投稿者: hmgrbean

  • 人生に、ある程度のロマンは必要

    人生に、ある程度のロマンは必要

    基本的に、以下のマインドで生きています。

    • 幽霊はいない
    • 占いは嘘
    • 血液型も信じない
    • 夢で何を見ても関係ない

    なんというか、根拠のないものについてはあまり信じたくないと思う節があります。

    割とつい最近までそんなことなかったんですけどね。
    明確な根拠はよく分からないのですけど、哲学の本を読んでいるうちに、なぜかそういう心持ちになりました。

    占い、血液型、信じないの、つまらん男よね、と思ってしまう。
    話を合わせるという面で、多少は興味を持ったら良いのでは?と思ってしまう。

    そういえば12月も中旬に入った今、改めて思い出しましたけど、私、本厄なのにお参りには行きませんでした。
    家族に勧められ、お守りは買いましたけど。

    結局お参りしたところで病気にはなっちゃうだろうし、とか考えるとどうしても億劫になってしまって。

    けど、一方で、そういう文化が根付いているということを、きちんと理解しておく必要性、ね。

    占いなんて、一つのメジャーな産業になっている気がするもんね。
    それだけ、占いに執着する人がいるわけでしょ。

    例えば大きな買い物をする時。
    家とか、車とか、人生でそんなに頻繁に買わないものを買おうとする時。
    迷いますよね。
    迷った挙句、自分じゃ決められなくなって、誰かに助言を求めるじゃないですか。その矛先が、占いなんですよね。

    占いは、占星術とか、なんらかの根拠をもって未来を指し示してくれますが、その結果については正しかったかどうか、誰も気にしてませんよね。
    そこで「悪い結果が出た!お金返せ!」となるのはお門違いなんです。
    だから、占いによって得られた助言によって、自分が全部の責任を負いながら決断をするんですね。
    そこに、一切の責任は持たない。
    けど、占いはそれでいいんです、その位置付けが一番最適なのだと。
    それでもなお、人間が占いを気にするのは、そうしたほうが人生が豊かになる気がするから。

    なによりもまず、楽しいですよね、占い。血液型とか。星座とか。朝のニュースでやってる占いで1位だったりすると、なんとなく嬉しい気分になり、12位だとなんとなく残念な気分になります。

    あと、占いとか、根拠がないから意味がないというのは先入観なのだから、人生を楽しむという意味では、それ含めの人生にしていくと、もっと豊かになるのかもしれないなぁ。

  • 恋なんてただの思いこみなのに、

    恋なんてただの思いこみなのに、

    恋は、自分で勝手に作り上げたイメージから始まる。

    あの人の表情が好き、だからもっと見ていたい。
    優しくされた。もしかしたら好きなのかも。
    これらは全部、妄想。

    しかもその思いの先にあるもの、恋のゴールが「好きな相手と結ばれること」だとすると、自分一人では到達することができないのは明らかだ。
    相手の気持ちも、同じ方向に向かわなくてはいけないのだから。

    それなのになぜ、恋をしたがるのだろう。

    人間の本能だから。
    そんな理屈じゃ、納得できない。
    そんなの、義務教育で習っている。

    きっと恋は、嬉しいからだ。悲しいからだ。

    成就すると、きっと嬉しい。生きてて良かったという気持ちになる。
    失敗すると、きっと悲しい。生きてる価値なんてないという気持ちになる。

    成就でも失敗でも、その瞬間を越えてしばらく経つと、あれは一つの経験になったな、という気持ちにだってなるのだ。

    つまり、満足するのだろう。

    良くたって悪くたって、自分が満足することになる、はず。

    けどね、わかる、失敗、怖いよね。

    あの人、自分のことを好きになってくれるか、分からない。
    50%の確率とか、そういうのすらも、分からない。
    なぜかと言うと、思い込みだから。

    相手の気持ちをある程度推し量ることはできても、確かめるには、恋のゴールに向けて進めるしかないのだ。
    確かめたいから、みんな、恋をしていくのだろうか。

    小さな一歩だけど、それは、やがて、ゴールに向けた大きな一歩になるのだろう。
    小さな一歩、ものすごく怖いけど。

  • 手帳と、スマホの併用

    手帳と、スマホの併用

    無限の選択肢

    手帳を使っている人の大半が悩むであろう、両方をうまく使うということ。

    その組み合わせには、無限の選択肢があります。
    無限だからこそ、迷ってしまいますね。

    それぞれの良さをきちんと生かすこと。
    最低限それができていれば、あとは適当に順応させていけば良いのかもしれませんけど。

    手書きは、自由に描けること。自分の字面を可視化できること。

    デジタルツールは、整理されること。一貫性があること。

    人には好みがありますから、例えば、自分の字が好きかどうか、それだけでもどちらに重心を置くかが見えてきたりしますね。

    世界はデジタルツールに寄ってきているように見える

    先進国(と呼ばれる国)に住む私は、デジタルツールにあふれているように見えるので、手帳を愛する人はもしかしたら少ないんじゃないかな、と思っています。
    それでも毎年9月~10月あたりから、書店や文房具店の軒先で手帳を売り出す光景を目にしますし、
    好きな人にはたまらない世界なのかもしれません。

    私もその一人です。
    ほぼ日手帳が9月に来年用のサイトをオープンするので、それは割と楽しみだったりします。
    つい、毎日のように見てしまいますね。

    iPhoneやAndroidでも十分なんです、本当は。スケジュール、メモ、全てをスマートフォンの中に入れられますから。好きな時にさっと取り出して書くことだってできますから。

    なぜ手書きが愛されるのか

    多分これは、私の好みがものすごく含まれる話で、全ての人が該当するとは思いません。
    悪しからずご了承ください。

    私は、私の描く字が好きなんです。
    ほぼ日手帳にその日のことを思いのまま綴るのが好きなのですが、字の大きさがその時の気分によって変わるので、後から読み返すと元気いっぱいの日、落ち着いている日、沈んでいる日などが良く分かります。

    それと、マインドマップ的な、思考がどんどん広がっていく感覚をストレートに可視化できるところ。

    マインドマップも好きな思考アウトプットの一つで、それは手書きじゃないと面白くない(←重要)んですね。
    仕事ではWindows PCで使えるマインドマップアプリを使っていますけど、きちんと整理されたマインドマップだと、なんか味気ないな、って思ってしまいます。
    もはや感覚の問題だな。

    目的を見失わないこと

    話がだいぶ逸れてしまいました。
    そもそも、手帳を使って、私は何をしたいのか。それをはっきりさせることが大切です。

    私は、今のところ、日記帳的な扱いで使っているので、手書きで、自分の気持ちをストレートにアウトプットすることを重要視しています。
    なので、デイリーページには思う存分、手書きで好きなことを書き殴るようにしています。

    マンスリーページなどでは、あまり明確な予定を持つことがないので、ほとんど書いていないです。
    仕事してても、明確な予定などは会社のPCで管理できますし、手帳に仕事を持ち込みたくないというのもあるんだよな。

    人それぞれ、やりたいことが違うので、これが正解!というものはないのです。
    逆に、自分のやりたいように使う、が正解!と言えるので、周りを気にすることなく、自分だけのスタイルを貫いてってみましょう。

  • 罪悪感は何も生まないだろ

    罪悪感は何も生まないだろ

    これを読んでまして。

    https://www.amazon.co.jp/dp/B07T2CCC8K?encoding=UTF8&redirect=true&ref=ku_mi_rw_edp

    自分の心をクヨクヨさせる大きな要因に、この罪悪感があるということが。

    例えば、私は家族のために、私の時間を費やすとします。
    そうすると「私は、私のことを大切にしていない」と罪悪感が湧き、それが態度に表れ、家族に八つ当たりしてしまう。
    いや、違う、正確には「私はあなたたちのために時間を費やしていますよ」というアピールをしてしまうのです。

    そして、それが負の連鎖になっちゃうんですよ。

    家族は、私がそんな思いを抱きながら時間を費やしているのを理解し、家族もまた、罪悪感を抱いてしまう、と。

    それは、自分の中で期待していること、自分の中にある正しさが正義で、それに応えられないから、罪悪感を抱いてしまう、ということだそうで。

    期待していること、正しさ、ってつまり価値観ですよね。
    その価値観はどうやってできたのか、どうやっても揺るぐことがないのか、立ち止まって考える必要があるように思うんですよね。

    そして気づくんです、価値観なんていつでも変わるんだから、その価値観を変えることに抵抗を持つ必要はないのだ、と。そうなんすよ。自分の殻を破るのって実はそんなに難しくないよな、と最近感じるようになりました。マジ最近。ここ1ヶ月くらい。

    根本的に、自分の行いを肯定することが大切

    ストレートに言うと、自分のことをきちんと愛してあげることが必要なんですって。

    私、自分のことが嫌いって公言するほどに否定的だったのですが、そこを少しずつ意識を変えるようにしました。

    もっと、なんでもっとさ、って思っていた日々。

    自分は自分に対し、随分と高い期待値を持っていたことがあり、それを達成することができなくて、どんどん自分が嫌いになり、そして追い詰めていったことがありました。

    それは、良く考えると誰かに対して自分が達していないから、ということの裏返しだったんですね。

    それは上述した価値観のこと。

    そもそも、罪悪感、という、自分が悪いと思う必要は一切ないんですよね。
    誰に対して悪いのか、全く分からないし。自分に対して、自分が悪い?
    そういう風に思っているから、いつまで経っても自分のことを肯定できず、罪悪感でいっぱいで、前を向くことができない、と。

    良くないですね。良くないんですよ。自分を無条件に愛するだけで、解決するというのに。

  • 思い出したくないことを、何度でも思い出してしまう

    思い出したくないことを、何度でも思い出してしまう

    人間って不思議なもので、忘れたいことって忘れられないから困る。
    子供の頃に抱いた嫌な思いを、40を過ぎてからも余裕で思い出せるのとか、むしろなにかの才能なのではないかと思ったりもする。

    きっとそれは定期的に思い出しているからで、時々嫌な思いを思い出し、嫌だったな、という思いを改めて抱き、また引き出しへとしまう行為を繰り返しているからなのかな、と。

    そしてそれを繰り返しているのは、多分、嫌な思いを期待してしまうからなのかな、と。
    期待する結果が得られると、人間はその行為を繰り返してしまうという、あれです。

    どうしたらいいんでしょうねそういうの。
    忘れたいのにさ。

    うーん。

    考え方を変える必要があるのだろうな

    そもそもその、嫌な思いを抱くことが期待結果なのであれば、それは私にとって期待結果じゃないんすよねもう、という気持ちを抱くようにすれば良いのかな。

    嫌な思いを抱いたあとに、もうこれは私の期待結果じゃありません、だからもうこれを思いだすのはやめる。この思い出がしまってある引き出し、もう鍵をかけて開かないようにする、みたいに考え方を変えることで、地味な試みですけど、やがてそれが大きな成果を生むようになってくるのだと信じる。

    あとは、楽しい記憶をどんどん埋めていくこと。
    思い出して、楽しかったなぁという気持ちを抱く。これを繰り返すことで嫌だった思い出よりもこっちを引き出すように心がける。
    シンプルな試みですけど、これも効果があるような気がする。

    みずみずしい記憶には、相応の気持ちがくっついてくるはずだから

    子供の頃、家族で行った旅行、友人たちと交わした会話、思春期の頃に付き合った人、聴いた曲、そして培った経験は、大人になっても忘れないことが多い気がするんすよね。

    それってきっとその時に抱いた気持ちのせいで、例えば家族で温泉旅行に行ったとして、温泉旅行に行っただけでは思い出に残りにくく、温泉が温かかった、ご飯が美味しかった、みたいに自分が抱いた気持ちがくっついてきてるので、結果として記憶に残りやすいのかなと。

    なので、これから生きていく中で経験することも、同じように自分がどんな気持ちを抱くか、その気持ちを自分で感じとることで記憶として引き出しに入れられていくのだろうと思います。

    これ系の研究をしている人がたくさんいると思うので、これは単純な思いつきに過ぎませんが、ちょっとこの感覚を持ちながらもうちょい生きていきたいと思います。

  • 正義はその時の気分だろ

    正義はその時の気分だろ

    私が考える「正義」とは、結局そのタイミングにおいて抱く、その時の気分によって決まるんでしょ、と思います。

    ずっと同じ気持ちを抱きながら生きていくのって案外難しくて、情報を手に入れることにより自分の考えが変わることがあります。あります、っていうか、結構頻繁にあるんじゃないかと思います。
    ずっと同じ気持ちを抱くのって、吉野家の牛丼はいつ食べても美味しい、くらいなものですよね。
    味覚か。味覚は子供から大人になると割と変わるけど、30歳をすぎたくらいからはあまり変わらない気がします。

    政治が悪い、首相が悪いというのは、いつの時代も言われることです。今ですとコロナウィルス対策の是非についてマスコミが毎日のように報道していますが、ストレートに言うと今の政治が進めているやり方が悪い、というように描かれているように見えます。
    私は直接的な当事者ではないので、100%その心情を理解することはできないですが、飲食店やホテル・旅館を経営する方々が考える正義とは、今でいうとGoToキャンペーンを止める政治が悪い、なのかもしれません。
    それによって飲食店、ホテル、旅館への客足が止まってしまうから。
    そりゃそうですよね、GoToキャンペーンによって上がるはずだった売り上げが上がらなくなってしまったんですから。

    大切なのは自分はどう考えるか」をじっくり考えることなのかな

    テレビを見てれば政治が悪い、の一辺倒です。
    上記のGoToトラベル中止が悪い悪いと叫ばれていますが、GoToトラベル中止発表前は、GoToトラベルが悪者のように叫ばれていたように感じます。
    結局なにがどうなればマスコミは騒がなくなるのかな。
    彼らの考える「正義」というのは、いったいどういうことなんだろう。

    と、テレビをずっと見てても、結局今の政治が悪いとしか思えないだけなので、テレビを見るのをやめ、自分で考えることにしました。

    私は、私の正義を、どう考えるのか。

    で、到達したのがこの投稿のタイトルです。
    結局その時々でしか自分の正義って作られないのだから、その時にあった正義を選び、生きていくことになるんだろうな。
    というか、そうしながら生きてきたんだろうな。

    正義って言い方をしてるからよくわからなくなっているのですけど、人生を渡ってくる中で、選んできたもの、それらはその時々で自分が考えた正義に基づいて、選択してきたんだろうな、と。

    大事なのは、今、自分はどういう正義なのか。

  • 快適と思えるものを追求するのは

    快適と思えるものを追求するのは

    内向的な人はその文字が指し示す通り、自分の内側に楽しみを見出す人、ってことなのかと思います。

    思います、と語尾を濁したのは、あまり自分の中で理解できていないからです。
    自分の内側ってなんだよ。気持ち?に楽しみ?

    自分が、「快適だ」と思える選択肢は多いほうが良い

    夜、布団に入って、眠りに就くまでの瞬間、
    大好きな食べ物が目の前にある、
    本を読みすすめる、
    一人で走る、
    手帳に文章を書きなぐる、

    など、自分が「気持ち良い」と感じられるものを増やすことは、常に機嫌良く過ごすためのツールとして、用意している方が良いですね。急に増やすのは難しいですけども。

    お金がかかる趣味を持つ必要はないんですよね。
    近所を散歩するだけでも、綺麗な空を見たり、木々を見たりして、気持ち良いと感じることができますね。

    不快と思うものにはなるべく蓋をする、正論では

    一方で、不快と思うものは極力排除すべきですが、だからといって嫌なことから目を背け続けることもできません。
    仕事したくないわ、と言ってたら生活できなくなってしまいます。
    なので、そんな時は仕事の中でも自分が不快と感じるものから距離を置くと良いのかな。
    それでも、意地悪な人っていますよね。
    なんで意地悪なんでしょうね。

    ホントいなくなってくれたら良いのに。

    いや、違うんです、意地悪な人がいたらどうすれば良いのか。
    答えは、近づきすぎないようにすることです。
    不快に感じる人は、そこにいるだけで意識してしまい不快になってしまうので、自分がそう意識しない距離で暮らすことで、自分が不快になる頻度を下げることができます。
    それでも難しい場合、逃避するのが次の選択肢になるのかなぁ。
    人生って長いようで短いですからね。
    他人のことで苦労するくらいなら、いっそのこと逃げてしまえば良いのではないかな。

  • 妄想は快感

    妄想は快感

    目の前にある事実に目を向けず、自分の頭の中で描いていることに尾ビレをつけて妄想していることがあります。
    あります。って言ってますけど、もしかしたら人生で過ごす時間の半分以上、妄想に耽る時間なのかもしれません。

    君は何について悩んでいるのだね

    人の悩みは多種多様です。人生って難しい。
    過去の栄光を引きずる。対人関係。
    アドラー心理学について描かれていた著書「嫌われる勇気」では、人の悩みは対人関係、と言い切っていましたが、それも言い過ぎではないのかなと思ったりします。

    そうなんですよね、例えば、「あの人は私のことを嫌いなのかもしれない」という妄想。私も今まで生きてきて何度もこの悩みに苛まれてきました。その度に悩み、時にはその人から離れ、なんとかここまで生きてきたのかなと思います。

    多分、同じような悩みを抱えている人、多いのではないかなぁ。
    「あの人に良く思われたい」というのは、根底には承認欲求があって、承認欲を満たすというのは人間の本能に近いところにある欲求(と私は思っている)だから、それ自体は避けることのできないものなのだとは思うのですけど。
    承認欲求から引き起こされる行動、言動というのは、それ自体が自分にとって心地良いものなのであれば否定されるものではないと思うんですけどね。
    ただそれによって、「自分は嫌われているのでは」という不快な思いを抱くのであれば、それは使い方が違うだろ、と。ついそっち方面で考えてしまいがちなのは理解します。人間だもの。

    だけどそれは、ただの妄想にすぎないんだよな。妄想。あの人は、私のことを嫌いなのかもしれないけど、もしかしたらそれは過去のことで、今は私のことを嫌いではないのかもしれない。
    だって、過去のあの人と、今のあの人では、違う人間になっている可能性があるから。

    もっと他に考えることがある

    だけど大事なのは今で、自分の未来は自分の意思で変えることができますが、他人がどう思っているかはその人に乗り移ってみないとわからないし、そんなこと、むしろ気にするのは時間の無駄なのではないかな。

    と、ここでわざわざ書いている時点で、「私は他人の目を気にしています」と宣言しているような気もするけどね。

    多分、この、「妄想をやめる」と、「他人の目を気にしない」っていうのは、私の思考プロセスを変えるということだから、すぐにできることでは無い気がします。
    だけど、いつも意識することで考え方って変わっていくと思うし、気づいた時にやらないといつまで経っても変わらないね、ってなっちゃうから、柔軟に変えていきたいです。

  • 自信がないから自信をつけたいと思っていたのは、ただの妄想だった

    自信がないから自信をつけたいと思っていたのは、ただの妄想だった

    自分にはなにひとつ誇れるものがなくて、小さな人間だよなぁと常日頃感じていました。
    そういう風に気づいたのは、中学生の頃です。

    それは慢心になるための、第一歩に過ぎなかった

    https://www.amazon.co.jp/gp/product/B012EU8CD0?pf_rd_r=0A0NF1TVW6W488S6V78S&pf_rd_p=3d55ec74-6376-483a-a5a7-4e247166f80b&pd_rd_r=ff43f92e-a25e-45cd-b87d-486fb31958cf&pd_rd_w=5uX6c&pd_rd_wg=fEYBn&ref_=pd_gw_unk

    この本によると、自信をつけるということは、言い換えると他人よりも優位に立つように見せることの一つなのだと。
    自信を持つと多弁になり、自分が培ってきた知識を披露することになるだろうから、そうすることで自分は良くしっている=すごい、とアピールすることに繋がるのかな。

    ブッダの考え方にてらせば、自信がある・ないというのも「判断」にすぎません。
    「判断」は妄想の一種ですから、すぐに吹っ飛びます。ハードな「現実」を前にして、弱気になったり、緊張したり、自信喪失したりといった具合です。

    とは言え、自信をつけたい!をモチベーションにして、自分を成長させていくという過程は、人間が成長していくためにはとても自然なことのように思えるから、多分使いようなんだろうな。

    逆に、自信がないというのは?

    自信がないから、、、と言いながら、与えられた良い機会を遠慮してしまうことがあります。
    この本によると、自信を持つ機会にはいつまでたっても至らないのだから、今現在、持っている能力を使ってただやってみれば良いのだと。
    そこで失敗してしまったら、失敗してしまった、残念、次頑張ろうと思えば良いだけなのだ、と。

    ものすごくシンプルな考え方ですね。

    自信がないということについて、見方を変えて考えてみると、失敗した時の言い訳を最初から用意しているように思えてしまうんだよなぁ。

    私はずっと自信がないから、、と言って様々なことにチャレンジしてこなかったので、それは言い換えると良い機会を自分から遠慮してしまっていたんだろうな、と。様々なことにチャレンジしていたら、もしかしたら、今とは違う自分を、自分の特性を手に入れていたかもしれません。

    時間は戻すことができないので、この先を見据え、自信がないとは言わないようにする、自信を持つということは一生やってこないのだから、今持っている能力を生かしてチャレンジしていくように、考えを改めていきたいなぁと思います。

  • お墓の中に私はいない

    お墓の中に私はいない

    幽霊やお化けという存在は人間が作りだした幻想だと思っています。そういう存在を作ることで、何か都合の良いことがあったのだろう、と。河童とかね。流れが速いところだから、子供たちをそっちで遊ばせないようにするため、とか。

    だから、お墓参りに行ったとしても、そこに故人は住んでいない訳ですよ。そりゃそうだ、お墓には故人の骨しかないのだから。

    もっと言うと、お墓参りって、自己満足なんですよね。
    ちなみに私はお墓参り、大好きです。気持ちがすっきりするので。

    Photo by Luis Quintero on Pexels.com

    すっきりってどういうことなんだろう。

    お墓参りの目的って、いったいなんなんだろう。

    お墓参りに行くと、故人の思い出、それも良い思い出が思い浮かばれます。
    あぁ、楽しかったなぁ、などと故人との関わり合いについて、思い出しますね。
    その辺りの気持ちを思い浮かばせて、線香の独特な芳しい香りを感じる。
    この一連の行動、心情展開が、気持ちをリフレッシュさせることに通じるのかな、と思います。

    Photo by Artem Beliaikin on Pexels.com

    あと、私は実際に見たことはないですが、一升瓶のお酒を持ち込み、お墓の前に座り、語り合いながら飲むおじさん。彼はきっと、故人に話を聞いてもらいたいのでしょう。
    現実にも、話を聞いてもらう人はたくさんいるのだろうけど、きっと、おじさんは、故人にしか分からない目線、雰囲気で話をしたいのだろうなぁ。

    その思い、シンプルに、良いなぁ、と思いますね。

    人って孤独な部分があるからこそ、人との関わり合いを求め、それを思い出の棚にしまい、たまに思い出すのだろうなぁ。