投稿者: hmgrbean

  • 差別と考えること自体が差別

    差別と考えること自体が差別

    札幌のジェイ選手が、福岡のカウエ選手に対し、人種差別?!と思われるジェスチャーをしたという話。ツイッターで急激に伸びているのを肌で感じています。

    だいたいは、ジェイ選手に対する、それはひどいだろ!という感じに見えます。

    確かに、私も、ひどいと思うんですけどね。

    ただ、

    それ以前に、

    カウエ選手のように肌の黒い人と、ジェイ選手のような肌の白い人に対し、典型的な人種差別の構図を、みんな持ってるんだな、と。私も含めなので自戒を込めて書いてます。

    そもそも、肌の色で人間って優劣を決められるものではないじゃないですか。
    仮に、ジェイ選手のジェスチャーに倣って考えたとすると、レイソルにいたオルンガ選手だってそうなるはずじゃないですか。だけどレイソルサポーターは間違いなく、彼のことをリスペクトしていたし、もっと言うとJリーグ全体でもリスペクトする姿勢だったように感じます。
    というか、肌の色なんて関係ないはずなんですよね。
    私が上で書いたことすら、本来は思いつくことのないはずの思想だ、と。
    それが真の平等なのかな、と思います。

    人間ってつい、偏見を挟んで物事を考えてしまうのだよな、と。

    日本人の思想で考えると、例えば、大企業志向、高学歴志向、人と違った思想志向とか。大きな企業に入ったから、頭のいい大学に入ったから、普通の人には思いもよらないような思想を持っているから、あの人は偉い、みたいに感じるところがあるような気がします。
    偉い=普通の人とは違う、的な、ある意味で除け者意識ってことなのかなぁ。
    出る杭は打たれる、けど出すぎてるから嫌な意味でリスペクトします、はいはいすごいすごい(棒)、みたいな。

    物事をフラットな視点で見るのって難しいよなぁ。結論は出ず。便所の落書き、終わり。

  • 人の努力を無碍に否定すんな

    人の努力を無碍に否定すんな

    レイソルの試合が終わり、スタジアムから自宅まで、自転車で帰った時のこと。

    途中、ほんの少しだけ下り坂の箇所があり、そこをギア最高にして疾走した。

    まさに、疾走を体現する走り。
    つい最近まで長男が乗っていた140cmくらいの人用、24インチクロスバイクに乗っていったので私の身長からするとめちゃめちゃ小さくて、膝がハンドルにぶつかりそうなほどだったから、実際のスピードは大したことなかったと思う。
    けれど、暗闇を切り裂くほどのスピード(体感)で、アスファルトがタイヤを切りつけながら、走り抜けた((c)TMネットワーク)

    いや、脱線するほどの話じゃないんだ。そんな回りくどく話すようなことじゃない。

    疾走してる!と、そのスピードになってから私は気づいた。
    さつきとメイが猫バスに乗ってる時、「私たち、風になってる!」と言っていたのを今思い出したが、多分、私も同じような感覚に陥っていたのだと思う。

    違う。トトロの話じゃない。

    話したかったのは、重松清の、疾走。

    疾走してる!と体感した直後、私は、疾走の主人公が最後に立ち上がり、一瞬だけ走ろうとした瞬間の、あの時の気持ちを思い返してしまったのだ。

    そのせいで、私は少し泣いてしまった。その、彼の気持ちを思い出して。

    ネタバレになってしまうから多くは語らないけど、たぶんあの時、彼は、嬉しかったのだと思う。たくさんのストレスを抱えながら、好きだった「走ること」から遠ざかっていく自分。もうシンプルに走ることを楽しむことのできなくなってしまったような、いろんなことを経験してしまった自分。
    だけど、最後に、もう一度、あの気持ちを呼び起こすことができたら、という思い。

    人生は機嫌良く生きたもの勝ちだと思っている。
    いやなことがあっても、それを「いやなこと」とそのまま受け止めておくのではなく、何か自分の糧になるのではないか。
    そんな風に考えていれば、いつか人生は切り拓かれていくものかもしれないけれど、

    人生はそんなに甘くない、と思っている。

    そりゃ、生きるために努力する人だっている。たくさんいる。私だってそう。
    それを否定するつもりはないし、否定したところで、私にはその努力を判断する立場にない。私が今、努力していることを、他人から否定されるようなことは、あってはならないはずなのだ。

    だけど、いつまで経っても報われない人。報われる、報われないというのはある一つの方向から見ていないから、それ以外の観点で見たら、そんなことはどうだって良いのだけれど、

    努力した自分、偉い。報われなかったとしても、努力したという実績、それが経験になるのだから、それで十分なのではないか。

    疾走の彼も、自分が生きるために、努力したはずだ。
    彼の、最後の、走ろうとして駆け抜けた数歩を、誰が否定できるというのだ。

  • 雨が好きな人だっている

    雨が好きな人だっている

    毎年、決まった時期に桜が咲くのだと思っていた。
    だいたいいつも、入学式が行われる頃。
    だけど今年は、それよりも早い、卒業式が行われる頃に、満開を迎えた。

    死んだ母は、この季節が大好きだった。
    風に舞う桜吹雪を見ていると、なんだか嬉しくなるの、と口癖のように言っていた母は、土砂降りの中、横断歩道を渡っている時、母に気づかなかった車に轢かれた。
    当時のことはすっぽりと記憶から抜けていて、私はその頃、どういう心持ちで過ごしたのか、まったく思い出せない。
    母の代わりに家庭を保全してくれた叔母が、母と似ていたので、彼女のことを見る度に涙ぐんでしまい、非常に困らせたと、後になって聞いた。

    そのことがあってから私は、雨が嫌いだった。

    いや、もともと、着ていた洋服が濡れるから、私は嫌いだったのだ。
    長靴がなかなか脱げないところも、脱いだ足が湿っていて、とても不快になったところだって、全部嫌いだったのだ。
    やがて大人になり、営業として外回りをすることが主な仕事になってからも、やはり今までと同様に数少ないスーツが濡れるから、という理由で雨が好きになれなかった。

    雨なんて。誰のことも幸せにできない。
    これは私の信念だった。
    母の大好きな桜を散らすのだって、いつも雨のせいなんだから。

    母は、雨のことが嫌いだっただろうか。
    母はあの日、傘を忘れて塾に行った私の弟がかわいそうだからと言って、弟の傘を持って家から出たのだった。
    母はいつもそうやって、自分の身を犠牲にして、家族や周りの人を助けてきたのだった。
    優しい人だったんだ。
    それに比べて私は、雨ごときでこんなにイライラしてしまう、心の小さな女になってしまった。
    せめて母のような優しさを、私も持てれば良かったのに。
    私が、母の代わりに弟を迎えに行けば、もしかしたら私が母の代わりに。
    天から降ってくる雨は、私が涙を流すよりも早く、そして強く、雨足を強めた。

    母はこんな私を見て、いったいどう感じるのだろう。
    こんなわがままで、周りのことを気遣うことのできない娘を、きっとがっかりした目で見るのだろうな。

    帰宅途中、最寄駅に着いてからも、相変わらず雨はザーザーと強く降っていた。
    傘を忘れた私は、もうどんなに濡れたってかまわない、という心境で、駅舎から自宅に向かって歩き出した。
    シャツも、スーツも、ストッキングもパンプスも、ぜーんぶびしょびしょだ。
    私の心だって、それらと同じように濡れていた。
    ぷ、っと膨れ面を浮かべながら、青が点滅した横断歩道を待っていると、道路の向こうに母が見えた。
    傘を差して、手元にはもう一本の傘を持ち、待っていた。
    そんな訳ない。この世に、母は、もういないのだから。
    私は彼女の元に少しでも早く近寄りたくて、歩行者用信号が青になるのを待った。
    待ちくたびれるほど待った。いつもはスマホを見ながら、青になるのをぼんやり待っていたこの信号だったが、スマホを見ている間に母がいなくならないように、少しでも母の姿を見続けられるように、雨の中、傘を差さずに母の事を見つめた。

    青になる少し前、トラックが通り過ぎ、母はトラックに吸い込まれるようにいなくなってしまった。青になったら一目散に駆け出し、母の胸元に飛び込みたかったのに。
    私は、母に抱かれたかった。最後、母の持っていた傘を受け取りたかった。
    しかし、さっきまで私が見ていたのはきっと思い出で、妄想で、だから母の持っていた傘を受け取ることはできなかったのだ。

    だけど一瞬だけ、奇跡が起きた。
    ぶわっと強い横風が吹き、横断歩道の横にずらーっと植えてあった桜の花びらが、一斉に舞った。無数の花びらが舞う横断歩道。
    私は思わず空を仰いだ。
    母が、「雨と一緒に舞う桜も、実は悪くないのよ」と言った気がした。

  • タイトル無し (承認欲求についてのメモ

    タイトル無し (承認欲求についてのメモ

    他人への承認欲求が強いと、疲弊する。
    他人が自分の織りなす行動や言動に賛成や同意をしてくれないと、満たされないからだ。
    そしてそれは他人が考えることで、自分でコントロールできないことなのだから、それを期待して行動するようでは、自分はいつまで経っても満たされないのだ。

    そのことをじっくりと考え、少しだけ生まれ変わったような気がする。
    と書くとだいぶ大それたことのように聞こえるが、なんてことはない、少しだけ価値観を変えだだけだ。

    一番わかりやすいところでいうと、私に関わる全員に優しくしたい、という思いが、「別に全員じゃなくてもいっか」というところまで弱まった点だ。
    小学校から学級委員に選ばれるような自分は、いつしかそういうスタンスで生きることが私の中の正義になり、誰にとっても優しく、頼りのある人間でなければいけないと感じるようになっていた。
    だけど多くのことを学び、育ち、折り合いをつけなければ自分がくたびれてしまうと感じた時に、それまで自分の正義としていたそれは、自分にとっては悪魔なのではないか、と懐疑的な目で見るようになった。

    今まで信じていたものが、嘘だったなんて。
    私が信じてやってきたものの正体は一体、なんだったんだろうか。自問した。
    そして得られた結果は、私自身が信じて止まなかった行動は、全て他人への承認欲求が根源にあるものだ、ということだった。
    冒頭に書いた通りそれは、コントロールすることができない他人に依存するものなのだから、それを追い求めていては、自分はいつまで経っても満たされないのだ。

  • 世の中、白黒つかないことばっか

    世の中、白黒つかないことばっか

    一日いちにちが、継ぎ目なくぼんやりと過ぎていく。
    人間は寝るから、それが継ぎ目のように感じられる。
    けれど実際は、それは意識があるかないかという観点なだけで、
    呼吸とか、時間とか、違う観点で考えると、なんてことはない日々が続いているだけなのである。

    季節だって、ゆっくりと入れ替わっていく。
    辛うじて、雨が多くなってきたなとか、ベランダで飼っている植物が葉っぱをつけてきた、花を咲かせてきたというように、目に見える変化がある場合があると、それがきっかけとなり「季節が変わってきたなぁ、、」と感じることができるものの、そういうものに目を向けずにぼんやりと生きていると、いつの間にか春が来て、梅雨になり、夏が過ぎ去っていったりするものである。

    人間の成長だってそうだ。
    昨日まで19歳だった私が、今日になって20歳を迎えた。
    社会という切り口では、私は今日、成人になった。犯罪を犯せば名前が公表される。
    だけどそれは社会が決めた物差しなだけで、自分そのものを考えてみると、昨日と今日では、ほんの少し髪の毛が伸びた程度で、それ以外は全くもって何も変わっていないのである。

    先日、ツイッターでフォローしている方が「グラデーション」という言葉を使って、この辺を表現していた。
    そうなのだ。人生はすべてグラデーションで表現される。
    小学生、就職、結婚など、人生の節目というものはあるものの、それは外側の世界なだけであって、内面的には何も変わっていない。その、外側の世界で定義された物差しで自分の大きさを測り、そして、「私は成人になったんだ」と実感したりするのだ。
    昨日と今日では、いったい何が違うというのだ。
    成人になったから、お酒をガンガン飲めるようになる?
    お酒って飲みなれないうちはおいしくないし、すぐに気持ち悪くなるし、なんでこんなものを世界中の人間は飲むのだろう、そう思う時代が私にもあった。

    つかみどころのない話になってしまった。
    私自身も、つかみどころのない人間だよなぁ、と思う。

    そう考えると、自分というものの実体は、いったいどれが本当なのだろうと訝しんでしまう。

    42歳。
    会社員。
    二児の父。
    茨城で育った人間。
    レイソルのサポーター。
    マラソンランナー。
    山登りにあこがれる人。
    カラオケが好きな人。
    物書き。
    妄想家。

    もっと考えれば、もっと出てくるだろう。外から見たら42歳で、ただの、どこにでもいるような普通の父親に見えるかもしれない。
    だけど普通ってなんだろう、どこにでもいるようなってなんだろう。
    結局そういうところが分からないまま、死んでいくのかもしれない。

  • タイトルなし(急に、嫌われた?!と困惑する人を応援する話)

    タイトルなし(急に、嫌われた?!と困惑する人を応援する話)

    人間、簡単に人を嫌いになることなんて、できない。
    優しい人間なら、なおさらだ。

    人は生きていかなければいけない。
    死ぬ権利もある、と私は以前考えていたけれど、いや、正直に言うとそれについては未だにその権利はあると思っているけれど、生きていこう、と思う人なら、忘れる、執着しない、手放すということが肝要なのだ。
    生きていきたいから。
    辛い思いばかり抱えては生きていけないから。

    機嫌良く生きる。これが、人生を軽やかに生きる秘訣

    そのためには、自分を気分悪くさせるような他人とは、距離を置くべきだ。
    そうしないといつまで経っても、自分の機嫌が上昇して行かないからだ。

    たまに、そういう人のことばかり気になってしまう場合がある。
    人間だもの、そういう機会だってあるだろう。
    私は、今イマだとそういう人がいないから、こんな快活なことを描けるが、実際にそういう人を身近に持った場合、途端に気持ちが暗くなる程度の、小さな心臓の生き物だ。
    だから、そういう人のことばっかり気になってしまう人の気持ちが、とても良く分かる。
    まるで自分のことのように、良く分かる。
    避けるべきなのだ。
    頭の中では分かっているのだ。
    仕事などで、どうしても関わらなければいけない場合、いくつかの方法がある。
    誰か違う人に間に入ってもらったり、メールやチャットなど、対面で話さないなど。

    そうやって、やり過ごすのが一番なのだが、たまに、「まだ怒ってるかな」と気になってしまい、あえて相手の反応を試すようなことをしてしまいたくなってしまう。
    ちょっと会話しようとして、声をかけてみる。
    何気ない素振りで、複数人いる中で、ふとした瞬間に話しかけ、相手の反応を見る。
    すると、周りはいつも通り反応してくれるものの、その人だけ、相変わらず私を空気のように、まるで私なんて存在しないかのように振舞う。
    それを見て私は思う。
    あ、まだダメなんだ、と。
    そしてまた憂鬱な日々が続く。

    分かっているのだ。
    ほとぼりが冷めるまでそっとしておけば良いものを、そうすることができない。
    相手のことが気になってしまうからだ。相手が、今どういう心境なのか、気になってしまうからだ。

    残念ながら、そういう時、相手も気づいている。
    「あ、この人、私を試してる」そう気づいた時、その人の心持ちが「もういいや」なのか、「まだダメです」なのかは、その人の気持ち次第で、(書いているうちにその頃を思い出し、とても気分が悪くなってきた…)、、その人がもし意地悪な人、性根の腐った人間だったら、「この人を操ってやろう」という気持ちがすでに芽を出し、双葉から本葉を広げ始め、開花させようとしているはずだ。

    ダメなのだ。だから、ダメなのだ

    その人はやがて、毒粉をたっぷりと蓄えた、大きな花を開かせようとしているのだ。
    とても卑猥な、紫色の妖艶な花を。多くの虫たちが、その花に寄ってくる。
    虫は、花の授精を手伝うことになる。
    彼らはただ、その卑猥な匂いに惹かれてやってきただけなのに。
    やがて受精が完了し、綿毛のついた種子は風に乗って遠くへ飛んでいく。
    そして、知らない地で、同じように、意地悪な人が出来上がっていくのだ。

    Pixabay at Pexels

    そんな人達は、優しい人をコントロールすることで優位に立つことを至上の喜びとしている。
    彼らも、同じように、機嫌良く生きるためだけに、そうする術を知っているのだ。
    そして、残念ながら、優しくて少し気の小さい人達は、彼らが機嫌良く生きるためのツールとして、選ばれているのだ。

    逃げろ。今すぐ逃げろ

    同じように悩んでいる人がいたら、今すぐ、そこから逃げるべきだ!と訴えたい。
    あなたは、そんな彼らのツールとして生きている訳ではない。
    そんなのに利用されるために、生きているためではないのだから。
    あなたは、自分が機嫌良く生きるためにはどうしたら良いか、自分の少し痩せた胸に、手を当てて考えてみよう。
    すると、自然に分かってくるのだ、私は、私が機嫌良く生きるために、生きるのだ、と。

    具体的にはどうしたら良いのか。
    簡単だ。ブロ解からのミュートである。
    つまり、反応しない、普段目につかないところに置いておく。
    もし、仕事などで、どうしても必要な場合のみ、メンションが飛んでくるのだから、その時だけ反応すれば良いのだ。

    そして、いずれ彼は気づくだろう。
    自分が機嫌良く生きるために持っていたツールが、全然反応してくれないことを。
    もしかすると彼はまた、私を利用しようとするかもしれない。
    私をコントロールすることで、彼が機嫌良く生きるために。
    その時はその時で、また、昔のように温かな気持ちで接するのも良いし、基本的に無反応という態度を続けるのか。
    それは、あなたの、私の、自由なのだ。

  • 応援しているチームが勝てないのは、誰の課題なのだろう

    応援しているチームが勝てないのは、誰の課題なのだろう

    応援している柏レイソルというサッカーチームが、2021年に入ってからあまり勝ててないという状況です。
    選手みんなは頑張ってると思うのですが、結果につながらないのは、とても歯痒い思いです。

    私は、そんなレイソルを応援しているツイッターアカウントの人たちを多くフォローしているのですが、勝っている時はみな一様に「最高だ!」となります。
    一方、負けが続くと、応援することに戸惑いを表す人、特定の選手を罵倒する人、それでも応援し続けよう、と自分や周りを鼓舞する人、と様々なパターンに分かれるようになります。

    多分、自分がそのチームに対してどのような思いを抱いているか、どの程度没頭しているかによって、態度や言動に現れるのかな、と。

    負けることは、いったい誰の課題なのだろう

    アドラー心理学についてはベストセラーとなった「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読んだ程度の人間なのですが、その中で読んだことと照らし合わせて、考えてみたいと思っていて。

    ずーっと前から、これ、やってみたいと思っていたんです。この思考実験。

    まず負けることに対して、チームの成績によって被害をうけるのは選手、コーチ、監督、そして関係者の人たちです。彼らは職を失うという恐れがあります。
    もしかしたらシーズン途中で終わりです、という宣告を受ける場合だってあります。
    そしたら、極端なことを言うと路頭に迷います。困ります。お金がもらえなくなっちゃうので。
    だからこそ、監督、コーチ、選手たちはこの状況を打破すべく、必死にチームの状態を良くしようと頑張るのかな、と思います。

    では、私たちサポーターは、負けることにたいし、自分たちの課題になりうるのでしょうか。

    うーん。

    たち、サポーターはどういうスタンスでいるべきなのだろう

    そりゃ、レイソルが勝てば嬉しいですし、負ければ悔しいです。チームを好きというのは、単純にそういうことなのだと思います。

    だけど、私たちはただのファン、サポーターという立場なのです。
    私もそうですが、サポーターのファンクラブとしてお金を払っています。が、それは自己責任です。
    金返せ!という野次はしても良いですけど、お金を返すことはありませんよ、という規約に同意している時点で、それはただの文句でしかありません。
    そんなものに耳を傾ける関係者はいないのかな、と思います。

    もし、強いチームが好き!という単純な思いを持ツノなら、毎年強いチームを応援すれば良いのです。今でいうとフロンターレでしょう。彼らを応援することで、勝つ確率が高いですし、それによってもたらされる喜びも大きいのかな、と思います。

    負けた時に厳しい発言をすること

    これ、個人の自由なので、発言したければ勝手にしたら良いのかな、と思います。
    例えばツイッターや、匿名の掲示板など、前者については個人が特定される場合がありますが、基本的には公序良俗に反しないものであれば、自由に発言して良いはずです。

    ただ、それを見て気分を悪くする人がいます。
    私もずっとその一人でした。「なんで選手はあんなに頑張ってるのに、そんなひどいことを言うのだろう」のような思いをすることが多かったです。

    ですがそれは、自分がそういう人をフォローし、そういう人の発言をわざわざ見に行っているからです。
    気分が悪くなるのなら、ミュートやブロックすれば良いのかな、と思います。
    そうすることで、今後はその人の発言を見ることはないですし、自分も生きやすくなるのかなと思います。

    どういうスタンスで生きていけば良いのか

    結局、自分のいつも思い描く投稿に落ち着くのですが、自分がいかに機嫌良く生きるか。それが人生の生き方なのかなと思っており、

    そう考えると、もし、チームが負け続けて悔しい、次の日の仕事に影響が出るのであれば、チームの応援をやめるべきかなと思います。もしくは上述したように強いチームを応援するとか。
    いや、自分はそんなレイソルが大好きなんです、という人は、チームの勝敗にかかわらず応援すべきです。

    ちょっと困るのが、負けた時に口の悪いツイートをしてしまうんですよね、という人。
    これも上述のようにどんなツイートをしようが自由なのですから、好きにしたら良いのかな。
    けど、それによってブロックされたり、ミュートされたりするというトレードオフがあることを忘れるべきではないかな。

  • 傘をしまうビニール袋が気になってしまう男の話

    傘をしまうビニール袋が気になってしまう男の話

    カフェは混んでいた。
    雨だし、こんな駅前のカフェはお昼時こそ、混むべきなのだろう。
    いつもはフロアスタッフが2人で回しているが、今日は3人で回している。
    1人分の人件費を賄えるほど、十分な利益が出ると見越したのだろう。
    確かに、周りを見渡すと多種多様な客でほぼ満席となっていた。

    Photo by Keira Burton on Pexels.com

    私はセットについてきたサラダを食べ終えた。
    今日のパスタセットのパスタはホウレンソウのペペロンチーノだった。
    ニンニクの入っている料理はだいたい好物だ。
    早く出てきて欲しい、と思う反面、この客の入りだと、もしかしたら時間がかかるかもしれない、とコップに残っていた水を飲み干しながら、少しだけ覚悟を決めた。

    カラン、とグラスに入っている氷がぶつかったのかと思った。
    が、よく見ると私の器には氷が入っていなかった。
    少しだけ周りを見渡すと、隣に座っている男性の二人組のうち、1人が、私と同じタイミングで水を飲み干し、そこに残っていた氷が音を奏でたのだった。
    私は一瞥したが、ジロジロ見るほどの興味は無かったので、パスタが出てくるであろう厨房のほうをぼんやりと眺めた。ホールの3人が視界の端っこに映る。皆、せわしなくは働いているのが感じられた。

    ほどなくして、氷を鳴らさなかったほうの男が、暇を持て余すかのように話し始めた。
    何気なく聞くともなく自然と耳に入ってきたのだが、彼の声が心地良く通るので、つい聴いてしまった。

    「スーパーにさ、あ、良く、雨が降ると、このビニールをお使いください、ってさ、ビニール袋、出るとこあんじゃん」

    「あぁ、え、あるけどいきなりなんだよ」

    「あぁ、この間かなでさんと休憩中にめっちゃ盛り上がった話なんだけど」

    「かなでさんってあれだっけ、めっちゃおっぱいの大きな先輩」

    「そ、もう俺そこにしか目が行かないから、一緒のシフト、辞めて欲しいって言ったんだよ。そしたらかなでさん、なんて言ったと思う?」

    「俺さ、かなでさん、見たことないんだから全然わかんねえって。え、なんだ、触ってもいいよとか言ったの?」

    「お、さすがだな。私を楽しませてくれるんなら、考えてあげてもいいなーだって」

    「なんだよその上から目線!無理だわ俺ー。もっと癒されたいもん」

    「お前はそうだよなー。俺、かなでさんと寝れるんならどうやって楽しませられるか、めっちゃ考えるわ」

    「てかさ、スーパーのビニール袋が、どうしたの」

    「あー、かなでさんがさ、あれ、傘をしまう時、めっちゃアレな感覚になるって言ってて。はぁ?なにそれ、って思ってたの」

    そこで私のパスタが到着した。
    ここで話が盛り上がるような気がしてきた。私はパスタよりも男の話が気になって仕方がなかった。
    男の結末は。かなでさんと男は夜を共にできたのだろうか。
    私は必至にパスタをくるくるさせながら、少しずつ口に含ませた。

    「アレってなんすか?って聞いたのよ。全然意味わかんなかったし」

    「え、いやー、それってさ、、」

    「え?!お前、もしかして、、」

    「あれだろ?ゴムを付ける時のやつに似てるんじゃねーの?なんか、装着してる感、あるもんね」

    「うーそーだーろー!!お前もそう思ってたのかよ!なんだよ、知らなかったのは俺だけか!87初恋の吾郎さんみたいじゃねーか!」

    「いやでもさ、結局、それで分からない、ってなって、どうなったの?かなでさんとはその後やれたりした?」

    「いやーそれがさー、分からないっす、って答えたら童貞だろお前、って言われてさー」

    「あ、それはショックだ。お前が童貞かどうかはさておいて、なんかプライドが傷つけられたんだよね」

    「確かにそうだな。87初恋の吾郎さんみたいだな」

    彼らはやけに北の国から、87初恋を例えに出すような気がした。
    なぜ、今。

    「そしたらかなでさん、私、童貞、嫌いじゃないのよね、って誘うからさー。嘘だろ、これなんてAVだよ、って思って、怖くなって、いや、俺、童貞じゃないす、って応えてしまった」

    「お前そこは童貞です、ごちそうさまです!だろー。なんでそこで見栄張ってんだよー。童貞じゃなかったとしてもそこは童貞でいかないと。そこ頑張ったらかなでさんのおっぱいだぞ」

    私はがっかりした。私は童貞だったからだ。そして、かなでさんという存在がとても気になり、彼らがどこで働いているか知りたくなり、パスタの味が全く分からなくなった。

  • 自分の知らない自分のことを、自分は知るべきだろうか

    自分の知らない自分のことを、自分は知るべきだろうか

    私は、私のことをなんでも知っていると思う。
    そりゃ、もう42年も一緒に暮らしているのだから、私に関するほとんどのことは知っているはずだ。
    例えば、自分がどんなことに喜びや悲しみを感じるか。
    どんな事実に反応するか。もしくは興味がないか。
    それらを記録して統計として残しておくことで、たぶん、「私ってこんな人です」という自己紹介の文章が出来るだろう。

    だけど、本当の自分は、それだけではない。
    他人が私のことをどう見ているか。どう、評価しているかという点、これは実際に、私を知っている知人に対してヒアリングし、具体的な感想を聞くしかないだろう。
    知人は、本当は私のことを良く思っていない部分があるけれど、それを私に伝えることで、私は気分を悪くしてしまい、その知人との縁を遠いものに虐げてしまうことだってありうるから、ともし知人がそこまで気遣いをするような人だとしたら、本当のことは言わないだろう。
    本当は、私のことをめちゃくちゃめんどくさい人だと思っていて、もうほんとは関わりたくないんです、ということを。

    Andrea Piacquadio at Pexels

    たぶんそれは、深く考えてもしょうがないこと

    他人からの評価が気になる人は、基本的に考えすぎなのだ。
    上記のように、実際にインタビューしたとしても、自分のことをどう思っているか、知ることはできないのだ。もし知人がとても正直な人で、どんなふうに私を評価しているかを適切な言葉で表現したとしても、その言葉に対する解釈が違う場合、私が正しく理解することだってできないはずなのだから。

    唐揚げだって、嫌う人がいるのに、というツイートを拝見したことがある。唐揚げは大好きだ。日本に住む全員が好きなはずだと信じて止まなかった自分だが、そのツイートを見てからは、100%好かれる人なんていないに決まっている、ということに気づいた。
    私は誰からも好かれようとして生きてきた。おそらく42年過ごしたうちの39年くらいはそんな感じだったと思う。
    今だって、もしかしたらそういうところがあるかもしれない。全部抜けました、とは断言できない自分がいるということは、つまりそういうことだろう。
    嫌われたっていいのだ。どうせ嫌う人はいるのだから。
    大事なのは、そういう人に気遣う時間を作るよりも、自分を良く思ってくれている人に対しての時間を確保することなのだ。

  • 継続は力なり。だけど変化を付けてったほうが続くよね

    継続は力なり。だけど変化を付けてったほうが続くよね

    タイトルで全て簡潔してしまうような話ですけれども。

    何度か、継続することが一番の才能、みたいな投稿をしたことがあります。

    才能ってまず、自分がそれを好きだな、と思えるきっかけに気づくことで、そしてそれをゆっくりと温めながら、自分のものにしていくことだよなと考えていまして。

    そしてそれが人の役に立つようなものなのであれば、周りにも好影響を与えるのだから、誰にとっても得ですよね。

    ゆっくりと温めることの難しさ

    飽きっぽい私は、継続させることが苦手です。
    と言う人は多いです。私もその1人です。

    けど、それって実は自分がそのことを好きじゃない、もしくは好きじゃなくなったんですよね。

    好きなことはずっと続けることができるはずだから。
    好きじゃなくなった、興味がなくなったことに対して「自分、ダメだな」って思うのってちょっと違うような。興味がなくなっただけではなく、新たなものに興味を持つためのスペースを作り上げたという点も考えておくべきかなぁと思います。

    違う、話したいのはそっちの話じゃない。そっちの話題もなかなか興味深いですけど。

    Photo by Pixabay on Pexels.com

    やっぱり、何かひとつのことをずっと続けてる人を見ると、すごいなぁと思ってしまいます。
    そう言う人たちを少し観察すると、ずーっと同じことを繰り返しているかと言うと決してそう言うことはなく、少しずつ変化させているような気がします。
    そうすることで飽きのこないようにしているのかも知れません。

    私は一時期走ることが好きで、しょっちゅう走っていました。多分、4年くらいは情熱を傾けて取り組んでいたように感じますが、あの頃を振り返るとこまめにルートを変えたりして、飽きないような取り組みをしていたのかな。

    その、飽きないために私は何をしたら良いのかという問いかけ、ものすごく重要です。
    それと、冒頭に書いた、人の役に立つと言うこと、これも実はとても大切なのではないでしょうか。
    ぱっと見、他人から承認されることに対する欲求を満たすため、という風に見えるかもしれませんが、そう考えるのではなく、「世界に貢献している」と考えるべきなのかなぁ。