カテゴリー: 魂を綴る

  • パクチーを我慢してまで食べるべきなのか

    パクチーを我慢してまで食べるべきなのか

    今自分が見えている世界が、全世界の1000万分の1程度のサイズだとして、残りの1000万分の999万9999を味わうことなく最期を迎えたとして、誰が自分を責められるだろうか。

    私は、その1が私の手元に残れば、それで十分なのだから。

    もしかしたら私は、もっと楽しいことを知らないのかもしれない。
    パクチーが好きじゃない人に、「人生の半分を損してる」と言う人がいる。
    冗談なのはもちろん分かっている、が、パクチーの美味しさを知らなくても、残りの美味しさを知っていれば、十分なのではないだろうか。

    いや、そもそも、私が知らないはずの「もっと楽しいこと」は、あなたが楽しいと感じているだけで、私が同様に楽しいと感じるかどうかは分からないのだ。必ずしも、あなたと同じ感情の振れ幅で生きていないのだから。
    シンプルに言うと、放っておいてくれ、と言うこと。

    では一方で、私は、残りの999万9999を知るべきなのであろうか。
    多分それは私の好奇心に応じて広げていくべきであり、好奇心と共にそれを享受していくために必要な気力や体力が十分にあれば良いはずだ。もしかしたらめちゃくちゃ楽しくて、その後、私のライフワークになり得るようなことが得られるかもしれない。

  • 悪いのはその人ではなく、その人を作りあげた環境、なのであれば

    悪いのはその人ではなく、その人を作りあげた環境、なのであれば

    罪を憎んで人を憎まず、、、

    最近、罪を犯す人間が育ってきた環境について考えたことがあり、彼らは望んで罪人になるような人間ではなかったのではないか、と。そもそもの話。

    だからといって加害者を擁護するつもりは毛頭ないのですけれど。池袋のプリウスの話についても、早いとこ罪人認定して欲しいな、と思う程度の。

    で、罪を犯し、刑務所に入り、入って直ぐか、何年経ってからかはその人次第ですが、「自分はこんな人生を歩んでいくはずではなかった」と思うことがあるのではないかと。

    例えば、親という、自分の人格を作る上で大きな影響を与える人間のこと。彼らが、自分のことをもうちょい善い人間に育ててくれたらな、と、考えることがあるかもしれません。

    もしくは友人。彼らがきっかけとなり、悪に手を染めるような人間になってしまった。あの時自分を誘ってくれなったらな、と。

    例に挙げた2つの事例。親だったり、友人がきっかけとして、罪人になるような人間を作り上げてしまったとすると。
    その場合は、その人たちも悪い。

    その人も悪い。

    けど、それもそうだけど、その人たちの方にしか身体を向けなかった自分も悪い、かなと。人生を選択した責任だってあるだろ。

    というのも、おそらく悪友と同じように、善友とでも言いますか、自分を善い道に導いてくれる人間だっていたはずなんですよね。この世の中って悪い人間ばかりじゃないので。
    なので、そっちの方、善友の方に耳を傾ける、身体をそっち側に向けることが、自分を正しく律するために必要だったのではないかと。

    罪を憎んで人を憎まず、、、

    はわかるのですが、自分にだって責任があるだろ、というお話。

  • ブレイクスルー

    ブレイクスルー

    彼はずっと燻り続けていた。
    自分の思い描く理想は、こんなものじゃない。
    自分にはもっと大きな称賛が。
    誰もが、自分を一目見ただけで卒倒してしまうような、うねりのある興奮を。
    ロンドンの空港で働く青年は、やがて自分を表現するための方法を考えていた。

    フレディはずーっと、死ぬ瞬間まで葛藤し続けたように見えた。

    自分のルーツ。
    身体的な特徴。
    思考。
    親との確執。
    家族というものについての考え方。

    葛藤したところで、それが何かのきっかけによって得られるカタルシスなどで排出できたら良かったのだろう。けど、その排出方法がうまく見出せずに暮らしていたように感じる。

    ブレイクスルーを経験し、トップスターになり、自分の思い通りに生活ができているように見えるがそれも束の間、「本当に信じ合える人間」が近くにいないことに気づく。

    虚無感。

    何をしても、満たされない日々。
    自分では、何をしていいか分からなくなる。

    自分のやりたいことが見つからない、というのは、自分が嫌いな証拠かなと思う。自分の興味があることに対し、興味がないのだから。
    知ろうとしない。自分自身に興味がない。
    好きの反対。無関心ということになる。
    やがて彼は暴走する。周りの人間に操られるように、物事を進めていく。
    家族と以前呼んでいた人間たちを遠ざける。
    何が正しいのか、見いだせなくなる。
    人間って簡単に堕ちるんだなぁと思った。
    悪友たちによってお金を搾り取られ、自分が利用されていると気づいたとしても、それを止めることができないような人間になる。

    救いなのは、そんな中でも、思いやりをもって声をかけてくれた人がいるという点。
    映画だから脚色されているのだろうけど、雨のタクシーで、エミリーと対話したシーンが非常に印象的だった。私にはあのシーンが至高だった。心を揺り動かす。魂で語る、叫ぶ。そこでフレディは気づく。私は間違っていた、と。私が一緒にいるべき人間、進むべき道が間違っていたと。急速に自分に興味を持ち出す。自分の意思で、いつの間にか外れてしまった自分の道を再び見つけ出し、進むべき先を自分で選んだ。
    その時にはすでに身体はウイルスで侵され始めていたというのが、最大の悲劇。
    図らずも自分が道を外した時に行動したことの因果で、死の病を患う。時が戻ってくれれば。常に誰が大事なのか、それを彼が忘れなければ。たらればで語ったところで現実は戻らないが、早すぎる急逝であった。

    私は高校の頃にQueenを知った。Bohemian Rhapsodyが代表曲と言われているかも知れないが、代表曲ってどれだろう、っていうくらい、好きな曲が多い。歌詞が良い、メロディが美しい、など楽曲の良さに惹かれていたが、彼の映画を観て気づいたのだが、楽曲もそうだがフレディマーキュリーという人間の清らかさ、実直さ、情熱、それらにも深く惹かれていたんだな、と認識させられる映画だった。

  • 相槌の話

    相槌の話

    木々が、風になびいて揺れている。
    さっきまで降っていた雨が、葉っぱが揺れたせいで、落ちる。
    重力。引力。
    その水滴が私の頬に直撃し、唐突に濡らしていく。

    人を疑うことは簡単にできる。
    そして、自分が信じることのできる人は、自分だけだ、と痛感する瞬間がやってくる。
    自分だって、たまに、自分を裏切るではないか。
    自分が期待していたものを達成できなかったことだって、たくさんあるじゃないか。

    在宅勤務が主となり、画面の向こうに同僚がいるということが常識になった。
    1年ほど前までは、隣に座っていた彼が、彼女が、今では画面の向こう、会議中にカメラオンにならないからどんな風貌になっているか分からないのだが、バーチャルな付き合いになってしまった。

    猛烈なウイルスが齎したものは、コミュニケーションの変革だ。
    今まではアイコンタクトを始めとした対面コミュニケーションが主だったのに、今では相手の声しか分からない状態で、コミュニケーションを取るようになってしまった。
    相手の一挙手一投足が見えないから、相槌を打つことすらままならない。
    相槌は本来、適度に打ったほうが相手が喋りやすいと言われている。
    だけど、ネット上でのバーチャル会議では、もっと頻度を落としたほうが喋りやすいような気がするのだ。
    相槌を打つと、もともと話していた人は「声が発せられた」と認識し、いったん話を止めてしまう。そして、それが意見などではなくただの相槌だと気づいた時に再開する。

    その、わずか0.8秒程度のギャップが、会話をより一層ぎこちなくさせてしまう。

    私は相手が気持ち良く話してもらう状態を作るのが好きで、だからこそ適度な相槌の頻度について良く考えるのだけど、それは人によって感覚が違うから、少ないほうが、とか多いほうが、とか考えてしまうのだけど、それがZoom会議になると新たな感覚となって考え直さなければいけない、と実感している。

    南風がやんだ。

    穏やかな空気が室内に入ってくる。
    窓を開けて寝るのにはまだ早いような時候だが、窓を開けて室内を少しだけヒンヤリさせた状態で掛布団に包まって寝るのも、この上ない幸せの形だったりする。季節はそうやって、自分が捉える幸せの形を実感させてくれる。

  • あの空が見える

    あの空が見える

    5月にしては、割と強く大きな粒の雨が降り注いでいる。
    傘の、骨と骨の間をすり抜けるように流れてきた風が、私の頬をひんやりとした指先で撫でていく。
    その風は湿気を含んでいる。顔がベタつく。少しだけ、それを不快と感じる。私は歩みを速める。

    昨夜、ウイスキーを舐めながら綴った小説は、朝を迎えてから読み返したら、予想以上にさび付いていた。またダメだった。
    夜は魔法がかかる。自分の描くストーリーに対して、盲目になってしまう魔法。
    夜のせいで、私は自分がとびっきり最高な小説を書けると、信じてしまうのだ。

    あぁ。

    溜息をつきながら、黒に近いグレーの空を見上げようと傘を少し横にしたら、天から落ちてきた雨粒がメガネに当たった。
    私はメガネをしていたんだと、その存在を再認識した。

    人生は永遠なんてことはなく、有限なはずだから、私は私の小説を完成させなくては、という無駄な使命を自分に課しているのだが、いつまで経ってもとびっきりの小説を書くことができず、朝になり自分の才能に幻滅してしまう日々を過ごしている。

    いや、知っているのだ、私に才能がない、なんてこと。
    例えば、宮沢賢治のような、風景を言葉に綴る才能。
    例えば、伊坂幸太郎のような、とても魅力的なキャラクターを作る才能。
    例えば、角田光代のような、ドロドロとした人間関係の中で揺れ動く心情を言語化する才能。
    例えば、フランツ・カフカのような。
    例えば、ニーチェのような。
    キリがない。

    才能があるとか、ないとか、そういうのは誰かが決めた物差しなんだから、私には、私ができることを続けることが、とびっきりの小説を描く唯一の方法なんだと信じている。

    それは何か。少しでも多くの文章を描き、自分の実力を付けていくことだ。
    スポーツや、いくつかの芸術ごとは、そもそものスタートラインに立つためのハードルが高いことが多い。
    それに引き換え文章を書くことは、手元にノートと鉛筆があれば始められるのだ。ノートがなければ、曇った窓だって良いのだ。ちょうど、湿度の高いこの季節は、窓だって十分なキャンバスになり得るのだ。ゴッホもきっと、病院の窓に、たくさんの星月夜を描いたであろう。

    そう、磨くべきは、自分の感性と、それを言語化する能力だ。
    言語化と言っても十人十色なのだから、正解はないのだ。私が宮沢賢治が至上と感じるのであれば、それが一番なのであろう。だけどそれはしょせん彼の模倣に過ぎない。私が彼と同じ星空を見ても、銀河鉄道が走っているようには見えず、ただの、散りばめられた星が全面に広がっているだけの、宇宙なのだから。
    その、私が見る景色が、私の個性なのだろう。
    その個性は途絶えることなく、私の命とともに、生を紡いでいく。

    個性は、爆発しない。私と寄り添うだけ。
    生まれてからずっと、私の傍にいてくれた、個性。

    これが私の望んだ未来だったのか、と思い返すことが良くある。
    意識を変えよう、後悔や、それに近い類の思考はなるべくしないようにしようと努めるようになってから、意識的に過去を振り返らないようにした。
    そして同様に、未来を信じることもなくなった。
    未来を信じるとは、自分の期待する結果になっているということだ。
    私が今、期待している未来は、きっとやってこないのだから、それを信じることは後悔の一つになるような気がしている。
    だから、未来、将来の展望については、考えないようにしている。
    夢なんて。持たないほうが良かったのだ。それが後悔するきっかけを生んでしまうのだから。

  • 少しずつ春へ

    少しずつ、人生を先に進めていく。
    進めていく、という言い方は正しくない。進んでいくのだ。
    時間は勝手に進んでしまう。私が、「ちょっと待って!」といくら叫んだところで、そんな甘えには耳を貸してくれないようなのだ、どうやら。

    私はなにかを成し遂げたのだろうか。
    私はこの先、なにかを成し遂げるのだろうか。

    成し遂げる、とは。誰に対して、何に対して、何を遂げるのだ。

    5年くらい前からであろうか、私は、生きる目的、生きる意味というのを見失ってしまった。
    見失ったというよりは、それをマジメに考えようとして、深みにハマった。
    それは、悩みだったのだ。考えるではなく、悩むほう。
    つまり同じところをぐるぐると回り続け、答えを見出す活動には目を向けないほう。

    それで5年費やした。私は生き延びている。途中何度か、もう分からないし、多分この地球に対し、世界に対し貢献をしていないはずだから、いなくなっちゃってもいいかな、という道を選ぼうとしたことがある。今でもそっち側に引きずられることがある。

    Tima Miroshnichenko at Pexels

    だけど、時間は相変わらず進んでいくのだ。
    世界は変わっていく。私も歳をとっていく。

    やがて、ぼんやりと気づく。
    生きる目的とは、死ぬまで生きることであり、
    生きる意味とは、この世に居ることである、と。
    そしてそれらに「より良く」という言葉を先頭に付けるのであれば、
    機嫌良く、死ぬまで生きることになり、
    機嫌良く、この世に居ることになるのだろう。

    それに気づいた時、ふっと、私は空に浮いた。

  • 差別と考えること自体が差別

    差別と考えること自体が差別

    札幌のジェイ選手が、福岡のカウエ選手に対し、人種差別?!と思われるジェスチャーをしたという話。ツイッターで急激に伸びているのを肌で感じています。

    だいたいは、ジェイ選手に対する、それはひどいだろ!という感じに見えます。

    確かに、私も、ひどいと思うんですけどね。

    ただ、

    それ以前に、

    カウエ選手のように肌の黒い人と、ジェイ選手のような肌の白い人に対し、典型的な人種差別の構図を、みんな持ってるんだな、と。私も含めなので自戒を込めて書いてます。

    そもそも、肌の色で人間って優劣を決められるものではないじゃないですか。
    仮に、ジェイ選手のジェスチャーに倣って考えたとすると、レイソルにいたオルンガ選手だってそうなるはずじゃないですか。だけどレイソルサポーターは間違いなく、彼のことをリスペクトしていたし、もっと言うとJリーグ全体でもリスペクトする姿勢だったように感じます。
    というか、肌の色なんて関係ないはずなんですよね。
    私が上で書いたことすら、本来は思いつくことのないはずの思想だ、と。
    それが真の平等なのかな、と思います。

    人間ってつい、偏見を挟んで物事を考えてしまうのだよな、と。

    日本人の思想で考えると、例えば、大企業志向、高学歴志向、人と違った思想志向とか。大きな企業に入ったから、頭のいい大学に入ったから、普通の人には思いもよらないような思想を持っているから、あの人は偉い、みたいに感じるところがあるような気がします。
    偉い=普通の人とは違う、的な、ある意味で除け者意識ってことなのかなぁ。
    出る杭は打たれる、けど出すぎてるから嫌な意味でリスペクトします、はいはいすごいすごい(棒)、みたいな。

    物事をフラットな視点で見るのって難しいよなぁ。結論は出ず。便所の落書き、終わり。

  • 人の努力を無碍に否定すんな

    人の努力を無碍に否定すんな

    レイソルの試合が終わり、スタジアムから自宅まで、自転車で帰った時のこと。

    途中、ほんの少しだけ下り坂の箇所があり、そこをギア最高にして疾走した。

    まさに、疾走を体現する走り。
    つい最近まで長男が乗っていた140cmくらいの人用、24インチクロスバイクに乗っていったので私の身長からするとめちゃめちゃ小さくて、膝がハンドルにぶつかりそうなほどだったから、実際のスピードは大したことなかったと思う。
    けれど、暗闇を切り裂くほどのスピード(体感)で、アスファルトがタイヤを切りつけながら、走り抜けた((c)TMネットワーク)

    いや、脱線するほどの話じゃないんだ。そんな回りくどく話すようなことじゃない。

    疾走してる!と、そのスピードになってから私は気づいた。
    さつきとメイが猫バスに乗ってる時、「私たち、風になってる!」と言っていたのを今思い出したが、多分、私も同じような感覚に陥っていたのだと思う。

    違う。トトロの話じゃない。

    話したかったのは、重松清の、疾走。

    疾走してる!と体感した直後、私は、疾走の主人公が最後に立ち上がり、一瞬だけ走ろうとした瞬間の、あの時の気持ちを思い返してしまったのだ。

    そのせいで、私は少し泣いてしまった。その、彼の気持ちを思い出して。

    ネタバレになってしまうから多くは語らないけど、たぶんあの時、彼は、嬉しかったのだと思う。たくさんのストレスを抱えながら、好きだった「走ること」から遠ざかっていく自分。もうシンプルに走ることを楽しむことのできなくなってしまったような、いろんなことを経験してしまった自分。
    だけど、最後に、もう一度、あの気持ちを呼び起こすことができたら、という思い。

    人生は機嫌良く生きたもの勝ちだと思っている。
    いやなことがあっても、それを「いやなこと」とそのまま受け止めておくのではなく、何か自分の糧になるのではないか。
    そんな風に考えていれば、いつか人生は切り拓かれていくものかもしれないけれど、

    人生はそんなに甘くない、と思っている。

    そりゃ、生きるために努力する人だっている。たくさんいる。私だってそう。
    それを否定するつもりはないし、否定したところで、私にはその努力を判断する立場にない。私が今、努力していることを、他人から否定されるようなことは、あってはならないはずなのだ。

    だけど、いつまで経っても報われない人。報われる、報われないというのはある一つの方向から見ていないから、それ以外の観点で見たら、そんなことはどうだって良いのだけれど、

    努力した自分、偉い。報われなかったとしても、努力したという実績、それが経験になるのだから、それで十分なのではないか。

    疾走の彼も、自分が生きるために、努力したはずだ。
    彼の、最後の、走ろうとして駆け抜けた数歩を、誰が否定できるというのだ。

  • タイトル無し (承認欲求についてのメモ

    タイトル無し (承認欲求についてのメモ

    他人への承認欲求が強いと、疲弊する。
    他人が自分の織りなす行動や言動に賛成や同意をしてくれないと、満たされないからだ。
    そしてそれは他人が考えることで、自分でコントロールできないことなのだから、それを期待して行動するようでは、自分はいつまで経っても満たされないのだ。

    そのことをじっくりと考え、少しだけ生まれ変わったような気がする。
    と書くとだいぶ大それたことのように聞こえるが、なんてことはない、少しだけ価値観を変えだだけだ。

    一番わかりやすいところでいうと、私に関わる全員に優しくしたい、という思いが、「別に全員じゃなくてもいっか」というところまで弱まった点だ。
    小学校から学級委員に選ばれるような自分は、いつしかそういうスタンスで生きることが私の中の正義になり、誰にとっても優しく、頼りのある人間でなければいけないと感じるようになっていた。
    だけど多くのことを学び、育ち、折り合いをつけなければ自分がくたびれてしまうと感じた時に、それまで自分の正義としていたそれは、自分にとっては悪魔なのではないか、と懐疑的な目で見るようになった。

    今まで信じていたものが、嘘だったなんて。
    私が信じてやってきたものの正体は一体、なんだったんだろうか。自問した。
    そして得られた結果は、私自身が信じて止まなかった行動は、全て他人への承認欲求が根源にあるものだ、ということだった。
    冒頭に書いた通りそれは、コントロールすることができない他人に依存するものなのだから、それを追い求めていては、自分はいつまで経っても満たされないのだ。

  • 世の中、白黒つかないことばっか

    世の中、白黒つかないことばっか

    一日いちにちが、継ぎ目なくぼんやりと過ぎていく。
    人間は寝るから、それが継ぎ目のように感じられる。
    けれど実際は、それは意識があるかないかという観点なだけで、
    呼吸とか、時間とか、違う観点で考えると、なんてことはない日々が続いているだけなのである。

    季節だって、ゆっくりと入れ替わっていく。
    辛うじて、雨が多くなってきたなとか、ベランダで飼っている植物が葉っぱをつけてきた、花を咲かせてきたというように、目に見える変化がある場合があると、それがきっかけとなり「季節が変わってきたなぁ、、」と感じることができるものの、そういうものに目を向けずにぼんやりと生きていると、いつの間にか春が来て、梅雨になり、夏が過ぎ去っていったりするものである。

    人間の成長だってそうだ。
    昨日まで19歳だった私が、今日になって20歳を迎えた。
    社会という切り口では、私は今日、成人になった。犯罪を犯せば名前が公表される。
    だけどそれは社会が決めた物差しなだけで、自分そのものを考えてみると、昨日と今日では、ほんの少し髪の毛が伸びた程度で、それ以外は全くもって何も変わっていないのである。

    先日、ツイッターでフォローしている方が「グラデーション」という言葉を使って、この辺を表現していた。
    そうなのだ。人生はすべてグラデーションで表現される。
    小学生、就職、結婚など、人生の節目というものはあるものの、それは外側の世界なだけであって、内面的には何も変わっていない。その、外側の世界で定義された物差しで自分の大きさを測り、そして、「私は成人になったんだ」と実感したりするのだ。
    昨日と今日では、いったい何が違うというのだ。
    成人になったから、お酒をガンガン飲めるようになる?
    お酒って飲みなれないうちはおいしくないし、すぐに気持ち悪くなるし、なんでこんなものを世界中の人間は飲むのだろう、そう思う時代が私にもあった。

    つかみどころのない話になってしまった。
    私自身も、つかみどころのない人間だよなぁ、と思う。

    そう考えると、自分というものの実体は、いったいどれが本当なのだろうと訝しんでしまう。

    42歳。
    会社員。
    二児の父。
    茨城で育った人間。
    レイソルのサポーター。
    マラソンランナー。
    山登りにあこがれる人。
    カラオケが好きな人。
    物書き。
    妄想家。

    もっと考えれば、もっと出てくるだろう。外から見たら42歳で、ただの、どこにでもいるような普通の父親に見えるかもしれない。
    だけど普通ってなんだろう、どこにでもいるようなってなんだろう。
    結局そういうところが分からないまま、死んでいくのかもしれない。