投稿者: hmgrbean

  • パクチーを我慢してまで食べるべきなのか

    パクチーを我慢してまで食べるべきなのか

    今自分が見えている世界が、全世界の1000万分の1程度のサイズだとして、残りの1000万分の999万9999を味わうことなく最期を迎えたとして、誰が自分を責められるだろうか。

    私は、その1が私の手元に残れば、それで十分なのだから。

    もしかしたら私は、もっと楽しいことを知らないのかもしれない。
    パクチーが好きじゃない人に、「人生の半分を損してる」と言う人がいる。
    冗談なのはもちろん分かっている、が、パクチーの美味しさを知らなくても、残りの美味しさを知っていれば、十分なのではないだろうか。

    いや、そもそも、私が知らないはずの「もっと楽しいこと」は、あなたが楽しいと感じているだけで、私が同様に楽しいと感じるかどうかは分からないのだ。必ずしも、あなたと同じ感情の振れ幅で生きていないのだから。
    シンプルに言うと、放っておいてくれ、と言うこと。

    では一方で、私は、残りの999万9999を知るべきなのであろうか。
    多分それは私の好奇心に応じて広げていくべきであり、好奇心と共にそれを享受していくために必要な気力や体力が十分にあれば良いはずだ。もしかしたらめちゃくちゃ楽しくて、その後、私のライフワークになり得るようなことが得られるかもしれない。

  • 親愛なる隣人

    親愛なる隣人

    すぐに身体を求めてくるその思考。
    男って本当にどうしようもない生き物だ。
    一度、それを断ったらあからさまに態度を変えた男がいた。名前なんてすぐに忘れたけど。

    私の身体は汚れているのかもしれない。
    私は、何かに縋りながら生きていかねばならぬと気付き、それが、私を求めてくる男という存在だと気づいたのに、そう長く時間はかからなかった。
    承認欲求。私で果て、そんな人間の腕に絡まりながら、自然と意識を混濁させていく時に、私は絶頂することが多かった。そんな私の生理反応に気づき、驚く男が何人もいた。

    人は生まれながらに罪を背負う、と語った昔の神は、なぜか人間の形をしていたという。
    人間は、神になり得るのか。神は、精霊ではないのか。
    天井を見ながらそんなことを考えていたら、右手の指先が猛烈な熱さを感じ、タバコを吸っていたことを忘れた。灰をなるべく落とさずに、静かに静かに灰皿へと移動させ、結局灰皿の直前でそのミッションは失敗した。自分の体液が付着するティッシュでそれを拭き取る。ティッシュはこの世のものとは思えないような、濃淡の鮮やかなグレースケールを身に纏い、すぐにゴミ箱へと捨てられた。

    起きたら男はいなかった。私の部屋へ男を呼んでしまうことに躊躇がなくなったのは、なにかを捨てたからだろうか。警戒心かな、羞恥心かな、一瞬考えたが私の気持ちをカテゴライズすることになんの喜びを見出すこともできなかったから、その問いも一緒に、グレースケールのティッシュに包んで捨てるフリをした。飲みかけのストロングチューハイを一口飲んだ。

    スマホを見たらマホトからのLINE。マホト、誰だっけ、と思ったけど昨夜ここに泊まった男ではないことは確かだ。
    「会いたいんだけど」それだけ。どうせこいつも、私の身体が目的なんだろう。
    私はそれを無視した。もうそんなヤツ忘れた。私はバイトに行かなければいけない。完全に寝坊している。シャワーをキャンセルすることでなんとか間に合う時間だ。ユニットバスの中にある洗面台へと向かう。そうだ私、昨夜男と一緒にシャワーを浴びたんだった。忘れていた。記憶なんて、快活に生きるための足枷にしかならないのだから、覚えていたって無駄なのだ。だけどシャワーを浴びたという事実は、シャワーカーテンに残る水滴によって思い起こされた。昨夜の男は、私の身体を触りたがった。バスタブの端に、チューハイが2本。どちらも中途半端に残っていた。私はその残りをバスタブに流す。はぁ、とため息を吐く。鏡を見る。メイクが中途半端に残っていた。それを落とし、最低限のラインを取り戻す。髪を適当に濡らし、乾かし、セットする。とりあえず外に出られる状態になった。首筋にキスマークが残っていた。舌打ちをしながら絆創膏を貼る。

    今日こそは普通に帰宅して、明日に備えよう。
    軽やかに生きる10のヒントという本が本棚に立てかけてあり、バイト中、ちらっと表紙だけを見た。前書きに書いてあった文章が、やけに印象的だった。

    バイト仲間の太田に、夜なにしてんの?と聞くと、太田は「主にゲーム」と応えた。
    今日のコンビニは暇だった。太田と二人、品出しを終え、夕方の盛況に備える準備を終え、二人でレジに立っている時に聞いたのだった。
    太田は、きっと彼女とかいたこと無いのだろう。実家暮らし、と以前聞いたことがあった。
    こういう人間と付き合えば、普通に帰宅して、明日に備えよう、という人生を過ごすことができるのだろうか。
    主にゲーム、って、さ、生きてて楽しいの?と素直に聞くと、
    そうすねー、と前置きしたあとで、エミさんとは感覚が違うだろうから分からないですけど、僕は僕なりに楽しいと思ってますけどね、と太田。
    そりゃそうだ、私は太田じゃないんだから。ていうか、なんでエミって名前で呼ぶんだコイツは。どうでもいいけど。

    だけど、しかし、太田の返答はやんわりと私の心へと浸透していった。
    私は、私が楽しいと思ってやってきたことの積み重ねで今が在るはずで、それが今の荒んだ生活を生んでいるのだとすれば、そしてそれが「あまり良くないもの」と私自身が認識すればなお、改善する余地があるのだろう。
    フリーター、バイト終わりにいったん帰宅、からの数軒を重ねる居酒屋、そして適当に声をかけてきた男と寝る。起きたら昼。またバイト。
    これはこれで楽しいのだ、楽しいと思っていたのだ。何か、罪悪感が?私に?そんな気持ちは今日、バイト前に例のティッシュに包んで捨ててきたではないか。

    忘れよう。そんなことは忘れよう。日々、快活に生きるための邪魔でしかない。

    コンビニは午後のピークを越え、20時になりバイトが終わった。
    太田と同じ時間に終わる。彼はいつもどおり、そそくさと退勤処理、着替えを終え帰ろうとする。
    ねぇ太田、一緒に飲みに行こうよ。
    彼は一瞬だけ驚いた顔を浮かべ、いや、遠慮しときます、ゲームがあるので、と応えた。

  • ランニング | 5km | 5分5秒/km

    ランニング | 5km | 5分5秒/km

    起きたら雨がぱらついていて、外に出る気がめっちゃ失せた。
    今日はわりと走る気満々で、昨夜はお酒を控えめにして十分に水分を摂ったし、糖質も取ったし、割と準備万端にして寝ました。

    相変わらず眠りは浅めで、何か夢を見た気がする。
    夢って本当にすぐ忘れる。
    けど多分、書き留めて残すほどの夢ではなかったのだろう、と。

    眠りが浅いせいで、「良く眠れたー!」という喜びが減っている気がする。ということで機嫌の良い寝起きというのは少ない。

    住宅地に住んでいるせいで信号が多い。
    ちょっと調子良くなってきたな、と思ったら信号待ちで止まる。止まりたくないから曲がる。けどまたすぐの信号で止まる。
    この繰り返しなように感じる。

    紫陽花がとても綺麗な季節だ。
    梅雨って洗濯物が乾きづらいし、なんとなく気分がジメジメしてしまうけど、これから夏に向けてエネルギーを蓄えているんだろうな、と植物を見るたびに感じる。

    今日は5kmが目標ではなかった。30分を目標に。
    とりあえずだらだらでもいいから30分走れば完了ということになるのだが、それだとあまり面白くないので、自分の中で割とハイペースなところをキープして走るように心がけた。
    この季節、少しでも早く走ると心臓が口から飛び出てしまうほどに激しい鼓動を打つ。打つというよりも撃つが近い。
    それを信号待ちで止まるたびに抑え、また走る。
    ちょうどエキサイトバイクに出てくる、あの、初心者マークみたいなやつと同じだ。あれがずっと続いてくれれば、もっと早く、力強く走れるようになるのに。

  • 悪いのはその人ではなく、その人を作りあげた環境、なのであれば

    悪いのはその人ではなく、その人を作りあげた環境、なのであれば

    罪を憎んで人を憎まず、、、

    最近、罪を犯す人間が育ってきた環境について考えたことがあり、彼らは望んで罪人になるような人間ではなかったのではないか、と。そもそもの話。

    だからといって加害者を擁護するつもりは毛頭ないのですけれど。池袋のプリウスの話についても、早いとこ罪人認定して欲しいな、と思う程度の。

    で、罪を犯し、刑務所に入り、入って直ぐか、何年経ってからかはその人次第ですが、「自分はこんな人生を歩んでいくはずではなかった」と思うことがあるのではないかと。

    例えば、親という、自分の人格を作る上で大きな影響を与える人間のこと。彼らが、自分のことをもうちょい善い人間に育ててくれたらな、と、考えることがあるかもしれません。

    もしくは友人。彼らがきっかけとなり、悪に手を染めるような人間になってしまった。あの時自分を誘ってくれなったらな、と。

    例に挙げた2つの事例。親だったり、友人がきっかけとして、罪人になるような人間を作り上げてしまったとすると。
    その場合は、その人たちも悪い。

    その人も悪い。

    けど、それもそうだけど、その人たちの方にしか身体を向けなかった自分も悪い、かなと。人生を選択した責任だってあるだろ。

    というのも、おそらく悪友と同じように、善友とでも言いますか、自分を善い道に導いてくれる人間だっていたはずなんですよね。この世の中って悪い人間ばかりじゃないので。
    なので、そっちの方、善友の方に耳を傾ける、身体をそっち側に向けることが、自分を正しく律するために必要だったのではないかと。

    罪を憎んで人を憎まず、、、

    はわかるのですが、自分にだって責任があるだろ、というお話。

  • ランニング| 10km | 5分26秒/km

    ランニング| 10km | 5分26秒/km

    雨上がりの10km。
    起きたら9時で、そのまま惰性で一日を過ごすような予感がしていたのだけれど、それじゃもったいないと感じ、ランニングウェアに着替えた。

    朝ランに至るまでの心境は、2種類ある。
    前日夜に計画するもの。明日、起きたら走ろう、ルートはこうしよう、みたいなところまで決めて、お酒やご飯の量を調節し、身体のコンディションをできる限り万全にしておく。
    この場合、朝寝坊や二度寝をしない限り、予想通りの体調で、予想通りのルートを走ることができる。
    私はあらかじめ計画しておいたものがその通り遂行されると嬉しいタイプなので、これは私が機嫌良く生きるためには割と優先したい行動のひとつである。
    2種類めは、今日のように特に計画はしていないけど走ろう、と言うもの。前日のお酒、夜更かしなどをしているから体調は万全とは言えない。こういう時に無理やり走ったとしても途中でばててしまったりするので、割とギャンブル性が高い。
    どちらがいいかと言えば圧倒的に前者なのだけど、後者も捨てがたく、惰性で過ごす1日からもたらされる気持ち、あぁもっと充実した1日にすれば良かったという後悔のことを考えると、無理にでも走ってみたほうが良かったりする。

    今日は割と調子が良かった。
    走り出してすぐ、500mくらい走ったあたりで一瞬だけ腹痛になり、場合により2km程度で終わりにするか、、と警戒しながら走っていたのだけれど、3kmくらい経ったあたりで忘れてしまった。
    天気は曇りで、気温は23度くらい、なので走るには少し暑い。心拍数もあっという間に177辺りをマークしたので、ペースを落としつつ、周りの風景を楽しみながら走った。

    そこで目に入ったのが、ゴミ屋敷である。

    初めて走ったルートだったので、ゴミ屋敷があることは知らなかった。

    私は少し、その住民に寄り添い、なぜゴミ屋敷になってしまったのかという心境の変化を考えてみた。走り始めて6kmくらい経った辺りだろうか。

    初めからゴミ屋敷に住み始めるということはないだろう。何かしら、きっかけがあったはず。
    ぱっと思いつくのは、ゴミの日にきちんとゴミが捨てられなかったということ。

    住民は、地域のルールに従い、適切なタイミング・内容でゴミを捨てる必要がある。社会生活を営むうえで、割と基本的なことだ。
    その、社会的なルールに対し理解できない部分があった。だからゴミが捨てられなかった。
    例えば、分別が良く分からない、とか。
    プラごみと、燃やさないゴミの違い。
    流山市の話であるが、私も少しだけ迷うことがある。アルミホイルとか。
    そういう、微妙なところで分からなくなり、つまづいてしまう。
    ビニール傘は。ペットボトルのキャップは。乾電池は。そういうところを考えるうちに、嫌になってしまった。水分がなければカビが生えることはなく、だから臭いだって出ないはずだから、とりあえず家という空間の中にゴミを貯められるのであれば、そうしよう。
    いざとなったら、少しずつ捨てていけば良いのではないか。
    住人は、そんなことを考えながら、どんどんと意識をぼんやりさせていったのでは。
    最期、ゴミに埋もれて、最後の呼吸を終える時、住人はどんな思いを抱くのであろうか。

  • ブレイクスルー

    ブレイクスルー

    彼はずっと燻り続けていた。
    自分の思い描く理想は、こんなものじゃない。
    自分にはもっと大きな称賛が。
    誰もが、自分を一目見ただけで卒倒してしまうような、うねりのある興奮を。
    ロンドンの空港で働く青年は、やがて自分を表現するための方法を考えていた。

    フレディはずーっと、死ぬ瞬間まで葛藤し続けたように見えた。

    自分のルーツ。
    身体的な特徴。
    思考。
    親との確執。
    家族というものについての考え方。

    葛藤したところで、それが何かのきっかけによって得られるカタルシスなどで排出できたら良かったのだろう。けど、その排出方法がうまく見出せずに暮らしていたように感じる。

    ブレイクスルーを経験し、トップスターになり、自分の思い通りに生活ができているように見えるがそれも束の間、「本当に信じ合える人間」が近くにいないことに気づく。

    虚無感。

    何をしても、満たされない日々。
    自分では、何をしていいか分からなくなる。

    自分のやりたいことが見つからない、というのは、自分が嫌いな証拠かなと思う。自分の興味があることに対し、興味がないのだから。
    知ろうとしない。自分自身に興味がない。
    好きの反対。無関心ということになる。
    やがて彼は暴走する。周りの人間に操られるように、物事を進めていく。
    家族と以前呼んでいた人間たちを遠ざける。
    何が正しいのか、見いだせなくなる。
    人間って簡単に堕ちるんだなぁと思った。
    悪友たちによってお金を搾り取られ、自分が利用されていると気づいたとしても、それを止めることができないような人間になる。

    救いなのは、そんな中でも、思いやりをもって声をかけてくれた人がいるという点。
    映画だから脚色されているのだろうけど、雨のタクシーで、エミリーと対話したシーンが非常に印象的だった。私にはあのシーンが至高だった。心を揺り動かす。魂で語る、叫ぶ。そこでフレディは気づく。私は間違っていた、と。私が一緒にいるべき人間、進むべき道が間違っていたと。急速に自分に興味を持ち出す。自分の意思で、いつの間にか外れてしまった自分の道を再び見つけ出し、進むべき先を自分で選んだ。
    その時にはすでに身体はウイルスで侵され始めていたというのが、最大の悲劇。
    図らずも自分が道を外した時に行動したことの因果で、死の病を患う。時が戻ってくれれば。常に誰が大事なのか、それを彼が忘れなければ。たらればで語ったところで現実は戻らないが、早すぎる急逝であった。

    私は高校の頃にQueenを知った。Bohemian Rhapsodyが代表曲と言われているかも知れないが、代表曲ってどれだろう、っていうくらい、好きな曲が多い。歌詞が良い、メロディが美しい、など楽曲の良さに惹かれていたが、彼の映画を観て気づいたのだが、楽曲もそうだがフレディマーキュリーという人間の清らかさ、実直さ、情熱、それらにも深く惹かれていたんだな、と認識させられる映画だった。

  • 相槌の話

    相槌の話

    木々が、風になびいて揺れている。
    さっきまで降っていた雨が、葉っぱが揺れたせいで、落ちる。
    重力。引力。
    その水滴が私の頬に直撃し、唐突に濡らしていく。

    人を疑うことは簡単にできる。
    そして、自分が信じることのできる人は、自分だけだ、と痛感する瞬間がやってくる。
    自分だって、たまに、自分を裏切るではないか。
    自分が期待していたものを達成できなかったことだって、たくさんあるじゃないか。

    在宅勤務が主となり、画面の向こうに同僚がいるということが常識になった。
    1年ほど前までは、隣に座っていた彼が、彼女が、今では画面の向こう、会議中にカメラオンにならないからどんな風貌になっているか分からないのだが、バーチャルな付き合いになってしまった。

    猛烈なウイルスが齎したものは、コミュニケーションの変革だ。
    今まではアイコンタクトを始めとした対面コミュニケーションが主だったのに、今では相手の声しか分からない状態で、コミュニケーションを取るようになってしまった。
    相手の一挙手一投足が見えないから、相槌を打つことすらままならない。
    相槌は本来、適度に打ったほうが相手が喋りやすいと言われている。
    だけど、ネット上でのバーチャル会議では、もっと頻度を落としたほうが喋りやすいような気がするのだ。
    相槌を打つと、もともと話していた人は「声が発せられた」と認識し、いったん話を止めてしまう。そして、それが意見などではなくただの相槌だと気づいた時に再開する。

    その、わずか0.8秒程度のギャップが、会話をより一層ぎこちなくさせてしまう。

    私は相手が気持ち良く話してもらう状態を作るのが好きで、だからこそ適度な相槌の頻度について良く考えるのだけど、それは人によって感覚が違うから、少ないほうが、とか多いほうが、とか考えてしまうのだけど、それがZoom会議になると新たな感覚となって考え直さなければいけない、と実感している。

    南風がやんだ。

    穏やかな空気が室内に入ってくる。
    窓を開けて寝るのにはまだ早いような時候だが、窓を開けて室内を少しだけヒンヤリさせた状態で掛布団に包まって寝るのも、この上ない幸せの形だったりする。季節はそうやって、自分が捉える幸せの形を実感させてくれる。

  • あの空が見える

    あの空が見える

    5月にしては、割と強く大きな粒の雨が降り注いでいる。
    傘の、骨と骨の間をすり抜けるように流れてきた風が、私の頬をひんやりとした指先で撫でていく。
    その風は湿気を含んでいる。顔がベタつく。少しだけ、それを不快と感じる。私は歩みを速める。

    昨夜、ウイスキーを舐めながら綴った小説は、朝を迎えてから読み返したら、予想以上にさび付いていた。またダメだった。
    夜は魔法がかかる。自分の描くストーリーに対して、盲目になってしまう魔法。
    夜のせいで、私は自分がとびっきり最高な小説を書けると、信じてしまうのだ。

    あぁ。

    溜息をつきながら、黒に近いグレーの空を見上げようと傘を少し横にしたら、天から落ちてきた雨粒がメガネに当たった。
    私はメガネをしていたんだと、その存在を再認識した。

    人生は永遠なんてことはなく、有限なはずだから、私は私の小説を完成させなくては、という無駄な使命を自分に課しているのだが、いつまで経ってもとびっきりの小説を書くことができず、朝になり自分の才能に幻滅してしまう日々を過ごしている。

    いや、知っているのだ、私に才能がない、なんてこと。
    例えば、宮沢賢治のような、風景を言葉に綴る才能。
    例えば、伊坂幸太郎のような、とても魅力的なキャラクターを作る才能。
    例えば、角田光代のような、ドロドロとした人間関係の中で揺れ動く心情を言語化する才能。
    例えば、フランツ・カフカのような。
    例えば、ニーチェのような。
    キリがない。

    才能があるとか、ないとか、そういうのは誰かが決めた物差しなんだから、私には、私ができることを続けることが、とびっきりの小説を描く唯一の方法なんだと信じている。

    それは何か。少しでも多くの文章を描き、自分の実力を付けていくことだ。
    スポーツや、いくつかの芸術ごとは、そもそものスタートラインに立つためのハードルが高いことが多い。
    それに引き換え文章を書くことは、手元にノートと鉛筆があれば始められるのだ。ノートがなければ、曇った窓だって良いのだ。ちょうど、湿度の高いこの季節は、窓だって十分なキャンバスになり得るのだ。ゴッホもきっと、病院の窓に、たくさんの星月夜を描いたであろう。

    そう、磨くべきは、自分の感性と、それを言語化する能力だ。
    言語化と言っても十人十色なのだから、正解はないのだ。私が宮沢賢治が至上と感じるのであれば、それが一番なのであろう。だけどそれはしょせん彼の模倣に過ぎない。私が彼と同じ星空を見ても、銀河鉄道が走っているようには見えず、ただの、散りばめられた星が全面に広がっているだけの、宇宙なのだから。
    その、私が見る景色が、私の個性なのだろう。
    その個性は途絶えることなく、私の命とともに、生を紡いでいく。

    個性は、爆発しない。私と寄り添うだけ。
    生まれてからずっと、私の傍にいてくれた、個性。

    これが私の望んだ未来だったのか、と思い返すことが良くある。
    意識を変えよう、後悔や、それに近い類の思考はなるべくしないようにしようと努めるようになってから、意識的に過去を振り返らないようにした。
    そして同様に、未来を信じることもなくなった。
    未来を信じるとは、自分の期待する結果になっているということだ。
    私が今、期待している未来は、きっとやってこないのだから、それを信じることは後悔の一つになるような気がしている。
    だから、未来、将来の展望については、考えないようにしている。
    夢なんて。持たないほうが良かったのだ。それが後悔するきっかけを生んでしまうのだから。

  • 少しずつ春へ

    少しずつ、人生を先に進めていく。
    進めていく、という言い方は正しくない。進んでいくのだ。
    時間は勝手に進んでしまう。私が、「ちょっと待って!」といくら叫んだところで、そんな甘えには耳を貸してくれないようなのだ、どうやら。

    私はなにかを成し遂げたのだろうか。
    私はこの先、なにかを成し遂げるのだろうか。

    成し遂げる、とは。誰に対して、何に対して、何を遂げるのだ。

    5年くらい前からであろうか、私は、生きる目的、生きる意味というのを見失ってしまった。
    見失ったというよりは、それをマジメに考えようとして、深みにハマった。
    それは、悩みだったのだ。考えるではなく、悩むほう。
    つまり同じところをぐるぐると回り続け、答えを見出す活動には目を向けないほう。

    それで5年費やした。私は生き延びている。途中何度か、もう分からないし、多分この地球に対し、世界に対し貢献をしていないはずだから、いなくなっちゃってもいいかな、という道を選ぼうとしたことがある。今でもそっち側に引きずられることがある。

    Tima Miroshnichenko at Pexels

    だけど、時間は相変わらず進んでいくのだ。
    世界は変わっていく。私も歳をとっていく。

    やがて、ぼんやりと気づく。
    生きる目的とは、死ぬまで生きることであり、
    生きる意味とは、この世に居ることである、と。
    そしてそれらに「より良く」という言葉を先頭に付けるのであれば、
    機嫌良く、死ぬまで生きることになり、
    機嫌良く、この世に居ることになるのだろう。

    それに気づいた時、ふっと、私は空に浮いた。

  • ほろ苦いビールの味

    ほろ苦いビールの味

    大好きだった彼と別れた。
    突然のことで、未だに頭が混乱したままだ。
    ただ、他に好きな人ができたという言葉だけを残して、彼はいなくなってしまった。

    私が彼を繋ぎ止めておけるようなものは何も残っていなかった。
    いつも私が追いかけてばかりで、「付き合っていた」という事実は、
    実は、私が勝手に思い描いていた解釈で、

    本当は、

    私がずっと片思いをしていただけなのかもしれない。

    遊ばれていた?
    と友人は今だからこそそう言うけど、私にとっては
    そんなことはどうだって良かった。
    もうお前とは会わない、と言われた時点で、
    遊ばれていたとか、本気だったとか、そういう次元の話は
    本当に、どうだって良くなってしまったのだ。

    彼は早足で歩く人で、私はいつも後ろ姿を追いかけていた。
    いくつもの季節を一緒に通り過ぎ、最後まで早足のまま、
    見えなくなってしまった。 

    彼は、ビールをとてもおいしそうに飲む人だった。 

    一度彼の家で食事をした時、
    途中のコンビニでビールを買い、彼の家で食事をした時、
    苦いお酒は苦手、というと私の分まで飲んでくれた。
    私は一緒に買っておいた、アルコール度数の低いチューハイを飲んだ。
    それでも私は顔が真っ赤になり、とても恥ずかしかった。

    「大丈夫、女はすぐ忘れちゃうのよ、この泡みたいに」
    涙でぐしゃぐしゃになった私を、ビールを飲みながら友人は慰めてくれた。
    そうかなぁ、と私もビールを飲んだら、その苦さに彼を思い出し、
    顔が涙でぐしゃぐしゃになり、 また友人を困らせてしまった。
    友人には何度この相談をしたのだろう。
    付き合っている時にも、幾度となく「遊ばれているのかもしれない」と言った類の相談をしていたのを、今では痛々しく感じてしまう。
    私、本当は、遊ばれていたの、分かってたんだね、と言うと、
    彼女は、ふっと笑い、私のビールを奪い、一気に飲み干した。
    喉が、ゴクッ、ゴクッ、とビールを胃に落としていくのがありありと見えた。

    彼と歩く散歩道の空気、足音、公園のブランコ、都電が走る音。
    みんな大好きだった。そして、彼のことも。
    ほろ苦い味がする思い出は、ビールの泡みたいに消えてなくなるだろうけれど、きっと、それで良かったのだ。
    彼のことをだんだん忘れていかないと、私は新たな恋への一歩を踏み出す事ができないはずだから。