カテゴリー: 魂を綴る

  • 適度な休憩を取ることは、仕事にとってプラスなのか

    適度な休憩を取ることは、仕事にとってプラスなのか

    たまに、仕事に没頭すると時間を忘れることがある。特段自分の好きな仕事に集中している時なんかは、気づいたら数時間経っていた!なんてこともしばしば。
    仕事は、基本的には好きなんだと思う。私は仕事=誰か、何かに貢献するということを無意識のうちに、念頭に置いている気がする。だから、誰かの必要となるための仕事だったら喜んで引き受ける。一方、誰のためにもならないもの、何の価値もないような仕事に対しては、とても億劫になる。
    たぶんこれって仕事をする人みんな同じように思っているのではないだろうか。昔どこかで、意味もなく穴を掘り続け、ある程度掘ったら穴に土を入れて元通りにし、そしてまた穴を掘るという循環を続けると、人は壊れてしまうというのを目にしたことがある。そりゃそうだ、と私は思った。意味のない仕事は人間を壊す。同じノリで、無駄なパワハラみたいに、誰かの機嫌を取るためだけの仕事も、きっと同様だろう。

    さて、仕事に没頭する自分に関連した話で、ある程度がーって仕事を進めた後、経っていた時間を見た瞬間とか、仕事をやり遂げた時に、どっと疲れを感じるということがある。たぶんそれは「集中が切れた」ということだ。そんな時に、定期的に休んでいれば良かったなーと考えても後の祭りで、仕事の疲れを癒すには何か食べるとか、風呂、寝るなどの休息を取ることが必要だと考える。
    人間はそもそも、長時間労働に耐えうる身体を持っていないように思う。専門的な勉強をしてこなかったので詳しくは分からないけれど、8時間という、割と一般的に、一日で働くべき時間というのは、理に適っているんだろう。それ以上働くと集中力が落ちるし、腹は減るし。残業した後に電車に乗るのとかすげー辛いもんね。
    そうならないために、例えば、30分タイマーみたいな、ポモドーロテクニックみたいなやつは、きっと人間をいい感じに働かせてくれるんだろうな。やったことないけど。
    例えば、10時から11時までの間に2つの仕事を片付けなきゃいけないとしよう。それぞれ30分くらいあれば終わるような仕事。だとすると、25分頑張って、5分休憩、でまた25分、という風に繰り返せば良いんだろう。
    たったそんなことで良いのか?!と思うけど、これもどっかで読んだんだけど5分休憩は、本当に、きちんと休憩を取る必要があるらしい。そこで、あえて「何もしない」という選択肢を取ることで、「仕事の続きがしたくてたまらない」状態にし、それでモチベーションを上げるのだとか。
    なんだよそれ、ホントかー、なんて思ったけど、ちょっと想像してみると、確かにそうかもなと頷く自分がいたりして。
    私はどちらかというとせっかちなタイプで、Teamsのチャットやメールなど、可能な限り早く返したいタイプなんだけど、きっと私みたいなタイプはその、「何もしない」時間が耐えられない気がする。その5分の間にメールチェックをしたり、Teamsで来てたチャットに返事したり、きっとしてしまうんだろう。
    それだとダメで、厳密にやるのなら、いっそのことデスクから離れる、みたいなことを考える必要があるかもしれないなぁ。

    ちょっと目線を変えて、「休む」ということに目を向けたい。
    アドラー心理学的に言うと、まず働くということは、共同体への貢献、と今の私は理解している。
    で、ChatGPTに意見を聞いてみたんだけど、彼はこう言った。

    休むとは、「自分を社会へ返すための準備」

    へぇ、みたいな、新たな発見だよね。自分を社会へ返すって。そもそも自分は社会から借りていたんだ、みたいなね。
    共同体で生きるという、言わば現代の社会生活において、仕事をするというのは私の身体を使って、その共同体に貢献するということなんだから、仕事=社会貢献という目線で考えるならば、休憩はそれを行うための準備という風に考えることもできるよな。休み自体も貢献してることになるのかー、って感じだな。

  • 入れ替わりながら、生きている

    入れ替わりながら、生きている

    生きるって、どういうことだろう。
    生きる、って言っちゃうとどうも重たく感じてしまう気がする。
    なので、生きてるな、って思った瞬間のことを書こうかなと思う。
    未来の自分はそういうことを考えていた過去の自分を思い返し、改めてどんなふうに考えるのだろう。

    今日も一昨日に引き続き、10km走ろうと思っていたものの、気持ちが前に向かず走ることができなかった。
    言い訳を考えたらキリがない。寒いとか、家でのんびりしたいとか、今日は祝日で昼間は暖かかったはずなのにそれをスルーし、あっという間に夕方。
    近所のスーパーまで買い物に出かけたら完全にやる気がなくなってしまった。
    帰宅してお酒。
    けれど今日は焼酎のお湯割り1杯で終わりにした。走らなかったことからくる罪悪感を抱いたためだろう。
    その後、すべてのやる気がなくなり、決断するのがめんどくさい状態に陥った。
    仕方なくその場をやり過ごそうとする。タバコ。外は寒い。
    羽田空港から飛び立つ飛行機を4つくらい見送っているうちにタバコ終了。
    管制塔にいる人ってすごいよな、と考えた。

    数日前にも書いたけれど、人生って毎日がポジティブ、すべてのことに自信を持ってやり遂げることができます!というシーンは少ない。
    歳を取ると尚更、というのが最近抱いていること。
    こんな感じで、走ろう!と思ったのに走れなかった自分を認めないと、気分がより一層滅入ってくるのは知ってる。
    そういうのも引っくるめて自分を愛する必要があるんでしょ、と不貞腐れた気分でそれを受け止める。

    いつ、どんな時でも自分を肯定しないといけないんだろうか。
    自分を否定することは本当に悪いことなんだろうか。
    叱咤するというスタンスなのであれば、例えば今の自分に対しては、「明日走る!」というモチベーションにつなげることができるかもしれない。
    だけど明日は仕事が忙しそうで、帰宅時間が遅くなりそうだから厳しいよな、と諦める自分もいる。

    いったい、どの自分が本当の自分なんだろうと思う。
    自分の中に、100人くらいの人格がいるような気がする。
    それぞれの役割、例えば父親、夫、社会人、のようにいろんな帽子を被った自分がいるけれど、根本的には自分は一人なはず。
    走ろうと思ったけれど走れなかった自分、控えようぜと思ってるのにお酒を飲んでしまう自分、タバコを吸ってしまう自分、どの自分を信じ、背中を押せばいいんだろう。

    そんなことを考え、思いの丈をChatGPTにぶつけてみたら、バラの花びらを包んでくれるように優しく、自分を救ってくれた。
    ニーチェは、人間を一つの意志を持った存在としては見ていなかったらしい。
    いくつもの衝動がせめぎ合い、その時いちばん強かったものが前に出るだけだ、と。

    そう考えると、今日は「走らなかった私」が勝っただけで、「走りたい私」が消えたわけではない。
    明日、あるいはまた別の日に、そっちが前に出てくるかもしれない。

    生きるって、たぶんそういう入れ替わりの連続なんだろう。明日からまた仕事だ。

  • 走っている間、私は考えていなかった

    走っている間、私は考えていなかった

    今日は10km走った。
    風が強く、向かい風の時は前進するのがキツく、被っていた帽子の鍔が上にめくれ上がるほど。
    向かい風があまりにも強かったので5kmで終わりにしようかと途中引き返すことも考えたけれど、なんとか予定通り走り切ることができた。
    走り切ると言っても、途中信号待ちで休憩したりしたので、実質10kmを休みなく走るというところまでは到達できなかった。

    年が明けてから心機一転、走ることを趣味の一つに据えて過ごしている。
    去年は数カ月に1度走るかどうかくらいだったので、1月に入ってからすでに5回走っているという実績は、自分に自信が持てるような感覚を得ることができた。
    私にとって、過去、10kmだけでなくフルマラソンを経験しているというのは強い。
    全くゼロ経験の人と比べると、恵まれている気がする。
    身体が、筋肉が、走ることを覚えているから。
    そういうことって覚えてるんだよな、みたいなことを考えながら走った。

    いや、走りながらなにか考え事をしていたかというと、そんなことはなかった。
    走り出してから1kmくらいで今日のペースを掴んだら、思考はそこで置き去りにしていた。
    プン、と昔のブラウン管テレビを消した時のような音が頭の中で響き、そこからは信号で止まるかとか、ペースとか、息切れとか、走るルートとか、そういうものだけを考えるようになった。
    いつもこうだ。常日頃走っていた頃も同じで、何も考えることなく、淡々と走る生き物になった。

    何も考えていないというのは、生き物として、人間としてそこに在るのだろうか。
    今日は繁華街の一部を走ったので、その間はすれ違う人の目に私は映っただろう。
    だけど実際の私は、上述したようなことしか考えていなかったので、そこには確かに在ったけれど、考える生き物としてはイエスとは言えなかったような気がする。
    いや、無理に、なにかを考える必要なんてないのだろう。
    そもそも私は「走る」というイベントを体験しているだけで、それに没頭しているから、走ること以外のことは考える必要なんてなかったのかもしれない。
    他になにか考えるというのは、言わば雑念のようなもので、走ることを邪魔すると言っても過言ではない。
    おそらく、無理になにかを考えるべきということが、間違っていたのだと思う。

    それにしても走り終わった後に得られる爽快感の強さ。
    そのために走っているわ、といつも思う。
    代替できることってあるのだろうか。昨今のサウナブームで、整う、って言い方をする人がいるけれど、それに近いのかもしれない。
    サウナを趣味にしてみる?いや、時間が足りなすぎる。

  • 人間が成長したのは、苦しみからなのだろうか

    人間が成長したのは、苦しみからなのだろうか

    人間は死ぬまで成長できる、と考えていたけれど、時折、足踏みするよなと思ったりもする。

    足踏みする自分を許容しても良いのだろうか。そんなことじゃダメだろ!と鼓舞し、自分の成長を促すべきなんだろうか。

    促すには体力が必要だ。気力も同じくらい必要で、それらがないと自分の中で力が出てこない。

    成長のために、気力と体力を準備するのって難しい。40代も後半に差し掛かってくると、その両方が同じタイミングで満たされるってことが結構貴重なことなんだなと思う。

    だとすると、自然の流れに従って、死ぬまでぼんやりと生きるという生き方、考え方も貴重なのではないかと思う。

    貴重というか、考慮すべきというか。

    常に100%、いつでも発射できますぜ!というスタンスを作るのが難しくなっていくからこそ、ケセラセラ、Let it be的な生き方も考慮すべき、みたいな。

    たぶん、基本的には後者のスタンスで生き、自分の中で「今行けるな」と感じた時に、成長の機会を促すべくアクションを起こしていくことが必要なように思う。

    たぶん、って上で書いたけれど、きっとこれ正解ってないんだよな。

    だけど昨今、成長していかなきゃ!ってなることが多い。

    SNSとか見るだけでも、他人と比較してしまったりして、自分の武器の拙さ、弱さに辟易したりして。

    ちょっと哲学的な考え方に実を寄せてみると、これ系のことがすでに打ち出されているのに気づく。

    例えばニーチェ。自分で価値を作り、それを肯定すべき。苦しみは成長するための条件。(善悪の彼岸)

    ずいぶんとまぁ背中を押してくれるよな、と思う。

    いやそもそも、上記、私の前提が良くなかったかも、と思う。

    気力体力を十分に必要とする成長にばかり目を向けていたから、「できないときはしょうがない」なんて条件を加えていたんだ。

    そうじゃなくて、気力体力が十分じゃない時にでも、その時に持ってる気力体力で臨んでいけば良いだろう。

    自分の価値を創造するために、必ずしも気力体力が必要じゃないということ。

    そもそも、上述したけど、むしろ100%じゃない時の方が多いもんな。

    成長の機会、と言ってみても、それはいったいどんなことが挙げられるだろう。

    分かりやすいところで考えると、仕事をもっと効率的、効果的に進めるために、必要な知識を得ることとか。

    今の私で言うと数字を集計し、マネージメントへ報告するという業務が大半なので、数字が暴れているところをいち早く察知して、それの原因を探り、必要な対策を講じること、この一連の仕事をもっと効率的にやっていきたい。

    この流れで考えると、自分の仕事を効率化させるには数字を集計するところのスピード。あと正確性。もしくは、見方を変えてみると、一連の流れを自動化することも可能かもしれない。

    目の前にある仕事を毎月のように同じ作業を繰り返すこと自体は楽だ。あんま物事を考えなくて済むから。だけどこのご時世、このテの仕事は自動化すべきだという風潮をものすごく強く感じるので、その方向で考えていっても良いのかもしれない。

    仕事から離れてみるとどうだろう。このブログにも書いているけれど、ランニング。つい5年くらいの間に、ランニングをする習慣がなくなり、身体が太ってしまった。健康的な身体作りというのは、ライフワークとして考えていくべきなんだろうな。こんなところで倒れてなんていられないもんな。

    ランニングは日々、コツコツとやっていくことが肝心なので、なるべくそっち側に意識を向けて、頻度を上げて取り組んでいきたいと思う。

    仕事とプライベートという両面で、成長の機会というものを考えてみたけれど、その前に、こんな感じでブログを書くことだって自分の成長につながるのではないかと思う。文を書くって難しい。自分の考えを適切な言葉を使って可視化するのって、すごく難しい。けれどそういうものもランニングと同じで、日々、コツコツと続けていくことが必要なんだろうな。

    そう考えると、コツコツと続けることこそが、人間にとって一番大切なことかもしれないなぁ。

    結局、正解はないんだよな。でもニーチェはこう言った。『苦しみの訓練こそ、人類のあらゆる高まりをもたらした唯一の原因である』。私は、いったいどんな苦しみを抱きしめる?

  • 走れた日、書けなかった日

    走れた日、書けなかった日

    昨日5km走った。ペースも上がった。一昨日までの自分に打ち勝つことができた。
    距離、ペース共に速かったら他に気にするものなどないだろう。

    だけど、残念ながら、ブログを更新することができなかった。
    会社から帰宅後、すぐに走り、子供と風呂に入り、夕食、そして心療内科の薬を飲んだところで、クレイジージャーニーで砂漠に咲く花のやつやってて、それを観てしまった。
    そして、ちょうど終わることに睡魔。
    ブログを更新するタイミング無し。

    いっそのこと通勤中に更新とかしても良いのかもしれないけどね。
    iPhoneで、フリック入力でも書けるっちゃ書けるんだけど指が痛くなってしまってどうもね。
    たくさんの量を書くとなるとなかなか難しいよな。
    帰宅時にはHHKBを持ち歩いているのだから、どっかカフェとか、テーブルがあるところに寄って書くとかでも良いんだろうけど。
    そんなことするくらいなら早く帰れよって思ったりもして。

    なんの中身もない文を書いているなぁ。

    そして今日の日記。
    今日は仕事で、Excelのピボットテーブルをこれでもかってくらい使いまくった。
    毎日10個くらいのピボットテーブルを作っている気がする。そんな感じの仕事。
    7月に入社して、10月にアサインメントが変わってメインで集計・報告の仕事をするようになってからずーっとそんな感じ。
    最近はパイロットの色彩雫、蛍火を使っている。
    書いている時は薄いなー、って思うんだけど、少し時間が経つとだんだん濃くなっていく気がする。
    それでも濃いめのインクよりは薄いんだけど、仄かに放つ色彩の鮮やかさがとても美しくて癒やされる。

    今日の手書き日記を振り返ると、こんなことが書いてあった。そうだそうだ、出勤時にそんなことを考えていたんだった。
    「昔好きだった人に似ているからという理由で、今いる人を好きになったとしたら、それは失礼なことだ。お前が好きなのは「お前の記憶の中にいる、昔好きだった人」なだけで、今、そこにいる人ではないのだから。
    そりゃそうだ。それはただの未練というヤツだろう。

    では、昔好きだった人を今でも好きだと気付いた場合、人間は、どうしたら良いのだろうか。
    まず、再びアタックするのか(1)、空気がゆっくり抜けていく風船のように、ゆっくりと忘れていくのか(2)。それによって戦略が変わってくる。
    前者、再びアタックしよう!(1)の場合。
    まず、「再び」ということは、一度失敗しているはずである。
    そこでもまた選択肢があって、片思いから告白を経て散ったのか(1-1, 2-1)、それともいったん付き合ったけれどなんらかの理由で別れてしまったのか(1-2, 2-2)。
    こちらの後者、つまり2-2、いったん付き合ったけど別れたパターンでは、そこからやっぱり好きでした、に至るには、振られる、つまり向こうから別れを切り出される方が自然だろう。
    だって自分から振っておいて、やっぱり好きでしたってパターンっての、自分勝手すぎるだろ、と思ってしまう。

    いや。
    うーん。

    考えすぎだろう。というか、風呂敷を広げすぎだろう。

    いや、けどさ、自分から、例えば違う人を好きになっちゃってさ、だけどその後にやっぱあなたが好きでしたごめんなさい、ってこともあるよな。
    相手は振り回されっぱなしだけど。
    相手は、受け身で、自分から行動に移すような人ではないとしたら、一度離れた人が再び自分の元に返ってくるの、実は嬉しかったりするのかなぁ。

    考えすぎた。ちょっと面白かった、この思考実験。

  • 恋よりも、嫉妬の話をしたくなった

    恋よりも、嫉妬の話をしたくなった

    恋焦がれる、という言葉がある。
    気持ちが焦げるほど好きだと、今の私は理解している。
    では、恋をしている時っていったい、どんな気分なんだろう、とテレビのCMでプロポーズをする男性と女声の姿を見ながら考えた。

    気持ちが焦げるほど、熱い思いを抱く。
    私は柏レイソルが好きで、現地のゴール裏で応援する時はそれこそ、熱い思いを抱いて精一杯大きな声を出して応援する。
    しかし「焦げる」って。やり過ぎではないだろうか。
    ものが焦げると、もとに戻すことができなくなる。不可逆だ。
    まぁ気持ちについてはそれほど、後戻りができないほどの思いを抱くってことはさすがにないだろうけれど、と思いながらもふと、嫉妬という言葉を思いついた。
    嫉妬は怖い。もとに戻ってこれなさそうな気がする。
    私は嫉妬というと、憎悪という言葉を連想する。
    ねたみ、そねみ、という言葉の持つ強さ。

    嫉妬は、自分が手に入れることのできなかったものを他の人が手に入れたと知った時、気付いた時に感じるもの」

    という言葉を最近知った。
    自分があれほど恋焦がれるほど好きだった相手を、他の人がかっさらっていったと気付いた時、人はどんなことを思うんだろうか。
    後戻りできる程度で、「まぁ、時期が悪かった」とか、「もともと合う人ではなかったのだ」とか、「縁がなかった」くらいで片付けることができる人は、もしかすると恋焦がれるというレベルに達していないのではないだろうか。

    いや。
    うーん。

    恋焦がれるレベルというのは、人それぞれだから、それは私の考える程度の話か。
    となると、恋焦がれる=後戻りできない、という式は、成り立たないのかもしれない。

    それよりも私は今、恋焦がれるということよりも、嫉妬の方に気持ちが惹かれているのを否定できない。
    嫉妬モノ、というジャンルの作品、映画やドラマってなんで人気があるんだろうか。
    映画やドラマって、昨日も書いたけど、非日常を楽しむものだから。
    嫉妬って自分の日常には大して転がっていない。私の周りはいつも平和だ。
    そんな私が、普段触れることのない嫉妬について煮詰めてみて、それを作品にしたらどうだろう。
    世間では良くあるネタではあるから、きっとストーリー自体はあっと驚くようなパターンにはならないだろう。
    恋愛モノでは少し詰まらない気もする。私は真っ当な、普通の恋愛しかしてこなかったので嫉妬に関する引き出しが少ない。
    私は素直すぎるところがあるから、嫉妬という感情の変化球にはついて行けない気がする。

    いや。
    うーん。

    それは私の思い込みかもしれないね。
    嫉妬についてもうちょっと考えてみようと思う。

  • 私は登場人物に会いに行っている

    私は登場人物に会いに行っている

    山本周五郎の、樅ノ木は残ったを読んでいる。
    最初はとっつきにくいな、と思った。登場人物があまりにも多く、時代小説ならではの名前が長いことや、なんとなくぼんやり似ていることなど、きちんと覚えなくてはいけないところが辛い。
    だけどそれを乗り越えたら、山本周五郎ならではの人情をちょこっと擽るストーリー展開、心情の揺れ動きがめちゃめちゃ楽しめる作品だった。だった、と言ってもまだ全4巻中の2巻目に入ったところだけど。

    小説を描く時の要素として、私は「ストーリー展開の上手さ」と「キャラクターの際立たせ方」の2つが重要と思う。
    山本周五郎はさぶ以降2作目(たぶん)で、さぶもそうだし人物の際立たせ方がとても秀逸である。ストーリーの中で、ヤマ場での立ち回り方だけではなく、そのヤマ場へ至るまでの行動、心情、それらを上手に操らないと話がまとまらない。ストーリーだけ上手に展開していったとしても、キャラクターの個性が読者にぼんやりとしか伝わらないのだとすると、それは正解ではない作り方なのだろう。

    私はストーリー展開よりも、キャラクターの際立たせ方を重視している。
    強烈な個性を持つ必要はなくて、どこにでもいるような人を登場させても良いだろう。
    シンプルにキャラクターを作り、その個性、派手さは特段いらないような個性を、きちんと読者に説明できれば良いのだと思う。
    辻村深月のゼロ、ハチ、ゼロ、ナナのように、登場人物の外見的な特徴を一切排除し、読者に委ねるという手法もなかなか、思いつかないけれどそういう書き方もあるのだね、と思ったことがあった。
    他、私の好きな伊坂幸太郎、西加奈子それぞれ、ストーリー展開もすごいしキャラクター作りもすごい。
    例えば伊坂幸太郎の砂漠のように、本当に、どこにでもいるような大学生を主人公に据えて描かれている。主人公の個性はどちらかというと薄く、だけど周りにいる人はそれぞれ何かしら特徴的な個性を持っていて(それがまた面白い)、上手いなぁ、と感嘆することばかり。
    驚くような個性を持たせる必要はないのかもしれない。だけどそれって読者にしてみると「近くにいそうな人」という、現実の延長線上にいるような人を描くことになる。読者の思いとしては、現実離れした世界の話を読みたいという人もいるだろうから、好みは様々なんだろうな、と思ったりもする。

    では、個性はどこに出てくるのだろう。
    上にもちょっと書いたけど行動、心情それぞれの描写の中に、個性が滲み出てくることが多い。
    家の鍵はいつもジーンズの右ポケットに入れる、とか、ハンカチは忘れないように育ってきたとか、そういう小さなところから個性って出てくるんだよな。

    冒頭に書いた山本周五郎など、気が向いた時に青空文庫で本を読んでいるけれど、キャラ立ちについては昔も今も変わらないよなと思う。
    これからすげー勢いのパラダイムシフトが起こらない限り、きっと、ずっと変わっていかないのだろう。

  • 距離が倍になっただけの日

    距離が倍になっただけの日

    昨日に引き続き、今日もランニングできた。
    今日は3km。昨日は1.5kmだったので、単純に二倍になった。
    ペースは相変わらずゆっくりめ、キロ6分35秒で、息は乱れず。
    天気は今日も良好だけど、昨日と比べると風が少しあった。
    今日は家族で柏の葉公園へ行ったので、そこで3km走った。
    公園には家族連れがたくさんいた。走ってる人もちらほら見かけた。
    正月だからと言って家でのんびり、という人もいるだろうけど、こういう天気の良い日だからこそ外で身体を動かす、という人を多く見かけた気がする。
    多分それは思い過ごしで、自宅でお酒でも飲みながらぼんやりとテレビを観てすごす、という人のほうが本当は多いのだろう。

    なんとなく、昨日と比べると走れる距離が倍になっただけという感覚は、私の中では奇跡とは決して思えない。
    多分、走れていた頃を身体が思い出し、それに乗って走っただけな気がするから。
    まぁ、3kmくらいなら走れるよね、という感覚をシンプルに保っているだけ。

    いつかまた、10kmとか20kmを走れるようになるんだろう。
    地道に続けることが肝要という気分を大切にしていきたい。
    そして、距離は関係なく「今日も走れた」という気持ちを持ち続けていきたい。
    今日は3km。それで十分だった。

  • 昨日の自分は走っていない

    昨日の自分は走っていない

    前のブログで書いた通り、早速走ってみた。
    天気は良好。気温は多分12度くらい。無風。人通り少ない。絶好のランニング日和。
    で、意気揚々と走り始めたものの、走り始めて500mのところで息が上がる。
    まだ身体にビールが残ってるかなとか、流石に病み上がりだったかなとか、雑煮を食べすぎたかとか、すぐそうやって原因を探ろうとしてしまう。そしておそらくそれらすべてが当てはまり、ついでに言うと久しぶりに走ったから体が走れるようにできていないということが最も強く当てはまるのかなと思った。
    これ以上無理して走ってもゼーゼーしちゃって辛いだけだし、ということでペースを落とす。つっても元々6分25秒くらいのペースだったけど。めちゃくちゃ走ってた頃は5分10秒くらいで走っていて、あの頃の自分に追いつきたいという思いで、それだけがモチベーションで走っている。
    明日、もしくは明後日くらいにもう一度走りたい。今日よりは走れるかなと希望を持って考えている。今日は、途中歩いたりしたけど、トータルで1.5kmくらいは走れたと思うので、歩かずに2kmまで走れるところまで成長したい。

    過去の自分に追いつきたいというのは、正常な思いなのだろうか。普通、過去の自分を超えていけ、という思いを抱くはずだから、過去に追いつきたいと言うのはちょっと違うのだろう。だけど、自分が(自分史上一番)輝いていた(と考える)時期を目標にすることは、自然なことだ。そして今の自分と比べてみて、なにが劣っているかを冷静に判断し、その目標に向かって適切な選択肢を取り、突き進む。とても自然なことなのだろう。

    自分を軸にして、比べることは、より善く生きるためのモチベーションに繋がる。他人を軸にして考えてしまうと、育ってきた環境が違うから、その人と同じになる、というのは難しい、というか不可能だ。意味がない。だけど、いろんなものに触発されて「あの人みたいになりたい」と理想を無意識のうちに持たされることがある。気づいた時にはもう遅く、自分以外の誰かと自分を比較している自分に成り果てているのだ。
    とても残酷なように思う。そうなる原因はたくさんあって、最近だとSNSがその代表格だろう。かく言う私もインスタのリール動画をずっと見ていることがあり、その中でランニングをめちゃくちゃ走っている人とか、身体が柔らかい人とか、お腹周りに脂肪がなくてスタイルの良い人を見たりする。彼ら、彼女らに罪はない。罪、というと聞こえが悪いが、実際にそれは罪なんだと思う。他人と自分を比べ、はぁ、今の自分はなんてイケてないんだろう、とネガティブなことを考えて凹み、結局行動を起こせないまま時間が経ってしまう。
    ではどうすれば良いか。私の考えは、自分を客観視することが必要だと考える。自分の後ろに立って自分を見つめるイメージ。そして、その、理想と思う人と今の自分を比較し、どこが劣っているかを考える。その劣っている部分に対して改善の余地が大きい箇所を特定し、そこからアクションにつなげていくことが必要だ。決して、比べて凹むという負のループに陥らないように取り組むことが大切だろう。

    そうは言ってもキレイな人はキレイだし、カッコいい人はカッコいい。自分もああいう人になってみたい、と考えるのはむしろ自然なことなのだろう。そうやって向上心を掻き立て、モチベーションとなり、行動に移すというのはとても前向きなアクションで、それを地道に続けていくことが必要だ。
    昨日までの自分と比較して成長を実感し、理想と比較して自分の伸びしろを確かめ、その伸びしろを塗っていく努力をする。

    今日は1.5km。途中で歩いたし、息も上がった。
    でも、昨日の自分は走っていない。
    それだけで、今日は十分だ。

  • 億劫が君臨する朝に

    億劫が君臨する朝に

    あっという間に年が明けた。
    年末、29日から体調を崩し、熱は39度まで上がった。30日の夜あたりが一番ひどく、このままずっと高熱が続いたらどうしよう、と不安になったのを覚えている。

    けれどそれは杞憂だった。
    夜中に大量の汗をかき、寝具と身体の間の寝間着がしっとりしていることに気づいた。そこから少しずつ回復し、三日かかってようやく普段の身体に戻った。自然治癒力というのはすごい。人間の身体は、なにかおかしなものが入り込むと、ちゃんと防御反応を示すようにできているらしい。

    このブログは未来の自分に向けて書いている。
    2026年の元旦、自分はこんなことを考えていたのだな、とあとから思い出すための記録だ。今、頭にあるのは体力の低下について。ここ数年ランニングから離れ、その結果、体重が増え、体力も落ちたのではないかという感覚がある。

    ランニングを始めるための条件はすべて揃っている。
    あとは実行するだけなのに、最後の「気持ち」の部分で前に進めない。着替えるのが億劫、家のドアを開けるのが億劫。そんな些細な行動ひとつひとつが、大きな障害として立ちはだかっている。

    以前は、走ることが好きだった。
    走り抜けるときの爽快感や、走り終えたあとの達成感。気持ちの良いことに自然と目が向いていたはずだ。それが数年経ち、いつの間にか気持ちの向きが変わってしまった。ただ、それは先入観や思い込みが大半を占めている気もしている。

    新しい習慣を手に入れるとき、「気持ちを切り替える」のはあまり良くない、という考え方がある。それを信じているので、無理に自分を奮い立たせることはしないでおこうと思う。

    こうしてブログとして書いている以上、私以外の誰かが読む可能性はある。
    その分、少しだけ文章の構成を意識する必要が出てくる。それは少々面倒でもあり、同時に、将来の自分への手紙を整理する作業でもあり、文章を書く力を養う訓練でもあるのだと思う。

    今日は天気が良い。あたたかく、風もない。絶好のランニング日和だ。
    昼に少しビールを飲んでしまったので、酔いが冷めたら、街を眺めるつもりで少し走ってみようかと思っている。

    そうだ。
    ここをランニング日記にすればいいのかもしれない。誰かにシェアすることが、走るための小さな動機になる気がする。