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  • 昨日の自分は走っていない

    昨日の自分は走っていない

    前のブログで書いた通り、早速走ってみた。
    天気は良好。気温は多分12度くらい。無風。人通り少ない。絶好のランニング日和。
    で、意気揚々と走り始めたものの、走り始めて500mのところで息が上がる。
    まだ身体にビールが残ってるかなとか、流石に病み上がりだったかなとか、雑煮を食べすぎたかとか、すぐそうやって原因を探ろうとしてしまう。そしておそらくそれらすべてが当てはまり、ついでに言うと久しぶりに走ったから体が走れるようにできていないということが最も強く当てはまるのかなと思った。
    これ以上無理して走ってもゼーゼーしちゃって辛いだけだし、ということでペースを落とす。つっても元々6分25秒くらいのペースだったけど。めちゃくちゃ走ってた頃は5分10秒くらいで走っていて、あの頃の自分に追いつきたいという思いで、それだけがモチベーションで走っている。
    明日、もしくは明後日くらいにもう一度走りたい。今日よりは走れるかなと希望を持って考えている。今日は、途中歩いたりしたけど、トータルで1.5kmくらいは走れたと思うので、歩かずに2kmまで走れるところまで成長したい。

    過去の自分に追いつきたいというのは、正常な思いなのだろうか。普通、過去の自分を超えていけ、という思いを抱くはずだから、過去に追いつきたいと言うのはちょっと違うのだろう。だけど、自分が(自分史上一番)輝いていた(と考える)時期を目標にすることは、自然なことだ。そして今の自分と比べてみて、なにが劣っているかを冷静に判断し、その目標に向かって適切な選択肢を取り、突き進む。とても自然なことなのだろう。

    自分を軸にして、比べることは、より善く生きるためのモチベーションに繋がる。他人を軸にして考えてしまうと、育ってきた環境が違うから、その人と同じになる、というのは難しい、というか不可能だ。意味がない。だけど、いろんなものに触発されて「あの人みたいになりたい」と理想を無意識のうちに持たされることがある。気づいた時にはもう遅く、自分以外の誰かと自分を比較している自分に成り果てているのだ。
    とても残酷なように思う。そうなる原因はたくさんあって、最近だとSNSがその代表格だろう。かく言う私もインスタのリール動画をずっと見ていることがあり、その中でランニングをめちゃくちゃ走っている人とか、身体が柔らかい人とか、お腹周りに脂肪がなくてスタイルの良い人を見たりする。彼ら、彼女らに罪はない。罪、というと聞こえが悪いが、実際にそれは罪なんだと思う。他人と自分を比べ、はぁ、今の自分はなんてイケてないんだろう、とネガティブなことを考えて凹み、結局行動を起こせないまま時間が経ってしまう。
    ではどうすれば良いか。私の考えは、自分を客観視することが必要だと考える。自分の後ろに立って自分を見つめるイメージ。そして、その、理想と思う人と今の自分を比較し、どこが劣っているかを考える。その劣っている部分に対して改善の余地が大きい箇所を特定し、そこからアクションにつなげていくことが必要だ。決して、比べて凹むという負のループに陥らないように取り組むことが大切だろう。

    そうは言ってもキレイな人はキレイだし、カッコいい人はカッコいい。自分もああいう人になってみたい、と考えるのはむしろ自然なことなのだろう。そうやって向上心を掻き立て、モチベーションとなり、行動に移すというのはとても前向きなアクションで、それを地道に続けていくことが必要だ。
    昨日までの自分と比較して成長を実感し、理想と比較して自分の伸びしろを確かめ、その伸びしろを塗っていく努力をする。

    今日は1.5km。途中で歩いたし、息も上がった。
    でも、昨日の自分は走っていない。
    それだけで、今日は十分だ。

  • 億劫が君臨する朝に

    億劫が君臨する朝に

    あっという間に年が明けた。
    年末、29日から体調を崩し、熱は39度まで上がった。30日の夜あたりが一番ひどく、このままずっと高熱が続いたらどうしよう、と不安になったのを覚えている。

    けれどそれは杞憂だった。
    夜中に大量の汗をかき、寝具と身体の間の寝間着がしっとりしていることに気づいた。そこから少しずつ回復し、三日かかってようやく普段の身体に戻った。自然治癒力というのはすごい。人間の身体は、なにかおかしなものが入り込むと、ちゃんと防御反応を示すようにできているらしい。

    このブログは未来の自分に向けて書いている。
    2026年の元旦、自分はこんなことを考えていたのだな、とあとから思い出すための記録だ。今、頭にあるのは体力の低下について。ここ数年ランニングから離れ、その結果、体重が増え、体力も落ちたのではないかという感覚がある。

    ランニングを始めるための条件はすべて揃っている。
    あとは実行するだけなのに、最後の「気持ち」の部分で前に進めない。着替えるのが億劫、家のドアを開けるのが億劫。そんな些細な行動ひとつひとつが、大きな障害として立ちはだかっている。

    以前は、走ることが好きだった。
    走り抜けるときの爽快感や、走り終えたあとの達成感。気持ちの良いことに自然と目が向いていたはずだ。それが数年経ち、いつの間にか気持ちの向きが変わってしまった。ただ、それは先入観や思い込みが大半を占めている気もしている。

    新しい習慣を手に入れるとき、「気持ちを切り替える」のはあまり良くない、という考え方がある。それを信じているので、無理に自分を奮い立たせることはしないでおこうと思う。

    こうしてブログとして書いている以上、私以外の誰かが読む可能性はある。
    その分、少しだけ文章の構成を意識する必要が出てくる。それは少々面倒でもあり、同時に、将来の自分への手紙を整理する作業でもあり、文章を書く力を養う訓練でもあるのだと思う。

    今日は天気が良い。あたたかく、風もない。絶好のランニング日和だ。
    昼に少しビールを飲んでしまったので、酔いが冷めたら、街を眺めるつもりで少し走ってみようかと思っている。

    そうだ。
    ここをランニング日記にすればいいのかもしれない。誰かにシェアすることが、走るための小さな動機になる気がする。

  • 目の前にある日々の生活に、足をきちんとつけて生活しよう

    目の前にある日々の生活に、足をきちんとつけて生活しよう

    今日はニーチェの言葉から。
    昨日ブログに更新した、マルクス・アウレリウスより若干わかりやすいです。時代が近いからかもしれませんが。
    私はKindleのPrime readingやUnlimitedでニーチェについて描かれた本を読む程度の知識しかないので、彼のことを深くまでは存じ上げないのですが、割と私たちの生活に密着したことを書いてくれるよな、と思っています。
    今回取り上げた言葉も、まさに私たちの「生活」をどう捉え、暮らしていくべきかを表してくれていて、その通りだよなぁ、実際はそんなふうにはいかないけどさ、みたいなことを考えたりしています。

    生活を重んじる
    わたしたちは、慣れきっている事柄、つまり衣食住に関してあまりにおろそかにしがちだ。ひどい場合には、生きるために食っているとか、情欲ゆえに子供を産むなどと考えたり言ったりする人もいるくらいだ。そういう人たちは、ふだんの生活の大部分は堕落であり、何か別の高尚なことが他にあるかのように言う。
    しかしわたしたちは、人生の土台をしっかりと支えている衣食住という生活にもっと真摯な眼差しを向けるべきだ。もっと考え、もっと反省し、改良を重ね、知性と芸術的感性を生活の基本に差し向けようではないか。衣食住こそがわたしたちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。
    「漂白者とその影」より

    歳をとると1年経つのがあっという間に感じる、というのを45歳になった今、まさに実感していて、それってもしかしておろそかにしちゃってるからかな、と思いました。

    もっと人生を味わって生きるべきだ

    おそらくニーチェが言いたいのは、日々、感じていることをもっとちゃんと味わって生きろよ、ということなんだと思います。
    自分の意思で動かせる物事に対しておざなりに決断するのではなく、選択肢をちゃんと吟味して、決断したあとは初心を忘れることなく前を向いてきちんと過ごしていこう、自分の意思で動かせない物事については、現実をありのまま受け止め、それでも生きていくという姿勢を忘れないようにしよう、みたいな?考えすぎですかね。決して考えすぎではないように思いますが。
    実際、どうなんでしょう。
    上述の通り、一年があっという間だわ!1月だって今日でもう終わり?!まだ正月休みな気分だったわ!みたいな感性で生きていて、ほんと、日記がなければ、例えば1月14日に私がどこでなにをして、なにを食べたかみたいなのは、完全に忘れてしまっています。なにかをしながらご飯を食べると、ご飯の味って分からないんですよね。テレビやスマホを見ながらご飯を食べるというのは、食事に対して失礼だよな。
    ニーチェが言うように。

    衣食住こそが私たちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。

    ほんとそうなんですよね。なにか特別なことをした時にだけ自分の感性を込めるのではなく、日々の衣食住、そこに目を向けて、足るを知るとちょっと感性が似てるようにも感じますが、日々、もっと味わって生きていきたいと思います。

  • コントロールできるのは現在だけ

    コントロールできるのは現在だけ

    今日はマルクス・アウレリウスの自省録から、ブログのネタになるようなものを探してみます。
    Wikipedia調べですが、彼はローマ皇帝だったんですね。第16代のローマ皇帝だとか。Wikipediaはそれだけで一つの本になるくらい大量に、マルクス・アウレリウスについて述べられています。書いた人すごい。
    彼は多くの戦いを指揮したんですが、彼の内面での振り返り、今で言う自省というものがその言葉そのまま、本になって、数千年経ったあとまで受け継がれているってのはなかなかすごいことです。
    そういう、根本みたいなものは数千年経とうが、変わりはないということでしょうか。
    平たく言うと「生き方」に関する本は千差万別、今の時代にも「自己啓発」というジャンルで多くの本が出版されているものの、上述の通り根本となっているものは何も変わらないのかもしれません。

    コントロールできるのは現在だけだ
    私は、小さな肉体と魂で成り立っている。この小さな肉体にとっては、あらゆることは無意味だ。というのは、肉体そのものは違いを認識できないからだ。
    だが、精神にとっては、精神にかかわる活動だけが意味をもつ。それが精神にかかわる活動であるかぎり、どんなことがあっても精神にコントロールされている。
    そして、現在にかんすることだけが大事なのだ。というのは、未来や過去の活動は、精神でコントロールできないので、現在の精神活動にとって無意味だからだ。
    マルクス・アウレリウス 自省録 6-32より

    ぱっと見、よく分からない感じで書いてあります。私にこれを解読できるのでしょうか。難しい。

    小さな肉体と魂で成り立っている。

    これは分かりますね。いわゆる、フィジカルとメンタルってやつでしょうか。その、フィジカルの方については、違いを認識できないから、あらゆることが無意味だと?「違い」というのは、いったい何を指しているのでしょうか。ここまで読んでも、ちょっと意味がわかりません。

    精神にかかわる活動だけが意味を持つ。

    次の行を読んでみて、うーん、と唸る自分がいます。精神にかかわる活動、というのは例えば、考えること、とか?「精神にかかわる活動」とは、考えるとか、思うとか、そういう意識的な一面だけではなく、無意識なものも含むんでしょうかね。

    それが精神にかかわる活動であるかぎり、どんなことがあっても精神にコントロールされている。

    精神にかかわる活動とはいったい、どんなことを指しているのかをはっきりさせないと、先に進めない気がします。私が決めちゃっても良いんだろうか。いいんだと思う。ので、ここでは、精神にかかわる活動=考えること、としたいと思います。精神にコントロールされている、それがどんな時も。私が今、このブログを上梓しようとしているために、文章を考えていること。それは、精神にコントロールされているのだと。当然のことのように思います。精神にコントロールされていない行動ってあるんでしょうか。「自分の体が言う事を効かない!」なんて、まるで映画のワンシーンのようですが、例えば大量にお酒を飲んで酩酊状態になった時、まっすぐ歩くことができなかったりします。あれは精神で、言い換えると、例えば気合いでまっすぐ歩こう!と思ったとしても、決してまっすぐ歩くことができません。多分それは、人間がまっすぐ歩くために使う神経を、お酒によって上手に使えなくなってしまっているんでしょう。酩酊状態の時に、物事を考えようとしても、考えが散ってしまって全くうまく考えることができません。
    うーん、こんなことを言いたかったんだろうかマルクス・アウレリウスは。なんか違う気がしますね。私は脱線してしまっているのではないかと思えてきます。

    ちょっと先に進めてみます。わからないので。

    そして、現在に関することだけが大事なのだ。というのは、未来や過去の活動は、精神でコントロールできないので、現在の精神活動にとって無意味だからだ。

    これまたどこかで読んだことのあるような文章ですが。多くの自己啓発系の本で「今に集中しよう」みたいな謳い文句を見ますね。
    精神でコントロールできるのは今だけ。確かにその通りです。過去や未来を精神でコントロールすることができないですからね。
    例えば「あの日、あんなこと言うんじゃなかったー!」と後悔することがありますが、過去の、その時に、精神をコントロールして言動を訂正することなんていうのはできないから、過去を悔やみ、後悔するくらいなら今に集中しよう、ということでしょうか。
    今、私が、後悔したとします。
    後悔、ということを考えている、と。
    後悔はいったい、何のためにしているのでしょうか。
    健全な生き方をしている人間であれば、「もう2度と同じ後悔をしないようにするために、同じような状況になった時、自分はどう精神をコントロールすれば良いのか」と考えるはずです。
    それが、今、このタイミングに集中して、より善く生きるために精神をコントロールしよう、ということなのかなぁ。

    わかったような、わかってないような

    いや、こんな結論になるとは、この章を選んだ時点でわかっていました。以前、同じような題材を自省録から引用して、ブログにしたことがありますが、その時もやはり、同じようなことを考えたことを覚えています。大切なことなんだよなぁ、今を生きるという考え方。

  • SRV250ルネッサ 復活に向けての進捗

    SRV250ルネッサ 復活に向けての進捗

    前回までの記事はこちらです。

    そういえば前回の週末のことを書いてなかったなと思い、備忘録的な部分も含め書いてみようと思います。

    バイクの現状

    • バッテリーはヘタり気味、3000円くらいでバッテリーの充電器を買ったので、適宜充電しています。
    • ガソリンコックのところ?がおかしい気がしています。コックONのままエンジンを始動させると、一発で始動するんですが、そのままの調子で800mとか1kmくらい走ったところでエンストしてしまいます。
    • ↑これ、ONのままで走るとそうなる?から、試しにPRIのままでやってみたんですが、それでも同様に1km足らずでエンスト。

    次のプラン

    前回までのブログででも書いたんですが、1月最初の週末にヤフオクで出品してた人のところから自走で帰ってこれた(40km)のを考えると、キャブレター周りがおかしいとか、そういうことではないような気がしていて。インテークマニホールド(インシュレーター)に多数の亀裂が入っているけどこれはヤマハのバイクでは典型的な症状とのことで(どこかのブログで読みました)、それが、ここ2週間とかで急激におかしくなるとは思えず。
    で、これまたどこかのホームページで拝見したのですが、PRIのままにしてガソリンをダダ漏れさせてしまった場合、エンジンオイルを交換する必要がある、とのこと。
    ので、エンジンオイルを今度の週末までに届くように通販で買いました。自分でやるようの、廃油捨ても同時に購入して。
    また、せっかくなのでプラグも交換してみようと思い、それも買ってみました。
    ので、次の週末にはオイル交換と、プラグ交換にトライしてみたいと思います。
    私はマンション暮らしで、そういうことやるガレージがないため、近くの洗車場にバイクとオイル、その他を持ってってみようと思います。そこまで押してくのが辛いですが。。2kmくらいあるかなぁ。天気が良くなることを願います。

    バイクを手に入れたこと自体について考えてみる

    40過ぎの、子供が2人いるような世帯で、バイクを買うのって結構おおごとなイベントです。私は幸いなことに、家族からの同意が得られたので、その点ではハードルではなかったのですが、マンションのバイク駐輪場に停めるための月額料とか、ガソリンとかエンジンオイルの消耗品コストとか、いわゆるランニングコストは最低限なもので暮らしていかないといけないよなと思っています。
    その点、ヤフオクはバイクの車体自体が安いことが多く、同じものをいわゆるバイク屋さんで購入すると、ヘタすると2倍近くすることがあります。ただしその分、安心を購入するという点が大きく、ヤフオクの場合はノークレームノーリターン、ノーアフターみたいな、「買ったあとは買った人がどうにかしてくださいね」というのが常識的にまかり通っていて、それがヤフオクの性質であり、つまり買った人がバイクを多少いじれるような人じゃないといけないのかな、と思います。
    ヤフオクで、動画を載せてます!みたいな出品も多く、その時点ではちゃんと動いてるのが分かるんですよね。だけどそれを過信してしまっては、今回の私のように足元を掬われる結果につながるんだろうなと思います。それでも私は幸いなことに、自走引き取りで40kmを走り切ることができ、無事に家まで帰ってこれたから、それだけでも良かったのかもしれません。よく、ヤフオクで、「自走引き取りはおすすめしません。必ず軽トラック等で配送手配をしてください」と出品コメントに書いてあり、落札側とすると、例えば隣県とかであれば、ツーリングがてら乗って帰って来たいよな、だってエンジンとかちゃんと動いてるんでしょ?みたいな思考に至るのは真っ当で、バイクに乗りたい人にとってみたら片道100kmくらいまでであれば気軽に、乗って帰りたくなりますよね。2時間程度のツーリングなんて最高じゃないですか。だけどそれは「落札した状態のバイクが、2時間のツーリングに耐えられることを信じる」ワケで、それって軽く考えてはいけないよなと思います。私はそれを信じて、たまたま事故などのトラブルに遭わなかったから良かったですが、ヘタすりゃ死にます。そこをきちんと考えて、特に家族がいる人なんかは、自分がいなくなることで被るリスクをきちんと考え、バイクを落札すべきと思います。

  • 漁港の肉子ちゃん 西加奈子 ★★★★☆

    漁港の肉子ちゃん 西加奈子 ★★★★☆

    昨年の秋くらいから、まるで取り憑かれるように西加奈子さんを読んでいます。最初に読んだのはサラバ!で、今風の言葉、適切な言葉をあまり深く考えずに言うと「エモい」作品だな、というのが率直な印象だったのですが、そのエモさが私にとって妙にぴったりで、もっと読みたい!と思ったのを、数ヶ月経った今でも心に残っています。彼女の描くエモさには、何が含まれているのでしょうか。私は、彼女が持つ筆記具を握る指が、爪がめり込んで血が滲んでいるように思えるのです。彼女の全身全霊を賭して、文章を書いているような気がします。
    一時、「作家は自分の経験をもとに作品を作り上げるのだろうか」と疑問を持つことがありました。だけどその疑問はすぐにNo、という結論で払拭されました。もしそうだとしたら、殺人事件を描くミステリー作家は、何人もの人を殺しているはずで、そんなことは常識的に考えてありえないと思ったからです。
    だけど、西加奈子さんは、登場人物になりきって、「登場人物がこの状況に置かれたら、きっとこういう思いを抱くはずだ、そしてこういう行動を取るはずだ」というのが理にかなっていて、それがとても自然なように感じるのです。これとはまた違う作品ですが「夜が明ける」という作品では、(ネタバレになるので多くは語りませんが)登場人物が貧乏生活を送るシーンがあるのですが、その真実味が、ホントに貧乏生活を経験しなければ描けないであろう描写、熱量で描かれていて、私はこの人の才能に嫉妬しました。私はたまに小説を書くことがあり、どうやったら面白い、エモい小説を書けるのだろうと日々考えている中で、西加奈子さんの描く文章を読むと、絶対に勝つことができない、と考えるようになりました。
    小説なんてものは作者の個性を十二分に発揮できるもので、その個性で勝負すべきであり、比べるものではないと思います。伊坂幸太郎さんと東野圭吾さん、どっちが面白いかなんて考えるべきではないし、「面白さ」の観点なんていくつも考慮すべきポイントがあり、そういう意味で公平に比べることができないからです。伊坂幸太郎さんにはキャラクターの愛嬌があり、会話のウィットさがあり、時折洒落た知識展開があり、一方東野圭吾さんには伏線の奥深さがあり、ストーリーの美しさがあったりと、ちょっと考えただけでも比べるなんて到底できないと思うのです。

    西加奈子さんの好きなところ

    これは伊坂幸太郎さんにも近しいところがあるのですが、登場人物を丁寧に、愛情を込めて描くところが好きです。良い点だけではなく、性格や生き方が抜けているところ、常識的な人間をベースとして考えた時に、欠けているところも余すところなく描き、それがまたキャラクターの愛嬌につながっているんだよな、と読んでて感じます。
    あと、冒頭にも述べたのですが、情熱的に文章を描くところが好きです。これまた良いところだけじゃなくてエグいところ(適切な言葉が思いつかない)、沈むところもとことん沈ませるところとか。登場人物のことを書いていて、軽いストーリー展開をつけたら、それだけでひとつの作品になるんだろうな、なんて思います。
    だけど、それを、決して軽々と描くのではなく、西加奈子さん自身が幾多の葛藤を経て、作品を上梓まで作り上げているんだろうなと感じるところが、また好きです。一生懸命に作り上げています、という雰囲気があるというか。

    漁港の肉子ちゃんの感想(ここからネタバレを含みます)

    だいぶ前置きが長くなりましたが、漁港の肉子ちゃんは、ストーリーに大きな魅力があるとは思えませんでした。よくある話、とまではいかないのですが、ストーリー展開が良かった!とは思いませんでした。キクりんの出生が最初の頃ぼやけて描かれているから後半で暴かれるんだろうな、とか、出生に関するエピソードが始まったあたりでピンと来たし、伏線を張るには軽いなとか、そんな風に感じました。だからストーリーに関しては分かりやすく、叙述的な描き方をされているなと思いました。
    私が★4つをつけたのは、キャラクターの描写、外見や心理の描写が緻密で、読者の知りたい!欲をちょうど満たしてくれる程度のボリュームで、そしてなによりみんな幸せそうに暮らしていて、そこがとてもあたたかくて良かったです。小説はこうでなくちゃな、読み終わった時にどんよりした気分だと読んだ!良かった!と思わなくなってしまうし、この作家さん、次はないな(私は読むことがおそらくない)、と思ってしまうと作家さんとしても売れなくなってしまうから、こういう終わり方で、正解なんだろうなと思います。読んだあとに心があったかくなるのって大切だよな。

  • 過去と他人は変えられない、けどついクヨクヨしてしまう

    過去と他人は変えられない、けどついクヨクヨしてしまう

    過ぎてしまったことをいつまでもクヨクヨするのって思考プロセスのバグなんですかね。
    「過去と他人は変えられないんだよ、だから自分の中で変えられる未来にだけフォーカスしよう」という言葉と出会ってからは、過去、やってしまった過ちをいつまでも掘り起こしてウダウダしそうになったら、そこで思考をストップして、違うことを考えるようになりました。

    性格というか自分の考え方のクセってなかなか変わらない

    性格ってなかなか変わらないよな、と思う一方、こういう思考プロセスってクセみたいなものなので、訓練でどうにでもなるんですね。そういうのに気づくまでに、数十年もかかってしまいました。つい、最近気づいたと言っても過言ではないような。反応しない練習とか、禅的思考みたいなものを読んでいるうちに気づいたというか。思考なんてものはほとんど無意識の段階で動かしているものだから、「自分がそう思い込んでいること」に対して気付けないのが普通なのかなと思います。普通なんだけど、例えば、自分がクヨクヨしてしまいがちな性格の人は、他人から言われたことに対して「それを真正面から受け止め」、「適正な受け取り方を超えて過剰に反応して」しまい、そしてクヨクヨしてしまう。真正面から受け止めるところを、少し斜に構えた状態で受け止めるとか、そういう考え方を変えてみるってのが重要なんだよな、と思いました。

    最近あったこと

    最近、私の心を揺さぶるような事件(と書いてしまうと大袈裟で、そこまでデカい話ではない)が起き、それは私の仕事上起こった失敗のようなものなんですが、自分でなんとかできたかもしれないけれど、結果的に失敗してしまった、と。それが起こった時から、引きずっています。最近、仕事で失敗ってしなかったから、久しぶりの状況に動揺している感じで。大切なのってその後のリカバリーだから、早いとこ忘れて(根っこだけは覚えておく感覚)、次に向けて頑張ろう!と自分に気合いを入れるべきなんでしょうけど。まだもうちょっとクヨクヨしたい感じで、それがなぜかは分からず、そんなのに引きずってもなんの意味もなく、気持ちを切り替えて前に進めていくべきなのにな、という状態で。浸りたい、と言うのは果たしてなんの目的があって、そうしたいと思っているのか。誰がどう考えても、切り替えて前に進むべき、それは間違いのないことなんだと思います。
    そうだよな。書きながら、考えを変えました。つまらぬものにクヨクヨしていてもしょうがないだろ、と。

  • ランニング 5km走れました

    ランニング 5km走れました

    昨日あれだけ自分の中で思考を昇華させて、あとはもう走るだけというマインドセットになった状態で、いつもより遅い23時過ぎに就寝し、無事に7時に起床することができました。ポイントは気持ちの持ちようなのかなと思いました。走る距離は10kmを予定していたんですが、走っている途中でちょっと無理だな、と感じ、予定を変更して5km、走り切ることができました。

    気持ちの持ちようだけじゃダメらしい

    どこかのブログか何かで見たことがあり(たぶんTumblrで回ってきたんだと思う)、心の中に残っているのですが、例えば新しい年を迎え、心を新たに心機一転、これから毎日走ろう!みたいな目標設定が一番良くないそうです。理由は、続かないから。稀に、そういう形で継続できている人もおそらくいるのでしょうけど、そういう新しい物事を始める時はまず、環境を変えることが必要なのだと。その点、私のこの、ランニングを始めるのは合致していません。環境は何も変えていないので。あ、強いて言えば、目覚まし時計を枕元に置いたくらいでしょうか。それによって、7時にきちんと起きることができたという点は、この理論に合致しているかもしれません。ただ、まぁ、ランニングが習慣化するために必要な環境はすでに揃っていたと考えることもできます。7時からおおよそ9時まで、ランニングに集中する時間を持っても他の仕事や生活に影響はないという点で、実はランニング向きの生活だったと言えるのかなと思います。

    5kmしか走れなかったことについて

    理由は様々です。体力がそもそも足りてなかったとか。体重が増えてしまっていたとか。私が今日10kmを目標にして走り出し、3kmくらいを走り終えた時点で、10kmは続かないから5kmで終わりにしようと目標を変更した時、ペースはかつて走っていた頃よりキロ1分程度遅いものでした(6分30秒くらい)。私はそれに幻滅してしまって、だけどこれが今の自分のできる限りのペースなんだと思い、5kmに変更しました。正直、悔しかったです。10km、あの頃は軽々と走れていたのに、とか思いましたが、その頃から10kg程度体重が重たくなったし、走るための身体になってなかったんだな、と思います。まだ、今日は1日目だから、いきなり10km走れた、というよりかは伸びしろがあるという点で、良いのかなと思うようにします。

    何か大きな目標を持ちたい

    当面、私の場合はランニングと食生活で、体重を10kg落とすということを目指したいと思っています。だけどそれだと10kg落ちた時に、目標を見失ってしまうかもしれません。その場合は、何かランニングの大会に出ることを目標にしても良いのかなと思います。かつて私は、フルマラソンにも何度か参加したことがあって、あの辛く苦しい時間を経てゴールした時に得た大きな喜びは、何にも変え難いものでした。楽しかったと辛かったが半々くらいの思い出ですが、私の人生においてはだいぶ刺激的なイベントでした。また出たいな〜、と思いつつ、まずは目の前にある「痩せる」と「距離を伸ばす」という壁を、ゆっくりと崩していきたいと思います。

  • 朝を味方につけたい

    朝を味方につけたい

    朝が弱いです。とてつもなく弱いです。布団から出るのが辛くて。在宅勤務の日は、始業時間ギリギリまで布団の中で寝ています。良くないですよね。起きてすぐ仕事なんてできないし。普通に考えたら最低でも1時間くらい前には起きておいて、朝食を摂ったりして、始業に合わせて気持ちを作っていく必要があるのではないかな、なんて思うんです。

    睡眠時間が短い?

    そんなことはなくて、ほぼ毎日、22時には布団に入ってるんです。つまり、22時から翌朝9時まで、10時間くらいは寝ている計算になります。それって45歳男性的には、だいぶ寝過ぎなのではないかと思ったり。だけど私は心療内科で睡眠薬をもらって飲んでいるので、それのせいもあったりするんだろうなと思います。理想的な睡眠時間ってどうなんでしょうね。出社してた頃はだいたい7時間くらいで日々、暮らしていました。それくらいで十分だったような気がします。つまり今は4時間くらい多く寝ているということに。そんなに寝てどうするんでしょうね?どうせその4時間、浅い眠りなはずなんだから、寝なくても良いような気がします。

    疲れが取れていないのか

    私はIT業界で生きる人間ですので、身体的に疲れるということはほぼなく、あるとしたらたくさん頭を使った日に感じる、頭の糖分不足くらいです。ので、少しでも多く寝て疲れを取りたいぜ、ということは考えていないはずです。疲れが取れていないということはなく、

    私の、朝の理想

    理想は7時に起き、次男が学校に出るのと一緒に家を出て(7時40分くらい)、自宅周辺を10kmランニングする、というものです。この時期(1月)はとても寒いので、家を出るのが億劫になりますが、ランナーにとっては今の季節が一番良いことは、私も過去の経験から理解しているつもりです。また、私には「痩せる」という大きな目標があり、それがモチベーションになって、早起きからのランニングというのを今すぐにでも始められるんだよなぁ。

    朝を味方につけるためのステップ

    まず一度、頑張って7時に起きて、走ってみる。目覚まし時計を使う。二度寝しないように気をつける(これが一番難しそう)。走る距離は5kmとかでも良いんだけどこれは自分の感覚で、たぶん大丈夫。朝7時に起きるのが難しいなら8時に起きて、そこから走るでも良いですが、一般的に、7時起きって早起きの部類には入らないですよね、だからいったん7時で。

    もしかしたら目的を見失っているから?

    ちょっと難しい話になるんですが、私が長く寝てしまうのは私の欲望を満たしているからで、別に、私の身体をいじめているワケではないんですよね。私の欲望を満たすために長く寝ているだけで、それは果たして悪いことなのでしょうか。私の目的の設定次第なんですかね。善く生きる、自分が気持ち良いと感じるように生きる、なのであれば、10時間というロングスリープは決して悪いことではないはず。だけど私の中で、それは正しいことだと思っていなくて。だって10時間も寝ちゃったら、残りの14時間でやりたいことをやり切る必要があるから。14時間のうち、8時間は仕事で使っていると、残り6時間でやり切る必要がある、と。これにランニング(+シャワー)で2時間使うと、残り4時間。これでは足りないですね。ゲームしたいし、小説を書きたいし、本を読みたいので。いや、けど、ここで気持ちを切り替えてみよう。10時間を7時間まで減らしたら、24-7=17時間、ここから仕事の8時間を差し引くと残り9時間も残ることができます。これはデカい。

    そもそも睡眠薬を処方されている身体をなんとかすべきでは?

    睡眠薬を飲んでいても、出社して仕事してた頃は7時間睡眠でなんとかなってたんですよね。私の睡眠薬は、長く寝るためではなく、寝つきを良くし、睡眠の質を上げるために使っているから、睡眠時間を減らすことに対しては目的と逆行している、とは言えないです。

    考えがまとまってきた

    考えるより行動を早くしよう、という気持ちが芽生えているので、明日から早速やってみようかな、と思います。二度寝厳禁。そこだけ注意だなー。ここまで考え抜いて、で結局寝ちゃいました、ってことも十分にあり得るからなぁ。今まで何百日も同じようなことを考えてきて、あとはもう行動に移すだけ、まで来たところで足踏みってなってるのが多かったから、今度こそは。ここに書いているという「有言実行性」も私に良い効果をもたらすということを信じて。

  • 計画は一度立てたら終わりじゃないんだよね

    計画は一度立てたら終わりじゃないんだよね

    今日はニーチェの言葉から。

    計画を立てるのはとても楽しく、快感を伴う。長期の旅行の計画を立てたり、自分の気に入るような家を想像したり、成功する仕事の計画を綿密に立てたり、人生の計画を立てたり、どれもこれもワクワクするし、夢いや希望に満ちた作業だ。
    しかし、楽しい計画作りだけで人生は終始するわけではない。生きていく以上は、その計画を実行しなければならないのだ。そうでなければ、誰かの計画を実行するための手伝いをさせられることになる。
    そして、計画が実行される段になると、さまざまな障碍、つまづき、忿懣、幻滅などが現れてくる。それらを一つずつ克服していくが、途中で諦めるしかない。
    では、どうすればいいのか。実行しながら、計画を練り直していけばいいのだ。こうすれば、楽しみながら計画を実現していける。

    「さまざまな意見と箴言」より

    わかるわー、って感じです。
    計画を立てるときは、気楽だから楽しいのか。
    私は仕事柄、テストの計画を立てることがあって、それは大体開発プロジェクトが始まって間もない頃なのですが、どんなテストが、どんなタイミングで必要なのか。そんなことを半ば妄想を踏まえながら、作っていく作業。ニーチェの言う通り、確かに楽しいんですよね。
    希望に満ちているから楽しいのでしょうか。
    気持ちが明るく、前向きになれるから楽しいのかもしれません。
    仕事だけではないですね。例えば家族でどこか旅行しよう、と計画する時も、泊まる場所や食べるものはどうしようか、と家族みんなで考えたりしますが、確かに楽しいです。

    一方、実行する時になると、計画したことを忘れてしまうことがあります。計画時には思いもよらなかったことが出現し、それに対処しているうちに、計画したレールから大幅に逸脱してしまうことも少なくありません。
    計画時には気づかなかったのだから、しょうがないことなんですが、それでもその「気づかなかったこと」を気づかなかったという事実が、計画したことから目を背けたくなるような気持ちになります。
    私の場合、恥ずかしい、という気持ちが先に立ってきます。
    そんなことすら思いつかなかったのか、という恥ずかしさです。
    計画したことを全て投げ出し、目の前に迫り来る壁を越えようと必死になってしまい、それ以外のことは何にも思いつかなくなります。
    近いところにある壁は割とよく見えるのですが、そんな、目の前の壁ばかり見ていると、大きく道を逸れてしまっていることに気づきません。
    そして終盤になり、道を逸れてしまっていることに気づき、慌てて計画を見返した時にはすでに万事窮す。
    私は、何が悪かったのでしょうか。

    確かに、ニーチェのいうように、計画したことから逸脱しないよう定期的に見返すようにする必要があるのだろうと思います。
    そうすれば、近くの壁だけでなく、遠くにある、ラスボスみたいな、とてつもなく大きな壁のことを忘れることのないような戦い方ができるのでしょう。
    言葉で綴るのは簡単ですが、それでもやはり、前述のように計画から目を背けたくなってしまうんだよなぁ。
    少しずつ、計画に寄り添うように生きていきたいです。