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  • 3月29日

    雲の多い、今にも雨が降り出しそうな3月29日を迎えている。
    今日は、長男の誕生日。あの頃も桜がほぼ満開を迎えていて、退院する頃には散っているだろうなと思っていた。

    人をどう想うかは、人の勝手である。お節介と思われようが、自分の好きなように人のことを想うべきである。
    とは言いたいが、残念ながら「世間の空気」というものがあり、それに流される形で、自分の想いを、それに合わせてカスタマイズする必要が出てきたりする。

    愛情。子供への愛情。

    親としては当然の想いだと思っているが、私が考えている「子供への愛情」は私だけの価値観だから、それが世界共通とは言えない。
    私からすると、自分の子供(だけじゃなくて他人の子供も含むけど)に危害を加えるようなことは全くもって想定できない。あり得ない。だけど私の価値観にそぐわない人はいて、そんなニュースを見て、私は心を痛める。

    そして、さらに、遠くの国で起きている戦争。それからも、多くの子供たちが命を奪われている。
    奪われて、という表現。
    自分の意図しない形で、生きていることが終わってしまう。
    とても切ない。彼らの、未来に見えただろう光景が、彼らの目に映ることなく、終わってしまうなんて。
    もっと楽しいことだってあったはずだろうに。

    とても悲しい。

  • 3月28日

    久しぶりに出社した。会社のそばにある桜並木が、そりゃもう満開でとても綺麗だったよ

    咲き始めたの最近じゃなかったでしたっけ。なんかあっという間に咲いてしまった気がする。今年は桜前線の脚が早いですね。

    仕事はめちゃくちゃ忙しくて、って毎日のように言ってる気がするけど、次から次へと降ってくるこの仕事を、優先度をつけて捌いていくだけであっと言う間に1年が経ってしまう気がする。

    紅茶を淹れる時に、ティーバッグを見ながらマインドフルネスとして、お茶を淹れることだけに集中し、45秒経ったらふっとティーバッグを2,3度上げ下げするんだけど、それがめちゃくちゃスッキリする気がするんだよなぁ。なるべく続けていきたいと思います。

  • 3月27日

    キャンプで濡れたテントや寝袋、イスをベランダで干している。
    それを眺めながら日記を。

    とても心地良い。

    スギ花粉が気になるけど、きっと今吸った花粉は明日響いてくるはずだから、明日なんとかするとして、今はベランダにてマスクをせずに、外の空気を吸っている。

    昨日図書館で、エピクテトスの本を借りて、「自分の手や頭でどうにもできないものには執着しない」という言うのが頭にこびり付き、剥がれない。
    最たるものは、天気だろう。天気には43年生きていて何度裏切られたことか。裏切ると言っても、天気は私のことなんて何も気にしていないから、私が一人で騒いでいるだけだが。
    とは言え、天気のせいでイヤな思い出になったということがあっただろうか。

    しばし考える

    イヤな思い出というのはあまりなかったように思う。
    どうだって良かったのだ、天気なんて。
    急な雨が主に挙げられるが、急な雨でイヤになったことなんてあっただろうか。

    どうだって良かったのだ、天気なんて。

    最高気温がゆっくりと上昇していき、そうなることで昼と夜の寒暖差が激しくなってくると、春らしさを感じる。桜も芽吹いてきていて、街を見渡してもだんだんとピンク色が目につくようになってきた。とてもやわらかな、ピンク色。綺麗だ。

    エピクテトスの本を読んでいると、他人に振り回される自分がやたら滑稽に見えてくる。
    家族、会社の人、街ですれ違う人など。

    また、自分の寿命についても、むしろ私がこだわりすぎていたのでは、と思ったりするんだよなぁ。
    これちょっと他の人にも見てもらい意見をもらっても良いかなと思うので、noteに当初してみよう。

  • 3月26日

    amazarashiを聴きながら、ニーチェに関する本を読んでいたりすると、満たされない状態は、人間の生きる力が最高潮になっている状態なのかなと思ったりする。

    満たされないイコール、満たしたいという欲求が生まれ、それを実現するために生きるということだから。

    私は割と、今、満たされていると感じていて、だからこそあんま長生きとかしなくても良いかななんて思っちゃったりしている。

    その辺の話を家族にすると、少し寂しがられる。別に寂しがらせるために言ってる訳ではなく、私の意思を表明しただけなので、そこは納得してもらいたいところだけれど、まぁ、逆の立場で考えたら、寂しいよなぁ。奥さんは私より先に逝かないで欲しいよなぁ。

  • 3月25日

    今年3回目くらいの有休を取得した。家族でキャンプに行こうと思ってて。

    まるで遠足当日の子供のように、なんと4時に目が覚めてしまった。
    つっても原因は花粉症の鼻詰まりなんだけど。

    子供2人のご飯をどうするか考えねば。
    夜と、翌朝。
    ピザ好きの次男のために、冷凍ピザをアルミホイルで包み、それをスキレットの上に置いて温めてあげようかと思っている。
    長男は肉と米さえあれば良いので、普通に炊いたご飯をアルミホイルで包み、それを持っていけば良いかな、と。

    男3人のキャンプなので、細かいところは気にせず、
    – テントを立てる
    – 火を起こす
    – 腹一杯ご飯を食べる
    – 寒くならないように夜、翌朝を過ごす
    だけができれば十分かなと思っている。難易度低めだな。

  • 3月24日

    なんだか腰が痛い。急にどうした、と不安になる。

    腰痛は単純に運動のやりすぎとかだけではなく、ストレスからも発症すると知り、人体の神秘を大いに感じている。

    ストレスはといえば、

    やはり仕事。

    ずーっと仕掛かりの仕事があるんだけど、他の仕事が優先度高めで降ってくるので、それを対処しているうちに先延ばしになってしまっている。
    ストレスになるのは分かっているから、いっそのことそれらを全部他の人に渡してしまうとか、なんらかの方策を考えなければいけないのだけど、方策を考える時間すら作れていない状況が続く。

    それを楽しむことのできるようなマインドセットが必要なのかもしれない。

    腰が痛むような、よほど大きなストレスを抱えている状況を、楽しむことができるようなマインドセット。

    ストレスを楽しむで検索してみたら、厚切りジェイソンがアツく語っていた。

    https://www.recruit.co.jp/talks/meet_recruit/2015/12/og09-2.html

    多分ストレスって、「理想の人生」を描いていて、そのギャップがあるから発生するのだと思う。
    理想の人生。思い通りにやりきれる仕事。悩みのないプライベート。

    いや違う。ストレスのない人生は、もしかしたら波風が立たなすぎて、刺激がない!つまらない!と思うのかもしれない。と考えると、今日の腰痛も、全然進まない仕事も、波の一つなんだから、それとうまく折り合いをつけていく必要があるのだろうか。

    なんかいっつも同じことを考えているような気がするぞ私。

  • 3月23日

    3月23日

    仕事に没頭していると、日記を書く時間がないじゃないか、と思っていたのだけれど、

    今日は仕事で、「なぜなぜ分析」に取り組む時間があり、少し勉強したので、それを活かして、「自分はなぜ日記を書く時間がないのか」についてなぜなぜ分析してみたい。

    自分はなぜ、日記を書く時間がないのか

    対価を得るための仕事と、それ以外の団欒に時間を費やしているから。日記は自分にとってはその2つには当てはまらず、どちらかというと自分だけの仕事、という側面で考えているフシがある。
    そもそも日記を書きたいのだろうか。答えはイエス。自分のぼんやりとした考えを可視化することができるので、日記は大好きだ。
    次のなぜにいくのはまだ尚早な気がしている。日記として、書くことがないから。仕事をずーっと、それこそ9時から19時30分までほぼ走りっぱなしで、通り過ぎる風景を見ることもなく、没頭してきた。なので、考える時間がなく、結果、書くことがないのだ。

    自分はなぜ、日記に何も書くことがないのか

    なにも思いつかなかったから。人間は8秒に1回程度、なにか物事を考えていると聞いたことがある。つまり、私は無限のアイデアを思い浮かべているのだ。それなのになぜ、日記に書き残すこともなく、記憶の彼方へと葬り去ってしまうばかりのものと付き合っているのだろうか。
    アイデアというのは、もしかしたら私が意識しているもの以外にも、つまり無意識の段階でも浮かんでいるような気がする。それをわざわざ拾う術はないのだろうか。超能力とか、第六感とか、その類なのかもしれない。
    つまり、自分の感性を研ぎ澄ますということは、自分の感覚の視野を広げる、ないし深めると言うことなのかもしれない。そのテの勉強をしたことがないので、詳しくないのだけれど。
    そう考えると、日記に何も書くことがないのは、自分の感性が鈍いからだ。

    自分はなぜ、鈍い感性を持っているのか

    だんだん面白くなってきた。自分の感性が鈍いという点。
    誰に対して鈍いのだろう。そういう、曖昧な言い方を気にするようになってきたのは、システム品質を測るためのテストを生業としているからかもしれない。
    私は、私の理想とする感性に対して、鈍いと感じている。
    どの点において、鈍いと感じられるのか。
    それはつまり、上述した、自分の脳に浮かんでくるアイデアを拾うことができないからだ。
    なぜ拾うことができないのか。訓練が足りないのかもしれない。
    どんな訓練が必要なのだろう。そもそも、訓練とは。
    感性を鋭くするのではなく、感性自体はそのままの強度で良いから、それを拾うための訓練が必要なのだろう。
    氷を冷たいと感じる、感覚は持っているのである。
    大事なのは、その「冷たい」と感じたことを、自分がきちんと拾えることなのである。

    自分はなぜ、感性をキャッチするための訓練が足りないのか

    これは割と簡単な気がしていて、それを重要視してこなかったからだ。
    五感で得られる刺激に対して、敏感ではなかった。
    自然の成り行きに任せていた。
    なぜ任せていたのか。あまり重要だと考えてこなかったからだ。
    五感で得られる刺激を、きちんと理解する能力を持ったところで、なんの徳になるのだろうか。
    言い換えると「感受性が豊か」ということになるのだろうけど、それだからといって、何かプラスになることがあるというのだろうか。

    いや、あるのだ。

    日記を休まずに書くことができる。

    一方で、日記を書くということは、感性を磨くということにもつながる。毎日、日記として何を書こうか、と考えることは、今日なにがあったか、自分はどんな感覚をキャッチしたか、と振り返ることになるからである。

  • 3月22日

    雨から雪

    9時からのミーティングに合わせ、バタバタと8時40分くらいから起き出す。在宅勤務の恩恵を受けている。雨で外出するのも億劫だし。
    9時から19時30分までほとんど休みなくミーティング。
    ホント、よくそんなに喋ることあるよね、と感心してしまう。
    明日も、明後日も、ずーっとそんな感じ。もう何ヶ月もそんなのが続いているので、もはやミーティングのない日は退屈すぎて、何をしたら良いのか分からなくなってくる。

    ふと思い立ち、昨日からメモの切れ端みたいな投稿をするようになった。
    今まではある程度時間を使い、きちんと自分なりに投稿内容を考え、推敲し、投稿してきたのだが、Twitterをやめたことで、その切れ端のようなつぶやきを発信する場がなくなったことが大きな転換点となった。
    私のサイトがあるんだから、そこでつぶやけばいいじゃん、と。

    幸いなことに、私のサイトはほとんど人が来ないような無人島なので、気ままに投稿することができる、だけどその一方で、Evernoteにメモっていくというのだと体裁があまりにも自由すぎてしまうから、それもダメよね、ということで、結果的に私のサイトに投稿するのがちょうど良い、ということになった。

    とは言え、この投稿も然り、私は他人にこれを読んでもらうために書いていると言うことではない。むしろ、未来の自分が読むかもしれないので、そのために書いていると言った風情が一番強い。
    というのも、私は過去のほぼ日手帳を読み返すのがなかなか好きで、まるで古い写真を読み返しているような気分になるのだが、それと同じようにこの投稿も、未来の自分が読み返すことを想定して書いている。