カテゴリー: 魂を綴る

  • 生きてる意味が良く分からないまま、生きている

    生きてる意味が良く分からないまま、生きている

    誰かに認められるために生きているわけではないのだ。そういう意味では、自分に認めてもらいたいという気持ちはあるのかもしれないけれど。自分以外、家族を含めた他人から認めてもらうことは、生きることにおいて全く必要ではない。

    認めてもらうって。
    だいたいその言い方。
    自分が下にいるということではないか。

    抗え。そんな気持ちに抗うことで、自分は誰にも認めてもらう必要がなく、等身大で生きることができる。自分の力を全部使って、認めてもらいたいという思いをかき消すのだ。
    そうやって、自分を応援しないとやってられない。酒を飲んでも、気分が紛れるだけで、それがきちんと晴れることはない。

    子供は、そういうことを考えずに、一心不乱に自分のやりたいことをやる。だんだん思春期になっていくにつれ、学力や体力など、他の同級生と差が見えてきてしまいそれが発端となり自分のランクが分かる。そこで、だんだん、卑屈になっていく。私はそういう人間だった。強い人間に靡く、ただの、ちっぽけな人間。人間と呼んでも良いのだろうか、塵みたいな存在だから、よく分からない。

    生きる権利とは。
    自分はいったい、この世に対してなにか貢献しているのだろうか。

  • 時間が自動的に過ぎていく

    時間が自動的に過ぎていく

    時間は老若男女、お金持ちだろうが貧乏な人という観点にも全く関係なく平等に与えられている、といろいろなところで目にする。

    時間は財産だということは、時間が有り余っていてどうやったら有効に使えるか分からない人には分からないのだ。
    有り余っているから、それが大切なものとは気づかないから。
    同様に、お金をたくさん持っている人も、有り余っているせいで、大切なものという感覚が薄れてしまう。

    不惑の年に入り、実際は惑ってばかりで17歳くらいから全く成長していないよなと感じつつも、身体は衰えていくし、子供は成長していく辺りから、自分が歳をとっていくということが分かる。
    つまり相対的なんだな、自分が歳をとったという感覚を見つけるのは。

    一生が24時間表記で、80歳で終わるという前提で考えると、私は正午を過ぎたところということになるだろう。この前提は一般的なものだから、もっと早まったり、遅くなったりすると思うけど。私は早まるような気がするなぁ。

    先日少し考えたのが、今、体力はある程度持っていて、これからどんどん衰えていくんだろうなということ。気力はどちらかというと沈むことが多いけど、何かしら明確なイベントを予定しておけば、それに向けて気力を高めていくことはできることがわかっている。

    そこで、死ぬ時に、やり残したことのないように、全部やりきりたいなと思った。

    こうしてつらつらと文章を綴ることが私のライフワークなように思えるけど、上記のような考えに至ったのも、私のぼんやりとした思考を言語化できたから。

    そして、私は「山に登りたい」という欲求を叶えたいと願っている。

    そのために、残された時間を有効に使わなければいけないということを感じている。

  • 消えゆく存在

    自分が生き抜くために必要なことは、自分のストレスとなるものをいかに発散するかということに尽きる。

    私はきっと一種の現代病に侵されていたのだろう。

    3週間くらい前にSNSと呼ばれる類のものを全部やめてみた。

    Twitter、Facebook、そしてInstagram。

    他人の生活が目に入ってしまうそれらは、私がどんなに「他人は他人、自分は自分」と意識していようが、否応なく私の意識に入ってくるのである。

    あいつはこんなことしてたぞ。
    こいつはお前の羨むような人と、、、

    そんな投稿を見て、私は思わず反応してしまうのである。

    その、反応自体に使うカロリーがもったいないということを気にせずとも。

    考え方次第では、その反応はルサンチマンとなり、自分を奮い立たせる効果をもたらすこともある。

    むしろ人間は、その力を利用して成長してきたのだろう。

    私も、そんなふうに、健全な向上心を持っていられれば良かったのだろうけど。

    今、上記のように考えうるすべてのSNSをやめてみて、心が晴れ渡っているような気がしている。

    私以外の人間で気にすべきは、同居している妻、子供たち、そして2親等内程度の親戚たちなのではないだろうか。
    彼らが元気であれば、私は私の人生、生き方に集中できる気がしているのだ。

  • 辛い過去との付き合い方

    辛い過去との付き合い方

    過去とは程よく付き合って行く必要がある。

    人間は良い思い出や嫌な思い出、どっちもたくさんあるはずで
    過去の引き出しを定期的に見に行ってしまうから
    強く思い出すものとそうではないものの差が生まれてしまうのだけど

    良い思い出が入っている引き出しだけと付き合っていければいいのだけど
    実際には嫌な思い出の方も定期的に見に行ってしまうことがあるので
    嫌な思い出には、どうしたっていつまでも付き合っていくようになってしまう

    良い思い出、嫌な思い出は相対的なものだから、
    なにか基準があるはずである。
    だいたいは「自分が良い気分になったか、そうじゃないか」だったりするので
    深く傷ついた事柄は、嫌な思い出の引き出しにしまわれていることが多く
    その思い出を連想させるような物事、例えば季節とかがやってくると
    そのことを思い出してしまう。

    定期的に思い出すのは、きっと生理反応だから
    これはもうしょうがないのかな。

    完全に忘れ去るには、その引き出しの位置を忘れるしかなくて
    そうするには、「思い出すことをやめる」しかない。
    だけど上述のような季節とか、その思い出を連想させるような物事に
    再び出会ってしまうことで、お腹が空いたらなにか食べたくなるくらい自然に
    その引き出しを開けてしまうのではないかな。
    ここが難しい。
    多分、訓練が必要なのかな。

    その季節がやってきても、思い出さないための訓練。

    いったいどんな訓練が必要なんだろう。

    ぱっと思いつくのは、新しい思い出を作り、塗り替えること。

    例えば、ちょうど今の季節、自分にも様々な思い出があって
    いろいろ思い出すことがあるんだけど
    この季節に、家族とキャンプに行ったとしよう。
    そこで、うーん、焚き火で焼き芋をやりました、というイベントを
    新たに作ることで過去、同じ季節に季節に作られた嫌な思い出は
    きっとその焼き芋に負けて、だんだん影を潜めていくはず。

    ただ、嫌な思い出を忘れることが、本当に良いことかっていうのは、考える余地がある

    私が今、ぱっと思いつくような嫌な思い出は、
    まぁ忘れるべきだろうなと思うものの
    嫌な思い出と一緒に出てくる人間だったり、イベントについては
    その人間やイベント自身が持つ個性とか、良い面っていうものもあるはずで
    それらを愛することをやめてしまうのではないかなと思うんだよなぁ

    愛することの反対は、興味を失うことになるから

    いや、そこは、その人間やイベントに対して優しくする必要ないか

    ホントは全部愛したいんだよなぁ

    だけどその愛を持ち続けることで、自分が辛いと
    感じてしまうことが持続してしまうってことになるもんな

  • いつか別れる

    いつか別れる

    家族に限った話ではないが、今、私がつながりを持っている人間は、今だけしかそのつながりが確約されていないということ。
    絆、って書いちゃうと日テレの黄色いTシャツを思い出してしまうので、そっちには寄せたくないので、あえてつながりという言葉を。

    シンプルに、寂しいなぁ、離れたくないなぁ、という気持ち。

    人生に別れはつきもの。出会いと同じくらいの頻度で、別れがやってくる。

    もう二度と再会できない死別というものは、とても辛い思いを纏う場合がある。
    再会できる場合としても、物理的にとても遠い場合や、近くとも他の物事に押されてしまい優先度が下がる場合など、多々ある。

    ぼんやりと考える。

    私は、いつ死ぬか分からないから、自分の思いが強い人とはなるべくたくさん、会っておきたいというエゴな気持ちが芽生えてしまう。
    たくさん会ったところで、その、いつか別れるという予測からやってくる「淋しさの先取り」は薄れることがないのに。

    数か月前、長男が遠くの国で暮らす夢を見たことがあった。
    18歳くらいの彼。
    今は12歳なので、ちょっと未来の話。
    東欧の、空気の乾いた、少し色褪せた風景の、やたらデカい施設で働いていた。
    その彼に、妻と二人で旅行がてら、会いに行く夢だった。
    今とは明らかに違う、口数の少ない彼。
    ランチを共にし、1時間程度一緒の時間を過ごし、あっという間に別れの瞬間が訪れ、そこで私はとても淋しい思いを抱きつつ、彼と別れた。
    私は号泣しながら、目を覚ました。

    今、私は彼と同居していて、早ければ数年後、大学入学のあたりで家を出る可能性があるので、夢の中で抱いた淋しさは、そのタイミングでやってくるのだろう。

    この夢、もしかしたら、私の両親から見た、私のことなのかもしれない。
    思い込みだろうけど、そんな風に考えてしまう。
    両親から甘やかされて育った(と思ってる)自分は、両親から優しさを一番に受け継いだ。
    彼らは優しい。めちゃくちゃ優しい。
    そして人とのつながりを大切にする人たち。
    無論、子供として育ててきた私が、あの家から離れると決めた時、ものすごく淋しい思いを抱いたのだろう。
    彼らの気持ちを考え、意図せず悲しい気持ちになってしまう。

    そんな彼らの気持ちとは裏腹に、今は、隔月程度で帰省し、両親に会いに帰る。
    1年で6日~7日。
    これが多いとか少ないとか、人によって感じ方に違いはあるだろうけど、まぁ、そういうもんだから、と優しい両親は考えているかな、と彼らのことを慮る。

    そういう見方をすると、私は、「家から出た人間」と、「これから家を出る予定のある人暮らす人間」、両方の目線で考えるのだな。

    子供たちについて、考える。
    彼の人生を奪うことはしたくないから、私の「別れたくない」という気持ちは、優先すべきではないと考える。
    考える、けど、淋しさをなんらか別のもので埋め合わせるなどしないと、自分が崩れてしまいそうな気がしたりもしている。
    彼に、家族に執着しているということになるのだろう。
    頭では、執着すべきではない、彼の、家族の人生を奪うべきではないと考えている一方で、心は、彼らと離れたくないという気持ちを抱いている。

    きっと、家族が好きということの現れだと思うけど。

    一方で、私がたまに抱く、この世から離れたいという思い。
    我儘だよなぁ。家族や、私を取り巻く関係の人たちと別れたくない、ずっと一緒にいたいと思いながらも、自分は別離を求めるという我儘。
    ずっと一緒にいたいと思うのならば、自分はこの世から離れるべきではないだろ。

    いや、違う。
    優先度がつけられていないだけか。
    彼らと別れたくないと、この世と別れたいを。
    そんなん、時と場合によるからなんとも言えないけど。

  • 未来は僕らの手の中にあるのかもしれぬ

    2046年に迎えるシンギュラリティという現象のことを最近、よく考えることがあり、それはつまり人工知能が人間の能力を上回ることらしいのですけれど。

    機械が人間をコントロールするのは、今に始まった事ではないと思うんですよね。
    きっかけは産業革命だと思っていて。
    機械仕掛けの工場で働く人間は、つまり機械に操られているってことじゃないですか。
    今でいうとライン生産をしている工場なんかはみんなそれだと思うんですよね。

    何が言いたいのかというと、2046年という中途半端な年に、なにか恐ろしいことが起きるのではないかという、あおり。
    そのあおりは、きっと誰かが何かで得をするために放ったデマであって、それを鵜呑みにしてこわいこわいって言っている人は、多分他のいろんなものでも怖い怖いと世迷言を言っているのではないかと思うのです。

    もしかしたら、コロナワクチンもこわいこわいって言っているのかもしれないね。

  • 自己肯定感を高めようと意識するのをやめた

    自己肯定感を高めようと意識するのをやめた

    自己肯定感を高めよう高めようと日頃から考えていたけれど、それは難しいということが分かった。
    HSPから来る、自分自身への低い評価は根本的には治らないものなので。

    違う。治る治らないという話ではない。もともと悪かったものではないはずだから。
    つまり、治らない。悪くないから、治すという感覚が間違っている。
    もしくは、治す(というより正す)べきは私の感覚。
    自己肯定感を高く持っているほうが、人生を軽やかに過ごせるだろうという価値観。
    残念ながらそれは相対的なものだから、いくら自分の中で高めようと意識したところで、その時点で見えている屋根は偽物で、実際は青天井なのだから。
    どの程度高く持っていれば、軽やかに過ごせるのか、という話ではない。
    そもそも軽やかって。自己肯定感をどう捉えているかと、人生を軽やかに過ごすかは関係ない。
    そんなのを意識しないほうがむしろ、軽やかに過ごせるのではないだろうか。

    ここのところHSPに関する本を何冊か読んでいて、HSPな人の傾向として見えるのは、私だけかもしれないけれど「背中を押してほしい」「後ろから支えてほしい」という印象。
    分からないけれど。私だけがそんな風に感じているのかもしれないけれど。
    外向的が偉い、みたいな文化、言い方がアレですけどリア充はみんな外向的、みたいなところを考えると、どうしてもそっち側を目指すべき、と育ってきたように感じていて、つまりそれって自分が肯定されていないのではないかと勝手に考えてしまうところがある。裏を返すと内向的な人は人生が充実していないのだ、と。
    だから、「生きていいんだよ」「生き方、感じ方は間違ってないよ」という形で、自己肯定感を持つだけで十分なのではないかと思う。
    そこからの、高めるとか、低いとか、そういう度合いの話ではなく、YesかNoしかないだろ、と。
    「自己肯定感を高める」って言うから、あー無理だわ、ってなってしまう。
    そうじゃなくて、「自己を肯定する」だけでいいんでしょ。それなら、なんとなく、できるかな、意識してみようかな、ってなれる、気がする。自信ないしどうせまたすぐクヨクヨするんだろうけど。

    ただ、タチが悪いのはこの「背中を押してほしい」「後ろから支えてほしい」に対して、「押すぞ!」「支えるぞ!」と私以外からの暖かくて優しい人から投げかけてもらったとしても、私自身は決して満足しない。残念ながら。非常に残念。別に皆さんを信じていないわけではない。優しさを、無駄にしているようで申し訳ないのだけれど。そこでもまた自己嫌悪になってしまうけど話が発散するのでこの辺で。
    私は、私自身から全力で押してもらい、支えてもらうまでは、ずっと疑い続けるのだ。
    そんな、とても残念で救いようのない性格。
    これはHSPの特性なのかどうかは分からないけれど、少なくとも「自分を信じていない」ことによる裏返しなのだろうと透けて見える。

    私が感じるこの感覚、間違ってないよね、という問いかけは、そもそも持つべきではないし、持ったとしても自分の中に投げかけるだけで留めておくべき。
    そこで、周りに答えを求めてしまうから、結局「他の人とは違う」という感覚になり、それが自己を否定するきっかけになる。そして「自分は周りになじめない」と自己嫌悪になってしまう。この繰り返し。

  • 自我について

    自我について

    私は、両親が出会い結婚していなければ生まれてこなかったはず。
    もし両親が出会っていなければ、もしくは出会っていても結婚していなければ、更に言うと子作りをしていなければ、私はこの世に生まれてこなかった、はず。

    私は、自我というものは産まれてから作られると思っている。
    今、外から雨音が聞こえていて、それが心地良い音と受け取る感覚も、
    それは両親が出会ったおかげ、結婚したおかげ、子作りしたおかげ、ではなく、産まれてから私が自分で育んできたものだと信じてやまない。

    そう考えると、子どもは私たち(親目線)を選んで産まれてきたんだよ、というのはあきらかに迷信で、それは親のエゴだと思う。
    そう信じることで子どもに対する愛情が増幅されるのかもしれないが、それがなくとも十分に子どものことを愛している。

    良く分からないのが、私はいったいなんなのだ、ということ。
    外見、内面、全ての特徴を総合的に捉え、私という人間ができている。
    特徴というのは私から見た特徴、他人から見た特徴、それぞれ別の視点があるのだから、最低4つの目が必要ということになる。私を形づくるものが何か。
    観察したら何かが見えてくるのか。
    今、この瞬間に私自身が考える私は、ただ、脳が電気信号を送っているだけに過ぎず、10秒前に考えていた私という像は、すでに過去のものになっている。
    ウイスキーを飲み、酔いが回る。それにつれ思考が歪んでくる。
    私は、もはやあの頃に認識していた私ではない。
    雨音が心地良いと感じていた私は、すでに数分前に置き去りにしてきた。
    やがて眠気がやってくる。この、心情的な描写はやめることなく、ずっと続けられる気がする。それが何を意味するのか。
    それはつまり、常にアップデートされ続ける私という像を表している。
    言葉を見つけるのに時間がかかるから、その合間に産まれた私は、それを表現する言葉を見つけることができないまま、過去のものになってしまう。
    時間って、ホント一瞬で過ぎ去っていくよね。
    私が死ぬまでのあと数十年(と思っている)は、永遠のように感じるけれども、その瞬間に私が思い描く気持ちを表す言葉が見つからずに、最期を迎えるのかもしれない。
    それに抗うかどうかは、その時の私が決める。

  • 絞り出す声

    日々、一生懸命生きています、と自分が喉を振り絞って大声で叫んだとしても、それはあなたには届かないのかもしれない。
    あなたは、私の声に耳を傾けるようなことなんてしないから。

    それでも私は、叫ぶよ。
    叫ぶことで、自分のスタンスが明確になるから。

    エモいことを考えている。

    仕事は、お金を得るための道具。
    仕事は、自分を承認するための道具。
    仕事は、自己実現のための道具。

    そんな仕事に振り回され、気分を害する。それによって本来、美しく過ごすべき生活が、美しいと感じられなくなってしまう。

    そんな人生なんて、つまらないだろ。

    仕事に振り回される人生なんて。

  • なんでも否定する

    なんでも否定する

    たまにはハメを外そう、から夜更かし、深酒、深夜のラーメンを過ごした翌日、案の定二日酔いで頭痛のする中仕事して、あんなことするんじゃなかったと後悔してる。
    そして翌日は飲酒せず、早めに寝ようとしてる。

    自分のやりたいことをやるということが、私が機嫌良く生きるための秘訣だと信じてやまないが、そうやって過去の自分を否定し続ける自分がいる限り、幸せな気分は訪れない。

    そもそも「たまにはハメを外そう」についても、自分が節度ある生活をしているように感じていて、そんなだから人生が詰まらないのだ、だからたまにはパーっとお酒でも飲んでさ、というところが発端になっている。
    おそらく、節度ある生活の前には胃が痛くなるような出来事があったりして、結局はそれを繰り返しているだけなのだ。

    過去は変えられないから、昨夜のことはもう忘れよう。大切なのは今だ。
    私がお酒を飲みたいのだったら、飲めば良いだろ。

    機嫌良く生きるって本当に難しい。
    自分を肯定することをベースにして、変えられないもの、過去や他人には干渉せず、静かに受け入れる。
    たったこれだけのことなのに、あの人は自分の期待するように動いてくれないと他人のことばかり気にして、そしてそうやって他人を気にする自分を俯瞰した自分からは嫌悪される日々。
    こんな考え方では、どうしたって幸せにはなれない。

    いったいどうしたら良いのだ。
    幸せになる術は知っているように感じる。
    幸せになりたい、と思うのならば、上の段落に書いたことを信条とし、地道に生きていくだけなのではないだろうか。
    なんだよ簡単なことじゃん、と思えない自分がいて、そしてまた自分が嫌いになっていく。

    深呼吸を。そして早く寝よう。
    今のお前に対し、お酒は解決してくれない。