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  • 4月8日

    4月8日

    相変わらず風が強い。
    春ってこんなに風の強い日が続くんだっけ、と曇り空を眺めながら思った。
    今にも降り出しそうな空だ。雨は洋服が濡れるから嫌いだ。

    ついさっき立ち寄った定食屋に、読みかけの文庫本を忘れたことに気づいたのは、店を出てから数時間経った後のことだった。
    ぶらぶらとウインドウショッピングをしていたが足の向きを変え、定食屋へと向かった。
    店は準備中という看板が掲げられていた。腕時計を見ると15時40分、確かにこの時間に休憩をする食べ物屋が多い。
    思い切ってドアを開けてみる。すると鍵がかかっておらず、客のいない店が視界に開けてくる。

    店には店主がカウンターに座っていた。手元に吸いかけのタバコと、俺が忘れてった文庫本があった。
    「すみません、その本を忘れてしまって」
    と私が言うと、
    「あーそうだったんですね、ちょっと面白いところに来たので、少し借りれませんか?今度来られる時までには読み終えておくので」
    と返ってきたので、思わず驚いた。俺としては同じ価値観を持ってもらえたことが嬉しく、
    「わかりました、いいですよ」と言い、
    「タバコ、私も一服していっていいですか?」と女性店主の隣に座った。

    「これサービスなんで」
    と焼酎グラスに氷と烏龍茶をどぼどぼと注いだものを出してくれた。早足でこの店まで来て、少し火照ってしまった身体に、冷たさが染み渡る。
    ぼんやりと厨房の方を眺めながら、タバコを吸う。吸って吐く、を2回繰り返すと、気持ちが落ち着いてきた。
    「お客さん、この辺にお住まいですよね?いつだったかランニングしてるとこをお見かけしたことがあるんすよね」
    おそらく私のことだろう。いつ見られたのか。首肯しながらそうですね多分、私ですと言ったら、私も近くなんですよ、と店主は言った。その時は食材の買い出しを終え、とても重たい荷物を持ちながら店に戻ろうとしていた時で、颯爽と駆けてくるのが見えて様になっていた、と続けて言った。

    タバコを1本吸い終え、翌週の週末あたりに食べに来る約束をした。店主はその頃には読み終えておくようにします、と言い、私は店を去った。
    もしかするとこれが常連を掴む手段かもしれないと感じたが、その手口に乗っても良いかな、と思った。
    服についたタバコの匂いを、春の強風が吹き飛ばしていく。

  • 4月3日 希望の葉

    4月3日 希望の葉

    少しずつ木々に緑色が増えていくように、人間にも希望の葉が増えていくような時期がある。
    最初は自分でも気がつかないんだ。それはとても小さな葉っぱだから。
    だけどそんな状態から、忘れずに水をやって注意深く観察していると、だんだんと葉っぱが大きくなっていくのが分かる。
    そんなふうに、希望の葉が、大きくなっていくような時期。
    四季で言うと春のような時期なんだけど、それが人間の春なんだと思う。

    猫は窓から見える木々を眺めながら、そんな掴みどころのない話をした。
    アパートの窓の先に大きな木があることで、日陰になる時間帯が多くて洗濯物が乾きづらいという難点はあるものの、そのおかげで四季の移り変わりが分かる。
    そんな、良いのか悪いのか分からない木も、家族の一員みたいに感じている。

    猫は「ちょっとタバコ吸ってくる」と言ってベランダに出た。家の中では禁煙ということにしている。
    私が最初に住み始めたアパートだから、私の作るルールには従ってもらっている。
    そういうところが猫と似ているから、私は彼をそう呼んでいる。

    ベランダで、木を見ながらタバコを吸う彼の背中が見える。
    ついさっきまで一緒に寝ていたベッドには、彼の温もりがまだ残っている。
    彼と同棲し始めたのは、この温もりが欲しかったからだ。
    彼が来るまでは、この部屋には私以外に体温を持つ動物がいなかった。
    私の体温が、この部屋を構成する一つなのは寂しかったから、当時付き合っていた彼に同棲を持ちかけた。
    彼はすぐに、「一緒に住むよ」と言ってくれた。
    私が寂しがり屋だから、と彼は考えていたようだけれど、それは彼も寂しがり屋だということだ。

    春。私の中の春。彼の温もりを感じながら、希望の葉について考えている。

  • 5月1日

    5月1日

    図書館で伊坂幸太郎の、フーガはユーガを借りられたのでとても嬉しかった。
    読むのは2回目で、1回目はだいぶ長い順番待ちをしたものだ。それが、もう予約は不要で借りることのできたという、時間の流れに少しだけ驚いた。
    あれからまだ1年くらいしか経ってないんじゃなかったっけ。

    伊坂幸太郎は、ストーリーの非現実性と、言葉の選び方や小ネタの挟み方がとてもオシャレなところが良い。あとは気持ち悪い性描写や、暴力的なところが少なくて、10代の若い人たちにもウケるような、健やかな風味がある。
    そういうところが、人気のあるところなのかななんて思ったりする。
    個人的には、彼の通った高校が私の自宅近くにあるという点でも、応援していたりする。

    伊坂幸太郎みたいな小説が書けたらなぁ、と何度か考えたことがある。
    彼のようになりたいのではなく、こんな感じで小ざっぱりとした読後感を与えてくれるような作品を仕上げてみたい。
    そんな意志を持って、5000文字くらいまで書くことは良くあるんだけど、そこから先が続かないような作品が、割とたくさんあったりする。

    そう考えると、小説家としてやっていくために必要なことって特別難しいようなことではなく、持続力が一番必要なのではないだろうか。
    物語を書き続ける、最後まで仕上げる力。あとはアイデアを生み出そうと考え続ける力。この二つがあれば、この二つを自分の中で地味にでも良いから続けていくことができれば、自分の理想とする作品を出せるのかな、とか思ったりするね。
    私の場合、アイデアを生み出そうと考えたり、着想を逃さないようにメモったりすることはできているので、そのアイデアの切れ味が鋭いかどうかはさておき、ひとまずその二つのうち一つはできているような気がする。
    そうなるとやっぱ、持続力なんだよなぁ。
    書きかけの5000字、もうちょっと引き伸ばしてみるか。

  • エンターテインメント小説

    自分と等身大の主人公が、日々葛藤していく小説とか、描いててつまんない気がするんだよな

    エンタメだとしたら、肉欲に溺れるとか、カネに、とか、やっぱそういう方面だよな

  • 親愛なる隣人

    親愛なる隣人

    すぐに身体を求めてくるその思考。
    男って本当にどうしようもない生き物だ。
    一度、それを断ったらあからさまに態度を変えた男がいた。名前なんてすぐに忘れたけど。

    私の身体は汚れているのかもしれない。
    私は、何かに縋りながら生きていかねばならぬと気付き、それが、私を求めてくる男という存在だと気づいたのに、そう長く時間はかからなかった。
    承認欲求。私で果て、そんな人間の腕に絡まりながら、自然と意識を混濁させていく時に、私は絶頂することが多かった。そんな私の生理反応に気づき、驚く男が何人もいた。

    人は生まれながらに罪を背負う、と語った昔の神は、なぜか人間の形をしていたという。
    人間は、神になり得るのか。神は、精霊ではないのか。
    天井を見ながらそんなことを考えていたら、右手の指先が猛烈な熱さを感じ、タバコを吸っていたことを忘れた。灰をなるべく落とさずに、静かに静かに灰皿へと移動させ、結局灰皿の直前でそのミッションは失敗した。自分の体液が付着するティッシュでそれを拭き取る。ティッシュはこの世のものとは思えないような、濃淡の鮮やかなグレースケールを身に纏い、すぐにゴミ箱へと捨てられた。

    起きたら男はいなかった。私の部屋へ男を呼んでしまうことに躊躇がなくなったのは、なにかを捨てたからだろうか。警戒心かな、羞恥心かな、一瞬考えたが私の気持ちをカテゴライズすることになんの喜びを見出すこともできなかったから、その問いも一緒に、グレースケールのティッシュに包んで捨てるフリをした。飲みかけのストロングチューハイを一口飲んだ。

    スマホを見たらマホトからのLINE。マホト、誰だっけ、と思ったけど昨夜ここに泊まった男ではないことは確かだ。
    「会いたいんだけど」それだけ。どうせこいつも、私の身体が目的なんだろう。
    私はそれを無視した。もうそんなヤツ忘れた。私はバイトに行かなければいけない。完全に寝坊している。シャワーをキャンセルすることでなんとか間に合う時間だ。ユニットバスの中にある洗面台へと向かう。そうだ私、昨夜男と一緒にシャワーを浴びたんだった。忘れていた。記憶なんて、快活に生きるための足枷にしかならないのだから、覚えていたって無駄なのだ。だけどシャワーを浴びたという事実は、シャワーカーテンに残る水滴によって思い起こされた。昨夜の男は、私の身体を触りたがった。バスタブの端に、チューハイが2本。どちらも中途半端に残っていた。私はその残りをバスタブに流す。はぁ、とため息を吐く。鏡を見る。メイクが中途半端に残っていた。それを落とし、最低限のラインを取り戻す。髪を適当に濡らし、乾かし、セットする。とりあえず外に出られる状態になった。首筋にキスマークが残っていた。舌打ちをしながら絆創膏を貼る。

    今日こそは普通に帰宅して、明日に備えよう。
    軽やかに生きる10のヒントという本が本棚に立てかけてあり、バイト中、ちらっと表紙だけを見た。前書きに書いてあった文章が、やけに印象的だった。

    バイト仲間の太田に、夜なにしてんの?と聞くと、太田は「主にゲーム」と応えた。
    今日のコンビニは暇だった。太田と二人、品出しを終え、夕方の盛況に備える準備を終え、二人でレジに立っている時に聞いたのだった。
    太田は、きっと彼女とかいたこと無いのだろう。実家暮らし、と以前聞いたことがあった。
    こういう人間と付き合えば、普通に帰宅して、明日に備えよう、という人生を過ごすことができるのだろうか。
    主にゲーム、って、さ、生きてて楽しいの?と素直に聞くと、
    そうすねー、と前置きしたあとで、エミさんとは感覚が違うだろうから分からないですけど、僕は僕なりに楽しいと思ってますけどね、と太田。
    そりゃそうだ、私は太田じゃないんだから。ていうか、なんでエミって名前で呼ぶんだコイツは。どうでもいいけど。

    だけど、しかし、太田の返答はやんわりと私の心へと浸透していった。
    私は、私が楽しいと思ってやってきたことの積み重ねで今が在るはずで、それが今の荒んだ生活を生んでいるのだとすれば、そしてそれが「あまり良くないもの」と私自身が認識すればなお、改善する余地があるのだろう。
    フリーター、バイト終わりにいったん帰宅、からの数軒を重ねる居酒屋、そして適当に声をかけてきた男と寝る。起きたら昼。またバイト。
    これはこれで楽しいのだ、楽しいと思っていたのだ。何か、罪悪感が?私に?そんな気持ちは今日、バイト前に例のティッシュに包んで捨ててきたではないか。

    忘れよう。そんなことは忘れよう。日々、快活に生きるための邪魔でしかない。

    コンビニは午後のピークを越え、20時になりバイトが終わった。
    太田と同じ時間に終わる。彼はいつもどおり、そそくさと退勤処理、着替えを終え帰ろうとする。
    ねぇ太田、一緒に飲みに行こうよ。
    彼は一瞬だけ驚いた顔を浮かべ、いや、遠慮しときます、ゲームがあるので、と応えた。

  • ほろ苦いビールの味

    ほろ苦いビールの味

    大好きだった彼と別れた。
    突然のことで、未だに頭が混乱したままだ。
    ただ、他に好きな人ができたという言葉だけを残して、彼はいなくなってしまった。

    私が彼を繋ぎ止めておけるようなものは何も残っていなかった。
    いつも私が追いかけてばかりで、「付き合っていた」という事実は、
    実は、私が勝手に思い描いていた解釈で、

    本当は、

    私がずっと片思いをしていただけなのかもしれない。

    遊ばれていた?
    と友人は今だからこそそう言うけど、私にとっては
    そんなことはどうだって良かった。
    もうお前とは会わない、と言われた時点で、
    遊ばれていたとか、本気だったとか、そういう次元の話は
    本当に、どうだって良くなってしまったのだ。

    彼は早足で歩く人で、私はいつも後ろ姿を追いかけていた。
    いくつもの季節を一緒に通り過ぎ、最後まで早足のまま、
    見えなくなってしまった。 

    彼は、ビールをとてもおいしそうに飲む人だった。 

    一度彼の家で食事をした時、
    途中のコンビニでビールを買い、彼の家で食事をした時、
    苦いお酒は苦手、というと私の分まで飲んでくれた。
    私は一緒に買っておいた、アルコール度数の低いチューハイを飲んだ。
    それでも私は顔が真っ赤になり、とても恥ずかしかった。

    「大丈夫、女はすぐ忘れちゃうのよ、この泡みたいに」
    涙でぐしゃぐしゃになった私を、ビールを飲みながら友人は慰めてくれた。
    そうかなぁ、と私もビールを飲んだら、その苦さに彼を思い出し、
    顔が涙でぐしゃぐしゃになり、 また友人を困らせてしまった。
    友人には何度この相談をしたのだろう。
    付き合っている時にも、幾度となく「遊ばれているのかもしれない」と言った類の相談をしていたのを、今では痛々しく感じてしまう。
    私、本当は、遊ばれていたの、分かってたんだね、と言うと、
    彼女は、ふっと笑い、私のビールを奪い、一気に飲み干した。
    喉が、ゴクッ、ゴクッ、とビールを胃に落としていくのがありありと見えた。

    彼と歩く散歩道の空気、足音、公園のブランコ、都電が走る音。
    みんな大好きだった。そして、彼のことも。
    ほろ苦い味がする思い出は、ビールの泡みたいに消えてなくなるだろうけれど、きっと、それで良かったのだ。
    彼のことをだんだん忘れていかないと、私は新たな恋への一歩を踏み出す事ができないはずだから。

  • 雨が好きな人だっている

    雨が好きな人だっている

    毎年、決まった時期に桜が咲くのだと思っていた。
    だいたいいつも、入学式が行われる頃。
    だけど今年は、それよりも早い、卒業式が行われる頃に、満開を迎えた。

    死んだ母は、この季節が大好きだった。
    風に舞う桜吹雪を見ていると、なんだか嬉しくなるの、と口癖のように言っていた母は、土砂降りの中、横断歩道を渡っている時、母に気づかなかった車に轢かれた。
    当時のことはすっぽりと記憶から抜けていて、私はその頃、どういう心持ちで過ごしたのか、まったく思い出せない。
    母の代わりに家庭を保全してくれた叔母が、母と似ていたので、彼女のことを見る度に涙ぐんでしまい、非常に困らせたと、後になって聞いた。

    そのことがあってから私は、雨が嫌いだった。

    いや、もともと、着ていた洋服が濡れるから、私は嫌いだったのだ。
    長靴がなかなか脱げないところも、脱いだ足が湿っていて、とても不快になったところだって、全部嫌いだったのだ。
    やがて大人になり、営業として外回りをすることが主な仕事になってからも、やはり今までと同様に数少ないスーツが濡れるから、という理由で雨が好きになれなかった。

    雨なんて。誰のことも幸せにできない。
    これは私の信念だった。
    母の大好きな桜を散らすのだって、いつも雨のせいなんだから。

    母は、雨のことが嫌いだっただろうか。
    母はあの日、傘を忘れて塾に行った私の弟がかわいそうだからと言って、弟の傘を持って家から出たのだった。
    母はいつもそうやって、自分の身を犠牲にして、家族や周りの人を助けてきたのだった。
    優しい人だったんだ。
    それに比べて私は、雨ごときでこんなにイライラしてしまう、心の小さな女になってしまった。
    せめて母のような優しさを、私も持てれば良かったのに。
    私が、母の代わりに弟を迎えに行けば、もしかしたら私が母の代わりに。
    天から降ってくる雨は、私が涙を流すよりも早く、そして強く、雨足を強めた。

    母はこんな私を見て、いったいどう感じるのだろう。
    こんなわがままで、周りのことを気遣うことのできない娘を、きっとがっかりした目で見るのだろうな。

    帰宅途中、最寄駅に着いてからも、相変わらず雨はザーザーと強く降っていた。
    傘を忘れた私は、もうどんなに濡れたってかまわない、という心境で、駅舎から自宅に向かって歩き出した。
    シャツも、スーツも、ストッキングもパンプスも、ぜーんぶびしょびしょだ。
    私の心だって、それらと同じように濡れていた。
    ぷ、っと膨れ面を浮かべながら、青が点滅した横断歩道を待っていると、道路の向こうに母が見えた。
    傘を差して、手元にはもう一本の傘を持ち、待っていた。
    そんな訳ない。この世に、母は、もういないのだから。
    私は彼女の元に少しでも早く近寄りたくて、歩行者用信号が青になるのを待った。
    待ちくたびれるほど待った。いつもはスマホを見ながら、青になるのをぼんやり待っていたこの信号だったが、スマホを見ている間に母がいなくならないように、少しでも母の姿を見続けられるように、雨の中、傘を差さずに母の事を見つめた。

    青になる少し前、トラックが通り過ぎ、母はトラックに吸い込まれるようにいなくなってしまった。青になったら一目散に駆け出し、母の胸元に飛び込みたかったのに。
    私は、母に抱かれたかった。最後、母の持っていた傘を受け取りたかった。
    しかし、さっきまで私が見ていたのはきっと思い出で、妄想で、だから母の持っていた傘を受け取ることはできなかったのだ。

    だけど一瞬だけ、奇跡が起きた。
    ぶわっと強い横風が吹き、横断歩道の横にずらーっと植えてあった桜の花びらが、一斉に舞った。無数の花びらが舞う横断歩道。
    私は思わず空を仰いだ。
    母が、「雨と一緒に舞う桜も、実は悪くないのよ」と言った気がした。

  • 傘をしまうビニール袋が気になってしまう男の話

    傘をしまうビニール袋が気になってしまう男の話

    カフェは混んでいた。
    雨だし、こんな駅前のカフェはお昼時こそ、混むべきなのだろう。
    いつもはフロアスタッフが2人で回しているが、今日は3人で回している。
    1人分の人件費を賄えるほど、十分な利益が出ると見越したのだろう。
    確かに、周りを見渡すと多種多様な客でほぼ満席となっていた。

    Photo by Keira Burton on Pexels.com

    私はセットについてきたサラダを食べ終えた。
    今日のパスタセットのパスタはホウレンソウのペペロンチーノだった。
    ニンニクの入っている料理はだいたい好物だ。
    早く出てきて欲しい、と思う反面、この客の入りだと、もしかしたら時間がかかるかもしれない、とコップに残っていた水を飲み干しながら、少しだけ覚悟を決めた。

    カラン、とグラスに入っている氷がぶつかったのかと思った。
    が、よく見ると私の器には氷が入っていなかった。
    少しだけ周りを見渡すと、隣に座っている男性の二人組のうち、1人が、私と同じタイミングで水を飲み干し、そこに残っていた氷が音を奏でたのだった。
    私は一瞥したが、ジロジロ見るほどの興味は無かったので、パスタが出てくるであろう厨房のほうをぼんやりと眺めた。ホールの3人が視界の端っこに映る。皆、せわしなくは働いているのが感じられた。

    ほどなくして、氷を鳴らさなかったほうの男が、暇を持て余すかのように話し始めた。
    何気なく聞くともなく自然と耳に入ってきたのだが、彼の声が心地良く通るので、つい聴いてしまった。

    「スーパーにさ、あ、良く、雨が降ると、このビニールをお使いください、ってさ、ビニール袋、出るとこあんじゃん」

    「あぁ、え、あるけどいきなりなんだよ」

    「あぁ、この間かなでさんと休憩中にめっちゃ盛り上がった話なんだけど」

    「かなでさんってあれだっけ、めっちゃおっぱいの大きな先輩」

    「そ、もう俺そこにしか目が行かないから、一緒のシフト、辞めて欲しいって言ったんだよ。そしたらかなでさん、なんて言ったと思う?」

    「俺さ、かなでさん、見たことないんだから全然わかんねえって。え、なんだ、触ってもいいよとか言ったの?」

    「お、さすがだな。私を楽しませてくれるんなら、考えてあげてもいいなーだって」

    「なんだよその上から目線!無理だわ俺ー。もっと癒されたいもん」

    「お前はそうだよなー。俺、かなでさんと寝れるんならどうやって楽しませられるか、めっちゃ考えるわ」

    「てかさ、スーパーのビニール袋が、どうしたの」

    「あー、かなでさんがさ、あれ、傘をしまう時、めっちゃアレな感覚になるって言ってて。はぁ?なにそれ、って思ってたの」

    そこで私のパスタが到着した。
    ここで話が盛り上がるような気がしてきた。私はパスタよりも男の話が気になって仕方がなかった。
    男の結末は。かなでさんと男は夜を共にできたのだろうか。
    私は必至にパスタをくるくるさせながら、少しずつ口に含ませた。

    「アレってなんすか?って聞いたのよ。全然意味わかんなかったし」

    「え、いやー、それってさ、、」

    「え?!お前、もしかして、、」

    「あれだろ?ゴムを付ける時のやつに似てるんじゃねーの?なんか、装着してる感、あるもんね」

    「うーそーだーろー!!お前もそう思ってたのかよ!なんだよ、知らなかったのは俺だけか!87初恋の吾郎さんみたいじゃねーか!」

    「いやでもさ、結局、それで分からない、ってなって、どうなったの?かなでさんとはその後やれたりした?」

    「いやーそれがさー、分からないっす、って答えたら童貞だろお前、って言われてさー」

    「あ、それはショックだ。お前が童貞かどうかはさておいて、なんかプライドが傷つけられたんだよね」

    「確かにそうだな。87初恋の吾郎さんみたいだな」

    彼らはやけに北の国から、87初恋を例えに出すような気がした。
    なぜ、今。

    「そしたらかなでさん、私、童貞、嫌いじゃないのよね、って誘うからさー。嘘だろ、これなんてAVだよ、って思って、怖くなって、いや、俺、童貞じゃないす、って応えてしまった」

    「お前そこは童貞です、ごちそうさまです!だろー。なんでそこで見栄張ってんだよー。童貞じゃなかったとしてもそこは童貞でいかないと。そこ頑張ったらかなでさんのおっぱいだぞ」

    私はがっかりした。私は童貞だったからだ。そして、かなでさんという存在がとても気になり、彼らがどこで働いているか知りたくなり、パスタの味が全く分からなくなった。