその生活がままならない。

    現代では奴隷と思えるようなものは見当たらないけど、
    社長に対しての社員とか、見方によっては奴隷と考えられるかもしれない。
    奴隷というより、使用人みたいなイメージかな。

    そして一般社員で働く私の立場でちょっと考えてみる。
    すると、お金の奴隷になっているようなことを思いつく。
    お金のために働く。
    お金を、使うために働く。
    お金は、いくらあっても満足することはない。
    お金に、依存している、という考え方。

    お金に縛られない生き方。
    どっかの誰かが、年収130万円で豊かに暮らす、みたいなブログを書いているのを目にしたことがある。
    年収130万円というと、月10万円ちょっと。
    ほとんどは食費に消えてしまうかなー、とちょっと考えたりする。
    たまに、美味しいご飯を食べたくなっちゃったとしても、それを外食で済ませるのはちょっと難しいから、自分でなんとかしようとしたりする。
    いつ、どんな時でも外食ができる人が羨ましいか。
    それとも、自分の力でなんとかしようとして、スーパーで食材を買ってきて自分なりに作ってみて、それを食べる方が羨ましいか。

    私はここで、後者の方が良いだろうと推測しながら文章を書いてきたけど、いや、それは価値観に依存するから、どちらが正しい、どちらが幸せだとかは言えないよなぁ。
    楽に、お金を払って誰かが作ったものを食べ、舌鼓を打つ。
    もしくは、自分なりに料理して、苦心したものを食べ、舌鼓を打つ。
    結果を重んじるか、プロセスを重んじるか。
    私は、後者の方が私の価値観に合っているような気がする。

    こうやって、自分探しの旅をし続けていくんだと思う、人間は。
    経験を元に、自分の価値観を見つけ出すような旅を。

  • 4月7日

    4月7日

    たまーに、哲学的なことを考えてみたくなってしまう。

    自分の意識について。
    今、私が見ているものは、目から脳に入り、それを意識することで、あ、今、私、ブログを書いてるな、と認識できる。
    つまり脳がそれを意識しなければ、私は何も見ていないということになる。
    私の目に入ってくるものでも、今私はディスプレイを凝視しながらブログを書いているけれど、それ以外、視界の端っこに見える本棚は、私はそれに気づいているけれど、意識して見ていない。だけど私はそこに本棚があることを知っているから、見ていないけれど、そこにあることを理解している。

    私の意識とは。意識ってなんだ。脳の中で起こる気づき?

    私が過ごしてきた青春という一連の間隔で得た思い出が、いくつか脳裏に焼き付いている。
    その思い出は、まるで私の目に映るように、情景を思い浮かべることができる。
    それも意識なんじゃないのかな。
    中学校のグラウンド。野球部の練習。蝉時雨。水道の蛇口。
    あの時、本当に辛かった。真夏の練習。それが終わってからヘトヘトになって帰宅。
    蝉時雨、蝉時雨、蝉時雨。
    映像だけじゃない。音だって思い浮かべることができるんだよな。これも意識の一つなんだろうけど。

    Chat GPTに聞いてみた結果。分かったような、分かってないような。

    意識とは、知覚、思考、感情、判断、判断力、自己認識など、人間の認知機能の中心的な概念の一つです。つまり、私たちが自分自身、周囲の環境、そして私たちが持つ思考や感情に対して「意識」を持っているということです。

    意識は、認知的な過程として、我々の知覚や感覚から発生し、人間の脳が情報を処理する過程で生じます。これらの情報は、神経細胞間の化学的、電気的シグナルを介して伝達されます。

    意識には、自己認識、自己意識、選択的注意、睡眠や夢などの状態があります。ただし、意識がどのように発生するか、どのように脳の活動と関連しているかについては、科学的研究や哲学的な議論が続いています。

    Chat GPTの回答より