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  • 「好き」が、「かつて好きだったもの」や「もう好きじゃない」と心が移り変わっていくのは心の成長なのだろうか

    「好き」が、「かつて好きだったもの」や「もう好きじゃない」と心が移り変わっていくのは心の成長なのだろうか

    木曜に飲む酒が一番旨いよな。

    え、なんで?普通金曜か土曜じゃないの?

    木曜はさ、「明日働いたら休みだ!」って思えるじゃん。あと1日!って。あと1日くらい、勢いでバーッて働いたらあっという間に終わっちゃう気がするんだよね。だから木曜に飲む酒が一番好き。

    (説得力あるように見えるけど…相変わらず変わった思考だ…

    好きなものに囲まれて暮らすような努力を

    自分の好きなものは何だろう、と考えた時に、ぱっと思いつくものがそんなになくて、自分はいったいなにが好きなんだろう、と思わずじっと考えてしまった。

    好きなもの、好きなこと、好きな人、など対象を具体的に落とし込んでいくことで、ある程度見えてくる気がする。最初に、「好きなもの」と対象をぼんやりさせたせいで、自分の中にその具体的なイメージが結びつかなかったのだろう。

    とは言え、そうやって好きなものを具体化させたところでも、大して好きなものは出てこなかった。

    静かな部屋。柔らかな陽射し。ベランダの観葉植物たち。
    家族。友人たち。
    本。音楽。
    ハイボール。お米。

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    ざっとこんなものだろう。今のところ、という限定ではあるが、これらに囲まれて生きていければ、多少の波はあるだろうけど最期まで穏やかに過ごすことができるのではないだろうか。

    私がもっと若かった頃はどうだったのだろうか。音楽などは十代の頃から好きだったから、その辺りはずっと変わっていないように感じるが、一行目に挙げたものは私が30代を過ぎて40歳に差し掛かった頃に好きになったものたちである。

    ここから消えたものは。
    つい最近まで「ランニング」が入っていたが、最近はだいぶ腰が引けている。特に理由はないのだが、シンプルに他に時間を費やしたくなったのが理由だろうか。
    身体を動かすこと自体は嫌いではなく、今でも子供たちと走ったり、動いたりしているものの、それが好きかと言われると、わざわざ明記するほどではないような気がする。

    昔からあまり、お金をかけた趣味には興味を注いでこなかった。
    お金がかかるとそれに興味がなくなった時に、そのお金がもったいないと感じてしまうのだ。昔からその感覚は変わらない。
    数年前に結構なお金を払ってロードバイクを手に入れたが、そのような理由からほぼカスタムせず、そのままの状態で乗っている。

    好きの反対ってなんだろう

    好きの反対は、嫌いなのか。それとも無関心か。
    意見が分かれるかもしれない。真実としては後者、無関心のほうが近いような気がしているが、どちらも正解なのではないだろうか。

    うーん。シンプルに、好きの反対は、好きじゃない、と考えた場合。
    好きじゃない=嫌い、と言えるだろうか。

    私は言えないと思う。嫌いは、怒りや、妬みなどの感情がプラスされているから。
    好きじゃない、は、そもそも興味がないのだ。怒りや、妬みなどの気分は起きてこない。
    興味がないから。

    だけど視点を変えてみると、好きの反対は、嫌いで正解な気もしてくる。

    好き=自分の期待に応えてくれるもの、応えてくれる人、である。
    あれを手に入れたらきっと生活が豊かになるんだろうなぁ。
    あの人に相談したらきっと期待してる応えを返してくれるんだろうなぁ。

    この視点で考えると、上記のように応えてくれないのが否定になる訳だから、それが嫌いということになるのではないだろうか。
    嫌いというのは、自分が何を期待しているかが明確になる。
    嫌いと思うものを排除していくと、好きだけが凝縮された世界になっていくのだろうか。
    パレートの法則のように、常に下位に所属する2割の好きが、「かつて好きだったもの」に代わり、最終的には「興味がない」、むしろ「嫌い」になったりすることだってあるような気がする。人間だもの、心の移り変わりを否定する必要はないのだ。

  • 「幸せ、どっかに落ちてないかなぁ」って思う人は、自分が考える幸せがどんなものか、一度真剣に立ち向かうと良いと思うのよね

    「幸せ、どっかに落ちてないかなぁ」って思う人は、自分が考える幸せがどんなものか、一度真剣に立ち向かうと良いと思うのよね

    ヘモ、今日はまだ残業してるって言ってたなぁ…アイツ、最近働きすぎじゃないか…

    働けばお金が沢山もらえるかもしれないけど、それって自分の時間を失っているということに気づかないのだろうか…

    お金が沢山あるほうが、幸せなのだろうか

    私が考える幸せは、「自由」だと思う。
    ただし自由を手に入れるには頭を使わなければいけない。

    自由とは、なんでもかんでも自分の好きなことをやってもいい、と思えるかもしれないが、そうではない。
    例えば日本であれば、日本という国の法律に則り、法を犯さない程度で、自由気ままに生きることであろう。
    そのためには、日本の法律を学ばなければいけない。って書くと法学の知識が、、と思うかもしれないがそうではない。
    日本で、法を犯さないで暮らすにはどういうことか、自分で理解しなければいけない。

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    また、人によっては、散財することが自分の幸せとみなす人がいるかもしれない。
    そのためには、自分の物欲を満たすほどのお金が必要である。
    だけどお金は、働いたり、誰かに貢献しなければ手に入らないものである。
    だから、誰か困っている人を見つけ、その人の手助けができるようなことは何だろうか、と頭を使うことが必要だ。場合によっては「事業」と呼ばれる規模で、誰かの手助けをすることになる場合だってあるだろう。

    自分の幸せってなんだろう

    もしかしたら、たくさん仕事をして誰かに喜んでもらうことが、自分の幸せなのかもしれない。そういう人はたくさん仕事をしたら良い。
    たくさん欲しいものを買って暮らすことが幸せと感じるのならば、たくさんお金を用意すれば良い。
    本を読むのが幸せならば、本をたくさん読める環境に身を置くことが幸せにつながる道だろう。

    たまに、なんかいいことないかなー、とぼやく人がいる。
    いつの時代も、一定数いると思う。

    そういう人は、自分の幸せが何なのか、きちんと考えたことがないのかもしれない。
    沢山お金を持つこと。みんなから尊敬される人間になること。誰かに喜ばれること。
    多分これは価値観の話だから、みんなが共通して言える「幸せの形」というのは無いように思う。
    だから私が冒頭に書いた「自由」ということが、イコール幸せと言える人は、もしかしたら少ないかもしれない。だけどこれは私の価値観だから、誰かに「それは違うだろ」と言われたとしても、別に私は変えるつもりはない。
    私の価値観はどうだって良いのだが、私はある程度、幸せの形について自分なりに考えてきた。その結果、自由ということが一つの形だと気づいた。
    多分、真剣に考えないと幸せの形って見えてこないと思う。
    だけど、だからと言ってその、自分の価値観を軽視して一般的に言われるようなお金、名誉、などに引きずられていると、本当の自分の幸せが何なのか、それを逃してしまうような気がする。そしてそれに気づいた時には手遅れで、その幸せを実現する時間が残っていないようなことだって、実際はあり得るように感じる。

  • 家族のために生きるのも良い人生だけど、それで自分は満足するのだろうかね

    家族のために生きるのも良い人生だけど、それで自分は満足するのだろうかね

    でさ、昨日話したコンビニの前で酔いつぶれてたおっさんなんだけど。

    え、ちょい待って、二日連続でその話、いく?!えっ?!まだ続くの?!

    いや、だってさ、おっさん、めっちゃ気持ち良さそうだったんだもん。あれ、人生の真理だよな。真理。

    ちょっといろいろ飛躍しすぎてて、何がなんだか全然分からんのだけど。。。

    いやだから、機嫌良く生きるためにはさ、歩道に寝っ転がったっていいわけでしょ。自分が何をしたら気持ち良くなるか、時には羽目を外すことだって良いんじゃないの?

    まぁ時と場合によるけどね。ある程度は必要だよねきっと。

    自分の可能性は、自分で狭めているのだろうか

    40歳を過ぎて、残された時間と、守らなければいけない家族を鑑みると、できることが限られてくるような思いに駆られる。
    特に家族。
    子供たちが大きくなるまでは私は仕事をしてお金を稼がないといけないし、そのためには健康でいなくちゃいけない。私がそうやって親に守られながら、育ってきたから。子供には、自由に育って欲しいと思っている。
    学校の勉強はもちろん大事だけど、学歴社会じゃない、多様な価値観を身に付けて、成長して欲しいと願っている。

    書きたかったことから少し脱線するが、「学歴社会じゃない、多様な価値観を身に付けて」という言い方は、学歴社会を否定する、負け惜しみなような言い方に聞こえてしまう。おそらく、私の偏見である。
    立派な学歴を持った人がこのセリフを吐くと説得力があるのだが、私のように中途半端な学歴を持つ人間が言っても、どうも薄っぺらく聞こえてしまう。
    気にすることなんてないはずなのに、私はいつもこの部分が気になってしまい、「学歴なんて気にするな」というセリフを吐く時はいつも、声が心なしか小さくなってしまう。

    さて、私は上述したように、割と親から愛されて育ってきたような感覚を持っており、だからこそ同じように、子供たちに対して彼らのやりたいことを実現させてあげたいと思う。
    そのためには、私がやりたかったことを我慢してでも、彼らの欲望を満たしてあげる方を優先すべきなのだ。

    優先すべき、それは本当だろうか。

    私は私の人生を生きるべきであって

    まず、冒頭に書いたことは皆、私の妄想ということが明らかだ。

    • 残された時間は多くない
    • 家族を守る

    これらは一見、40歳を過ぎた、父としてあるべき姿のように見える。
    おおよそ間違っていないのかもしれない。
    が、果たして本当だろうか。

    まず、残された時間は少なくない、という点。
    80年生きるというのを前提で考えたとして、私に残された時間は残り37年ほど。
    老年になると体力がなくなるだろうか、体力を抜きにして考えると残り20年くらいか、、、と軽く見積もったのだが、
    その前に、そもそも私は、いったい何をしたいのだろう。
    何をしたいかによっても、だいぶ変わってくるのではないだろうか。

    あと、家族を守るという点。
    こちらについては責任という意味合いからも、私は家族を守るべきだし、幸いなことに今の仕事は嫌いではないから、まだまだ働きたいと思っている。
    なのでここ、家族を守る必要なんてない、という価値観もあるかもしれないが、私にはそれはしっくり来ていないのでこれ以上は割愛する。

    結局、自分が機嫌良く生きることが人生の目的と考えた時に、自分のやりたいことを実現すべき、時には家族や自分のリソース(体力、気力、財力)を無視してでもやるべきである。だけどそれらを無視した後で痛い目を見るのは明らかなので、機嫌良く生きた後に痛い目を見て辛い思いをするくらいなら、最初からその道を選ばなければ良いだけであるから、きちんとした道を考えつつ、生きていくべきなのだろう。

  • 根本的な問題は一刻も早く解決すべきだけど、解決する元気がない時は現実逃避をすべきだろうという話

    根本的な問題は一刻も早く解決すべきだけど、解決する元気がない時は現実逃避をすべきだろうという話

    この間、残業して帰ったらさ、駅前のセブンのとこで酔いつぶれて寝っ転がってるおっさんがいてさ。すげぇ見苦しかったんだよな。

    春になると出てくるよなぁそういうおっさん。恥ずかしくないのかね、っていっつも思う。

    俺もそう思ったんだけどさー。けどそのおっさん、めっちゃ気持ち良さそうに寝てたんだよね。

    で、気づいたんだけど、これももしかしたら幸せの形として定義してもいいんじゃねーのか、って。

    確かにね、周りの俺らからすると「しょうもねぇおっさんだな」と思うけど、本人からするといい感じに酔っぱらって寝っ転がってる訳だから、死ぬとかじゃなければむしろ幸せなのかもしれないな。

    幸せの形は人それぞれだからさ、

    お酒を飲む人だったら分かると思うのですが、いい感じに酔っぱらうと、現実の面倒な問題がぼんやりとしてきて、とても幸せな気分になることがあります。
    分かるんですよ、根本的な問題は無視してるから、酔いが醒めたらまたその問題と対峙していかなきゃいけないのだから、それが一時の幸せだということを。
    だけど、いや、現実の問題が一筋縄ではいかないものだからこそ、お酒を飲んで、休息して力を貯め、またぶつかっていこうという気持ちが芽生えるのではないのでしょうかね。

    お酒を飲まない人でも、現実逃避のための趣味だとか、そういうものに没頭することで、現実から目を背けるという気持ちには理解できる部分があるのではないかと思います。
    現実逃避することが幸せの形とは言いませんが、それでも、一時休戦として現実から逃げることは、束の間の幸せにはなりますが、エネルギーを貯めるタイミングとしては必要なものなのではないでしょうか。

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    やりたいように生きることの是非

    何度かブログに書いていますが、生き甲斐というのは、いかに「自分が機嫌良く暮らしていけるか」ということに尽きるのだと思います。
    そのためには、上述した「根本的な問題」を解決するのはもちろん必要ですが、それを解決するために力を貯める時間と言うのも、生きていくためには必要なのではないかと思います。

    現実逃避と言うのは、もしかしたら忌避すべきものなのかもしれません。
    私は以前、現実逃避は根本的な問題を解決するものではないから、まったくもって意味のない行動だと思っていました。現実逃避をしたとしても、根本的な問題は解決していないからです。
    だけど、根本的な問題を解決しようとするエネルギーを持っていない時には、むしろ現実逃避というのは必要な措置だと思います。
    人間だもの、いつでもパワー全開ということではないですからね。
    前を向いて生きていくべきですが、前を向く元気がない時は、時折足元を見て自分の靴紐が緩んでいないかを確かめるのも、きっと必要なことです。

  • 季節の変わり目を肌で感じることのできるゆとりを、忘れたくないんだよなぁ

    季節の変わり目を肌で感じることのできるゆとりを、忘れたくないんだよなぁ

    今日は俺だけか。グロ、お休みだなんて珍しいなぁ。
    まぁ、春だし、気分が浮き沈んだりするもんな。あいつの分まで昼飯を食べるとするか。めっちゃ太るな。

    冬と春の間

    季節の変わり目は、独特な気候を齎すことがある。
    急な大雨、からの強風、そして晴天。
    昨日は台風が来たかのようだった。そして今日は風だけが取り残され、きっと花粉が猛威を奮っているだろう。
    私は花粉症なので、怖くて外に出られない。さっきゴミを捨てにゴミ捨て場に行ったが、それだけでも沢山の花粉が服に付着したのではないかと疑わずにはいられない。

    春は、出会いや別れのシーズンと言われている。日本だけに限った話ではあるが。
    4月という年度代わりに合わせ、学校や職場等で配置換えなどが行われたりする。
    私の職場はそういったことがないので、季節感がないという話は先日のブログでも書いた。
    冬と春の間は、大量に流れ出る鼻水と、少しだけ昔を思い出して感傷的になる、そんな季節だ。

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    季節の移り変わりを感じる心を失いたくない

    春の花が咲いたり、雨が続いたりすると(関東地方の話になっちゃうねこれ)、季節が移ってきたなと感じる。
    その心を、それを感じるゆとりを失いたくない、と思う。
    きっと、この地を愛しているのだろう。
    一年中同じような気候の国では、日本のように四季がないはずだから、もしかしたら私が今感じているような感受性は育たなかったかもしれない。
    嬉しいとか、悲しいとか、そう簡単に言い表せることのできないレベルでの感情を抱くことが多い昨今で、語彙力の無さにほとほと呆れてしまうが、少しだけ胸が窮屈になる感覚は、春ならではだなぁ、と思う。

  • 過去との付き合いかたひとつで、未来が明るいかそうじゃないかが決まるような気がするのよね

    過去との付き合いかたひとつで、未来が明るいかそうじゃないかが決まるような気がするのよね

    Tumberってあっという間に時間が溶けてくよね。

    めっちゃ分かる。

    お前との付き合いももう25年とかになるのか。え、25年?!

    もうこれは死ぬまで付き合い続けるやつだな…どっちが先に死ぬのか。。。

    あの頃を懐かしむ気持ち

    自分にとって忘れられないような、良い思い出は、自分を肯定するために必要なことなのかもしれません。
    私にもいくつか、「あの頃は良かった…」と思える時代があります。
    自分を肯定するという部分は、少しニュアンスは違いますが、「生きてて良かった」と思えることに近いのではないかなと思います。常日頃からそんな思いを思い出すというのはやり過ぎですけど、人生に少し疲れてしまった時や、自分を見失いそうになった時などにその事を思い出すと、少しだけほっとします。

    実際は、決して良い思い出ではなかったはずです。
    辛い思い出だってたくさんあったでしょう。
    だけどそれは、暖かい思い出を度々思い出し、そこから気持ちを暖かくするという思考を何度も繰り返しているから、結果的に暖かい思い出だけが記憶から取り出されるのだと思います。

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    過去を懐かしがってはいけない。現実が嫉妬するから。

    ある哲学の本に、過去ばかり見ていたり、未来ばかり見ていると、現実が嫉妬するという一文が描かれていました。
    それを読んだ当時は「今を一生懸命に生きる」論に大賛成だったので、確かにそうだ!と大きく頷きました。
    それ自体、言わんとしていることは分かりますし、大切な未来を作っていくのは今、ここで考えていることなのですから、おっしゃる通り今を大事に生きるべき、とは思います。
    ですが、過去を懐かしがること自体は、否定してはいけないと思います。
    自分を勇気づけてくれた言葉や、暖かい気持ちを教えてくれた他人からの態度など、それらは何十年も経ってから自分の思いに響いてくるからです。
    そういう思い出を蔑ろにしていると、そこから作られるであろう未来は荒廃したものになっていくのではないでしょうか。

    ただ、いつまでも過去を引きずるのとは違います。
    あの頃は良かった、あの頃に戻りたいという思いは、その思いを持つことには否定しませんが、あの頃に戻りたいというのは、私には希望には聞こえてきません。
    それは今が楽しくない、良い思いをしていないからで、それを改善しようと努力しない限り、これも荒廃した未来しか待っていないように思います。

    未来を明るくしたいのであれば、荒廃するような思いを抱かないことです。
    荒廃するような思いとはどのようなものがあるでしょう。
    私はそれを、「めんどくさい」という気持ちだと思います。
    めんどくさいは、全ての行動を否定します。
    怠惰に、ゴロンと寝っ転がり、今を過ごしていくだけ。
    決して、無理に動け、ということではありません。
    闇雲に、何か行動を起こそうとするのは違います。
    余計疲れてしまう場合があります。
    そういうことではなく、自分のできる範囲で、自分の機嫌が良くなるような活動をしていくことが、明るい未来を作っていくのではないでしょうか。

  • 好奇心ってうまく付き合わないと損することもある

    好奇心ってうまく付き合わないと損することもある

    Tumberってあっという間に時間が溶けてくよね。

    めっちゃ分かる。

    この間、グダグダとTumblrのダッシュボードを見てたら、あっという間に3時間も経っちゃってて。明日仕事なのに!寝れない!とか考えながらまだダッシュボードをスライドし続けてるの。なんでああいうのってやめられないんだろうね。

    Tumblrはホントに時間の無駄だよな。とは言いつつ、俺も無限にダッシュボードをスライドし続ける時間がめっちゃ至福wwって感じることあんのよね。困るよなあれ。大好きTumblr。俺が死ぬまで残って欲しい。

    好奇心はどんどん時間を奪っていく

    好奇心は、自分を成長させてくれるとても重要な気持ちです。
    知らないことを知りたいという気持ちは、「成長したい」という気持ちの裏打ちでもあり、それを素直に認めないと自分が窮屈になってしまいます。

    一方で、好奇心の赴くままに知りたいことを知る活動を続けていくと、

    知らなかったことが分かる

    とても快感…気持ち良い…

    もっと知りたい…

    快感...


    が永遠にループすることになってしまいます。良いんですけど、良くないですね。
    ここが非常に難しいところです。

    好奇心を放し飼いにすると、生活に必要で重要なことが疎かになってしまうのよ

    Artem Beliaikin at Pexels

    人間だもの、知的好奇心を満足させるのは、気力を得るために必要なことだと思うんです。

    だけど、それのせいで生活に重要な寝ること、食べることなどを疎かにしてしまってはいけないはずです。
    その天秤をどうコントロールするかが、人生にとってとても重要だと思うのです。
    本とかね、どこでも読めるし、ハマってしまうとあっという間に時間が経ってしまいます。

    多分大事なのって自分の価値観で、食とか寝とかを惜しんでまでも好奇心を満たしたいのであれば、そっちを優先しても良いのかもしれません。
    長い目で見るとそれは自分を苦しめることになってしまう場合があるので、健康には注意したいものです。

  • 機嫌良く過ごすためには、不安を取り除くよりも共存することが必要なのかな

    機嫌良く過ごすためには、不安を取り除くよりも共存することが必要なのかな

    常々、機嫌良く過ごすにはどうしたら良いかを考えている。最近のヒットは妄想に反応しないこと、それによって平常心が生まれ、心のバイオリズムが激しく波打つような事象から避けることができる、ということ。

    それを突き詰めて考えていくと、つまるところ妄想の根本は自分が抱く不安にあり、それならば不安を除去すれば良いのでは、と考えるようになった。

    次から次へと湧いてくる不安

    なかなかなくなってくれないものである。心配性なのかもしれないが、至るところに不安を抱えている。平穏に過ごすことはこんなに難しいのか。おかげでこのブログ投稿も捗ってしまう。

    Photo by Rodolfo Clix on Pexels.com

    多分考えすぎなんだと思う。いつまで経っても消えないのだきっと。最終的には、不安がないことが不安、という境地に至るような気が、しているというか、確信に近い思いを抱いている。

    だからこそ一緒に暮らす

    人によるのだと思う。

    不安は、いつまで経ってもなくならない。当たり前だ。順風満帆すぎて退屈になり、なにか不幸を起こしたくなるような衝動に駆られたとしよう、それだって「安住することに対する不安」が根本にあるのだろう。

    であれば、考え方を変えてみる。不安は、不安に違いないのだけど、それを不安と捉えても、それはそれ、として受け流すことだって必要だ。命がなくなるような不安、なにかトラブルに対する予兆なのであれば流石に見て見ぬふりをするのは難しいけれど、重要性の低い不安、それがトラブルとなり現実になった時のインパクトが低いと考えられるのならば、あえて無視する、というか一緒に暮らすことが必要なのではないだろうか。

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    そうやって不安と共存することを覚えていけば、だんだん、自分の中での不安に対する基準が生まれ、ある程度許容することができるのではないだろうか。これをあえてブログにするということは、そう、私はできていないのだ。だからいつまで経っても心が小さい男のままなのである。

  • 好きなことを仕事にするのは、正解か否か。

    好きなことを仕事にするのは、正解か否か。

    結論から先に言うと、価値観による。

    仕事=楽しい、好きのようなポジティブな考えを持つ人は、おそらくこの問いは正解と考えるだろう。
    だけど仕事=楽しいものではない、と考える人だっているのだ。
    天職に出会っていない、という言い方が正しいのかもしれない。

    天職って、なかなか見つからない

    そもそも天職ってなんだよ、という話ではあるが。
    私の考える天職とは、ずっと続けていてもくたびれない作業で、そしてそれがお金になる職業のことである。そんなうまい話、なかなか見つからない

    そもそも自分の中で、「ずっと続けていてもくたびれない作業」とはいったい何か。私は、全くもって何も思い浮かばないのである。天職が見つかっていないのか、そもそも天職がないのか、分からない。こうして文字をタイピングしているのはくたびれないので、もしかしたらこれが天職かもしれないが。

    こうして毎日ブログを投稿することができているのは、もしかしたら一つの天職になり得る可能性だってあるだろう。だけど私の中で、それが、お金につながるとは思っていないし、そこまで大それた文章を書けている自信だって無い。だけど一つ言えることは、毎日続けていくことで、何かしら自分の中でひらめきが生まれるかもしれないということである。

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    根底にある、毎日続けることという、基礎体力について

    天職については上述の通り自分のひらめきを待つことで、見つかる場合があると書いた。その、見つけ方であるが、単純に日々の生活を続けていて急にひらめくことがあるだろう。だけど、個人的にはそれは稀だと考える。なぜなら、日々の生活は、ほぼ何も考えずに過ごしているからである。それよりは、自分の好きな行為をわざわざ意識して行うことで、それを通してひらめくことができるような気がする。これ、私、続けてるけどくたびれないよな、と気づくためには、毎日続けるという基本的な姿勢が必要だと思う。

    そう考えると、毎日続ける気力や体力のある人は、天職に就きやすいのかもしれない。毎日続けることができれば、それが自然と天職であると認識しやすいので、なおさら気づきやすいような気がする。

    私の転職ってなんだろう。私はこのブログ投稿を、趣味として、遊びの範疇で続けているのだが、いつか、お金を稼ぐ日が来るのだろうか。

  • 自分に自信がないことを、思考プロセスの矯正によって直そうとしたけれど、やっぱ難しい

    自分に自信がないことを、思考プロセスの矯正によって直そうとしたけれど、やっぱ難しい

    2月が終わった。

    毎度のように、毎月、本当にあっという間に終わっていく。
    手帳で2月を振り返ると、これも毎度のように、仕事が7割くらいを占めている。
    残り3割がプライベートのような感覚だ。
    ワークライフバランスをきちんと見極めましょう、と会社から推奨されているが、良くも悪くも在宅勤務が基本的なワークスタイルになっているので、より一層仕事へのウェイトが強くなったように感じる。

    君はそれを「無駄」と呼ぶ

    2月は28日しかない。
    そのため、他の月よりも早く終わってしまう。
    なんとなく損した気分になるのはきっと、無駄に過ごす時間が多いからなのだろう。

    何が無駄なのか。
    自分にとっての経験は、一つも無駄ではないはずだ。
    私はそうやって、自分が起こす行動の全てに意味がないと考えているのだ。
    いつもそう。
    そうやって心に鍵をかけるのだ。

    自分が、自信を持つことを否定しているのだ。

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    なぜ、自信を持ってはいけないのか

    なぜ、自分の行動に対して胸を張って「意味のある行動をしている」と言えないのか。
    私は数年かけて、理想の自分というハードルを下げてきた。
    そうすることで、今の自分を肯定するためだ。
    肯定はやがて鮮やかに私の心を潤してくれると信じてきた。
    そしてそれはなんとなく、自分の中を満たしていくように感じていた、

    のだ、

    が、

    こうして描く日々の雑感の中で、随所に「自分は自信がありません」といった観点の書き方が生まれてきてしまうのだ。

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    思考プロセスの矯正というのは難しい。
    というか、不可能なのかもしれない。
    いつも自分は何に対しても自信がなくて、だからこそ自信に満ち溢れたような人間に対して憧れを持っていて。
    私は、いつまでたっても自信を持っていない私を受け入れようとしないのだ。