21時過ぎに行くのは私にしては珍しいんだけど結構人がいたな。みんないろんな時間にやるんですね。



近所のドラッグストアで1000円くらいだったので買ってみました。
私はスコットランドのスモーキーなものが好きで、そういうのを期待していたのですが、スモーキーさはあまり感じられず。
だけどハイボールにしたら華やかな飲み口ですいすい入っていきました。あっという間に酔っ払ってしまった。
今はロックで、ちびちび飲りながらこのブログを書いています。ティーチャーズに少し近いかなぁ。

大学の頃の友人は、当時乗っていたバイクを洗ってその後ワックスでピカピカにした後、それを見ながらタバコを吸うのが最高にうまいと言っていたなぁ。
彼はまだその習慣を続けているのだろうかね。タバコやめたかもしれないなぁ。
タバコはこのところずっとGloのベリーメンソール。

吸い応えが割とあって、ぷちっと潰すあれが入っているのが気に入ってる。

ようやく読める機会があり、読みました。
芥川賞を受賞した時の会見で、作者の素性というか人間的な特性を先に見てしまったので、彼女の自伝的小説なのかなと先入観を多大に抱きながら読み進めました。
私の知り得ない人の生活をつぶさに見ることができた、とても良い機会でした。
私が今見えている視点では、言葉に表すことができないくらい自然なことでも、ある特性を持つ人にとってはとてもできないことってあるんだな。
どこまでが彼女の経験で得たものなんだろう。どこからが、想像なんだろう。後半に出てくる田中さんとの一件は、芥川賞を狙ってくっ付けたような印象でした。考えすぎかな。そういえば去年くらいに、障碍者への性サービスみたいなニュースが飛び回ってたなぁ。そういう類の話には蓋をして、なるべく見えなくなるようにしていて、そういう仕事をしている人にだけその十字架を背負わせているような気がする。では一体、社会全体で考えていきましょう、という課題を設定した時に、どんな解決策が出されるんだろう。今まで真面目に考えたことがない私なりに、少し考えてみたけれど、残念ながらなんの回答も思いつかなかった。そういう社会の歪み(失礼な言い方ですねごめんなさい)ってビジネスチャンスになるんだよ、って最近どっかで読みました。
生まれた時点で、先天的な何かとか、お母さんのお腹にいる時に起こった何かとかがあり、生まれながらにしてそういう特性を抱えてしまった人には、ある種、その時点でできないことっていうのがあるんだろうなぁ。
いわゆる健常者(と呼んでいいのかはさておき、だって100%健常な人なんていないだろうから)から見ると、今の世の中っていろんな特性を持つ人に優しい世界が作られているように感じるけれど、実際はそんなことないんだろうな。生きづらい世の中。生きやすい世の中ってなんだろう。歩くことすら十分にできない人が、この世の中を自由に闊歩することの難しさを、この小説を通して改めて痛感しました。本を読むことすら難しいという考え方もね、これは芥川賞の会見の時にも本人が話していたけれど、こうして文章で読みそれを想像することによって、私の腹になんとも言えない気持ちで落ちていきました。本が重たいものだとはね。そういう視点を知ることができて良かったよ。
ずーっと普通について考えていました。普通に妊娠して、普通に堕してみたい、という表現がありました。それが普通かどうかは分からないけれど、そして普通の人間からしてみたら堕すという行為は好まれるものではないはず。だけどそんなことすら実行することができない人っていうのがいるんだよな、そりゃそうだよな。
人間の設計図ってさまざまで、それこそヒトの数だけそれがあるのでしょう。私にも設計図っていうのはあって、—そういえば何年か前に「私の取扱説明書」みたいなのが流行りましたね—、その設計図にはどんなことが載っているんだろうと気になりました。
普通、または標準という見えない価値観があり、それから外れている箇所については、私も私なりにこの世を生きる術を身につけて、生きているように感じます。
この世の中がどんな人によって形成されているかというと、まず国を司る人たちがいて、そしてこの社会を一緒に運用している会社があって、その会社に属する人間たちがいて、その社会で暮らす一般的な私たちがいるでしょ。それら全体で同じ思いを持って形成している社会は、人口がいればいるほど平均的なものになっていくのかなぁ。その平均が、今の、社会?私は平均的な人間だと思う人がこの世にはいったいどのくらいいるんだろう。私も、私なりに平均的な人間だと思っているけれど。
ふと我に返って考えてみると、ついつい私のウィークポイントばかりが気になってしまいます。その「ウィークポイント」という考え方にはヒトの標準的なものから”劣っている”というふうに捉えるものになるので、なんというか、自分の考え方のクセが見えてきてしまいます。私はいっつも、そうやって、自分のウィークポイントばかり考えてしまうんだよな。そういうことを考えてしまうからダメなんだ、と考えるたび、メタな自分が言っているんだよな。常に見張られているんだよな。逆に、ストロングポイントとして捉える点だってきっとあるはずなのにね。

投稿するものがないので今日のトレーニングでも。
同僚と痩せたいよねって話してて、それならランニングではなく筋トレした方が良いということになり、2月くらいからエニタイムに通いだしています。
今日も自宅勤務ののちにエニタイムに行っても良かったんですが、エニタイムに行くのがダルい(うちから1kmなのに)と思ったので、自宅トレーニングしてみました。

腕をトレーニングするのに5kgくらいのダンベル?があるといいなぁと思ったりします。
2kgってのは、ペットボトルに水を入れたもので使ってます。
は!ペットボトルを何本か合体させれば良いのでは?!ちょっと調べてみよう。結束バンドは結構余ってるんだよな。

Kindleで、「あなたはあなたが使っている言葉でできている」という本を読んでいる。
海外?ではベストセラーとかで、書いてあることは割と松岡修造さんに近しいところがあるように思えた。
自分の意思は、無意識下にある自分の潜在意識からできているとか。
今の私が太っているのは、そのあたりにある自分の潜在意識からそうなった訳で、とても耳の痛い話がつらつらっと書いてあった。
私は、太っていくことを自覚しながら、暴飲暴食を繰り返していたのだな、と。それが私の全てなのだから、まずはそこを肯定せねばなるまい。
もし私が痩せたいと思うなら、本気でそう思ってるんなら、そのための行動を起こせ、と。
今の自分は過去の自分が繰り返し行ってきた行動によって作られたのだから、数ヶ月後に理想となる身体を描くのであれば、そこに向かって直向きに走れ、と。
と、言葉で言うのは簡単なんだよね。
で、そこで私がいつもだらけてしまうのも、私の培ってきた個性みたいなものだから、それを認めてだらけるようになってしまうのか、ここで一発奮起して痩せるために本気を出すのか、それは自分次第。
私は自分の理想となる体型を目指すつもりだ、と心に誓うことで、潜在意識までその方向に靡くようになるのだな。
明日から本気出す、と冗談のように言っているけれど、少なからず痩せたいと思っている私を蔑ろにはできないわけで、その自分と寄り添うには辛くても頑張るという気持ちが大切なんだろう。
あと1ヶ月くらいで健康診断がやってくるので、それまでには60kg台になっておきたいと思っている。
今は74kgなので、あと5kg。あと5kg痩せるために、私は潜在意識にまでそのことを知らしめ、とりあえず健康診断をB判定でクリアし、その先には標準体重の65kgまでもっていきたい所存。
ここで、「できるかどうかは分からないけどね」と自分にエクスキューズ、逃げ道を与えてしまいたくなる自分がいるけれど、そんな自分にはさよならを告げたい。

ニーチェは、物事の解釈についていくつか言葉を残している。
物事はいかようにも解釈できる。
ニーチェ たわむれ、たばかり、意趣ばらし
良い物事、悪い物事が初めからあるのではない。良いとするのも悪いとするのも、役立つとか役立たないとか、素晴らしいとか醜悪だとか、いかようであろうとも、解釈するのは結局は自分なのだ。
しかし、どう解釈しようとも、そのときからその解釈の中に自分を差し込むことになるのを知っておこう。つまり、解釈にとらわれ、その解釈ができるような視点からのみ物事を見てしまうようになるのだ。
つまり、解釈や、そこから生まれる価値判断が自分をきつく縛るというわけだ。しかし、解釈せずには物事の始末がつけられない。ここに、人生を読み解いていくことのジレンマがある。
どういうことだろう。
私は今、44歳になるけれど、44歳の目線でしか解釈ができないということだろうか。
確かに今からでは20代の気持ちを持ち、彼らの目線で解釈することはできない。
例えば新宿の歌舞伎町は今治安があまり良くないと言われている。
私としては、けしからん、彼らの両親はそのことをどう思ってるんだ、と思ってしまうけれど、「歌舞伎町は治安が悪い」というのは私の目線、参考にしているのはテレビのニュースだったりするけれど、その目線でしか物を語ることができない。
実際に歌舞伎町に行ってみると治安が悪いというほどではないかもしれない。(治安の良し悪しについてもある程度の解釈が含まれるから、歩きタバコをしている人がいる!=治安が悪い!と思う人もいるかもしれない。正直なところ私は歩きタバコくらいは、いいんじゃないの、と思ったりしてしまう)
ニーチェは、そこにジレンマがあると言う。
私の解釈は、私の目線からでしか解釈できない。毎日のように歌舞伎町で飲み歩くような人生を送っていたら、違う解釈になるだろう。
今の私の境遇だと、外野からニュースを見てる程度の知識量で歌舞伎町の治安を語るようなレベルだろうから、その程度の目線でしか解釈ができないということだ。
喧嘩両成敗、という言葉がある。
ある人から、例えば仕事の同僚からある人の愚痴を聞かされたとしよう。
私はそう言う時、その人の話をよく聞いてしまい、その人の肩を持つようになるのだけれど、もしかすると愚痴の対象となっている人からの声を聞いてみないと、きちんと成敗することはできない。
それも解釈の一つで、その諍いを公平な目で見るならば、両方から聞いてから成敗するのが適当なやり方だと思う。
両方聞いてみると、最初に愚痴を聞いていた方が悪い、みたいなことだってたくさんあり得るだろうから。
なるべく公平な目で、物事を見て解釈していきたいと思う。
地球のどこかで今も起こっている諍いが、それぞれの頭で考えた解釈をベースに行なわれているはずで、蓋を開けてみたら、まぁ、お互いに悪いところあったよね、みたいなことだってあるんじゃないかなぁ。そんな簡単な話でないことはわかっているけれど。

ふと昔の記憶を辿る。
駅から自宅まで歩いている間とか。
スマホとか、PCとか、テレビなどから離れてみて、さらに音楽からも離れる時間を作ると、私の場合は過去の出来事を思い返すことが多いように思う。
その出来事を掘り返し、出来事というのは良い思い出、悪い思い出、両方含めて様々な思いがあるものなどだったりするけれど、掘り返してあの行動は正しかったのか、今この状況でも同じ行動を起こすか、みたいな検証をしたりする。
検証したところであの日、あの時間に私が返ることはないから、ただの思考実験でしかないのだけれど、その行為自体が好きなんだろうなと思う。
だけど、それって後悔を生むことがある。
あの行動は正しくなかった、もっとこうすれば良かった、と思う時は危険で、今思えば正しくない行動だったんだけど、あの時はああするしかなかった、あれ以外に思いつかなかった、みたいに考えてしまう。
それって過去の自分を否定することにつながるだろう。
過去と他人は変えられないといろんなところで目にするけれど、この件はまさにそれで、変えられない過去に対してウジウジと悩んでしまう、そしてそのまま落ちる、みたいな典型的思考パターンだったりする。
私は日々変わっている。昔の価値観と、今の価値観は違う。
だからこそ、過去の検証自体はやってもいいけど、否定するのは違うよな、というのを忘れないようにしたい。
そうだよ、日々、私が成長している証として、過去の振り返りをする、というのは良いと思うんだよな。
自分は昨日までの自分よりも成長している、比較すべき対象として頭の中に存在しているのだから。