タグ: 過去

  • 今日のランニングと、今までの自分を愛すべきだろって話

    今日のランニングと、今までの自分を愛すべきだろって話

    今日は10km。外ラン。気温は7度くらいかな。ペースは前回と同じキロ6分20秒くらい。

    寒いは寒いけど、風がなくとても穏やかな関東地方を駆け抜けた。

    前回はジムでのトレッドミルだったから、退屈で飽きてしまって8kmしか走れなかったのを教訓にして、今日は外ランにしたんだけど、やっぱ外はいいな。いい感じに視線は発散し、次の信号、次の曲がり角へとゆっくりと自然に視線が移動する様は、走っていることの心地よさを増強させる気がする。

    だけど夕暮れ時に走ったせいか、街頭が弱い歩道で少しの段差につまづき、それで踏ん張った右膝に痛みを感じるようになってしまった。昔、大きめのケイデンスで走った時にも得たような痛み。ちょうど8kmくらいで被った痛みをぼんやりと抱えながら、残り2kmを走り切るか逡巡した。
    そこで止めることも、もちろんできた。けれどどうせ残り2kmを歩くことになるんだし、走れるところまで走ろうと心に決める。周りは真っ暗な市街地。相談できる相手なんていない。相談したところで、走るか歩くかの二択しかなくて、歩いているうちに体は冷えて寒くなってしまうだろうから、ええい!ままよ!とメニューを決めた井之頭五郎氏と同じ気持ちで、走ることを選んだ自分。だいぶ不安ではあったけれど、無事に目標にしてた10kmを走り切ることができた。心の中で小さくガッツポーズ。

    人生は選択の連続だと言う。朝、起きた時、その時点で、ちゃんと起きるか、もう少し寝るか、その段階ですでに選択していると言える。
    時折、「あの時、ああしていれば良かった!」などと考えることがある。というか毎日、そんな風に過去のイケてない選択を思い出しては、川に飛び込みたい衝動を得ることがある。
    だけど実際には、自分の思うがままに選択してきたはずだし、それがあとになって、それも数十年先の未来にまで「あれは失敗だった!」なんて気持ちを抱くようになるなんて、思いもよらない。

    きっと大事なことは、過去、その選択をしてしまった自分を愛することだ。
    その時にベストな選択をしたはずで、仮に打算的な選択をしたのだとしても、その時には「そうするしかなかった」はずなのだから、それをひっくるめて愛するべきなんだろう。

    なんて安い文章を書いているんだと思う。
    だけどこう書かなければ、私という自分自身が、溶けていなくなってしまうような気がするから。

  • 7月9日 完璧な自分像って、自分の持つ価値観の塊

    7月9日 完璧な自分像って、自分の持つ価値観の塊

    木曜日、金曜日と飲み会が続き、家に着いたのはいずれも0時を回っていた。
    そんな暴飲暴食の2日を経て、この土日は気持ちと身体を休める休息日とした。
    飲み会は嫌いではないんだけれど、やっぱりどうしたって気を遣ってしまって、途中からは酒を飲んでいるのか、それとも酒や空気に飲まれているのかわからない状態になってしまう。そしてぐったりする。
    疲れ切った時は、本当に誰とも話したくない、そんな気分になったりもする。
    家族ですら最低限の会話。生きるためには会話、そしてそういう社会生活を営むことが必要だよね、という程度の会話。
    そんなこんなを繰り返して、ようやく日曜日の夜を迎えることができた。
    多分、この状態であれば明日会社に行けるだろう。果報は寝て待て、という言葉もあるけれど、期待をせずに明日を迎えたいと思う。

    そして飲み会でも良く聞くフレーズなんだけど、「あの頃はよかった」と振り返り、そのころを思ってお酒を飲む、みたいなやつ。
    あれって願望なんだろうか。
    今の現実を否定することになると思うんだよね。
    自分は、自分の味方であるべき、とこの間読んだ本から学んだんだけど、であれば、あの頃から変わってしまった自分だけど、そこがまた可愛いんだよね、と自分を肯定してあげる必要があるのではないだろうか。
    私もそうだけどね。高校の時とか、大学の時とか、戻れるなら戻って、バンドやったりバイク乗ったりしたいよなぁ、とか考えちゃうけどね。
    過去の、どっかのタイミングで生きていた自分が、今の自分が考える「完璧な自分」なんだとしたら、どうだろう。
    その頃の自分に嫉妬し、今の自分を嫌いになってしまうのだろうかね。
    今の自分、そんなにイケてないか。
    過去と他人は変えられないけれど、未来だったら変えられるんだよね。
    未来を、その「完璧な自分」を超えるくらい、素晴らしい自分像を作り上げることができたら、もっと最高なんだろうな。
    完璧な自分像って、自分の持つ価値観の塊だよな。
    もしかすると、今を精一杯生きている自分も、十分に完璧な自分ということができたり、しちゃったりしないだろうかね。

  • 辛い過去との付き合い方

    辛い過去との付き合い方

    過去とは程よく付き合って行く必要がある。

    人間は良い思い出や嫌な思い出、どっちもたくさんあるはずで
    過去の引き出しを定期的に見に行ってしまうから
    強く思い出すものとそうではないものの差が生まれてしまうのだけど

    良い思い出が入っている引き出しだけと付き合っていければいいのだけど
    実際には嫌な思い出の方も定期的に見に行ってしまうことがあるので
    嫌な思い出には、どうしたっていつまでも付き合っていくようになってしまう

    良い思い出、嫌な思い出は相対的なものだから、
    なにか基準があるはずである。
    だいたいは「自分が良い気分になったか、そうじゃないか」だったりするので
    深く傷ついた事柄は、嫌な思い出の引き出しにしまわれていることが多く
    その思い出を連想させるような物事、例えば季節とかがやってくると
    そのことを思い出してしまう。

    定期的に思い出すのは、きっと生理反応だから
    これはもうしょうがないのかな。

    完全に忘れ去るには、その引き出しの位置を忘れるしかなくて
    そうするには、「思い出すことをやめる」しかない。
    だけど上述のような季節とか、その思い出を連想させるような物事に
    再び出会ってしまうことで、お腹が空いたらなにか食べたくなるくらい自然に
    その引き出しを開けてしまうのではないかな。
    ここが難しい。
    多分、訓練が必要なのかな。

    その季節がやってきても、思い出さないための訓練。

    いったいどんな訓練が必要なんだろう。

    ぱっと思いつくのは、新しい思い出を作り、塗り替えること。

    例えば、ちょうど今の季節、自分にも様々な思い出があって
    いろいろ思い出すことがあるんだけど
    この季節に、家族とキャンプに行ったとしよう。
    そこで、うーん、焚き火で焼き芋をやりました、というイベントを
    新たに作ることで過去、同じ季節に季節に作られた嫌な思い出は
    きっとその焼き芋に負けて、だんだん影を潜めていくはず。

    ただ、嫌な思い出を忘れることが、本当に良いことかっていうのは、考える余地がある

    私が今、ぱっと思いつくような嫌な思い出は、
    まぁ忘れるべきだろうなと思うものの
    嫌な思い出と一緒に出てくる人間だったり、イベントについては
    その人間やイベント自身が持つ個性とか、良い面っていうものもあるはずで
    それらを愛することをやめてしまうのではないかなと思うんだよなぁ

    愛することの反対は、興味を失うことになるから

    いや、そこは、その人間やイベントに対して優しくする必要ないか

    ホントは全部愛したいんだよなぁ

    だけどその愛を持ち続けることで、自分が辛いと
    感じてしまうことが持続してしまうってことになるもんな

  • 過去との付き合いかたひとつで、未来が明るいかそうじゃないかが決まるような気がするのよね

    過去との付き合いかたひとつで、未来が明るいかそうじゃないかが決まるような気がするのよね

    Tumberってあっという間に時間が溶けてくよね。

    めっちゃ分かる。

    お前との付き合いももう25年とかになるのか。え、25年?!

    もうこれは死ぬまで付き合い続けるやつだな…どっちが先に死ぬのか。。。

    あの頃を懐かしむ気持ち

    自分にとって忘れられないような、良い思い出は、自分を肯定するために必要なことなのかもしれません。
    私にもいくつか、「あの頃は良かった…」と思える時代があります。
    自分を肯定するという部分は、少しニュアンスは違いますが、「生きてて良かった」と思えることに近いのではないかなと思います。常日頃からそんな思いを思い出すというのはやり過ぎですけど、人生に少し疲れてしまった時や、自分を見失いそうになった時などにその事を思い出すと、少しだけほっとします。

    実際は、決して良い思い出ではなかったはずです。
    辛い思い出だってたくさんあったでしょう。
    だけどそれは、暖かい思い出を度々思い出し、そこから気持ちを暖かくするという思考を何度も繰り返しているから、結果的に暖かい思い出だけが記憶から取り出されるのだと思います。

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    過去を懐かしがってはいけない。現実が嫉妬するから。

    ある哲学の本に、過去ばかり見ていたり、未来ばかり見ていると、現実が嫉妬するという一文が描かれていました。
    それを読んだ当時は「今を一生懸命に生きる」論に大賛成だったので、確かにそうだ!と大きく頷きました。
    それ自体、言わんとしていることは分かりますし、大切な未来を作っていくのは今、ここで考えていることなのですから、おっしゃる通り今を大事に生きるべき、とは思います。
    ですが、過去を懐かしがること自体は、否定してはいけないと思います。
    自分を勇気づけてくれた言葉や、暖かい気持ちを教えてくれた他人からの態度など、それらは何十年も経ってから自分の思いに響いてくるからです。
    そういう思い出を蔑ろにしていると、そこから作られるであろう未来は荒廃したものになっていくのではないでしょうか。

    ただ、いつまでも過去を引きずるのとは違います。
    あの頃は良かった、あの頃に戻りたいという思いは、その思いを持つことには否定しませんが、あの頃に戻りたいというのは、私には希望には聞こえてきません。
    それは今が楽しくない、良い思いをしていないからで、それを改善しようと努力しない限り、これも荒廃した未来しか待っていないように思います。

    未来を明るくしたいのであれば、荒廃するような思いを抱かないことです。
    荒廃するような思いとはどのようなものがあるでしょう。
    私はそれを、「めんどくさい」という気持ちだと思います。
    めんどくさいは、全ての行動を否定します。
    怠惰に、ゴロンと寝っ転がり、今を過ごしていくだけ。
    決して、無理に動け、ということではありません。
    闇雲に、何か行動を起こそうとするのは違います。
    余計疲れてしまう場合があります。
    そういうことではなく、自分のできる範囲で、自分の機嫌が良くなるような活動をしていくことが、明るい未来を作っていくのではないでしょうか。

  • 悪い思い出との付き合い方

    悪い思い出との付き合い方

    ここ数日は、自分が過去とどう向き合っていくべきかという点について考えることが多い。

    最近、早朝に見る夢の印象が強く残る。
    季節が春へと移り変わっていくせいだろうか。

    春は出会いや別れという点で、様々な思い出がよみがえってくる。
    良い思い出もあれば、悪い思い出もある。

    良いとか悪いという、その受け取り方については、多分、時の移り変わりとともに変わってくることだってあるだろう。
    だから、今は良い思い出だとして受け止めていても、将来はそれが悪い思い出に変わることだってあり得る。

    おそらく良いとか悪いとか、そういう評価をせずにフラットな目で思い出を保存しておくことができれば良いのだ
    だけど思い出は自分だけのもので、それには多くの場合評価が付いてくるから、そこを切り離すのは難しい。

    悪い思い出は、それを思い出すだけで不快な気分になってしまう。
    思い出さなければ良いのだが、不快な気分を期待値として無意識に持っているため、それをわざわざ思い出してしまう。
    人間の悪い仕様だと思う。
    悪い思い出は、思い出さなければ良いのだ。
    ふっと不意に浮かんでくることがあるので、その際は、10秒くらい経ったら忘れるように心がける。
    違うことを考えると、悪い思い出が自然と頭の中から消えていく。
    それを繰り返していくうちに、悪い思い出が頭の中に浮かんでこなくなる。
    これは、思考のトレーニングで、自分の悪い思考プロセスを断ち切るために必要だと、何かの本に書いてあったものである。
    私はこれを日々実践しているが、なかなか難しい。
    そのうちに、悪い思い出が良い思い出に変わってくれないものかと、春を待つようにぼんやりと、その日が来るのを待っている。