7月14日 人を信じ続けることに未来はあるのか

人を信じるのは危険だ

それでも人間は、人を信じる。裏切られたことに懲りず、信じ続ける。

私は今まで、幾度となく裏切られた。

裏切るってどういうことなんだろう。主語がないから分からない。ぱっと思いつくのは、期待を裏切るということ。スポーツ選手がオリンピックとかで期待していたはずの色のメダルを手にすることができなかった時。サッカーの大きな大会で、優勝を飾ることができるに敗退してしまった時。

国民の期待を一身に背負って勝負に臨み、そしてその期待に応えられなかった時に、裏切るという言葉を良く使う気がする。

脱線したので話を戻す。

人を信じるということは、期待するということになるのだろうか。

人を信じすぎるのも良くないよな、とふと気づき、このブログを書こうと思い立ったのだが、最近は他人に期待しない、ということに執着している気がする。

どうせ期待した結果にならないのであれば、最初から信じることなどせずに、自分の力で物事を切り開いてったら良いのではないか。

信じないほうが合理的なのでは

その方が結果的には良いかもしれない。

例えば仕事。他の人に任せる(=信じる)ことを決めたために、それに縛られてしまい、そして他の人の成果が思わしくなかった場合、「最初っから自分でやっとけばよかった!」と後悔することだってあるだろう。

他人に仕事を依頼するっていうのは、その結果に対しては自分も責任を持つということだ(異論はありそうな気がするが)。

人の失敗に責任を持つくらいなら最初から、自分でやった方が気持ちが良いかもしれない。

信じるって言うのはそもそも私の姿勢なのでは

分かってる、私の思考が変な方向に進んでいっているのは分かってる。

この先には、私は誰も信じない、という極端な考えに至るに決まっている。

そんなことはない。現実世界では私は多くの人を信じているし、それを信じている自分を疑ってはいない。

お人好しなのかもしれないけれど、私はどちらかと言うと素直な方で、性善説で生きていて、だからベースとして人を信じている。
信じるっていうのは、私がその人を信じるということを信じるということなのか。
冒頭にも書いたけれど私の姿勢として、人を信じ、そしてその責任を負う覚悟ができているということな気がする。
周りくどく書いてしまったけれど、こういうことを私は子供の頃から、両親?からなのだろうか、誰かから教わってきたように思う。学校の先生や、友人からかもしれない。
その責任を負う覚悟を、私が持つというスタンスはかなり怖くて、だって責任を取る必要があるから。となるときっと、私が信じると決めた人は、私の中での信頼性が高く、この人だったら任せても良い、結果はどうあれ私はその人を信じる、ということになるのだろう。

信じるリスクと、信じないリスク

信じるリスクについてはたくさん書いてきたので、ちょっと目線を変えて信じない方のリスクについて考えてみたい。
信じないというのは、とても寂しい。悲しい。たまーに、「俺は誰のことも信じていない」などと平気で言い放つ人がいる。私はそれを聞いて、悲しいなぁ、と思う。
信じて、その人に判断や物事の処理を進めることを任せるほどに、人を信じることができなかったと思うから。
その気持ちを誰かから享受されてこなかったのか。
また、そんな人を私は、孤高の人だなとも感じる。
誰も信じていないからこそ、自分で物事を処理していかなければいけない。
仕事という一面で考えると、仕事って一人でやるのは進みが悪いし、自分一人の観点しか入らないから、多様性という点で劣る。たくさんの人が関わると、そりゃまた進みは悪いけれど、だけどいろんな考え方を取り入れ、結果的には一人で考えたことよりもだいぶ広い気がする。
どっちが良いということはない。その人が選んできた道で、その人が培ってきたやり方なのだから。