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  • インプットが足りてないのかな

    インプットが足りてないのかな

    ここ数日、割と毎日ブログを書いていたものの、今日になってから急に筆が進まなくなりました。
    おそらく、インプットが足りてないからかな、なんて思います。
    私はインプットとして図書館から借りた本とか、Kindleで過去に購入した本などを読み返したりしますが、今日はどんなに過去の資料を読み漁ってもピンとくるものがなく。
    そういう時は、おそらく、インプットが足りてないんだと思います。

    インプットすると、何が良いのか

    インプットインプットと言っていますが、これは「情報を取り入りれる」ということになります。
    かといって適当にインターネットを漁ってみても、そういう、これだ!というものに辿り着かず、時間だけを浪費していて、結局私の身になったかというと、決してそんなことはないんですね。
    いわゆる、心の琴線と言いますか、そういう、私のアンテナに引っかかったものがないと、なかなかそのインプットからアウトプットに持っていくのは難しいように思います。
    そういう時、どうしたらいいか。
    アンテナを低くして、普段の感度よりもいろんなものを吸収しやすくしてみると、良いのかもしれませんけど、そういう時はノイズも入りやすいように感じます。
    そのノイズを、勘違いして「これこそが私の求めていたものだ!」と紐解いてみると、実はそんなことなくて、もともと知っていた知識の二番煎じだったり、そもそも私が吸収すべきものではなかったりと、結果的に時間の無駄で自分の求めていたものではなかったりします。

    ではどうしたらいいのか

    なかなか難しいんですが、私が今まで暮らしてきた中で、ちょっと感じるのは、自分が引っかかりやすい言葉をあらかじめ覚えておくと良いのかもしれません。
    私で言えば、生き方、とか、価値観、とか、事実や解釈、みたいなものは引っかかりやすいです。
    また、趣味で言うと、ランニング、メダカ、盆栽、などと言う感じで、趣味があればあるほど、引っかかりやすいように思います。
    それら全てが引っかかったサイトを全部見にいくのもまた難しいことですので、あらかじめ、そう言うものが投稿されやすいサイトを巡回するようにすると、良いように思います。
    1990年代の頃は、自分のお気に入りサイトをインターネットブラウザのお気に入り登録をして、それを巡回したものです。

    は、結局あの頃と今と、何も変わっていないと言うことなんですかねこれ。
    私は私の生きたいように、生きているだけなんだけど、これはつまり、あのころとそう変わらないということなのではないでしょうか?!

  • 物欲は悪魔か

    物欲は悪魔か

    物欲、それ自体は悪いことではないと思うんですよね。
    そのためにお金を稼ぎたい!頑張って働こう!っていうモチベーションになるので。
    一方で、ものを必要以上に持ちすぎるのは考えるべきで、それが生活の質に影響するからで、例えば、自分の家に入りきらないくらいのスニーカーを持っていて、しょうがないから近所にコンテナを借りてるんです、みたいなのは、果たして必要な物欲なのか?と自問自答が必要なのではないでしょうか。
    これ系の話、ニーチェも言っていて、おおよそ、私が上述したようなことなのですが、考えさせられる内容となっています。

    所有欲に征服されるな
    所有欲は悪ではない。所有欲は働いて金を稼ぐことをうながし、その金銭によって人は充分な暮らしを送れるばかりか、人間的な自由と自立さえ得ることができる。
    しかし、人が金銭を使っているうちはいいのだが、所有欲が度を過ぎるようになると、人を奴隷のように使い始める。もっと多くの金銭を得るために、ありったけの時間や能力をついやす日々が始まるのだ。所有欲は、休みさえ与えてはくれない。
    こうして所有欲の手下となった人は、完全に拘束される。内面の豊かさ、精神の幸福、気高い理想、といった人間としてたいせつなものは無視されるようになる。あげく、金銭面だけが豊かで内面がごく貧しい人間が出来上がる。だから、所有欲がどこで自分を征服しそうになっているか、よく注意しておかなければならない。
    ニーチェ 漂泊者とその影

    所有欲を悪者に見立てるあたり、さすがニーチェという感じですね。
    上述した、スニーカーを家に入り切らないくらい集めるのが好きという例、それはそれで内面の豊かさは持っている場合だってありそうです。スニーカーを集めることによって、自分が満足に生きられれば良いのかもしれません。
    だけど、ニーチェが言うように、内面の豊かさ、精神の幸福という観点で見ると、いくらスニーカーをたくさん買ったとしても、まだ欲しい、まだ欲しいと新たなスニーカーを求めるようになるように思います。

    では、どうしたらいいのか

    限度を決める、ということが良いように思います。
    スニーカーは、例えば15足までいったらいったんストップする、とか。
    おそらく、私にはスニーカーを愛してやまない人の気持ちが残念ながら分からないので、15足なんて少なすぎる!と思うのかもしれません。
    だけど際限なくスニーカーを求めようとするのは、ニーチェの言う「人間としてたいせつなもの」を蔑ろにしているように思うのです。
    所有欲を高めていくのは良いですが、一方で食費を極限まで削り、病気になり、この世を去ってしまうとなったら、スニーカーを天国に持っていくことはできないのだから、結局意味のないものになってしまうんじゃないかなぁ。
    棺桶に入れられるのはごく僅かです。そして、そもそも、死んでしまったら無ですよね。
    天国って上述しましたが、そんなものは幻想に過ぎないのですから、ほどほどに愛し、人生を謳歌すべきなのです。

  • 孤独を愛せよ

    孤独を愛せよ

    最近、齋藤孝さんが書いている、「孤独を生きる」という本を読んでいます。
    齋藤孝さん、結構本書いてますよね。
    今まで何冊読んだかなぁ、5冊くらいは読んだかもしれません。
    今回手にしたのは、孤独を味方につけよう、みたいなコンセプトの本。
    孤独と聞くと、まるでそれが悪いことのように思えますが、それを肯定的に受け止めようという趣旨。
    はー。って感じです。
    確かに孤独って、周りから拒絶されて、社会生活がうまく行かず、誰とも喋らずに一日が終わってしまうという状況。
    いいことなんて何一つなくて、まぁ、人と話さずでも一日を乗り越えることは実質可能だとは思うんですが、それでも、なんとなく前向きにならない、なれないような状況のように感じます。

    孤独と、孤独感は違う

    ・ 孤独は、ひとりきりの状態
    ・ 孤独感は、一人の時の気分
    孤独だー!と思っていたけれど、気分の問題だから、そう深刻になることはない。
    孤独感をキャッチするためにいろいろ事情を探ったり、相手の真意を確かめたりするのは面倒

    相手の真意を確かめようとするあまり、無理にコミュニケーションを取ろうとしたり、深く探ってしまったりして、ギクシャクした関係になってしまっては元も子もありません。
    面倒なことになってしまうより、いったんそこから離れてみるというのも大切だそうです。

    ひとりでいる時間が人を育てる

    齋藤さんが、孤独をポジティブなものとして捉えるというのは上述しましたが、過去の著名人でも孤独を愛する人が、いい言葉を残しているということで、いくつか、本で引用されていました。

    のがれよ、私の友よ、君の孤独の中へ。
    強壮な風の吹くところへ。蝿叩きになることは君の運命ではない。
    ニーチェ 市場の蝿

    齋藤さんはこの本の中でニーチェを取り上げていて、私もニーチェは好きな哲学者の一人なので、この言葉に感銘を受けました。
    現在だと、東京キー局の問題が、まさに大きな旋風を巻き起こしています。
    SNSなどで多くの人が、糾弾する対象を見つけては声高らかに、お前が悪い!と言っているのを目にします。
    私はその波に乗らず、傍観している立場(実際は傍観すらもしておらず、興味がないのですが)をとっていますが、ある一面では私も孤独の中に逃れているのかもしれません。
    大勢の人たちに紛れて、誰かを糾弾することも、ある一面では、良いことなのかもしれません。自分のストレスが発散できる、とか。
    だけど、私の優先順位は、そこじゃないんだよなぁ、というのを感じます。
    それよりかは、一人になって、孤独を楽しむ方が良いかな、と思います。

  • コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

    コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

    これは私の場合に限るのかもしれませんが、頑張ればコミュニケーションをきちんと取ることができて、つっても年相応の、45歳の普通の社会人って感じの程度ではあるのですが。

    だけど、そんな風にコミュニケーションをたくさん取った時、例えば会社の社員交流会みたいな、いわゆる飲み会みたいな場を経て、帰宅したらどっと疲れを感じることが多いです。

    シンプルに、コミュニケーションを頑張って取った証な気がしていて、例えば、コミュニケーションの強者みたいな人って、疲れたりしないのかな、と思いました。

    コミュニケーションは疲れる?

    本来、人が構成する社会生活って、コミュニケーションがあってしかるものだから、そこに払うコストってしょうがない、払わなきゃいけないような気がするんですけど、そもそも、コミュニケーションって疲れるものなんですかね?

    生きていくには必要なコストって今言ったばかりですが、果たしてそれは本当なのかと。

    というよりも、コミュニケーションって、頭を使う?のかもしれないですが、どういう時に頭を使うんでしょうか。

    • 雑談をする時、(いい意味で)適当な話題を探す時
    • 雑談をする時、相手が気持ちよく話せるように相槌を打つ時
    • 仕事をする時、みんなで課題に向かって解決策を練る時に、いい感じのアイデアを出す時

    いや、3番目のやつは厳密にはコミュニケーションのためのコストではないか。

    どちらかというと問題解決のためのアイデアを考える時ですね。

    私の場合、私はどちらかというと聞く方に回りがちなので、その時の相槌の打ち方、話を引き伸ばしたほうが良いのか、終わり二持っていくべきなのかみたいな時に、結構頭を使っているような気がします。

    疲れるけど、それが必要なコストかどうか

    ぐだぐだと書いてしまいましたが、肝心なのって、自分にとって、それが必要かそうではないか、という価値観なのかもしれません。

    不要だわ、そのために消費するカロリーがもったいない、という人はだんだんコミュニケーションの頻度を下げていき、最終的には殻に閉じこもってしまうのでしょう。

    私は、私の中での最上の理想はそっちがわなんですけど、それだと生きていくために得る必要のあるお金を手に入れることができなくなってしまうので、「頑張って必要と感じているコスト」と思っているような気がします。

    生きていくには社会生活に溶け込む必要があって、それには必要なコミュニケーションを取って、そうやって自分をすり減らして生きていくことになるわけですが、一方で、やっていくと慣れていくってこともありますよね。

    慣れてくるとコストが下がっていくので、気にするほどでもないレベルまでコストが下がっていけば、それはコミュニケーション強者ということになるのでしょう。

    これって難しいですよね。十人十色の考え方の中で、相手はどんな人かっていうのを見極め、今までの経験の中から同じタイプを思い出し、その引き出しを開け、そこから出てくる「雑談の作り方」や「相槌の打ち方」みたいな素材を、相手に合わせて出していく必要があるんです。

    慣れていけば、その引き出しがどこにあるかを瞬時に見つけることができるから、探す手間とか、そういうコストは最小限になるのでしょう。

    コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん強くなっていく

    コミュニケーションを取っていけば、相手がある程度の種類に分かれていくワケで、上述のいわゆる引き出しがどんどん増えていくんですよね。

    それは相乗効果で、ロジカルに考えるとこんな感じかな。

    1. 会話を開始する
    2. 相手を見極める
    3. 新しいタイプ?
      1. 新しいタイプを受け入れる
      2. 引き出しが増える
    4. 既存のタイプ?
      1. 過去の引き出しの中を見に行く
      2. その人に合った素材を出し、会話に合わせていく
    5. 次のターンへ

    こうして、コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん引き出しが増えていくんですよね。

    タモリさんなんてのは何十年も色んな人とテレホンショッキングをしてきた人なので、ものすごく膨大な引き出しを持っているのでしょう。

    どっちがいいとか、そういう話ではないので、自分に合ったペースで、コミュニケーションの幅を増やしていくと良いのでしょう。

    生きていくのって難しいです。

  • SRV250 ルネッサ バッテリーを変えてみたらアイドリングが安定したっぽい

    SRV250 ルネッサ バッテリーを変えてみたらアイドリングが安定したっぽい

    前回までの記事はこちらです。

    SRV250ルネッサ 復活に向けての進捗

    先日、日頃からお世話になっている 4DN wikiと、2chの過去ログを読み漁ってみたら、「アイドリングが安定せず、エンストしてしまう」というのは、バッテリーがヘタっていて電圧が足りてないから、スパークプラグから火花が飛ばないことがあるとか。

    これを読み、私の頭に電球の光が灯りました。

    それまで私が使っていたバッテリーは、購入時に入っていたものを充電して使っていたのです。

    なので、先日買ってあったバッテリーを満充電して、先程、小雨の降りしきる中、バッテリーを付けてみました。

    すると!アイドリングが安定するではないですか!

    驚きました。

    だけど、合点が行ったのも事実で。

    前回までのブログで書いた通り、走り出して1kmくらいしたところでエンストするんですよね。

    それって、よく考えると、セル始動する時は、ヘタったバッテリーなりに頑張って火花を散らして、そして走り出しのところまではできる限り頑張って来たんだと思うんです。

    だけど1kmくらい走ったところで電圧が降下し、とうとう火花を散らすまでには至らなくなってしまったのではないか。いや、おそらくそうだろうということ。

    今日は小雨が降る天候なので、近くを走るのは諦めましたが、それでも、次回のライドに期待が持てる状況となりました。

    次になにをしよう

    いったん、バイクが安定して走れるようになるまではいくつかタスクが必要だよな、という観点で考えると、これで十分に乗れるのかもしれないですが、まだやることとして

    オイル交換

    が残っています。

    ここにも難関が。というのも、ドレンボルトを開けるための工具がないんです。

    インターネットを調べる限り、どうやら19mmっぽいのですが、ルネッサのドレンボルトの位置はフレームが邪魔しており、いい感じにレンチがハマらないということで。

    写真撮ってくればよかった。今度載せます。

    また、どうやら19mmっぽい と上述しましたが、本当に19mmなのか怪しいのです。18mmかもしれないし、20mmかもしれない。モンキーレンチを物差し代わりにして測ってみた時には、どうやら19mmっぽいぞ、という感じ。

    ここで散在するのもアレだしなー、とか、

    いっそのことソケットレンチのセットを買っちゃう?!とか、

    だけどダイソーで買ったソケットレンチセットあるから、それの工具と組み合わせて使えたらいいから19mmのだけがあればいいんじゃないかなぁとか、

    そんなことを考えています。

    貧乏性、というヤツにちょっと近いのかもしれないですが、ダイソーで買ったソケットレンチ、今はもう売られていないようなんですが、500円の割に、ルネッサのバッテリー交換くらいなら楽勝で対応できたヤツなんです。

    ラチェットのとこ、差し込み 6.5mm (1/2)っぽいから、それに合うソケットレンチで19mmのやつを買えれば良いのかなぁ、それが一番お金のかからないやり方っぽいですね。

    ソケットレンチセット、現段階で一番安いセット、楽天で探してみたらこれっぽいですね。これ買っちゃうー?いやいやー、ダイソーのやつあんじゃん、というところでせめぎ合っています。


  • SRV 250 ルネッサ バッテリーの外し方

    SRV 250 ルネッサ バッテリーの外し方

    ちょうどバッテリーを外す機会がありましたので、せっかくなので写真を撮ってきました。ほぼ、自分への備忘録という形になりますが写真付きで投稿してみます。

    1. サイドカバーを外す

    めちゃくちゃ分かりやすいのですが六角レンチで外します。

    そして、左上の六角のやつを外しても、そのままパカッとはいかないんですよね。
    右側に、はめ込み式?って言うんですかね、これを丁寧に外さないといけなさそうです。
    無理やり取ろうとするとおそらく、サイドカバーが割れると思います。
    私のはすでにヒビが入っているので、丁寧にゆっくりと外しました。。

    外すとこんな感じです。

    2. バッテリーの+とーを外す

    端子のカバーがあるのでそれをぐいっとずらし、外します。
    外すのはマイナスのほうから。アホな私はプラスから外そうとして、火花が飛びました。

    プラスドライバーか、もしくは六角レンチを使って外します。私のルネッサはすでにプラスのとこがなめていて回らないので、六角レンチを使って外しました。

    3. バッテリーを固定しているやつを外す

    バッテリーのカバーっていうんですかね。それを外します。
    これも六角レンチです。
    右側のここ↓と、

    左側のここ。

    めちゃくちゃ錆びてますね。気にしてませんが。

    この2つを外すと、ぱかっと開き、バッテリーが外せるようになります。

    外したあとはこれ。

    写真を見て気付いたのですが、チェーンがサビサビだ、、、
    これちゃんとメンテしないとダメですよね。チェーンオイルみたいなのを買わないとダメですかね。

    私が購入したバッテリーはこちら

    Super NATTO(スーパー納豆?)というメーカー?のバッテリーと、それの充電器がセットで6000円でしたので、それを購入して使っています。
    充電器があると安心ですね。私はまだバイクが調子が良くなくて、エンジンが全然かかんないので、バッテリーがあると一晩かからないくらいで充電できるから、それで安心して使っています。
    ちなみに貧乏性な私、もともとついてたバッテリーを充電して再利用しています。
    ので、こちらで買ったバッテリーはまだ使っていません。充電器はばっちり使えているから、おそらくバッテリーも大丈夫なんでしょう。


  • 目の前にある日々の生活に、足をきちんとつけて生活しよう

    目の前にある日々の生活に、足をきちんとつけて生活しよう

    今日はニーチェの言葉から。
    昨日ブログに更新した、マルクス・アウレリウスより若干わかりやすいです。時代が近いからかもしれませんが。
    私はKindleのPrime readingやUnlimitedでニーチェについて描かれた本を読む程度の知識しかないので、彼のことを深くまでは存じ上げないのですが、割と私たちの生活に密着したことを書いてくれるよな、と思っています。
    今回取り上げた言葉も、まさに私たちの「生活」をどう捉え、暮らしていくべきかを表してくれていて、その通りだよなぁ、実際はそんなふうにはいかないけどさ、みたいなことを考えたりしています。

    生活を重んじる
    わたしたちは、慣れきっている事柄、つまり衣食住に関してあまりにおろそかにしがちだ。ひどい場合には、生きるために食っているとか、情欲ゆえに子供を産むなどと考えたり言ったりする人もいるくらいだ。そういう人たちは、ふだんの生活の大部分は堕落であり、何か別の高尚なことが他にあるかのように言う。
    しかしわたしたちは、人生の土台をしっかりと支えている衣食住という生活にもっと真摯な眼差しを向けるべきだ。もっと考え、もっと反省し、改良を重ね、知性と芸術的感性を生活の基本に差し向けようではないか。衣食住こそがわたしたちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。
    「漂白者とその影」より

    歳をとると1年経つのがあっという間に感じる、というのを45歳になった今、まさに実感していて、それってもしかしておろそかにしちゃってるからかな、と思いました。

    もっと人生を味わって生きるべきだ

    おそらくニーチェが言いたいのは、日々、感じていることをもっとちゃんと味わって生きろよ、ということなんだと思います。
    自分の意思で動かせる物事に対しておざなりに決断するのではなく、選択肢をちゃんと吟味して、決断したあとは初心を忘れることなく前を向いてきちんと過ごしていこう、自分の意思で動かせない物事については、現実をありのまま受け止め、それでも生きていくという姿勢を忘れないようにしよう、みたいな?考えすぎですかね。決して考えすぎではないように思いますが。
    実際、どうなんでしょう。
    上述の通り、一年があっという間だわ!1月だって今日でもう終わり?!まだ正月休みな気分だったわ!みたいな感性で生きていて、ほんと、日記がなければ、例えば1月14日に私がどこでなにをして、なにを食べたかみたいなのは、完全に忘れてしまっています。なにかをしながらご飯を食べると、ご飯の味って分からないんですよね。テレビやスマホを見ながらご飯を食べるというのは、食事に対して失礼だよな。
    ニーチェが言うように。

    衣食住こそが私たちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。

    ほんとそうなんですよね。なにか特別なことをした時にだけ自分の感性を込めるのではなく、日々の衣食住、そこに目を向けて、足るを知るとちょっと感性が似てるようにも感じますが、日々、もっと味わって生きていきたいと思います。

  • コントロールできるのは現在だけ

    コントロールできるのは現在だけ

    今日はマルクス・アウレリウスの自省録から、ブログのネタになるようなものを探してみます。
    Wikipedia調べですが、彼はローマ皇帝だったんですね。第16代のローマ皇帝だとか。Wikipediaはそれだけで一つの本になるくらい大量に、マルクス・アウレリウスについて述べられています。書いた人すごい。
    彼は多くの戦いを指揮したんですが、彼の内面での振り返り、今で言う自省というものがその言葉そのまま、本になって、数千年経ったあとまで受け継がれているってのはなかなかすごいことです。
    そういう、根本みたいなものは数千年経とうが、変わりはないということでしょうか。
    平たく言うと「生き方」に関する本は千差万別、今の時代にも「自己啓発」というジャンルで多くの本が出版されているものの、上述の通り根本となっているものは何も変わらないのかもしれません。

    コントロールできるのは現在だけだ
    私は、小さな肉体と魂で成り立っている。この小さな肉体にとっては、あらゆることは無意味だ。というのは、肉体そのものは違いを認識できないからだ。
    だが、精神にとっては、精神にかかわる活動だけが意味をもつ。それが精神にかかわる活動であるかぎり、どんなことがあっても精神にコントロールされている。
    そして、現在にかんすることだけが大事なのだ。というのは、未来や過去の活動は、精神でコントロールできないので、現在の精神活動にとって無意味だからだ。
    マルクス・アウレリウス 自省録 6-32より

    ぱっと見、よく分からない感じで書いてあります。私にこれを解読できるのでしょうか。難しい。

    小さな肉体と魂で成り立っている。

    これは分かりますね。いわゆる、フィジカルとメンタルってやつでしょうか。その、フィジカルの方については、違いを認識できないから、あらゆることが無意味だと?「違い」というのは、いったい何を指しているのでしょうか。ここまで読んでも、ちょっと意味がわかりません。

    精神にかかわる活動だけが意味を持つ。

    次の行を読んでみて、うーん、と唸る自分がいます。精神にかかわる活動、というのは例えば、考えること、とか?「精神にかかわる活動」とは、考えるとか、思うとか、そういう意識的な一面だけではなく、無意識なものも含むんでしょうかね。

    それが精神にかかわる活動であるかぎり、どんなことがあっても精神にコントロールされている。

    精神にかかわる活動とはいったい、どんなことを指しているのかをはっきりさせないと、先に進めない気がします。私が決めちゃっても良いんだろうか。いいんだと思う。ので、ここでは、精神にかかわる活動=考えること、としたいと思います。精神にコントロールされている、それがどんな時も。私が今、このブログを上梓しようとしているために、文章を考えていること。それは、精神にコントロールされているのだと。当然のことのように思います。精神にコントロールされていない行動ってあるんでしょうか。「自分の体が言う事を効かない!」なんて、まるで映画のワンシーンのようですが、例えば大量にお酒を飲んで酩酊状態になった時、まっすぐ歩くことができなかったりします。あれは精神で、言い換えると、例えば気合いでまっすぐ歩こう!と思ったとしても、決してまっすぐ歩くことができません。多分それは、人間がまっすぐ歩くために使う神経を、お酒によって上手に使えなくなってしまっているんでしょう。酩酊状態の時に、物事を考えようとしても、考えが散ってしまって全くうまく考えることができません。
    うーん、こんなことを言いたかったんだろうかマルクス・アウレリウスは。なんか違う気がしますね。私は脱線してしまっているのではないかと思えてきます。

    ちょっと先に進めてみます。わからないので。

    そして、現在に関することだけが大事なのだ。というのは、未来や過去の活動は、精神でコントロールできないので、現在の精神活動にとって無意味だからだ。

    これまたどこかで読んだことのあるような文章ですが。多くの自己啓発系の本で「今に集中しよう」みたいな謳い文句を見ますね。
    精神でコントロールできるのは今だけ。確かにその通りです。過去や未来を精神でコントロールすることができないですからね。
    例えば「あの日、あんなこと言うんじゃなかったー!」と後悔することがありますが、過去の、その時に、精神をコントロールして言動を訂正することなんていうのはできないから、過去を悔やみ、後悔するくらいなら今に集中しよう、ということでしょうか。
    今、私が、後悔したとします。
    後悔、ということを考えている、と。
    後悔はいったい、何のためにしているのでしょうか。
    健全な生き方をしている人間であれば、「もう2度と同じ後悔をしないようにするために、同じような状況になった時、自分はどう精神をコントロールすれば良いのか」と考えるはずです。
    それが、今、このタイミングに集中して、より善く生きるために精神をコントロールしよう、ということなのかなぁ。

    わかったような、わかってないような

    いや、こんな結論になるとは、この章を選んだ時点でわかっていました。以前、同じような題材を自省録から引用して、ブログにしたことがありますが、その時もやはり、同じようなことを考えたことを覚えています。大切なことなんだよなぁ、今を生きるという考え方。

  • SRV250ルネッサ 復活に向けての進捗

    SRV250ルネッサ 復活に向けての進捗

    前回までの記事はこちらです。

    そういえば前回の週末のことを書いてなかったなと思い、備忘録的な部分も含め書いてみようと思います。

    バイクの現状

    • バッテリーはヘタり気味、3000円くらいでバッテリーの充電器を買ったので、適宜充電しています。
    • ガソリンコックのところ?がおかしい気がしています。コックONのままエンジンを始動させると、一発で始動するんですが、そのままの調子で800mとか1kmくらい走ったところでエンストしてしまいます。
    • ↑これ、ONのままで走るとそうなる?から、試しにPRIのままでやってみたんですが、それでも同様に1km足らずでエンスト。

    次のプラン

    前回までのブログででも書いたんですが、1月最初の週末にヤフオクで出品してた人のところから自走で帰ってこれた(40km)のを考えると、キャブレター周りがおかしいとか、そういうことではないような気がしていて。インテークマニホールド(インシュレーター)に多数の亀裂が入っているけどこれはヤマハのバイクでは典型的な症状とのことで(どこかのブログで読みました)、それが、ここ2週間とかで急激におかしくなるとは思えず。
    で、これまたどこかのホームページで拝見したのですが、PRIのままにしてガソリンをダダ漏れさせてしまった場合、エンジンオイルを交換する必要がある、とのこと。
    ので、エンジンオイルを今度の週末までに届くように通販で買いました。自分でやるようの、廃油捨ても同時に購入して。
    また、せっかくなのでプラグも交換してみようと思い、それも買ってみました。
    ので、次の週末にはオイル交換と、プラグ交換にトライしてみたいと思います。
    私はマンション暮らしで、そういうことやるガレージがないため、近くの洗車場にバイクとオイル、その他を持ってってみようと思います。そこまで押してくのが辛いですが。。2kmくらいあるかなぁ。天気が良くなることを願います。

    バイクを手に入れたこと自体について考えてみる

    40過ぎの、子供が2人いるような世帯で、バイクを買うのって結構おおごとなイベントです。私は幸いなことに、家族からの同意が得られたので、その点ではハードルではなかったのですが、マンションのバイク駐輪場に停めるための月額料とか、ガソリンとかエンジンオイルの消耗品コストとか、いわゆるランニングコストは最低限なもので暮らしていかないといけないよなと思っています。
    その点、ヤフオクはバイクの車体自体が安いことが多く、同じものをいわゆるバイク屋さんで購入すると、ヘタすると2倍近くすることがあります。ただしその分、安心を購入するという点が大きく、ヤフオクの場合はノークレームノーリターン、ノーアフターみたいな、「買ったあとは買った人がどうにかしてくださいね」というのが常識的にまかり通っていて、それがヤフオクの性質であり、つまり買った人がバイクを多少いじれるような人じゃないといけないのかな、と思います。
    ヤフオクで、動画を載せてます!みたいな出品も多く、その時点ではちゃんと動いてるのが分かるんですよね。だけどそれを過信してしまっては、今回の私のように足元を掬われる結果につながるんだろうなと思います。それでも私は幸いなことに、自走引き取りで40kmを走り切ることができ、無事に家まで帰ってこれたから、それだけでも良かったのかもしれません。よく、ヤフオクで、「自走引き取りはおすすめしません。必ず軽トラック等で配送手配をしてください」と出品コメントに書いてあり、落札側とすると、例えば隣県とかであれば、ツーリングがてら乗って帰って来たいよな、だってエンジンとかちゃんと動いてるんでしょ?みたいな思考に至るのは真っ当で、バイクに乗りたい人にとってみたら片道100kmくらいまでであれば気軽に、乗って帰りたくなりますよね。2時間程度のツーリングなんて最高じゃないですか。だけどそれは「落札した状態のバイクが、2時間のツーリングに耐えられることを信じる」ワケで、それって軽く考えてはいけないよなと思います。私はそれを信じて、たまたま事故などのトラブルに遭わなかったから良かったですが、ヘタすりゃ死にます。そこをきちんと考えて、特に家族がいる人なんかは、自分がいなくなることで被るリスクをきちんと考え、バイクを落札すべきと思います。

  • 漁港の肉子ちゃん 西加奈子 ★★★★☆

    漁港の肉子ちゃん 西加奈子 ★★★★☆

    昨年の秋くらいから、まるで取り憑かれるように西加奈子さんを読んでいます。最初に読んだのはサラバ!で、今風の言葉、適切な言葉をあまり深く考えずに言うと「エモい」作品だな、というのが率直な印象だったのですが、そのエモさが私にとって妙にぴったりで、もっと読みたい!と思ったのを、数ヶ月経った今でも心に残っています。彼女の描くエモさには、何が含まれているのでしょうか。私は、彼女が持つ筆記具を握る指が、爪がめり込んで血が滲んでいるように思えるのです。彼女の全身全霊を賭して、文章を書いているような気がします。
    一時、「作家は自分の経験をもとに作品を作り上げるのだろうか」と疑問を持つことがありました。だけどその疑問はすぐにNo、という結論で払拭されました。もしそうだとしたら、殺人事件を描くミステリー作家は、何人もの人を殺しているはずで、そんなことは常識的に考えてありえないと思ったからです。
    だけど、西加奈子さんは、登場人物になりきって、「登場人物がこの状況に置かれたら、きっとこういう思いを抱くはずだ、そしてこういう行動を取るはずだ」というのが理にかなっていて、それがとても自然なように感じるのです。これとはまた違う作品ですが「夜が明ける」という作品では、(ネタバレになるので多くは語りませんが)登場人物が貧乏生活を送るシーンがあるのですが、その真実味が、ホントに貧乏生活を経験しなければ描けないであろう描写、熱量で描かれていて、私はこの人の才能に嫉妬しました。私はたまに小説を書くことがあり、どうやったら面白い、エモい小説を書けるのだろうと日々考えている中で、西加奈子さんの描く文章を読むと、絶対に勝つことができない、と考えるようになりました。
    小説なんてものは作者の個性を十二分に発揮できるもので、その個性で勝負すべきであり、比べるものではないと思います。伊坂幸太郎さんと東野圭吾さん、どっちが面白いかなんて考えるべきではないし、「面白さ」の観点なんていくつも考慮すべきポイントがあり、そういう意味で公平に比べることができないからです。伊坂幸太郎さんにはキャラクターの愛嬌があり、会話のウィットさがあり、時折洒落た知識展開があり、一方東野圭吾さんには伏線の奥深さがあり、ストーリーの美しさがあったりと、ちょっと考えただけでも比べるなんて到底できないと思うのです。

    西加奈子さんの好きなところ

    これは伊坂幸太郎さんにも近しいところがあるのですが、登場人物を丁寧に、愛情を込めて描くところが好きです。良い点だけではなく、性格や生き方が抜けているところ、常識的な人間をベースとして考えた時に、欠けているところも余すところなく描き、それがまたキャラクターの愛嬌につながっているんだよな、と読んでて感じます。
    あと、冒頭にも述べたのですが、情熱的に文章を描くところが好きです。これまた良いところだけじゃなくてエグいところ(適切な言葉が思いつかない)、沈むところもとことん沈ませるところとか。登場人物のことを書いていて、軽いストーリー展開をつけたら、それだけでひとつの作品になるんだろうな、なんて思います。
    だけど、それを、決して軽々と描くのではなく、西加奈子さん自身が幾多の葛藤を経て、作品を上梓まで作り上げているんだろうなと感じるところが、また好きです。一生懸命に作り上げています、という雰囲気があるというか。

    漁港の肉子ちゃんの感想(ここからネタバレを含みます)

    だいぶ前置きが長くなりましたが、漁港の肉子ちゃんは、ストーリーに大きな魅力があるとは思えませんでした。よくある話、とまではいかないのですが、ストーリー展開が良かった!とは思いませんでした。キクりんの出生が最初の頃ぼやけて描かれているから後半で暴かれるんだろうな、とか、出生に関するエピソードが始まったあたりでピンと来たし、伏線を張るには軽いなとか、そんな風に感じました。だからストーリーに関しては分かりやすく、叙述的な描き方をされているなと思いました。
    私が★4つをつけたのは、キャラクターの描写、外見や心理の描写が緻密で、読者の知りたい!欲をちょうど満たしてくれる程度のボリュームで、そしてなによりみんな幸せそうに暮らしていて、そこがとてもあたたかくて良かったです。小説はこうでなくちゃな、読み終わった時にどんよりした気分だと読んだ!良かった!と思わなくなってしまうし、この作家さん、次はないな(私は読むことがおそらくない)、と思ってしまうと作家さんとしても売れなくなってしまうから、こういう終わり方で、正解なんだろうなと思います。読んだあとに心があったかくなるのって大切だよな。