投稿者: hmgrbean

  • 君が見てる白は、あの人が見てる白と同じ色じゃない

    君が見てる白は、あの人が見てる白と同じ色じゃない

    白って清潔。何にも染まっていない。まばゆい。雪。牛乳。

    先天的に目の見えない人に、白という色を伝えるにはどうしたら良いのか。
    適切に、最低限の言葉を使って伝える場合の、正解が見つからない。

    目の見えない人、って言い方をしたけれど、違う言語を使う人に対して、適切なニュアンスを含んだ意味を伝えるのが難しい。

    例えば、どうも。っていう言葉、これを日本語を知らない人に対して伝えるにはどうしたら良いのか。
    先に挙げた、白と同じ話。
    こんなにも難しい世界で、戦争をなくそうって言うのは到底簡単なことじゃないんだろうなと思う。
    戦争がなくなったほうが良い、ということがどういうことなのか、意味が分からない人だっているのだから。
    そんな世界に生を受けた人は、戦争のない世界がどんなに良いものなのか、想像がつかない。
    日本という国で、穏やかな西日を受けながら、こんな風にブログを書いている人間のことを想像することができない。

  • 学力で学校を選ぶことは、人を救うのか

    学力で学校を選ぶことは、人を救うのか

    自分の生き方は自分で模索していく世界になりつつある中、いろいろな人の考えを知り、自分だけの正解を導いていく世界。
    いろいろな人の考えを知ることが必要なのだとすると、偏差値の近い人が集まる高校という制度は正しいのであろうか。

    自分と学力の近い人たちが集まる学校。
    考え方の近い人たちが集まるのだから、気が合う人、沢山いるのだと思う。
    一方でそれは、もしかすると、多様性のある考え方を手に入れるチャンスを逃しているのかもしれない。
    一長一短なのかもしれない。
    どちらが良い、ということではなく、好みの問題。

    それがデメリットだと感じる人はおそらく、学校の外に出会いを求めていく。
    ボランティア活動やバイトなど、様々な境遇の人が集まる場所。
    おそらく、いろいろな考えを手に入れることができるだろう。

    生き方は人それぞれだから、自分の信じる道を進めば良いのだ。
    変化する必要はない、他の人から刺激を受けたくない、自分の中にあるもので十分という人だっている。
    正解は自分で見つける。

  • 深海に潜るために悩んでいない

    深海に潜るために悩んでいない

    先日、あるYouTuberのツイートを拝見する機会があった。
    彼はそこで「悩んだ時、その先に落ち込んだらそこで終わり、それ以上は悩むのをやめよう」と言っていた。
    最終的に落ち込んだら、それ以上悩んでも仕方がないから、と。

    それを聞いて、私は、立ち直るために悩むのと、落ち込みたいから悩むという2パターンがあるのか、と気づいた。
    落ち込みたいから悩むというパターンの気づき。
    悩むのは、立ち直るためであり、落ち込むためでは無いという先入観を持っていた。
    ではなぜ、人は落ち込みたいのか。
    落ち込む先に、何があるのか。

    昨日の投稿みたいに、深海まで落ち込んだ人間は、時として浮上できないことがある。
    人間は、というか生き物は、みな死ぬまで生を全うするべく本能を持っているはずだから、その筋で言えば、生を全うしていないように見える生き方は、しないはずだ。
    しかし、時として人間はそういう考えをしてしまうことがある。
    落ち込みたいという意思は、背景には、自分の行動や思考を内省し、失敗を重たく受け止めたいのだろうか。
    それによって、次はちゃんとしよう、という意識の矯正が生まれるのかもしれない。

    単純に、落ち込みたい時だってある。
    私だってしょっちゅう落ち込んでいるが、それは、私自身が落ち込みたかったから、なのか。
    だとすると、自分を肯定するという目線で言うと、その思考を否定できない。
    落ち込みを肯定する。
    その先、落ち込み続けるのではなく、考えるのをやめる、とそのYouTuberは言っていた。
    確かに、落ち込み続けても浮上することが見込めないのであれば、そうすべきであろう。

    感情をコントロールするのは本当に難しい。
    思考の流れは人によって違う。
    なので、本や誰かの考えを参考にし、自分の思考プロセスを徐々に良い方向に持っていく訓練が必要なのだろう。

  • 妄想と刺激

    妄想と刺激

    あの人は自分のことを嫌いなんじゃないかという、妄想。
    いくら制御しようとしても、妄想を止めることができず、どんどん膨らんでいく。
    そして最終的には、心を病んでしまったところで、その妄想は止まる。
    止めるのではない。止まるのだ。
    自分が考えられなくなったところまで行ってしまうから、自発的に止めることは難しい。

    だが、ちょっと考えてみたい。
    本当に、あの人は、自分のことを嫌いなのだろうか。
    きっと嫌いなはず、というのは自分が描いた妄想に過ぎないのだ。
    もしかしたら、あの人は、自分のことをそんな風に、嫌いにだなんて考えていないかもしれないのだ。
    ただ、自分が、妄想を通して刺激を受けたいがために、その妄想をやめていないだけなのではないか。

    生き物は、刺激を求める。
    一定の強さで刺激を受け続けると、やがてその刺激はマンネリ化し、もっと過激なものを欲しがっていく。
    妄想はやがて、嫉妬となる。
    ただの思い込みなのに。
    どこかで断ち切るべきなのだ。
    あの人は、自分のことを嫌いなのかどうかは関係なく、自分はあの人に好かれるために生きているのではない、という意識を持ち、その妄想を断ち切る。
    ゴールは海の底に沈むことではなく、妄想を断ち切り、別の方角にある刺激を受けること。
    そっちに目を向けていく。
    それには変化を伴う。

    人間は妄想が好きで、変化を嫌うから、なかなかそっちには気持ちが入っていかない。
    だけど、そっちにしていかないと、深海から出られなくなってしまうのだから、まだ息が続いているうちに、意識を。

  • 物欲はなくならないだろ

    物欲はなくならないだろ

    年末にAmazonのセールを見て、そこからトラックボールを買った。
    タイムセールで安くなっていたので、つい、買ってしまった。
    元々マウスは持っていたのだけど、トラックボールを持ってみたかった、使ってみたかったという欲望に負け、買ってしまった。
    後悔をしているかというと、なんとも言えない。
    仕事で使っていて、実際めちゃくちゃ使いやすくて、買って良かったと思っている。

    同じように、在宅勤務が継続的なものとなった今、外部ディスプレイを買った。23インチの。
    これは楽天市場で、確かこれもタイムセール的なタイミングで安くなっており、そこで買ってしまった。
    買ってしまった、と語尾に置く辺り、後悔をしているように思える。

    そう、これについては後悔している。

    元々在宅勤務が始まった時点で、ラップトップPCは貸与されていたし、マウスだって長年使っているものがあった。
    それらを使うことで、外部ディスプレイやトラックボールを買う必要などなかったはずだった。だが物欲に負けた。
    繰り返すが、買った製品自体には非常に満足しており、だから、こんな振り返りをすること自体が時間の無駄なのかもしれない。

    ただ、断捨離系(物理的・精神的)の本を読むと、足るを知るという概念に疑いようもなく、それに照らして考えてみると、やけに無駄なものを買っているように感じる。
    これではお金が貯まらないのは明白だ。
    ものを持つと、それに対する執着が生まれる。
    そして捨てる時に「もったいない、まだ使えるのに…」という気持ちが生まれ、執着しているのだなと感じる。

    そう、執着。
    自分が苦しむ種。
    それを取り払うためには、ものを持たない方向に生活や自分のマインドを寄せていく必要がある。

    人間だもの、たまの物欲くらいはね、という気持ち、良く分かる。
    だけどそれに付き合って生活をしていたら、どんなに広い家に住んでいたってあっという間にもので溢れてしまう。
    そうするとどこに何があるか分からないし、精神的にも窮屈になってしまう。
    自然に後ろ向きになってしまう。
    そしてなにより、物欲はいくら買ったところで湯水のように湧いてくるのだ。
    物欲は悪魔だ。
    だから、どこかでそれを断ち切る必要がある。
    なるべく早い段階で。

    ただ、上述した系の本を読んだところで、「必要最低限で暮らすことから生まれる満足感」を得るにはまだ訓練が足りていない。
    どうやら私はミニマリストになりたいようで、そっち系に気持ちが向かっているのは確かなのだが、物欲があるとついAmazonや楽天を見てしまう。
    2021年はまず、買わないことを念頭に置きつつ、使わないものはガンガン捨てていくという方向で生きていきたい。

  • 律するか、怠けるか

    律するか、怠けるか

    ここ数年で気づいたことなのだが、自分は心身の状態に対して完璧にしておきたいタイプなんだなということ。

    もう40歳を超えているし、毎日きちんとした体調を保つというのは簡単なことではないが、それでもどこか弱っている部分があると、最優先で治そうとする姿勢に入る。

    例えば口内炎。年に数回できる。非常に痛いので嫌い。その嫌な思いを早く取り除きたいので、ダッシュで治す。お酒をやめる。食生活をきちんとする。睡眠時間をきちんと確保する。その辺りの生活を見直すことで、割と、それこそ一週間くらいで治る。自然治癒力に感謝するとともに、普段の生活を見直す良い機会だと、いつも感じる。

    そんな風なんだから、むしろ予防観点で、口内炎のできない生活を普段からやれば良いのにと思うのだが、なぜだかそれはできない。

    なぜだか、と書いているが自分ではちゃんと理解している。怠惰に暮らしたいからだ。

    人間は自分の欲望に甘い。お酒を飲みたいし、好きなものを好きなだけ食べたいし、夜更かししてスマホをダラダラ見ていたい。ゲームしてたい。そんな欲望に対して真摯に付き合ってしまうと、途端に口内炎ができてしまう。そんなリスクをちゃんと理解しつつ、怠惰に過ごすのだが、一方で口内炎ができてしまうとそんな生活をしていた自分を恨む。

    人生の選択において、自分を律するか、欲望に忠実な姿勢で生きるか、二つに一つだ。どっちも、ということはできない。

    それなら私は、と簡単に選ぶのが難しい。というか、どっちかに偏って生活すること自体不可能なのだ。人間は飽きてしまう。そんな風には出来ていない。

    なら、どうすれば良いのか。どっちも、やる、という選択肢がある。

    律する生活を送りつつ、時折、自分を甘やかす。なかなか難しいように思えるが、例えば運動を定期的にする人のうち、美味しくお酒を飲むために、をモチベーションにしている人は意外に多い。運動しているから、割と調子は良かったりする。そして罪悪感も少ない。

    ポイントは自分が機嫌良く生きるという点で、その気持ちを獲得するために、自分を律するか、欲望に忠実になるか、そのどちらかを強めれば良いんだろう。それでも口内炎になってしまったら、その時は諦めるしかないが。

  • 心の余白を

    心の余白を

    日々、自分に降り掛かってくるいろいろなものに対して反応し、その度に疲れてしまう。
    余裕を持っておけばそんな反応が小さな波くらいに感じるんだからさ、常に余裕を持っておこうよ、と思うのだけど、その当時は余裕なんかを持っていないから、イライラしたり、クヨクヨしたりしてしまう。

    常に口笛を吹いているようなと言ったのは小学校六年生の時に私を受け持った担任による、最後のはなむけで、それも同じように、余裕がない時にその言葉を思い出すことができない。

    ほんとうに、今、必要なのは今、という時に、思い出せないんだよね。悔しいよね。
    これが自分の器なのか、って思っちゃう。
    悔しいけど、その時には思い出せず、後になって「もっと余裕を持っておけば良かった」と後悔する繰り返し。

    だからこそこういう日記を定期的に書くべきで、自分は文字を書き、それを目視することで理解する人間だから、地道にその作業を繰り返していく必要があるんだろうな。

    違う

    反応しない練習で理解したように、降り掛かってくるいろいろなものに反応しないことで、心に余白を作っておこうということすら不要なのかもしれない。
    反応してしまうのは悔しいから、悲しいから、それをもっと研ぎ澄ませていくと自分の思い通りにならないから、で、それは自分の行動や、他人の言動、行動がもたらす結果が、自分の思い通りにならなかったから、で、だからそもそも、自分の思い通りにいくことなんて100%なわけないのだから、そうならなかったとしても、それはそれとして事実として受け入れ、反応しないようにマインドコントロールをしていく必要があるのだろうな、うん。

    反応したとしても、余裕を持つことで、そんなこともあると受け入れるのか。
    反応せず、ただ、受け入れるのか。

    結果としては一緒になるのか。そこに至るまでのプロセスで、反応することが追加されるかどうか、なのか。

  • 覚えておきたい

    覚えておきたい

    お酒の量が多いから脳細胞がたくさん死んでいるのかもしれないのだけど、記憶力がどんどん弱くなっていくのを実感することが増えてきた。7-9桁くらいのパスワードとか、前まではソラで覚えられていたのだけど、数日経つと覚えられなくなった。携帯電話の電話番号とかね。それ系の記憶ってめっちゃ得意だったのだけど、今じゃ別人のような気持ち。

    パスワード的なものはメモっておけば良いのだけど、それと同じくらい、自分が感じ取ったことを覚えておきたいと思っていて。常々。そのためにほぼ日手帳を肌身離さず持っているけど、流石に運転中や散歩中など、書けないもんね。しかしそういうタイミングでいろいろなアイデアなどを思いつくという始末。世の中はうまくできている。

    思い立ったらすぐにツイート、みたいなのも一度トライしたことがあるのだけど、歩きスマホになってしまうし、良くないのよね。というかそもそもそんなに頻繁に残すべきものではないのかな、と思ったりもする。そっちのほうが正しい選択なのかもしれない。

    人は忘れていく生き物で、それがあるから生きていけるのだから、トレードオフとして良い思いも同じくらいに忘れていくのかもしれないなぁ。
    しょうがないよね。もしかしたら時折、思い出すかもしれないけどね。って、そんないい思い出ばかりじゃないかもしれないけど。

  • 根底にあるのは怠惰

    根底にあるのは怠惰

    新しい年を迎え、今年こそはやってやるぜ、とやる気に満ち溢れる時期。だけどすぐ行動に移せないのが人間。

    根底にはめんどくさい…があり、よく考えるとそのめんどくさい…はいろんなところに響いているのが分かる。逆に言うとその気持ちをコントロールすると、やり遂げることができる。

    突き詰めて考えるとそのめんどくさい…が人生全ての思考、行動を司ってる気がしてて、それをコントロールするための訓練が、義務教育だったのではないかと思うのよね。

    そう思ったきっかけは仕事で、東大や京大を卒業した人と出会ったから。彼らの集中力と、突き詰めて考える力、あきらめない気持ちがとても強くて、みんな同じように気持ちの強さを持っているから、そう考えました。

    時間を戻すことはできないけど、その、めんどくさい…をなんとかすることで(=顕在化させない。意識しない。忘れる。考えない)、今年こそは!という事柄をやり切れるのではないかと思います。

    と思ってる自分も、今年こそは英語!と思ってるのだけど、早速元旦やらずに終わりました。分かっていてもできない、それも人間なのだと…

  • なにも変わらない

    なにも変わらない

    2021年になった。
    人類が作った暦という意味での、ただの区切り。

    ただぼんやりと日常を過ごしていた生き物たちは、その、日常に意味を持たせようと思い、カレンダーを作った。
    当初は懐疑的だったはずだ。
    そんなん、なんの意味があるの?と思ったはず。
    そりゃそうだ、カレンダーを作る目的がぼんやりとしていたはずだから。

    だけど、その小さな積み重ねはやがて大きな意味を成すことになる。
    カレンダーは、年の区切りというものに明確な意味を持たせた。

    とは言え、いろんな国がある中で、年の区切りに対して祝福する場合と、ただの祝日として過ごす場合があるようで。
    いくつかの国では、1月1日は祝日として扱うけど、それ以外、例えば12月31日とか1月2日はただの平日だ。
    そりゃそうだ、別に、年が跨いだだけで、それ以外の意味なんてないのだから。

    とは言え、人間はそうやって時間を経過していくことでいろいろな思いを馳せる。
    自分が生きてきた証として、年齢というものがある。
    木と同じように、年輪みたいなものを持つことで、自分が今どの立ち位置にいるかを、客観的に見ようとしている。
    なんの意味もないはずの、ただ地球が一周するだけの、日付の跨ぎに。