月: 2026年7月

  • 日記らしい日記を書く

    日記らしい日記を書く

    状況描写とか上手くなりたいと思ったんだけど、それ、日記を詳細に書くことから始めたら良いのでは

    毎日何か物事を見つめて書こうと思っていたのだけど、ネタがないぜ、と思い、いつものようにチャッピーにネタを作ってもらおうとしたのだけど、純粋な日記を残すことも良いのではと思った。

    街全体がサウナ

    7時35分に起床。次男が小学校に向かうところを見届けることができた。

    そこから二度寝。心療内科で処方されている薬を飲んで5年くらい経つんだけど、ほぼ毎日、午前に眠い。8時間くらい寝てるはずなのに、それでも眠い。

    この眠気を我慢するのか、夜中に目が覚めてしまうのを取るのか、という点で前者を選んだから、この眠気に付き合っていくしかない。

    1時間くらい二度寝。8時40分くらいに目覚め。今日は出社する必要があったのでそこからばたばたと朝食を摂っていると、急な雨が降ってきた。

    ベランダを少し眺める。通り雨のような雰囲気。雲が切れたり、ところどころ晴れ間が見えたり。

    Yahoo!天気を見てみると、確かに通り雨だった。ので、普段は朝食後、出社前には吸わなかったタバコをくゆらせる。

    くゆらせるって言葉、紫煙という枕詞があるような気がする。今は電子タバコだから、紫煙という言葉は似合わない。つまり、くゆらせるという言葉も電子タバコには似合わないのかもしれない。紫煙をくゆらせるって書くと、大人っぽい情緒を感じるけれど、電子タバコって情緒とかないもんな。

    で、雨が上がったところを見計らって出勤。駅までの1㎞を歩く。雨上がりだったから蒸し暑く、マジでサウナみたいだった。

    駅までに越えなければいけない信号が2つあり、いつもそのコンビネーションに迷う。T字路と十字路。T字路が自宅近くにあり、それが青になるのを待つことで、十字路は横断歩道を1回だけ渡れば良いとなる。

    つまり道路を2回横断する必要がある。だから必然的に2回のストップ。だけど青信号がいい感じのタイミングで訪れてくれれば、ストップせずに通過することができる。

    十字路のタイミングを読むのは難しい。だから私はいつも、T字路で青になるタイミングを待ち、そこから十字路へ向かうルートを辿る。最悪の場合だとT字路、十字路の両方で待つことになるのでそこで2分くらいのロス。2分くらいってなんだ!大した事ないじゃないか。

    人生において2分のロスって。気にするレベルではないだろう。
    いや、わかってる、それが大したことではないということは。
    だけど私はつい、そうやって考えてしまう。T字路の信号が切り替わるタイミングにいつもやきもきし、ここで待つべきか、それともT字路はスルーして十字路に向かうべきか。
    たった2分のことなのに。たった2分のことなのに、そんな周りくどいことを考えてしまう。人間だもの。

    手のひらの大冒険

    電車は空いていた。通勤ラッシュって本当に嫌いだ。しかもこの蒸し暑い時期に、知らない人と肌を触れ合うなんて考えただけで嫌だ。
    通勤中はゼルダの伝説。ブレスオブザワイルドの4周目をやっている。
    今までたいしてゲームにハマったことのない私が、4周も同じゲームをやるなんて。
    進め方だって、エンディングだって知っているのに。
    うちはブレワイのExtensionsでしたっけ、課金をしているので、エクストリームモードみたいなのがあるので、そっちを今進めている。
    通常モードが2周、そしてこのエクストリームモードみたいなやつが2周目。
    ハートはまだ3つ。神獣は一つもクリアしていない。塔は7割くらいクリアしたところ。がんばりゲージは1.5周くらい。だからまだまだひよっこなのである。
    すぐに死ぬ。白ボコブリンに一撃で当てられるだけでゲームオーバーになる。妖精を赤い月のたびにマックスまで手に入れるけれど、すぐになくなってしまう。
    目下の目標は、蛮族装備を手に入れること。そうすれば攻撃力が上がるから。どこにあるのかも知ってるからそこへ向かっているところ。
    それにしてもゲームってすごいよなぁ。その世界にのめり込むことができるんだもんな。
    実は私、ゲームは好きなのかも。あまり執着したことがなかったけれど、ゲーム好きだわ、うん。

    仕事は7割の力

    10時過ぎに到着。タイムカード的なやつを押す。今日はゆったりした一日。
    特段、何かストレスのある仕事を抱えているわけではなく、だから目の前の仕事を着実にこなす感覚。
    今日は金曜だったせいか人が少ない。天気も悪いしね。在宅勤務に切り替えちゃおうって考える人は多かったのかもしれない。
    私も在宅勤務でも良かったんだけど、今日は同僚とランチ予定だったので、それを理由に出社した。
    その人は私と同期で、私の会社は入社する人も離職する人も多いから、その中で一年を乗り切ったのはすごいよね、という話でひとしきり盛り上がった。
    私もその人もいい中年なので、仕事の捌き方はなんとなくわかっているつもり(時々こんがらがるけど)。
    私の考える仕事の秘訣は、がっつり受け止めないで、(いい意味で)適当に受け流すこと。全部が全部がっつり取り組んでいたら、あっという間に消耗してしまうから。
    そういうのが好きな人ももちろんいるだろうから、私は否定はしない。働き方は人それぞれだもんね。

    帰りもゼルダ

    塔を1つクリアし、アッカレ古代研究所へ行き、そこから北にある神殿へ。帰りは電車がめっちゃ混んでて、Switchを傾けたりしてモーションコントロールでクリアする祠が出来なかった。諦めた。
    ガーディアンのビームに何度も死んだ。ガードジャストは割とできるようになってきたんだけど、エクストリームモードだとタイミングがズレるので、それに合わせるのがすごく難しい。

  • A7ノートとA6ノートの組み合わせ

    A7ノートとA6ノートの組み合わせ

    今年に入ってから、この2つのノートをメインで仕事やプライベートに使っている。
    A7ノートと書いてもぴんと来ない人がいるかもしれない。ロディアのちっさいやつのことである。

    日常は発見にあふれている

    いきなりA7ノートを渡されて、思いついたこと全部書いてください、と言われても、面食らう人が大勢いると思う。
    私もそうだった。書き残す必要のある事などない!と思う日だってある。むしろそんな日の方が多い気がする。
    日常は発見の連続だ。これは間違いのない事実だ。
    今日は天気が良い。
    とても暑い。
    雲が夏っぽくなってきた。
    蝉の鳴き声を聞いた。
    今年は子供をプールに連れていきたい。
    今日はビールを飲みたい。
    などなど、思いつくことを書いてみたが、これだって一瞬の出来事だ。
    こういうことに気が付かない人もいると思う。だけどそれは訓練すればできるようになる。
    感度を高くしてみるのだ。
    上述した、一瞬の煌めきのような発見は、ざっくり言うと状況の描写と、自分の願望に分けられる。
    状況の描写というのは、スマホを見ている目線を上に上げて、空を見上げるだけでできる。
    同じ空は、私が47年生きていて一度もないはず。
    雲が出ていたり、霞んでいたり。ここ数年は真夏が本当に猛暑で、ちょっとの時間外に出るだけでも日焼けしてしまいそうにジリジリと照り付けられるけれど、その時に感じる肌の刺激なども、発見とも言えるだろう。
    また、願望についても、~したい!のような願望はいつだって湧いてくるものだ。
    ~のようになりたい!という自分を変えたいモチベーションとなるのは、そのきっかけとして発見が挙げられる。
    また、そんな高尚なものではなくとも、今週末にやりたいことなども良いだろう。
    平日、5日間働いている間に思いつくような、週末やりたいことって本当に多い。けれど週末になると忘れてしまう。
    それを防ぐことができる。

    自分が何を考え、メモを取っているか

    これは私ができていないこと。
    どんな事に気づき、メモを取っているか統計を取ること。
    よほどの暇人でもない限り、それをやっている人はいないだろう。いや、そんなことないか。
    だけどこれって結構な効果が見込まれる気がする。
    それはつまり、自分の考えのクセを発見することができるということ。
    私の場合、自分の心情をささっとメモしたりすることが多い。そしてそれはもっぱら自分の中でこんがらがってしまったりする時。
    なぜこんがらがってしまうのか。混乱の元を辿れるかもしれない。自分のクセを見つけ、考え方を変えるきっかけになれるかもしれない。
    やってみるとおもしろそうな気がしてきた。ちょっとやってみるか。

    発見を耕すのは、大きなノートで

    そして、タイトルにも書いていた通り、ここでようやくA6ノートの出番である。
    岡田斗司夫のスマートノートみたいな本を読んだ時に、面白いなと思ったのが、この耕すところ。
    発見の過去と未来を考えてみる。
    また、発見を抽象化するとどうなるか、そして具体化するとどうなるか。それぞれ4方向に渡って発見を耕していける。
    私はこうやって構造化するのが苦手で、だから物事を建設的に考えていくことができないのだけれど、このおかげで、私の発見の裏側にはどんなことが隠されているかを知ることができた。ありがとう岡田斗司夫さん。オネアミスの翼、大好きでした。

  • 7月15日 家族にずっと寄り添っていたい

    7月15日 家族にずっと寄り添っていたい

    病気で臥せっていたときのこと

    私は1年に1回程度風邪をひく。だけど熱はあまり上がらないタイプの風邪をひくことが多い。
    そんな私でもさすがに風邪をひいた時は仕事を休みにして、自宅で寝てることが多い。やっぱ寝るのって大切だよな、と風邪をひくたびに感じる。
    私はメンタルこそやられているものの、身体的には健康で、中性脂肪とかの中年のおっさん特有のやつはあるものの、それらと付き合っていきながら生きている。
    完全体な人間はいない。みんな、どこかしらやられていたりする。そしてそれらとうまく生きていく、共存していく、折り合いをつけていくという生き方を選択しているだろう。
    さて、私がなぜ、「家族にずっと寄り添っていたいんだぜ」と思ったのかというと、そんな、風邪をひいて寝ていた時のこと。
    夢うつつ、起きてるんだか寝てるんだか分からないような時にふと、私を除いた3人の話し声が聞こえたのだ。
    それは取り止めのないような、些細なこと、私の病気を気遣ったようなことではなく、たとえばテレビを見てそれに反応するだとか、そういう類のことを話しているのが聞こえた。
    それがとても心地良くて。私はずっと、家族の話し声を聞いていたいと思った。

    家族の形は千差万別

    私の家族は私を含め、穏やかなタイプで、だから居心地が良いということもあるのだけれど、私は家族が大好きなんだと思った。
    私が出社して会社で仕事をしている時など、私が不在の時にはこんな感じなのかな、と感慨に耽けたりして。
    そして私が仕事している間にも、私は幽体離脱をして家族の声を聞いていたいな、とも思った。
    そんなことは実際に無理だから、私は今、在宅勤務をできる限りして、家族の近くに痛いな、なんてことを考えていたりする。
    数年前に私が作家になりたい、と考えたのは、決して有名になりたいからではなく、自宅で仕事ができるから、という理由が一番強かった。結果はどうあれコロナ禍を経て在宅勤務が仕事のスタイルの一つになってそれはありがたいことで、私はそれを謳歌しているのだけれど、家族の近くにいることができるっていうのは本当に嬉しい。
    うちは決して口数の多い家族ではなく、むしろ少ない方だろう。家族の形はそれぞれで、全く同じスタイルで暮らしていますっていうのはあり得ない。両親のパワーバランスとか、子供たちとの年齢構成とか、多くの環境要素がある。
    だから私みたいに、家族の声を一生聞き続けて暮らしたいです、という意見を持つ父親がマジョリティなのかどうかすらも良く分からない。だから私の意見が全うなのかどうかも分からない。だけど私はそんなふうに、家族のことを考えている。

    理想の家族って?

    私はそれ系のスペシャリストではないし、今まで時間を使って考えたこともない。
    理想の家族なんてものは上述した通り人の考え方に依存するものだから、その人それぞれの理想があるんだと思う。
    だけど共有しているのは、思いやりを持った家族なんではないかなー、と思ったりする。これまた多数派だかどうか分からないので声は小さめで意見を表明する。
    思いやりを持つというのは、相手の考えていることを先回りして考え、家族全体が気持ちよく過ごせるように努力することなのではないかな。これまた私の意見だから、異論はあると思う。
    そうやって社会って成り立っている気がするんだよなぁ。

    死んだ時に

    そんなふうに考えているから私は、死ぬ時に、家族には周りにいてもらいたいなー、なんて考える。
    死に目に会えないっていうのは残された側としては、(死に目に会いたいと思ってる人にとっては)とても辛いことだと思う。
    死ぬ直前に会ったって話ができるわけではないんだけど、私が死ぬ時って考えたら、言葉なんていらないけど、家族の雰囲気を十分に感じながら、息を引き取りたい。

  • 7月14日 人を信じ続けることに未来はあるのか

    7月14日 人を信じ続けることに未来はあるのか

    人を信じるのは危険だ

    それでも人間は、人を信じる。裏切られたことに懲りず、信じ続ける。

    私は今まで、幾度となく裏切られた。

    裏切るってどういうことなんだろう。主語がないから分からない。ぱっと思いつくのは、期待を裏切るということ。スポーツ選手がオリンピックとかで期待していたはずの色のメダルを手にすることができなかった時。サッカーの大きな大会で、優勝を飾ることができるに敗退してしまった時。

    国民の期待を一身に背負って勝負に臨み、そしてその期待に応えられなかった時に、裏切るという言葉を良く使う気がする。

    脱線したので話を戻す。

    人を信じるということは、期待するということになるのだろうか。

    人を信じすぎるのも良くないよな、とふと気づき、このブログを書こうと思い立ったのだが、最近は他人に期待しない、ということに執着している気がする。

    どうせ期待した結果にならないのであれば、最初から信じることなどせずに、自分の力で物事を切り開いてったら良いのではないか。

    信じないほうが合理的なのでは

    その方が結果的には良いかもしれない。

    例えば仕事。他の人に任せる(=信じる)ことを決めたために、それに縛られてしまい、そして他の人の成果が思わしくなかった場合、「最初っから自分でやっとけばよかった!」と後悔することだってあるだろう。

    他人に仕事を依頼するっていうのは、その結果に対しては自分も責任を持つということだ(異論はありそうな気がするが)。

    人の失敗に責任を持つくらいなら最初から、自分でやった方が気持ちが良いかもしれない。

    信じるって言うのはそもそも私の姿勢なのでは

    分かってる、私の思考が変な方向に進んでいっているのは分かってる。

    この先には、私は誰も信じない、という極端な考えに至るに決まっている。

    そんなことはない。現実世界では私は多くの人を信じているし、それを信じている自分を疑ってはいない。

    お人好しなのかもしれないけれど、私はどちらかと言うと素直な方で、性善説で生きていて、だからベースとして人を信じている。
    信じるっていうのは、私がその人を信じるということを信じるということなのか。
    冒頭にも書いたけれど私の姿勢として、人を信じ、そしてその責任を負う覚悟ができているということな気がする。
    周りくどく書いてしまったけれど、こういうことを私は子供の頃から、両親?からなのだろうか、誰かから教わってきたように思う。学校の先生や、友人からかもしれない。
    その責任を負う覚悟を、私が持つというスタンスはかなり怖くて、だって責任を取る必要があるから。となるときっと、私が信じると決めた人は、私の中での信頼性が高く、この人だったら任せても良い、結果はどうあれ私はその人を信じる、ということになるのだろう。

    信じるリスクと、信じないリスク

    信じるリスクについてはたくさん書いてきたので、ちょっと目線を変えて信じない方のリスクについて考えてみたい。
    信じないというのは、とても寂しい。悲しい。たまーに、「俺は誰のことも信じていない」などと平気で言い放つ人がいる。私はそれを聞いて、悲しいなぁ、と思う。
    信じて、その人に判断や物事の処理を進めることを任せるほどに、人を信じることができなかったと思うから。
    その気持ちを誰かから享受されてこなかったのか。
    また、そんな人を私は、孤高の人だなとも感じる。
    誰も信じていないからこそ、自分で物事を処理していかなければいけない。
    仕事という一面で考えると、仕事って一人でやるのは進みが悪いし、自分一人の観点しか入らないから、多様性という点で劣る。たくさんの人が関わると、そりゃまた進みは悪いけれど、だけどいろんな考え方を取り入れ、結果的には一人で考えたことよりもだいぶ広い気がする。
    どっちが良いということはない。その人が選んできた道で、その人が培ってきたやり方なのだから。

  • 7月12日 まだ梅雨は明けず

    7月12日 まだ梅雨は明けず

    雨は嫌われているだろうか。
    せっかくの旅行が雨で台無しと感じる人も多いかもしれない。
    傘だって邪魔だし。雨が降らなければ傘なんて余計ないものを持つ必要がないから。傘を持つと、片手が塞がってしまって嫌な気分になる。私はリュック派で、その理由は両手を塞がないからという理由だから。一時期トートバッグを好んで使っていたことがあったけれど、肩にかければ両手を塞ぐことなく使えたのだ。だけど違う理由で手放した。それはなで肩。骨格ばかりはいくら筋トレしたところでイカリ肩にはならないだろうから、潔く諦めた。

    子供の頃、ことわざを勉強していた時、雨が降って地固まるということわざの意味がわからなかった。
    今なら分かる。雨がふって、地面がぬかるむけれど、それによってデコボコしていた土が均一になり、また、畑であれば土に雨が浸透することで土が再生し、新たな作物を植えることができる。
    日常生活でそんなことわざが通用する時ってあるんだろうか。
    そのシチュエーションを頑張って探してみるけれど、そしてなんとなくは浮かんでくるんだけど、言語化するほどの思い出がない自分は、もしかすると経験が足りていないのかもしれない。

    私は結構な雨男で、前述した通り雨はあまり好きではなかったのだけれど、47歳になってようやく雨を受け入れることができるようになってきた。個人的には大きな成長を遂げた。
    雨によって植物が元気になる。メダカにも雨は良いらしい。嫌っているのは人間くらいだ。その人間も、雨がないと生きていけないだろう。地上にある水分が全部干上がってしまうから。
    地球という星の大きな特徴の一つに、安定した水が地表に残っていることが挙げられると聞いたこともある。
    つまり地球を代表する要素のひとつなんだね。
    もうちょっと感謝しないといけないなと感じる。

    さっきちょっと筋トレした。アブローラー10回を2セット。
    一向に減らないお腹のことを考える。見取り図盛山さんの痩せた理由、第一は食事制限だという動画が頭をよぎる。
    結局はそこなんだよな。2月に受けた健康診断の前に1ヶ月くらいきちんと食事制限をしたら、あっという間に3kgくらい痩せたもんな。
    わかっちゃいるけどやめられないのがお酒。私のお腹は99%くらいの確率で、お酒でできているんだと思う。
    控えないとね、健康にも良くないもんね、と思っていても缶ビール1本だけ、とつい呑んでしまう。
    缶ビール1本くらいなら良いのでは?と軽く考えているのが良くない。飲まないならびしっと飲まない日を作ったらいいんだと思うよ。

  • 7月11日 蝉の鳴き声を聞いた

    7月11日 蝉の鳴き声を聞いた

    自分を信じることは大切だ。
    自分を信じることは、過去に得た経験や知識を活かして、新たな活動への道しるべを作ること。
    可能性を広げるためにもきっと、自分を信じることがベースになるのだと思う。

    私は一時期、自分を信じることができない日々を送っていた。
    なんでそんな簡単なことを?と多くの人は感じるだろう。私だって不思議だ。ついこの間までできていたことが、急にできなくなるなんて。
    どっかで読んだけれど、自分を写している鏡に向かって「お前は何者だ?」と問いかけると、精神が崩壊するそうだ。怖くてやってみたことはないけれど、つまりそれって自分を疑うということなんだろう。自分自身が自分自身を疑うなんて、ちょっと怖くてできないや。
    自分自身は、自分自身だ。疑いようもない。鏡を見ないと自分の顔が分からないというのもなかなか不思議なことだけれど、私がここにいるということは間違いようもないし、私という自分自身のことを考えている私は、ここに存在するという証明になる、と信じる。強く言い切れないのは、実は脳が作り出した幻想の中に生きているだけで、実体として証明することができないから。

    話が脱線してしまったが、自分を信じるのってどうしたら良いのだろう。
    あの頃の私は、自分が嫌いで嫌いでしょうがなかった。
    自分の思い描く理想には程遠く、かと言って自分の足元を見て、地道に歩みを進めるということもできず、ただ自分への愚痴を肴に酒を飲み、日々をぼんやりと過ごしていた。
    そんな時代があったからこそ、今、自分のことを信じているのはとてもありがたいと感じることができている。
    綺麗事だよね、分かってる。青臭いなとも思う。
    だけど自分を信じることって人生においてランキングトップに入るくらい大切なことで、それがあるから、冒頭に書いたけれどまた新たな道を拓けることができる。途中で道に躓いたとしても、昨日書いたような気がするけれど、もう一回立ち上がって進もうって気持ちになれる。
    多分、昔の哲学者が同じようなことを言っているように思う。
    だけど私は、自分が培ってきた経験や知識を使って、自分を信じるのは大切なことだ、ということを改めて噛み締めたい。

    蝉はすごい。自分を信じているから、8年も地中にいて、やがて大空へ飛び出し、大切な伴侶を見つけるために大きな声で鳴くから。あんな小さな体で、あんな大きな音を鳴らすことができるのってきっと、自分を信じているからなんだろう。昆虫には「自分」ということを気づかないで生きているらしい。だけど彼らは、自分のことを誰よりも分かっていて、だからきっと今、鳴いてる蝉も、自分の経験や知識をフルに使って生きているんだろう。

  • # 腹を立てるのは自分の心に余裕がないからなのか

    # 腹を立てるのは自分の心に余裕がないからなのか

    過去と他人は変えられない。
    今まで何人もの人がつぶやいてきたことを心の中の分かりやすい引き出しに入れておくと、多くの場合の理不尽なことなどで、腹を立てないようになってきたなと感じる。
    心の成長とでもいうべきか。心が広い、という意味と近しい感じもするけれど、心が広い、というのは成長に伴って大きくなっていくというよりは、生まれ持った感覚というものに大きく依存している気がする。
    ものすごく軽やかに生きることができる。他人に期待しないだけで。同時に、物事は自分でなんとかしていかなければいけないという責任が生まれた気もする。
    そして自分の機嫌は自分で取っていかないといけないから、その責任を心地良い程度で抑えつつ、時には自分の考えを柔軟に曲げながら、生きていく必要がある。

    他人に期待すること自体は決して、悪いことではない。
    だけど自分の想像する範囲での「期待」に対して、他人がそのようにすることってのは実は少なくて、だから自分の考えを曲げて、なんとか納得する着地点を探す。
    自分の考えを曲げてという点は、たぶん、まだ他人に期待しているという点が含まれている。
    世の中は一人では暮らしていけないから、少しでも他人に寄りかかって生きていかないといけない。家族がいるんなら猶更、いや、家族に関してはより一層気を使って生きていく必要があるんだろう。だって自分の人生において多くの部分を一緒に過ごす仲間だから。

    人生ってうまくいかない。ニーチェも言ってたけど、うまくいかないことを何度も何度も繰り返して、それでもやっぱり失敗して、だけどもう一度挑戦する、っていうマインドは捨てたくないなと思う。
    石橋を叩いて渡る人生の方が穏やかで、大きな波が立たず、緩やかに死ぬまでのエネルギー的な曲線を描いていくんだろう。
    一方、刺激的な人生とは。エネルギー的な曲線は常に上限を振り切っている気がする。ずーっと元気な人ってたまにいるよね。見境なく、考えるより先にやってしまおう的なスタンスの人。
    彼らってすごいなと思う。
    人生は一度きりだし、死ぬまでで今、この瞬間が一番若いんだから、やりたいことをやれよ!という考えも分かる。
    だけどそこは性格だから。私はそこまで(ディスってません)行動ファーストにはなれないから。私は私のペースで生きていくんだから。
    それにしてもまた、いろんな物差しで自分の考え方を測ってるよなぁ。
    行動ファーストの他人がいたとして、彼らに同調する必要なんて1ミリもないのに、私はつい、「私もそっち側にならなきゃ!」みたいな考えが頭をよぎるんだもんな。

  • 私にはエモい文章を書くなんて無理だと痛感する

    私にはエモい文章を書くなんて無理だと痛感する

    そもそもエモい文章ってどういうことだよ、とその時点で立ち止まってしまう。
    後ろを振り返ってみて、過去の自分を思い浮かべ、エモかった瞬間を切り取ることができたとしよう。
    だけどそれを、言葉にする力を持っていないことに愕然とする。
    言葉を知らないということなのかもしれない。つまり語彙力の問題?
    私は今まで何冊の本を読み、それらからどれほどのエッセンスを得たというのだろう。
    本の読み方が正しくなかったのでは、なんていうことも考える。

    47歳。私は割と、自分の年齢を気にする。
    47歳。80歳で死ぬとして、残り33年。
    そのうち半分は身体が動かない、心に火が灯らないということで、過少に見積もって16年。
    私が自由にいろんなことができるのは、あと16年ということになる。
    気持ちよく春を迎えることができるのは、あと16回。
    夏の陽射しに耐えることができるのは、あと16回。
    豊かな秋の恵みに喜ぶことができるのは、あと16回。
    冬の美しさに目を輝かせることができるのは、あと16回。
    その間に、自分の納得できる小説を上梓することはできるのだろうか。

    その前に、そもそもなんで私、小説を世に出したいんだっけ?とも思う。
    もともとの理由はとても不純で、ただ、家で仕事をしたいから、というものだった。
    おそらく10年くらい前になるだろう、今から考えると2016年頃(完全にうろ覚え)、私は日々の出社に疲れていた。
    家で仕事できたらいいのに、という思いは10年どころではなくもっと前、もしかすると新卒で入った会社の時点で考えていたのかもしれない。
    出勤時で得られるストレスは半端ない。満員電車嫌い。得られる恩恵と言えば、狭苦しい中で読む小説くらいのものだ。
    コロナ禍を経て、週の半分くらいは自宅で仕事ができるようになった。だから本質的な問題は解決されたのだ。
    これで良かったのだろうか、とふと考える。
    これで良かったのかもしれない。

    最近、インターネットで見かけた言葉。

    静かに続けることのできる人が、いちばん遠くまで進めることができる。

    野球で有名なイチローは、日々、同じように準備し試合に臨んでいたと聞いたことがある。
    変なことを行うのではなく、毎日同じように起き、食事を摂り、準備運動をするなど、一般的な人間のやるべきことと大差ないはずだ。
    違うのは、それをイチローは、繰り返し行うことができたということ。
    私は文章力が全然ないと感じているけれど、それも同じことで、日々、何かしら文章を考えて書くことで、
    もしかすると、ずいぶん遠いところまで来てしまったな、と後ろを振り返ることができるのかもしれない。
    そしてその先には、冒頭に書いたエモい文章を書くことができるのかもしれない。
    いつから始めればいい?それが遅いということはない。今日からだって。というか、ここで綴っていることがそのきっかけになっているのだろう。そう信じたい。