8月2日 向かい風に向かって走るためには

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バイクで向かい風はキツい

今日は日曜日でお休み。7時くらいに起床。今日も暑い。
今日はロードバイク。40km行こうかと考えていたんだけど、AIに相談したらやめとけ、30kmにしとけって啓示が降りたので、その案に従って30kmロードバイク。
我孫子の曙橋ってところまでのライド。昨夜、手賀沼での花火大会があったからそのゴミとか落ちてんのかなぁーバイクで踏んだらやだなぁと思いながら向かったけれど、ゴミ的なものはほぼ落ちてなかった。すごいね、この数時間で掃除した人がいるってことだね。もしくは手賀沼まで来てた観客たちの「着いた時より綺麗に」っていうマインド、モラルの賜物か。掃除の人にしても、観客たちにしても、どっちにしても翌朝、花火終了から12時間以内の空間でキレイにしてるってこと、ほんと誇っても良いと思う。

さて、目的の曙橋まで、行きはほぼ向かい風だった。踏んでも踏んでも進まない。人生って向かい風が吹いている時って大体辛いよな、みたいなことを考えながら走った。これはロードバイクだけじゃなくて、ランニングする時も同じように考えてたよなぁ。人はなぜ、向かい風なのに進もうとするんだろうか。風が止むのを待って、そこから走り始めたら良いのに。
向かい風だとしても、前に進む理由があるんなら、進むしかないよな。風が止むをの待ってなんかいられないことの方が往々にしてある。自分の信じた道が、たとえ向かい風がバンバン吹いていたとしても、それに向かって進むしかないよな。

逆に、帰りは追い風だった。そしてそこでも私は考えた。追い風の時って、割と無意識に風を感じていて、「今の私、追い風が吹いてる!」とは、人生の中でも感じることはないように思う。
私みたいな、どっちかというと慎重な人間は、追い風が吹いてる!と感じた時、それはむしろ悪いことが起きる前触れだったりするから、より一層気を引き締めて暮らしていこう、と改めて考えたりする。いわゆる、足元を掬われるってやつ。ほんとそういう時に滑りやすいよね、人生って。

30kmを終えて帰宅。尻付近と、尿道付近に痛み。痛いと言ってもどっちも、ヤバいやつではなく、ロードバイクあるあるなやつ。走りながらも痛みを感じていたけれど、そういう時って上半身が前に倒れていて、腕というかハンドル付近に重心が寄っているような気がした。頑張って上半身を起こして走ったら、なんとなく痛くなくなったような気がする。ロードバイク買って7年とか経つけれど、初めて知った事実なんではないだろうか笑

宗教ってどうやってできたのだろう

私は一切,哲学とか宗教学を学ぶ機会がなかった。大学は理工学部だし,単科大学だったということもあり,基礎教育としてその辺りを教育できる人を囲っておく予算はなかったのかもしれない。あったとしても、当時の自分は哲学とか宗教にはなんの興味もなかったから、きっと取ってなかっただろうな。

今日、ぼんやり,ロードバイクに乗りながら宗教の成り立ちを考えていた。
所詮素人の思いつきだから,事実とは大きく異なるとは思う。興味があったら調べる。

さて,どうやってできたのか。私の意見はこちら。

人が増えてくるにつれ,多様な考えが生まれるようになった。
人々は苦しみ,一時の快楽に溺れ,やがて死んでいくという人生。多くの人はそうだった。そのことに疑いを持たず、人生ってそういうものだから、と先人たちに言われて年をとってきた。
さて、そんな中で人間は、死んだ魂はどこにいくのだろう、と考えるようになった。
物理的には、死んだら魂なんてものはどこにも行かず、血液が脳に流れなくなった時点で終わり。いわば宗教的な、輪廻転生とか、そういうものは一切あり得ない。私もそう思っている。
脱線した。多くの人は、死んだ魂はどうなってしまうのか。とても気になった。

そして、「天国」が生まれた。皆が、自分の理想とする世界が天国。自分の理想って様々。多分私のと、このブログを読んでくださっているあなたの描く天国は違う。

そこで、人は考えた。共通の天国を作れば、分かりやすく、多くの人にその天国というものの大切さを伝えることができるのではないだろうか、と。
今、苦しんでいる人は、死の淵を彷徨っていて怖がっている人に、その天国のことを教えれば、その人は怖がらずに死を迎えられるのではないだろうか、と。
それが果たして、住民にとって良いことなのかはわからない。しかし、現在の生活がうまくいっていない人に、死なずに、生き続けるには希望が必要だ。現世でやり直すのは難しい。このままどんなに頑張ってみても、生活は苦しいままで、そんならもうこの世からいなくなってもいいよね、どうせ私がいなくても、誰も困らないし、と自暴自棄になってしまう。

それを防ぐことが必要だ。気持ちがアウトローになっていても、生きていくためのモチベーションを与えなければいけない。そして、そこに必要なのは天国という存在。
今は地獄かもしれない。けれど死んだ後は天国に行けますよ、という教えが誕生する。

必要ない人だってたくさんいる。だけど、今の生活に躓きを感じる人は、「ちょっと信じてみようかな」って軽い気持ちで考え、やがてその宗教に入る。
入ったところで生活が改善されるのを保証されるわけではない。もしかするともっと苦しくなってしまうかもしれない。だけどその、拠り所があるだけで、「また明日も生きてみようかな」と思えるようになるのではないだろうか。
素人考えだから、これが当たっているかどうかはわからない。だけど、宗教の成り立ちと、宗教に没頭する信者の考え方を整理してみると、面白い結果になったりするのかもなぁ。

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