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  • 4月28日 話し相手の気を吸い取ってしまうらしい

    4月28日 話し相手の気を吸い取ってしまうらしい

    人と話しすぎると、疲れる。
    ちょっと久しぶりに、会社の同僚とランチする機会があり、たくさん話を聞き過ぎて、身体がぼーっとしてる。
    こういうことよくあるんだよなぁ。身体の症状を調べると、機能性低血糖の疑いが。知らんけど。

    どうも私は、話し相手の気を吸い取ってしまうらしい。
    重ための相談を受けた後、ずーんと気持ちが重たくなってしまう。
    良いことなのか、悪いことなのか。
    答えはきっとグレーで、どっちとも言えるし、どっちとも言えないんだけど、少なくとも私の身体に症状が出るようであれば、ちょっと避けるようにした方が良いのかな、と思ったりしてる。
    相手が気持ち良くなれるのならそれで良いのかもしれないけれど、時間は万人に共通に分け与えられるリソースだから、私は私のためにその時間を使いたい。

    また、今日、ランチに同席した同僚から、私の相槌の打ち方、共感しようとする力が絶妙で、話してる方は気持ち良くなってしまいずーっと喋り続けてしまうことがあるんです、と言われた。
    私は無意識にやっていることでも、それが相手から言われることで気づく、ジョハリの窓で言うところの、私は気づかない/相手は気づくエリア。
    だけど私は私を労わる必要があるはずで、話を途中で遮ったりして、自分の身体に影響のないように暮らしていきたいなぁ、と指先や手先などの末端が痺れている身体を感じながら、思う。

  • 相槌の話

    相槌の話

    木々が、風になびいて揺れている。
    さっきまで降っていた雨が、葉っぱが揺れたせいで、落ちる。
    重力。引力。
    その水滴が私の頬に直撃し、唐突に濡らしていく。

    人を疑うことは簡単にできる。
    そして、自分が信じることのできる人は、自分だけだ、と痛感する瞬間がやってくる。
    自分だって、たまに、自分を裏切るではないか。
    自分が期待していたものを達成できなかったことだって、たくさんあるじゃないか。

    在宅勤務が主となり、画面の向こうに同僚がいるということが常識になった。
    1年ほど前までは、隣に座っていた彼が、彼女が、今では画面の向こう、会議中にカメラオンにならないからどんな風貌になっているか分からないのだが、バーチャルな付き合いになってしまった。

    猛烈なウイルスが齎したものは、コミュニケーションの変革だ。
    今まではアイコンタクトを始めとした対面コミュニケーションが主だったのに、今では相手の声しか分からない状態で、コミュニケーションを取るようになってしまった。
    相手の一挙手一投足が見えないから、相槌を打つことすらままならない。
    相槌は本来、適度に打ったほうが相手が喋りやすいと言われている。
    だけど、ネット上でのバーチャル会議では、もっと頻度を落としたほうが喋りやすいような気がするのだ。
    相槌を打つと、もともと話していた人は「声が発せられた」と認識し、いったん話を止めてしまう。そして、それが意見などではなくただの相槌だと気づいた時に再開する。

    その、わずか0.8秒程度のギャップが、会話をより一層ぎこちなくさせてしまう。

    私は相手が気持ち良く話してもらう状態を作るのが好きで、だからこそ適度な相槌の頻度について良く考えるのだけど、それは人によって感覚が違うから、少ないほうが、とか多いほうが、とか考えてしまうのだけど、それがZoom会議になると新たな感覚となって考え直さなければいけない、と実感している。

    南風がやんだ。

    穏やかな空気が室内に入ってくる。
    窓を開けて寝るのにはまだ早いような時候だが、窓を開けて室内を少しだけヒンヤリさせた状態で掛布団に包まって寝るのも、この上ない幸せの形だったりする。季節はそうやって、自分が捉える幸せの形を実感させてくれる。

  • 良き相談相手は、相談したいタイミングと内容をちゃんと考えから選びたい

    良き相談相手は、相談したいタイミングと内容をちゃんと考えから選びたい

    人は悩む。
    何に対して悩むのか。
    自分の思い通りにならないことに対して、悩む。

    Kellie Churchman at Pexels

    相談するタイミング

    以前、「悩む」と「考える」は違う、と言った主旨のブログを書いたことがある。
    私の考えをざっくり書くと以下のような感じ。

    • 悩む : その場で立ち止まる。自分の気持ちを確認する。前に進む前の、充電する機会
    • 考える : 前に進もうとする。今考えている課題を解決するための方法が分かっていて、それを実行しようとする。

    人が他人に相談したいと思うのは、前者の機会が多いように思う。
    後者はすでに自分が何をなすべきか分かっていて、それを実行する時には、他社の声を必要としないからだ。

    冒頭に書いた通り、悩む内容の根本は、「自分の思い通りにならないこと」が多い。
    生き方、対人関係など、自分の考えることに対して現実は、だいたいにおいて大きく外れる。それに対して「自分の思い通りではない!」と憤慨するばかりでは、世の中が生きづらくてしょうがない。
    だから、そこで、自分の考えを改め、現実に対して折り合いをつけていく。そこで、自分の考えを改めるタイミングで、誰かに相談するという機会が生まれる。

    良き相談相手ってどんな人だろう

    最良の相談相手とは、自分のことを100%理解してくれる人である。
    しかし、残念ながら、自分を100%理解してくれている他人というのは存在しない。
    親や兄弟など、自分の個性を十分に理解してくれる人たちですら、自分の望むような相談相手になってくれない。
    相手には相手の都合や、考え方があるからだ。
    彼らが自分に寄り添ってくれる保証なんて無いのだ。

    カウンセラーという選択肢もあるかもしれない。
    だけどカウンセラーに会いに行くにはそういう施設を探し、予約をし、お金を用意する必要があるのだ。これはなかなかハードルが高い。
    かかりつけのようなカウンセラーがいるのであれば良いけれど、そもそも、悩みを持つ人がそんな人を持っているとは言い難い。

    ここで、哲学の本などを読むと、「自分自身」と書いてあることがある。相談相手が自分。
    言いたいことは分かる気がする。
    自分は上述した、自分のことを100%理解してくれる人間だから、きっと最良なのだ。だけど私は、これは難しい気がしている。
    なぜなら、自分の考えという枠を超えることができないから。
    自分の考えに固執してしまうから。
    他の人に相談すると、他の人の考えを聞くことができるから、自分という枠を超えた考えを手に入れられる可能性が高いのだ。

    Photo by August de Richelieu on Pexels.com

    話を聞いてもらいたいのか?選択肢を増やして欲しいのか?

    視点を変え、相談する内容について考えてみたい。

    他人に相談する時は、上述の通り、悩んでいる時だ。
    その悩みの深さ、広さ、進捗に応じて、人に相談する内容が変わる。

    冒頭の頃は、悩みがモヤモヤとしている。
    だから、その悩みの本質は何か、整理をする必要がある。
    そのため、最初は「話を聞いてくれる人」が必要だ。
    その人に話を聞いてもらううちに、自然と自分の中で課題が整理されてくる。他人に話をする場合、順序立てて話をしていく必要がある。
    だから、自分の中である程度の整理が必要なのだ。

    そしてその悩みが後半になるにつれ、だんだん自分の考えが浮き彫りになってくる。
    そのタイミングで人に相談する場合は、自分の考えに同意して欲しいのか、違う選択肢を提示して欲しい場合が多い。
    ある程度自分の考えが他人から見ても真っ当な場合は、背中を押して欲しい場合が多いだろう。
    自分の考えが真っ当かどうか、一般的に見て適切かどうか、他人に相談することで見える場合がある。

    そこで選択肢がある程度はっきりすれば、悩むフェーズは終わりで、次は考えるフェーズに入る。

    私はこの世界を勉強した人間ではないので、これは民間療法みたいな枠を超えることはないだろう。
    だけど私が多く悩んできた中で、このようなやり方があるような気がしている

    私はこれからもたくさん悩むだろう。
    本当は、上述したように「自分自身」を相談相手として築き上げることが大切なような気がしている。
    相談する手間を省けるし、自分を知る良い機会に違いないからだ。
    だけどそれには自分の考えを柔軟に持っておかないといけない。
    広い考えを、きちんと身に着けることができるよう、日々鍛錬が必要と思う。

  • 優しいの意味を真面目に考えてみると混乱する

    優しいの意味を真面目に考えてみると混乱する

    優しい人ほど怒らない、という一文を目にする機会が割と多い。

    怒る怒らないと、優しい優しくないに相関があるとは思えない。

    また、優しい人ほど怒った時がヤバい、みたいな迷信を耳にすることもある。

    これも真相はどうだか、という気分だ。
    私は割と怒らないタイプ、静かなタイプと見られていて、だからこそ上記に関連した話を受けることがある。

    こちらとしては、一切関係ないよな、と思いつつも。

    まず、優しいってどういうことだろう。

    優しいって感じるのは人それぞれなのだから、私が考える優しいと、あなたが考える優しいには大きな隔たりだって
    ある気がするのだ。

    優しい=怒らないという仮説。

    怒らないのは、あなたに期待していません、だからあなたのやることにこちらは反応しません、というスタンスだ。

    これが、優しいと言えるのだろうか。
    期待しているしていない、という見方が出てきてしまった。
    全くもって収拾が付かない展開である。

    あらー、そうなんですかー。いいですよ全然!大丈夫です!
    の裏側に、「もともとあなたには期待していませんでしたから!」というスタンスがいるのだ。
    これのどこが一体、優しいというのだろうか。

    優しいをググってみた。

    姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。

    つまり外見、態度としての形容詞だということだ。
    つまり、中身に関しては問わないということだったのだ。

    だから、「もともとあなたには期待していませんでしたから!」というスタンスは、どうだって良かったのだ。

    私は今まで、その、内面的な部分まで含めた態度に対する形容詞だと思っていた。
    間違っていた。

  • 脇役としての生き方

    脇役としての生き方

    表に出て、ばーんと活躍する生き方は好きではない。
    裏で、そういう人をサポートする方が好きだ。

    だけど、そうも言ってられない。
    年齢を重ねてくると、自然とそういうシーンに出くわすこともある。
    なんとなく、人当たりの良いところを上司に買われ、他方との調整役を命じられることもある。
    最初のうちは、気が張っているということもあり、緊張しながらやり取りをしていく。
    そのうちに他方と仲良くなっていき、緊張の糸がほどけ、私の得意な雰囲気へと流れていく。

    そうするとどうなるか。
    気を良くした上司は、周りは、私のそういうところを見て、他の同じような業務を回す。

    私も、これが私のストロングポイントだ、と半ば勘違いをし、バキバキとこなしていく。
    こうして経験は積まれ、実績も増え、私はそれ系の強い人間となっていく、

    ように見えるが、本来はあまり、こういう表に出るのは好きではないのだ。
    表に出る人に資料を作る・渡す、などのほうがよほど好きなのだ。

    だから、ひずみが生まれる。私自身の中に。

    こういう、他とのやり取り系に強いのは自分でも理解している

    が、

    それが好きではないから、本来はあまりやりたくない、というジレンマを抱えたまま生きている。

    最初から、それ、やりたくありません!と言えれば良いのだが、
    既にその、私がそういう系に強いという認識が周りに育まれているため、そうなることはない。

    そのうちに麻痺し、私は、私の意思を無視して続けていけば良いのかもしれないけど。

    それが果たして良いことなのかは分からない。というか、良くないだろ。

  • 頑張れの代役

    頑張れの代役

    頑張って、という、相手を応援するための言葉が、容易に使えなくなった。
    相手への思いやりにかけるから、という理由で。

    言葉の流行は、時代の流行でもある。
    メンタル系の疾患がポピュラーになってきたからこそ、この「頑張れ」が使えなくなってしまったのだろう。

    良い傾向なのかもしれないが、一方で、頑張れに代替する言葉が簡単に思いつかないという面もある。
    言葉の流行に、自分の頭が追い付いていないのかもしれない。

    相手を応援するための言葉が、適切な言葉が、見失われてしまった。
    見失うというのは少々言い過ぎか。
    多分、その相手のことをきちんと考えることで、適切な言葉が出てくるのだろう。

    考えた結果、頑張って、が適切なのであれば、それは発するべきだろう。
    大切なのは考えることで、それこそが思いやりで、「頑張れ」という言葉を欲しがっている人だっているのだ。

    そう考えると、「頑張れ」が容易に使えた時代は、頑張れと発した時の半分以上が社交辞令程度の重たさしかなかったように感じる。
    それは時代のせいではなく、私が十分にその人のことを思いやらなかったということが発端だろう。

    相手のことを、適切な重さで見ること。
    軽すぎず、重すぎず。
    とても難しい。

  • 人とのつながりは、広げるべきなのか

    人とのつながりは、広げるべきなのか

    この頃、いろんな人の意見を目にすることが多く、疲れてしまうことがある。多くの人と関わりたいというのは、群れたいという本能?から来るものなのか分からないけど、自然と、沢山の人と関わりたいと思うタイミングが、年に数回くらいの感覚で訪れる。

    これは一つの欲求なのかもしれない。欲が出ると、多くの人とつながろうとしてしまう。その背景には、いくつかの理由があるのかなと思ってて。

    • 自分を知ってほしい。もしくは他の人からの反応を得たい。承認欲求から来るものなのかな。
    • 新しい刺激がほしい。今の自分が持っている思想にマンネリ感を抱いていて、それをバージョンアップさせたいから、他人の意見を聞きたい、とかね。

    人と繋がりたいという気持ちは、本来は、悪いことではないのかなと思う。自分を成長させるきっかけになるので。変わることに対し不安を抱くことはあっても、自分を成長させたいという気持ち自体は応援されるべきで、そのための行動を妨げ続けるのは、なんか自分を停滞させるような気がしてイヤなので。

    だけど、そうとは言え、私の場合はタイミングとか、気の持ちようというのが割と多くて、そしてどちらかと言うと億劫になることが多いので、ポジティブに人と繋がりたい!と思うのは少ないのだよね。これはもしかしたら、残念なことなのかもしれない。

    来年はもうちょっと、人と関わる機会を増やすようにしようかなぁ。そっちのほうが、なんとなく良い気がするので。