カテゴリー: 魂を綴る

  • 7月11日 蝉の鳴き声を聞いた

    7月11日 蝉の鳴き声を聞いた

    自分を信じることは大切だ。
    自分を信じることは、過去に得た経験や知識を活かして、新たな活動への道しるべを作ること。
    可能性を広げるためにもきっと、自分を信じることがベースになるのだと思う。

    私は一時期、自分を信じることができない日々を送っていた。
    なんでそんな簡単なことを?と多くの人は感じるだろう。私だって不思議だ。ついこの間までできていたことが、急にできなくなるなんて。
    どっかで読んだけれど、自分を写している鏡に向かって「お前は何者だ?」と問いかけると、精神が崩壊するそうだ。怖くてやってみたことはないけれど、つまりそれって自分を疑うということなんだろう。自分自身が自分自身を疑うなんて、ちょっと怖くてできないや。
    自分自身は、自分自身だ。疑いようもない。鏡を見ないと自分の顔が分からないというのもなかなか不思議なことだけれど、私がここにいるということは間違いようもないし、私という自分自身のことを考えている私は、ここに存在するという証明になる、と信じる。強く言い切れないのは、実は脳が作り出した幻想の中に生きているだけで、実体として証明することができないから。

    話が脱線してしまったが、自分を信じるのってどうしたら良いのだろう。
    あの頃の私は、自分が嫌いで嫌いでしょうがなかった。
    自分の思い描く理想には程遠く、かと言って自分の足元を見て、地道に歩みを進めるということもできず、ただ自分への愚痴を肴に酒を飲み、日々をぼんやりと過ごしていた。
    そんな時代があったからこそ、今、自分のことを信じているのはとてもありがたいと感じることができている。
    綺麗事だよね、分かってる。青臭いなとも思う。
    だけど自分を信じることって人生においてランキングトップに入るくらい大切なことで、それがあるから、冒頭に書いたけれどまた新たな道を拓けることができる。途中で道に躓いたとしても、昨日書いたような気がするけれど、もう一回立ち上がって進もうって気持ちになれる。
    多分、昔の哲学者が同じようなことを言っているように思う。
    だけど私は、自分が培ってきた経験や知識を使って、自分を信じるのは大切なことだ、ということを改めて噛み締めたい。

    蝉はすごい。自分を信じているから、8年も地中にいて、やがて大空へ飛び出し、大切な伴侶を見つけるために大きな声で鳴くから。あんな小さな体で、あんな大きな音を鳴らすことができるのってきっと、自分を信じているからなんだろう。昆虫には「自分」ということを気づかないで生きているらしい。だけど彼らは、自分のことを誰よりも分かっていて、だからきっと今、鳴いてる蝉も、自分の経験や知識をフルに使って生きているんだろう。

  • # 腹を立てるのは自分の心に余裕がないからなのか

    # 腹を立てるのは自分の心に余裕がないからなのか

    過去と他人は変えられない。
    今まで何人もの人がつぶやいてきたことを心の中の分かりやすい引き出しに入れておくと、多くの場合の理不尽なことなどで、腹を立てないようになってきたなと感じる。
    心の成長とでもいうべきか。心が広い、という意味と近しい感じもするけれど、心が広い、というのは成長に伴って大きくなっていくというよりは、生まれ持った感覚というものに大きく依存している気がする。
    ものすごく軽やかに生きることができる。他人に期待しないだけで。同時に、物事は自分でなんとかしていかなければいけないという責任が生まれた気もする。
    そして自分の機嫌は自分で取っていかないといけないから、その責任を心地良い程度で抑えつつ、時には自分の考えを柔軟に曲げながら、生きていく必要がある。

    他人に期待すること自体は決して、悪いことではない。
    だけど自分の想像する範囲での「期待」に対して、他人がそのようにすることってのは実は少なくて、だから自分の考えを曲げて、なんとか納得する着地点を探す。
    自分の考えを曲げてという点は、たぶん、まだ他人に期待しているという点が含まれている。
    世の中は一人では暮らしていけないから、少しでも他人に寄りかかって生きていかないといけない。家族がいるんなら猶更、いや、家族に関してはより一層気を使って生きていく必要があるんだろう。だって自分の人生において多くの部分を一緒に過ごす仲間だから。

    人生ってうまくいかない。ニーチェも言ってたけど、うまくいかないことを何度も何度も繰り返して、それでもやっぱり失敗して、だけどもう一度挑戦する、っていうマインドは捨てたくないなと思う。
    石橋を叩いて渡る人生の方が穏やかで、大きな波が立たず、緩やかに死ぬまでのエネルギー的な曲線を描いていくんだろう。
    一方、刺激的な人生とは。エネルギー的な曲線は常に上限を振り切っている気がする。ずーっと元気な人ってたまにいるよね。見境なく、考えるより先にやってしまおう的なスタンスの人。
    彼らってすごいなと思う。
    人生は一度きりだし、死ぬまでで今、この瞬間が一番若いんだから、やりたいことをやれよ!という考えも分かる。
    だけどそこは性格だから。私はそこまで(ディスってません)行動ファーストにはなれないから。私は私のペースで生きていくんだから。
    それにしてもまた、いろんな物差しで自分の考え方を測ってるよなぁ。
    行動ファーストの他人がいたとして、彼らに同調する必要なんて1ミリもないのに、私はつい、「私もそっち側にならなきゃ!」みたいな考えが頭をよぎるんだもんな。

  • 私にはエモい文章を書くなんて無理だと痛感する

    私にはエモい文章を書くなんて無理だと痛感する

    そもそもエモい文章ってどういうことだよ、とその時点で立ち止まってしまう。
    後ろを振り返ってみて、過去の自分を思い浮かべ、エモかった瞬間を切り取ることができたとしよう。
    だけどそれを、言葉にする力を持っていないことに愕然とする。
    言葉を知らないということなのかもしれない。つまり語彙力の問題?
    私は今まで何冊の本を読み、それらからどれほどのエッセンスを得たというのだろう。
    本の読み方が正しくなかったのでは、なんていうことも考える。

    47歳。私は割と、自分の年齢を気にする。
    47歳。80歳で死ぬとして、残り33年。
    そのうち半分は身体が動かない、心に火が灯らないということで、過少に見積もって16年。
    私が自由にいろんなことができるのは、あと16年ということになる。
    気持ちよく春を迎えることができるのは、あと16回。
    夏の陽射しに耐えることができるのは、あと16回。
    豊かな秋の恵みに喜ぶことができるのは、あと16回。
    冬の美しさに目を輝かせることができるのは、あと16回。
    その間に、自分の納得できる小説を上梓することはできるのだろうか。

    その前に、そもそもなんで私、小説を世に出したいんだっけ?とも思う。
    もともとの理由はとても不純で、ただ、家で仕事をしたいから、というものだった。
    おそらく10年くらい前になるだろう、今から考えると2016年頃(完全にうろ覚え)、私は日々の出社に疲れていた。
    家で仕事できたらいいのに、という思いは10年どころではなくもっと前、もしかすると新卒で入った会社の時点で考えていたのかもしれない。
    出勤時で得られるストレスは半端ない。満員電車嫌い。得られる恩恵と言えば、狭苦しい中で読む小説くらいのものだ。
    コロナ禍を経て、週の半分くらいは自宅で仕事ができるようになった。だから本質的な問題は解決されたのだ。
    これで良かったのだろうか、とふと考える。
    これで良かったのかもしれない。

    最近、インターネットで見かけた言葉。

    静かに続けることのできる人が、いちばん遠くまで進めることができる。

    野球で有名なイチローは、日々、同じように準備し試合に臨んでいたと聞いたことがある。
    変なことを行うのではなく、毎日同じように起き、食事を摂り、準備運動をするなど、一般的な人間のやるべきことと大差ないはずだ。
    違うのは、それをイチローは、繰り返し行うことができたということ。
    私は文章力が全然ないと感じているけれど、それも同じことで、日々、何かしら文章を考えて書くことで、
    もしかすると、ずいぶん遠いところまで来てしまったな、と後ろを振り返ることができるのかもしれない。
    そしてその先には、冒頭に書いたエモい文章を書くことができるのかもしれない。
    いつから始めればいい?それが遅いということはない。今日からだって。というか、ここで綴っていることがそのきっかけになっているのだろう。そう信じたい。

  • さよなら、ジャバウォック 伊坂幸太郎 ★★★★☆

    さよなら、ジャバウォック 伊坂幸太郎 ★★★★☆

    マンネリを感じるのはしょうがない、けれど伊坂幸太郎なりの味を確かめるために、もう一度くらい読んでみたい。これぞ伊坂幸太郎だよなと思わせる作品。すごいよね。面白いよね。思いついたことをいろいろ書こうと思う。起承転結などはなし、思いついた順に綴っていこうと思う。

    ジャバウォックというのは不思議の国のアリスに出てくるモンスターで、頭が混乱して何が何だか分からない状態に陥るそうだ。読んでないからわからないけど。

    相変わらずオシャレだなー、と思う。引用する哲学や歴史上の出来事、音楽など、引き合いに出す内容の豊富さに脱帽する。そういう点での知識欲求も満たしてくれるからすごい。
    過去と他人は変えられないというのは私の中での金言になってもいるから、その言葉をここまでフィーチャーしてくれるのは嬉しかった。やっぱそうだよねという気分になった。若干ネタバレになるけれど、その言葉が最後まで引っかかっているような気がして、そしてその言葉が結末の一つを表しているようにも感じた。

    小気味良い会話とかね。歳取ってるのに若々しい女性を描くの好きだよね。モダンタイムスに出てくるオバちゃんのことを思い出したよ。キャラが被るよ。

    先の読めない展開を綺麗に描くのすごいよなぁ。
    張り巡らせた伏線もきちんと回収するし。あの時のあの人がまさか、みたいなのが何度もあった。残り30ページまで、結末が読めない。多分、彼のことだからいい感じに、正義は勝つみたいなエンタメで終わらせるんだろうなと思いつつも、フーガはユーガの時のように双子の片割れがあんなことになってしまって(あの時は悲しかった!)、という結末を描いたこともあるから、もしかしたら今回も?!と半ばドキドキしながら読んだ。
    そして大円団(と言って良いのだろうか)を迎え、いろんなことがネタバレされ、読者の私は安堵したな、みたいな印象を持った。
    だけど正義ってなんなんだろうな、ここ最近の彼の作品には「いろんな面」での正義が描かれることが多いから、彼には彼なりの正義があった訳だし、ただ、それを他人にまで強制するかどうかとか、その辺りの線引きが必要なんだろうな。生きていく上でね。

    人は変われるのだろうかね。
    私の脳が、どこかの研究室のビーカーみたいなやつに電極で繋がれていたとしたら。何度も同じようなことを考えたことがあった。一時、その考えに固執したこともあった、けど、それを考えることの自分は自分自身だというデカルトの説に則って、それを信じることにした。
    思い出を何度も取り出してそれを愛でるのはもしかすると、その時代から飛んできたから記憶が鮮明なのでは、なんてことも考えたことがあったな。ついさっきまでその、思い出した時代に生きていた自分がいて、そこから一瞬で抜け出してきたとかね。証明する術がないから、ただの想像で終わってしまうんだけど。

    星4つにした理由。これは数多の作品を読んでしまったからということもあるのだと思う。私は彼の目新しい部分を少し期待していたけれど、いつもの伊坂幸太郎作品だよね、という点でまとまってしまったという点が、満点を取らなかったということ。あと、若干のファンタジー要素。苦手でして。
    これが最初の伊坂幸太郎です!ここから読みます!という人にとっては、入りやすい作品だと思う。彼らしさが出てるから、これを機に伊坂幸太郎が好きになりましたって人は、違う作品を読んでみることをおすすめする。長編が好きならぜひモダンタイムスへ。ハラハラドキドキしたいのならゴールデンスランバーも良いと思う。同じくらいのボリュームなら前述したフーガはユーガなどかな。

  • ロディア No.11とA6ノートの基本的な回し方

    ロディア No.11とA6ノートの基本的な回し方

    いわゆる仕事術!みたいな考え方を目にすると、きちんとした型にはめて実行するものが多いように感じる。私はもっとゆるくて良いのではないかと思う。

    守破離という言葉がある。まずきちんと型を守る。そこからその型を破り、やがて離れていくという考え方だ。だから、まずその型を理解することが必要だ。そして離れていくために、自分流のやり方を見つける、というものである。

    ここで、私が最近取り入れているやり方を載せたい。ここ3ヶ月くらい、以下のやり方で仕事を回していて、結構気に入っている。

    日々の仕事

    1. まず、ロディア No.11をいつでもどこでも持ち歩く。通勤して出社する人なら、ポケットにロディア No.11とボールペンを入れておく。ロディアには、着想するすべてのアイデアや、やらなければならないことなどを1ページ1つの項目として載せる。ロディアの役割としては、情報を逃さないというもの。「あーあれやらないと!」と突然降ってきたような仕事を、出社してPCを立ち上げるまで覚えているのは不可能だ。仮にそれが可能だとしても、出社する時のエレベーターで同僚と会い、違う話をしていて忘れてしまうなんてことが多々ある。そういうのを防ぐために、情報を残しておくのだ。
    2. 出社してPCを立ち上げる。その時にもロディアが効く。一日のタスクリストを作るためだ。ロディアは1行が5mmという、文章を書くにはギリギリのサイズ感。そしてとても小さいため、タスクに載せるリストは最小限度の言葉を使う。その言葉だけを見れば、何をやらなければいけないかが瞬時にわかるよう、冗長な言葉は可能な限り排除する。この行為が割と重要で、いわゆるタスクのエッセンスだけを抽出するのだ。そうすることで、本質的に、何をすれば良いかが瞬時に理解できるようになる。と言うよりも、書いているうちに何をすれば良いか具体的なアクションが浮かんでくることに気づくはずだ。
    3. ここから、ロディアとA6サイズノートの共演が始まる。基本的にロディアになんでも書くが、仕事上で自分なりに思考する必要がある場合、ロディアではスペースが小さすぎる。だからここで、A6ノートに内容を拡げていく。サイズはA6ではなくても、もっと大きなものでも構わない。0秒思考のように、A4のコピー用紙あたりを使うのも良いだろう。私がA6ノートを使っている理由は、絶妙なサイズ感だ。私はスペースが大きすぎると、つい冗長的なことを書いてしまう。「そんなことを言われても、、」のように、ぼやきを入れてしまうのだ。これはこれで良いかもしれないと考えたこともあった。私の思考プロセスを可視化して、私が躓いているポイントをあぶり出すことができるからだ。だけどA6ノートでは、冗長的なことは書けず、ここもロディアと似たところがあるが、可視化する言葉を厳選する必要がある。このようにして、なるべく本質的なことから逃げずに、アイデアを膨らませたり、タスクを細分化することができる。

    以上が、私が最近取り入れているやり方だ。アイデアを失いたくないという私の貧乏性な性格が、このやり方を作り上げたと言っても過言ではない。私は仕事以外でも、小説を描いたりもするので、その点でもアイデアを逃すというのは書く機会を損失するということになる。

    たまたまこのブログを見つけた方には、いったんこのやり方を取り入れてほしい。ロディアは275円、A6ノートはページ数が少なければ100円、ボールペンなんて今お持ちのもので十分なので、イニシャルコストは数百円だ。

  • 記憶に残らない一日

    記憶に残らない一日

    仕事をしているとあっという間に1日が終わる。
    何も考えなくても、目の前の仕事をこなすだけで、あっという間に時間は過ぎる。
    文字を入力するキーボードや、マウスを触っているだけで1日が終わり。
    あっけない。あっけなさすぎる。
    時折、仕事が猛烈に忙しくなったりすると、仕事のために生活しているような気分に苛まれることがある。
    生活するために、給料を稼ぐ必要があって、だから私を含む一般的な社会人は、人質と同じ扱いで、働かなくてはいけない立場になってしまう。

    これって幸せなことなんだろうか。
    仕事があるだけ、仕事をこなせる頭脳と、体力があるだけ幸せなのかもしれないが、私が考えたいのはそこではない。
    時間と気力体力を奪われているという状態が、幸せなのかどうかという点。
    たぶん、結局のところ、自分が幸せと感じるなら良いだろう、という結論に至る気がするけど、ちょっと考えてみたい。
    時間と気力体力が奪われ、その対価としてお金をもらう。
    お金がないと、生活できない。たまに、お金無しで生活してます!みたいな、山奥に住んでいる家族を観ることがあるけど、そこまで振り切れるのすごいなと思う。
    お金は大事だよ。必要だよ。だから、自分の時間と気力体力を捧げるんだよ、だってそれくらい重要なんだから、と、泣きながら考える。

    では、お金が、必要十分な程度持っていたら、働かないという選択をするのだろうか。
    家族が健やかに過ごすだけのお金。余裕はないけれど、慎ましく暮らすことにフォーカスして、まったりと生きていく、といったような。
    たぶん、私は、仕事を探すと思う。
    お金が欲しい訳ではない。いや、お金も欲しいけど、仕事をこなすことで得る達成感や、誰か、同僚のために貢献して、その同僚を喜ばせたい。
    だいぶ飛躍した気がする。
    お金のために働くと考えていたのに、いつの間にか、「貢献したい」と目的が変わってしまった。
    お金のためだけに働くのって、なんとなく、虚しい気がする。(諸説あり)

    話を戻す。
    時間と気力体力を捧げてまで、誰かのために貢献したいということになるんだなここまでの文章を噛み締めてみると。
    これも諸説ありで、つまり価値観に依存するようなものだから、あくまで私の考えではあるけれど、私は、お金ももちろん大事だけど、誰かのために貢献して骨を折り、仕事をこなすことで「気持ち良く」なるんだと思う。
    生きているなら、仕事するなら、気持ち良く仕事をしたい。
    そのためには、自分の時間や気力体力を捧げることだってやぶさかではない。
    だってその方が気持ち良いんだもん。

    生きるって難しい。人それぞれの考え方があって、もちろん私の考えに反する人もいるに違いないし、その考えを否定するつもりは毛頭ないし、だから、いろんな考えを持った人がいる中で、仕事したり、生活したりするんだもんな。

  • 生きがいなんてなくたって生きていられる

    生きがいなんてなくたって生きていられる

    子供の頃から、「夢を持て」とか、「生きがいを持て」みたいなことをたくさん言われて育ってきた。それはそれで間違っていない。夢を持つことで,自分の可能性を狭めることなく,むしろ広げるように成長していくから。生きがいを持つと,生きる自信に繋がるから。おそらく,世界中の子供たちは皆,大人からそんなことを言われて育っているように思う。
    私が子供の頃,記憶にあるのは,小学校6年生の授業で,自分の夢というテーマで作文をしたことだ。それは授業参観で発表する形となっており,先生としては「子供が何を考えているか」を発表させ,そして親がそのことを受けてどうのこうのみたいなことを狙っていたのだろう。
    そこで私は,「サラリーマンになる」という夢を発表した。それは夢と言えるのか?と疑問を呈することもやぶさかではない発表だった。私はおそらく,夢というものを見ず、自分の延長線上に何があるかというのを現実的な目線で考え、そして発表したのだろう。

    そして46歳になった今、その夢は叶えられ、私はサラリーマンとして20年以上働き続けている。その時、同じように夢を発表した人たちの中で、その夢とやらを叶えることができた人はいったい何割いるだろうか。残念ながら私は誰の夢も覚えていないし、それよりも前に小学校時代の友人とはここ10年くらい連絡を取っておらず、だからその夢を検証することもできないのだけれど。
    私は夢を見ていたのだろうか、こんな生活をする夢を?と思ってしまう。サラリーマンなんて今の日本では大多数を占めるだろう。そんな、謂わば誰でもなれるような職業を夢に据えるなんて、当時の私、自分の可能性をきちんと理解していたか、もしくは、夢というものを誤解していたのではないだろうか。

    そもそも、タイトルにも据えたけれど、夢とか生きがいがなくたって、人間はちゃんと生きていけるのだ。私はここ数年の中で、何度、夢とか生きがいのことを考えただろうか。たまに、ぼんやり、生きがいというテーマで物事を考えると、家族、特に子供達が成長するまではきちんと見守る、そういった意味で生きがいなのかもなぁ、なんて鼻をほじりながら考えたりもしたものだ。だけどそれは見方を変えると、生きがいではなく、単純に、親としての義務というだけだ。それを生きがいなんてカッコ良い言葉に置き換えたところで、話は美化されないし、子供たちは勝手に成長していくし、だから生きがいなんて必要ないんじゃ、と思うのだ。
    夢とか生きがいとか、そういうものがないと,ちょっと焦ったりもする。私はこのままぼんやりと生き続けていいんだろうかと立ち止まって考えてしまったりもする。だけどその時点で改めて,夢とか生きがいを考えたって,自分の生活はいつも通り進んでいくし,私は目の前にある家事や仕事をこなしていかなければならないから,意味がないんだと思う。

    夢とか生きがいっていうのは,もしかすると幻想だったのか。それを抱かなくなるとジョージオーウェルの1984年みたいな、曇った世界、希望がない世界のようになってしまうような気もする。あの世界は私には強烈すぎた。現在の、かの国のように言論が統制され、至る所で監視されているような生活を送っている人にとっては、それこそ夢とか持ったら政府に殺されてしまう、みたいになってしまうのかもしれない。
    だけどもしかすると、夢とか生きがいを強制的に考えさせられるような現代日本の義務教育は、ちょっと考えものなのかもしれない。
    いや、私は、そういうものを持っちゃダメだ、とは言わない。そうではない。けれど、夢とか生きがいとかなくても、ちゃんと生きていけるし、無理やり見つけるようなものではないから、意識的に見つけるんじゃなくて、自然と身についてくるような気がしてしまうのだ。

  • 今日がいつもと同じ1日だったとしても

    今日がいつもと同じ1日だったとしても

    さっき風呂に入ってて、ぼんやりと、「今日も何もない、ただの平凡な日だったな」、と思った。それでもまぁ判を押したような生活よりは少しはみ出すような出来事はあったけれども、メガネを外してぼんやりと今日の出来事を俯瞰してみると、まぁ、判を押してるよな、と。

    今日を一日、平凡に過ごしただけの私、これは失敗なのだろうか。
    悲観的に物事を考えていた頃の私だったら、「今日は何も生み出さなかった」と考え、少しの間落ち込むかもしれない。八年くらい前はこんな感じに思考プロセスだったよなきっと。今思い出すと、結構な頻度で毎日のように凹んでいたように思う。
    だけど今は違う。
    今の私は、ちょっと待てよ、というスタンスを取ることができるようになった。成長を感じる。
    そんな私は、風呂を出て、カミソリ負けをして血が滲んでいた顎にクリームを塗りながら、思考の続きを試みた。

    そもそも、人生の大半って今日みたいな、判を押したような生活なんだよな。
    それをドラマチックな日ではなかったからと言って、卑下することはないだろう。
    毎日、キラキラしている人生なんて、ゾッとする。
    キラキラだとか、平凡だとか、そんなのどっちだって良いこと。そもそも、人生に成功か失敗かなんて、ないんだから。

    では、今日はいい1日だったな、って思うのはどういうことなんだろう。少し考えてみる。そこで思いついたのは、身体的、精神的な部分が、昨日と比べて、弱まったりしていないこと、だった。
    つまり今日始まりの時点と、今、寝る前の時点で、自分というもののサイズが小さくならず、いつもの形で今日を終えることなのではないだろうかね。
    それって実は難しくて、ちょっとしたこと凹んだり、つまづいたり転んだりして膝を怪我したり、今日起きた時と比べてマイナスになることが多い。それも、死ぬこと以外はかすり傷という言葉に従えば、決してマイナスということではないんだろうな。

  • 今日のランニングと、今までの自分を愛すべきだろって話

    今日のランニングと、今までの自分を愛すべきだろって話

    今日は10km。外ラン。気温は7度くらいかな。ペースは前回と同じキロ6分20秒くらい。

    寒いは寒いけど、風がなくとても穏やかな関東地方を駆け抜けた。

    前回はジムでのトレッドミルだったから、退屈で飽きてしまって8kmしか走れなかったのを教訓にして、今日は外ランにしたんだけど、やっぱ外はいいな。いい感じに視線は発散し、次の信号、次の曲がり角へとゆっくりと自然に視線が移動する様は、走っていることの心地よさを増強させる気がする。

    だけど夕暮れ時に走ったせいか、街頭が弱い歩道で少しの段差につまづき、それで踏ん張った右膝に痛みを感じるようになってしまった。昔、大きめのケイデンスで走った時にも得たような痛み。ちょうど8kmくらいで被った痛みをぼんやりと抱えながら、残り2kmを走り切るか逡巡した。
    そこで止めることも、もちろんできた。けれどどうせ残り2kmを歩くことになるんだし、走れるところまで走ろうと心に決める。周りは真っ暗な市街地。相談できる相手なんていない。相談したところで、走るか歩くかの二択しかなくて、歩いているうちに体は冷えて寒くなってしまうだろうから、ええい!ままよ!とメニューを決めた井之頭五郎氏と同じ気持ちで、走ることを選んだ自分。だいぶ不安ではあったけれど、無事に目標にしてた10kmを走り切ることができた。心の中で小さくガッツポーズ。

    人生は選択の連続だと言う。朝、起きた時、その時点で、ちゃんと起きるか、もう少し寝るか、その段階ですでに選択していると言える。
    時折、「あの時、ああしていれば良かった!」などと考えることがある。というか毎日、そんな風に過去のイケてない選択を思い出しては、川に飛び込みたい衝動を得ることがある。
    だけど実際には、自分の思うがままに選択してきたはずだし、それがあとになって、それも数十年先の未来にまで「あれは失敗だった!」なんて気持ちを抱くようになるなんて、思いもよらない。

    きっと大事なことは、過去、その選択をしてしまった自分を愛することだ。
    その時にベストな選択をしたはずで、仮に打算的な選択をしたのだとしても、その時には「そうするしかなかった」はずなのだから、それをひっくるめて愛するべきなんだろう。

    なんて安い文章を書いているんだと思う。
    だけどこう書かなければ、私という自分自身が、溶けていなくなってしまうような気がするから。

  • 誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    哲学的な問題のやつで、人間が誰もいない森の中で、木が倒れた時、誰もその音を聞いていないのだから、木が倒れたとは言えないみたいな話。
    変な話だなー、と思った。私は理系人間でもあるので、まず、木が倒れたという物理現象があるのならば、音を誰も聞いていないからと言って、倒れていないとは言えないだろうと思った。
    だって実際に木が倒れているんだから。
    今、私がこの文章を書いている最中、きっとどこかの森でも木は倒れているのだろう。人間に音を聞かれず。ちょっと想像してみる。

    木はある時にたくさん降った雨のせいで、根腐れを起こしてしまった。それにより十分な栄養を渡らせることができず、ゆっくりと死を迎えたのだ。
    若木の頃は、自分が置かれた環境が許せなくて、花を咲かせて違う場所で育つことを願ったりもしたものだ。だが鳥や風によって違う場所へともたらされた自分の分身たちが、自分と同じ意識を持つという誤解のせいで、私はとんだ失敗をしてしまった。私は自分の意識が、私の分身たちと共有できるものだと勘違いしていた。だから、頑張って花を咲かせ、花粉を遠くへ飛ばせるようにしたのに。
    その失敗をきちんと理解してからは、「別の場所で育ちたい」という無謀な願いを捨て、この場所で生きていくと心に誓ったんだ。そして何十年もの時を経て、私は、こんなに大きくなった。私は無限に大きくなっていくのかと思ったんだけど、これも誤解で、ある程度まで伸びたら、自分の重さで大きくなることができなかった。それでも良いんだ。私は私としてここに、木として生きているのだから。
    このまま何年も生き続けるのだろう、そう思った秋の頃、雨が降り、足元の土が乱れてしまった。私は彼らと根を通して会話をしていたから、ーそれは日常の楽しみの一つだったんだけどー、ある日、急に土が意地悪になってね。何十年も彼と話していたのに、人間性が変わったかのように、驚くべき変化を遂げたんだ。
    そこからは早かった。意地悪によって根が腐り、そして十分な栄養が供給されなくなってしまった。やがて私は自分の重さを支えることができなくなって、ある日、突然、倒れたんだ。その時は隣の木を傷つけないように、木と木の間を狙って倒れることができたから、迷惑をかけることはなかった。
    倒れる時、バサーッ、と大きな音がしたな。私の最期の声を、隣に立っていた木や、いつも木の実を食べにくる動物や、土など、みんなが私の声を聞いてくれたんだ。圧巻だったよ。そうして私はこれから微生物によって分解され、他の木の栄養分になるんだよね。いい人生だったと思う。

    軽く考えてみたけれど、木が倒れる音は、人間がいなくとも、周りにいる動物や木、土が聞いているはずだ。
    だから、人間が聞いていない=木が倒れていないというのは、論理が飛躍している気がする。

    近い話なのかどうか分からないけれど、事実と解釈という話がある。
    木が倒れたという事実。
    それを観測した人が、「木が倒れた」と解釈する。
    この上なくシンプルな話だけれど実際は、木が倒れたのを見た、ということが必要で、つまり、見ていないと木が倒れたかどうか解釈できない、ということになるのだと。それはちょっと分かる。木が倒れたかどうか知ってる?と聞かれ、仮に私が木が倒れたのを見ていない、そして音も聞いていないということであれば、「いや、ちょっと分かんないっすね」と言うだろう。そういう解釈を持っていないから。
    あくまで自然な流れだけれど、これっておかしいことなのだろうか。

    ちょっと視点を変えてみる。

    ある日路上で、例えば23時、最寄り駅から自宅までの道。そこに500円が落ちていたとしよう。昨今、500円が落ちているなんてことは滅多になく、私は何十年も見ていない。だから500円が落ちていたとしたら、まず驚くだろう。そして、周りを見渡すだろう。それは、周りに人がいたら、500円をネコババするのは窃盗罪にあたるからだ。だけど誰もいない場合、私は500円を拾い、自分の財布に入れてしまうかもしれない。仮定だけど。実際にはそうするか分からないけど。
    間違いないのは、日本ではそれを「窃盗」にあたり、何らかの方法で500円を財布に入れている映像があり、それを警察が観測できるところにいたら、間違いなく捕まるんだけど、そういうのがなーんにもない場所で、500円を財布に入れたとして、いったい誰がそれを咎めるのだろう。

    いや、なんか違うこと言ってる気がしてきた。