投稿者: hmgrbean

  • 自分をうまくコントロールすることが

    自分をうまくコントロールすることが

    自分の身体は、自分が一番良く分かっている、はず。
    だって自分は自分と、もう何年も、何十年も付き合ってきているのだから。

    そう考えるのは自然なことだろう。
    だって、そうなんだから。だって、何度も言うけど、自分は自分ともう何年も付き合ってきているのだから。

    だが実際は、自分の思い通りに生きていられていないことのほうが多い。

    いざ、何かを始めようとした時に、やる気が出ない。
    めんどくさいなぁ、と思ってしまう。
    もっと続けたいと思うのに、疲れてしまう。

    これら全て、気力と体力との間にギャップが生まれているのだろう。

    若い時は体力があるのに、気力の作り方が学べていない。
    歳を取ってくると逆に、気力は充実しているのに体力が続かない。

    このような状況は決して珍しいことではなく、多くの人に言える。

    ではどうするか。

    両方のバランスを考え、ちょうど良い塩梅で物事を考え、進めていくと良いのではないだろうか。

    若い時は、体力はあるのだからとりあえず始めてみると、そのうちに気力が充実してくるかもしれない。
    歳を取っている時は、気力の使い方を体力作りに回してみる。

    このように考え方を少し変えるだけで、自分の欲求が良い感じに満たされるように見える。

    結局は自分の機嫌を取り、より良い気分で過ごしていくことが何よりの幸せなのだから、それに向かうべきである。
    そのためには、自分のできる範囲を客観的に知り、それを参考にしながら常に機嫌良く生きていくのが、幸せになる秘訣なのではないだろうか。

  • 楽しい思い出

    楽しい思い出

    良かった。アルパカは気軽にがぶがぶ飲めるのが良い。

  • 機は熟さない

    機は熟さない

    AmazonのKindleで電子書籍を無料で出すことができると知ってから、無性に小説が描きたくなっている。

    いくつかアイデアがあるものの、小説を書くことに向き合う時間が取れないという理由、というか言い訳で、小説を描けていない。

    理由は単純で、小説を描くことが生活の優先順位で下の方にいるからだ。
    これが、もしかしたら自分の食い扶持になっていくかもしれないというのに、その未来をあまり信用できず、それよりは重要な本業、家族との生活を優先してしまっている。

    多分、小説を描いて暮らすというのは、ロマンの一つなのだろう。
    理想とは少し違う。
    けど、現実とは明らかに一線を画す。夢物語とでも言うべきか。

    もし、十分に時間もあって、気力や体力が充実していたら、それに向き合うのだろうか。
    向き合うかもしれない。
    だが、残念ながらそのような瞬間は訪れない。
    十分に時間があり、気力や体力が充実していると、小説を描くこと以外に時間を割こうとするからだ。
    自分にとって小説を描くことは、所詮その程度なのだろう。

    と、客観的に見る自分に対し、良し、そんなにまで言うのならやってやろうじゃないか、と思う自分がいないか、というと否定しきれない。
    もしかしたら小説を描くことの優先順位がぐっと上がり、あっという間に書きあげてしまうかもしれない。
    そんなことは実際に起きないような気がしてしまうけども。

    多分、一番現実的なやり方として、隙間時間を利用して作り上げるということだ。
    仕事の合間、休憩がてら、そんなことを考える。
    小説は構想を練り上げる時間がたっぷり必要なのだから、手元にあるメモ帳にでもそれを綴ってみるとか、そういう小さな一歩を踏み出し、踏み続けることで、やがて小説が出来上がってくるのだろう。
    そんなことを思いながらも、一歩を踏み出すことができず、地団駄だけの足音が聞こえてくるのである。

  • SNSに疲れてしまう時がある

    SNSに疲れてしまう時がある

    Twitter アプリをiPhoneから削除したら、iPhoneに触る時間が実質的に減った。
    私がiPhoneに触れる時間の70%くらいは、Twitterだったのかもしれない。

    たまに、1年に1回程度だが、全てのSNSからログアウトしたくなる時がある。
    理由は、他人と比べてしまう自分が許せないこと。
    それと、自分の生活において、シェアすることを目的に感じてしまうこと。
    多分、私は、それに強く依存してしまうのだ。
    他の人が気になってしまう。
    自分のことをシェアしたくなってしまう。
    そこから得られる刺激が快感となり、麻薬のように感じているのだ、きっと。

    SNSに浸るのをやめてみて、その代わりに生まれたのが、物思いに耽ることだった。
    物思いというのは自由だ。
    自分がどんなことを考えていようとも、誰からも制限されることはない。
    すごい。
    自由という世界がこんなにもすごいなんて。
    真の意味での自由とは、物思いに耽ることなのかもしれない。
    生きること自体は自由なのかもしれない。
    だが、そこには見えないモラル、ルールがあり、人間はそれに従いながら生きている。
    社会を共同で作っていく分には必要なことだろう。
    しかし、物思いは、そういう制限が一つもない。
    公序良俗に反するもの、社会不適合と思われるものすらも、思うことが自由なのだ。
    もちろんそれを行動に移すとなると上述したモラル、ルールに従って果たすべきだから、そこは勘違いしてはいけない。

    また、何度もここで取り上げる「妄想」という領域についても気を付けなければいけない。
    あの人が私を嫌っているのかも、私は生きている価値がないかも、といった類についても容易に思い至るのだが、それは考え続けても何の成果にもならないばかりか自分の精神を蝕む要因になりさえするので、すぐにやめるようにしている。
    SNSから離れている今、対象とする相手がぐんと減ったせいで(関わる人間が家族か、同僚しかいない)、それに至る妄想自体が減ったという事実もあるので、あまりそちら側に飛躍することはなくなった。

    だが、やがて、こういう、物思いに耽るのが気持ち良い、という気持ちもだんだん弱くなっていくのだろう。
    いつものように、飽きてくるのだ、きっと。
    飽きるというのは、人間が成長するための必要なものだと言われる。
    飽きて違うことをするのが、人間の成長に必要なことだと。
    少し分かる気がする。
    ずっと物思いばかりしていても、何も成長しないことは明白だ。

    そして多分、過去に数回あったように、Twitterが恋しくなるのだ。
    今はTwitterに全く触れていない。
    仲良くさせていただいていた方々の最近が、全く分からない。
    分からなくても正直なところ自分の生活で困るということにはならないのだが、少しだけ寂しさを感じることがある。
    満たされない、という思いが適切かどうかはなんとも言えないが、そんなような気持ち。

  • やわらかく生きる

    やわらかく生きる

    怒りという感情は、精神を疲弊させる。

    怒りはなぜ生まれるのか。
    根本的には「自分の思い通りにいかないこと」があり、その、期待に応えられない事実が生まれた時に、怒りが生まれるように感じる。
    事実というものがそもそも存在せず、あるのは解釈のみという考え方に照らし合わせると、期待に沿わない事実というものは自分の偏見が入っているので、それによって怒りを助町させているということも考えられるのではないだろうか。

    怒りという感情は、精神を疲弊させる。

    怒りをやり過ごした後に残るのは、疲れるということのみである。
    または、悲しみなど、新たな別の感情が生まれるかもしれない。
    つまり、何もプラスにならない。

    だったら怒りを持たない方が良いではないだろうか。
    怒りを持たないためには、期待しないこと。
    こうなったら良いな、は自分を成長させるから良いけれど、そのこだわりを強く持ちすぎてしまうとやがてそれに振り回されるようになる。
    だから、その期待をやわらかく持つ。
    そして、期待に沿わない結果が出たらそれをなるべく客観的な目で見て捉え、そして現実は理想と異なるということを自分で飲み込む。
    たったこれだけのことで、人生が楽に生きられるようになる。

    と、文章で書くといとも簡単なように見えるが、実際にやろうとするととてつもなく難しい。
    理想とかけ離れた、そして主観によって捻じ曲げられた現実。
    それを受け止めきれない自分の器。
    そして、止められない怒り。
    私だって毎日のようにその流れを感じている。

    多分、訓練が必要なのだろう。
    まず理想をやわらかく持つところから始めてみよう。
    そうすることで、期待にそぐわない結果によっても、少しずつ、ま、しょうがないか、と思えるようになってくるのかもしれない。

    怒りという感情は、精神を疲弊させる。

    もしかすると、上で書いたすべてのことを超越するような、「怒りすらも受容する」という取り組みこそが、至上なのかもしれない。

  • 社会に対して何の役にも立っていない

    社会に対して何の役にも立っていない

    私、社会に対して何の役にも立っていないのではないかという妄想、あの人、もしかしたら自分のことを嫌いなのかもしれないという妄想、これら全ては反応すべきではないのに、人間だからか、ついそちら側のことを気にしてしまう。

    あの人が自分のことを嫌いだからなんだと言うのだ。
    そもそもあの人の気持ちはコントロール外のことなのだから、気にしないべきなのだ。

    もし自分が社会に対して何の役にも立っていないから、なんだと言うのだ。
    社会とはそもそも何のことだ。
    あなたがそこにいる、それだけで十分ではないか。

    これらの妄想を吹き飛ばす正論はいくらでも生まれる。
    あなたを勇気づけることができる言葉なんて、いくらだって用意できる。

    だけど人間は、妄想してしまう。
    妄想が、期待する刺激を生み出すから。

    刺激をリセットしてみる、というタイトルのブログを以前投稿したことがある。
    人間は刺激に慣れてしまうと、どんどん強いものが欲しくなってしまう。
    だから、そこから逃れるためには、その刺激をリセットする必要があるのだ。

    深呼吸する。
    外の景色を見る。
    花を愛でる。
    自然に触れる。
    こんなレベルの刺激を受けてみて、改めてその刺激を実感する。
    もしかしたら深呼吸からも何かしらの刺激を受けるのかもしれない。

  • 「この中から選べ」以外

    「この中から選べ」以外

    今、自分の前に見えている選択肢だけが、答えではないという。

    誰かの手のひらで転がされている時には特に、選択肢が狭められて提示されることがある。
    相手にとって都合の良い選択肢しか、壇上に並ばない。
    いずれかを選んでも、結局は相手の手中から逃れることができない。
    だから、いつも、出された選択肢以外のものはないか、見極める必要がある。

    なんて書くとさぞ意識の高い人間が書いた文章のように思えるが、選択肢以外を考える必要のある機会など、そうそう現れない。
    私が出会う選択の機会など、今夜はワインにするか、ウイスキーにするか、くらいなものである。
    その程度の選択肢しか、目の前にしか現れない。
    今後も、よほど大きなイベント、例えば車を買うとか、転職をするとか、引っ越すなどのことが訪れなければ、選択肢以外のものを探る必要がないように思う。

    だからと言って、その訓練を怠っても良いのだろうか。
    確かに、私の生活では、日々訪れる選択の機会など、人生において重要ではないかもしれない。
    100歩譲って「今日は走ろうか」「もしくはだらだらとお酒を飲んでしまおうか」に関して、前者のほうが自身の健康にとってプラスなのだから、人生において重要なことなのかもしれない。
    だが、現時点の私からすると、どちらも同程度の魅力があり、その瞬間に私の身体や精神がどちらを欲しているかによって、あっけなく決まるような気がしている。
    その、ほぼ無意識に決めることが、大きな選択をする際に、選択する時の思考を鈍らせてしまうのではないかと思う。
    どちらにしても自分の人生に大きな影響がないようなことでも、それを短期的な視野で考えるのではなく、少なくとも中期的、できれば長期的な展望に立って考えることで、日々の一歩がやがて大きな成長につながるのではないか。

  • 誰に対しての責任か

    誰に対しての責任か

    責任の重たさに対する感性は一人ひとり違う。自分が考える責任は、他人のそれと一緒だと考えてしまいがちになるが、それは大きな失敗を産む。

    そもそも責任とは。役割などと近いイメージを持っている。何かをやり遂げるという、遂げる、のところに責任が生まれる。その、やり遂げるところの強度をどう捉えるか、その感覚に個人差が生まれる。

    普通に生きていく中では、個人的なところではあまり責任というものはないように思う。いろいろなことが思い浮かぶものの、玉ねぎの皮のようにどんどん削ぎ落としていくと最後に残るのは、生を全うする、くらいなものであろうか。

    一般的な社会で生きる人間には、他人に対しての責任というものが生まれる。しかも複数のレイヤーで生まれてくる。私の場合は父親として、会社の人間として、地域のコミュニティとして。おそらく、社会と呼ばれる世界が生まれるところのそれぞれに、責任も同時に生まれてくるようだ。

    個人的には、そのそれぞれで担うべき責任はもちろん重要だが、もっとも大切なのは生を全うするという、自分自身に対する責任だと感じる。社会の責任は、自分の生に対してプラスになるものだけではなく、時間を浪費する、ストレスを溜めるなどマイナスな面も生まれる。そしてなにより、そちらにばかり気を取られていると、自分の生に納得できないような気がしてしまう。

    自分の生を全うする、とは。

  • 時には雨が降ったって

    時には雨が降ったって

    関東地方は、なんとなく久しぶりな感じの雨。まとまって降ることが少ない季節なので、雨が降ってしっとりした空気になると少しだけ嬉しい。

    雨は煩わしい。傘を持つのが嫌いなので、なるべく雨の降る日には外出したくないと思ってしまう。服が濡れるとか、いろいろ面倒だと思ってしまう。

    そんなに嫌われる存在ではないだろう、本当は。ベランダでいくつかの植物を飼っているので、彼らにとってまさに恵みの雨なはずで(雨がかからない場所に置いているから、本当に恩恵を受けている訳ではないにせよ)、雨の良さというものは理解しているつもりだ。

    もっと言うと、晴れの良さを実感することもできる。イベントが雨で中止になり、まさに雨に泣いたことだっていくつかあったはず。そんな時に、晴れていれば…という気持ちにだってなったはずだ。

    また、雨は、感情や状況の比喩表現として使われることもある。クヨクヨしている人に対して「やまない雨はないよ」という声かけ、などは典型的な例だろう。そんな風にして、雨は、なんとなくぐずつくイメージを持っている。

    雨に対しての先入観をなくし、もっと肯定的になれれば。雨を味方につける、というと言い過ぎだろうけど、雨を愛することで、もしかしたら全天候に対してポジティブに、さらに天気が良かろうが悪かろうが機嫌を損ねることはなくなるのではないだろうか。

  • 続けられる人が一番強い

    続けられる人が一番強い

    自分の身に染みて感じるものだから英語を例として取り上げるのだけど、英語に関して「できない…」と挫折するのは、英語が難しいからではなくて、自分が続けられないから。

    英語だけではなく勉強全般に言えることだが、コツコツと続けることが一番難しい。
    義務教育ではその、コツコツと学び続けるということを身に着けるのではないだろか。
    大人になってから、そのコツコツと続けることがいかに難しいか。

    人間はすぐに逃げたがる。
    怠惰な方向にある誘惑はとても強力で、その誘惑から得られる快感も大きい。
    大人になるにつれ、自分の好きな誘惑が増えていく。
    そしてその快感を知っているからこそ、「今日ぐらいはいいか…」と気持ちがそっち側にゆらいでしまう。
    人間だもの、自分のことが可愛いのだから、それはそれとしてしょうがないのだ。
    そういう気分になるのは仕方がない。
    ぼーっとお酒を飲みながら、ゲームをする。
    お酒を飲むと気分が良くなるし、進めたかったゲームを進めることで得られる達成感は格別のものだろう。

    秘訣は、バランスを取ること。
    自分を磨くことと、自分を甘やかすこと。
    両方をバランス良く行っていく。
    前者だけだと生活が窮屈に感じるはずだし、後者だけだと怠惰な人間になってしまうから、それぞれのバランスを見極めて、生きていくべき。

    自分を磨くことと、自分を甘やかすことが、一つにまとめられたら強いだろうか。
    それが何か、見極めるのが難しい。趣味を仕事に?うーん。