投稿者: hmgrbean

  • そっち側のこと

    そっち側のこと

    ぼんやりと、死ぬことを考える時期に入っている。
    年に数回、そっち側のことを考える。
    寒くなるからなのかな、ときっかけを考えることが良くあるけど、きっときっかけなんてその時々で違うはずで、いくつかの思考が重なり、そっち側のゾーンに入ってしまうのだと思っている。
    季節の移ろいに思いを馳せるのと同じような感覚で、死ぬことについても思いを馳せるだけ。
    たぶん、ただの暇つぶし。
    つーかだいたい全部そうだろ。

    結局人間は孤独。
    死ぬまで、ただ生きているだけ。
    その、数十年間に意味を持たせるために、自分を納得させるために活動する。
    活動自体に意味はない。
    自分や誰かを好きになろうが、嫌いになろうが、なにか功績や罪過を残そうが、死ぬまで生きているだけ。
    なにか意味を持たせようとしてしまうけど、それは本来は必要のないこと。
    意味なんてない。
    生まれてきたことすら、意味なんてないのだから。
    爆発しろ、この思い。
    考えることすら無意味。

    人間は、迷惑をかけないで生きていくべきなのか。
    死ぬことすら誰かに迷惑をかける人間という生き物は、もはや死ぬことすら自由ではなくなった。
    勝手に死んで、朽ちていくだけで良いのに。
    それを願い、樹海に入っていく人たち。
    彼らのことを考え、静かに、泣く。
    それが共感というのだろうか。
    多分、樹海に入っていく瞬間に抱く思いの、0.1%すらも理解できていない。
    多分、生きることにめんどくさくなったんだろうな、くらいしか思いつかない。

    そっち側のことを考えるのは、悪いことではない。
    生と同じレイヤーにあるべき、死という存在。
    生き物はみんなそのイベントを迎える運命にある。
    ただ、心臓が止まるだけ。
    生き物が、生き物という存在ではなくなるだけ。
    死ぬことを考えないように、という考えは違う。

  • 誰にも読まれたくない

    誰にも読まれたくない

    楽しいとか嬉しい、悲しいと感じていることは、もしかしたら誰かと同じ思いを抱いているかもしれないけど、100%同じ思いを共有するのは難しい。
    だから、「誰かと繋がっている」という思いは嘘だ。悲しいけど。それを、悲しいと思うことすら、独りよがりなのだけど。
    そして、「誰かと繋がりたい」という思いすらも、結局独りよがり。自分だけが良ければいいというワガママのもと、生き物は、誰かに迷惑をかけてる。誰かを利用している。
    孤独なんだ、生き物って。一人で生きていかなきゃいけない。

    ゆっくりと、アウトプットしたい期間を閉じていってるのがわかる。
    自分の思いを外に出したいという思い、それすらも独りよがりなんだけど、それでも私は、私の、やりたいという思いに従って生きているから、それ自体には満足している。誰にも読まれなくても、私は満足している。
    それが承認欲求から来るものなのか自己実現から来るものなのかはよく分からないけど、私自身が満足しているから、それで良い。
    いろんな思いを削ぎ取って、最後に残るものは結局、私自身が満足するかどうか。納得するかどうか、なんだよな。
    この、ブログを書くことが後悔に繋がるものだとしても、ブログを書いている時の自分は満足して書いているのだから、納得するはずだろう。知らんけど。

    むしろ、こんなブログ、誰にも読まれたくない、とすら感じることだってある。
    誰の得にもならないから。自分だけが得をするから。満足するという意味での得。

  • 人とのつながりは、広げるべきなのか

    人とのつながりは、広げるべきなのか

    この頃、いろんな人の意見を目にすることが多く、疲れてしまうことがある。多くの人と関わりたいというのは、群れたいという本能?から来るものなのか分からないけど、自然と、沢山の人と関わりたいと思うタイミングが、年に数回くらいの感覚で訪れる。

    これは一つの欲求なのかもしれない。欲が出ると、多くの人とつながろうとしてしまう。その背景には、いくつかの理由があるのかなと思ってて。

    • 自分を知ってほしい。もしくは他の人からの反応を得たい。承認欲求から来るものなのかな。
    • 新しい刺激がほしい。今の自分が持っている思想にマンネリ感を抱いていて、それをバージョンアップさせたいから、他人の意見を聞きたい、とかね。

    人と繋がりたいという気持ちは、本来は、悪いことではないのかなと思う。自分を成長させるきっかけになるので。変わることに対し不安を抱くことはあっても、自分を成長させたいという気持ち自体は応援されるべきで、そのための行動を妨げ続けるのは、なんか自分を停滞させるような気がしてイヤなので。

    だけど、そうとは言え、私の場合はタイミングとか、気の持ちようというのが割と多くて、そしてどちらかと言うと億劫になることが多いので、ポジティブに人と繋がりたい!と思うのは少ないのだよね。これはもしかしたら、残念なことなのかもしれない。

    来年はもうちょっと、人と関わる機会を増やすようにしようかなぁ。そっちのほうが、なんとなく良い気がするので。

  • いろんな見方がありすぎて良く分からなくなっちゃう

    いろんな見方がありすぎて良く分からなくなっちゃう

    自我を通そうとすると、カドが立つことってあるじゃないすか。
    自我というか、ワガママ。
    その辺を考え出してしまうと、いろんな立場の人が考える、ものの見方っていうものを考えてしまって、結局どれが正解か分からなくなり混乱しちゃうんすよね。

    一方で、たまには自我を通すことも必要で、それは「生きてて良かったと感じるポイント」を稼ぐ必要があるからで、それも含めると、ホント、難しい世の中だよなぁと思う。

    自分のことを一番に考えるのが、もしかしたら生きる上で一番正しいことなのかもしれないよなぁ。
    それをきちんとやっていかないと、自分のこと、嫌いになっちゃうから。
    けど、自分の考えるワガママを一番に考えるって、なんかちょっとイヤだなぁ。
    傲慢な人じゃん、って思ってしまうから。

    多分そこってバランス感覚が必要で、ワガママ 対 思いやり という2つの要素を都度考える必要があるかなと思って。
    相手に譲るっていう、思いやりを調整していくのが一番現実的なのかな。
    どっかで聞いたことのある、「自分の思いのうち、51%分を思いやりとして相手に譲る」っていうのが、自分を愛しつつ、相手に譲ることのできる最強なものかもしれません。

  • 自分の思いは過去の積み重ねだから、

    自分の思いは過去の積み重ねだから、

    今、抱いている気持ちは自分の未来を作るのだよね。

    自分なんてそうそう変わらないから、と思うんだけど、「いつもすき家ばかりだから、たまには吉牛にしてみよう」「いつもスニーカーばっか履いてるけど、たまにはブーツにしてみようかな」みたいな、そんな軽い気持ちの切り替えによって、自分の新しい未来が生まれたりするんだよな。

    そう考えると、自分なりのルーティンワークっていうのは、自分を固める効果があるけど、変わらないというリスクを孕んでいるのだよね。

    変わる自分を肯定しているのは、それは向上心から来ているもので、たぶん、今の自分はちょっとポジティブなバイオリズムで生きているのかなぁ。

    変わることは怖くない。

    人間は今、現在の自分を保とうとする人間だから、変わることに臆病になってしまう。

    変わらなくても良いのよね。そっち側も肯定したい。それは全部、自分の意思だから。

  • SDGsがいまいちしっくり来ない

    SDGsがいまいちしっくり来ない

    SDGsという言葉は急に、目にするようになった印象があります。
    個人的には今年、コロナという言葉とともに、流行りだしてきたような印象。
    子供が小学校で学んできたという話を聞き、学校教育にも取り入れられるようになったのか、と。

    SDGsという言葉自体は目新しいですけど、17からなる目標自体は目新しいものではない印象です。
    それぞれが、昔から、世界的に言われてきたような問題ばかり。
    それこそ私が小学生だった30年前にも、同じように学校で取り扱われてきたように思います。

    けどなー、なんて言うんだろ、イマイチしっくり来ないんですよね。
    なんで急に?いまさら?という気分がまずあって。
    そりゃ、前向きな話ですから否定するような向きのものではなく、私だって子供たち、子孫に対してこの地球が他の惑星から影響を受けるまでは繁栄していってもらいたいと思っています。
    なので、やれる範囲ではやっているつもりです。
    無駄なものは買わない、とか、水を大切に、とか、その程度ですけど。

    あと、こういうのって押し付けられてやるものではないと思っている自分がいます。
    あくまで自発的に、でしょ。上述してますけどそれ目線ではやってるし。
    これが流行ることで、誰かが得をするのかな、みたいなことを考えてしまったりして、それは良くないな、と思いますけど。

    多分、それ以前に、もっと身近にある問題に着目しても良いのでは?と思ってるんだよなぁきっと。
    ぱっと思いつくのは、高齢化社会とかさ。8050問題みたいに言われてますけど。
    それに絡む年金問題とか。私は41歳という、ちょうど青年と老人の間にいる年代なので、私たちが主体となって行動を起こしていく必要があるのかな、とかね。

    あとは所得格差とか。
    9%チューハイが売れる理由とか考えると、単純にもっと所得を上げる必要があるのでは?と思いますけど、それじゃあどうやって?とかね。ノーアイデアですが課題として存在するのは認識しています。

    ちょっと脱線しましたけど、長期目標としてSDGsがあるのは良いと思うんですよ。
    だけど、それを達成するためには足元にある課題をクリアする必要があるのだから、それに対しては私は何ができる?というのを考えていっても良いのかなぁ、と。それが自己実現()にも繋がってくるのかな。

    そんな、意識の高い人間ではないので、まぁ、ここでぼんやり考えて終わってしまうんですけどね。。

  • 無いものねだりなのかな

    無いものねだりなのかな

    ここ数日、どうにもこうにも気持ちが上に向いていかず、家族以外と会うの、ちょっとキツいかな、、と思っていて、週末に飲みの予定が入っていたのだけど、泣く泣くキャンセルする羽目に。

    自分のせいです。ごめんなさい。

    本当は家族と話すのすらもちょっとな、、と思っている状況なのだけど、家族とは喋っていないといけない状況が多々あるからそこは頑張っているのだけど、本当は、一人でいたい。

    家族から救われることだってあるのだから、そこは持ちつ持たれつでしょと思いつつも、上に向けていこうという気持ちの落とし所が見つかりません。

    人間は生まれてきた時も、死んでいく時も一人なのだから、孤独とは常に寄り添っているはずで、自分自身と話し合う時だって孤独なのだから、その瞬間を大事にすれば良いのだと思います。
    ただ私の場合は自分自身と話し合うのは周りに誰もいない時に行いたいので、常に家族の誰かがいるような状態だとそれを確保するのが難しい。
    まぁ、そこは理解のある家族なので、ちょっとの間一人にさせてほしい、とお願いすればその状況は作れるのですけれど。

    そうすると私は「家族みんなで一緒にいないといけないんじゃないか」的な考えを持ってしまい、思考がぐるぐると巡ってしまい、何がしたいのか分からない状態に陥ってしまうのです。

    めんどくせ、って思う。

    多分、シンプルに、「〜しちゃいけない」って思考をやめたらいいんだと思う。

    一人になっても良い。
    こうやって自分を肯定することで、私は私の行動に対してケチを付けることなく、自分のやりたいことを思う存分できるのではないか、と。
    制限をかけているのは自分自身。

    家族といると一人になりたいって思うし、
    きっと独り身だったら誰かと一緒にいたいって思うだろうから、私は無いものねだりなんだろうなぁ。
    現状に満足していないということなのかな。

  • どこかで無理してる

    どこかで無理してる

    こんがらがっている。

    なにか、ストレスが溜まっているのかな、と客観的に自分を見ようとしているのだけど、良く分からない。

    もしそうなら、そのストレスを発散できるようなことをしてみたら?と思うのだけど、何をどうすれば良いのか、全く見えてこない。多分、なにもしたくない、というのが正解なのかな。

    強いて言えば、うっすらと消えていきたい、くらい。誰かが悲しむから、消えられない、と思っていて、結局それは独りよがりなんだよなと思うものの、消えることすら好きにさせてくれないのか、と、この世の正常な人たちが作ったルールにがっかりしてる。

    違う、きっと違う。消えることはきっと、正しいことじゃない。

    嫌われる勇気に、今、手元にあるもので生きていくように考える、みたいなところがあって。

    私、ないものねだりをしていて気持ちが疲弊していくパターンが良くあって、それこそ月に一度くらいの頻度で起こるのですけど、もしかしたらそれなのかなぁ。

    ぼんやりと気持ちを整理させつつ、どうにか落ち着いていこうとしている過程で書いているので、とりとめのない文章になっているのだけど、

    あと、たぶん、

    最近、自己啓発系の本を十冊くらいバーって読んだので、そのせいで新しい情報が入ってきて、混乱したっていうのもあるんだよな。情報過多ってヤツですな。自分の器は急には大きくならないので、自分のペースで情報を取り入れ、そこから取捨選択するっていうプロセスは、よほどのことが無い限り逸脱しないほうが良いような気がする。

    こんな感じの思考プロセス、ぼんやりとこんがらがっちゃって、ただ、いなくなりたいなぁ、、と思うヤツ、矯正してサヨナラしたいなぁ。
    いや、これがあるからこんな感じの日記を生み出すことができるのか。その、享受されることの方を活かすべきなのか。

  • 自分探しという活動の意味が分からない

    自分探しという活動の意味が分からない

    20歳の頃、自分探しと銘打って、ニュージーランドに住んでたことがありました。半年くらい。
    半年とは言え、その大半は「早く日本に帰りたい」と思ってばかりで、あまり楽しんでなかったです。

    その理由は、シャイで、あまり自分からガツガツ行くタイプではないので、純粋に楽しくなかったから。
    そんな人が自分探しで行ったとしても、結局シャイな自分を再確認して終わり。
    積極的とは言えない自分の性格、なのに、自ら海外に行こうとする、という積極的な姿勢、相反しますよね。

    その心には、今の自分に満足していないという気持ちが存在しているはずで、だからこそ新しい自分を見つけに行きたいでしょう。
    けど、新しい自分はそこにはいません。急に、別の環境に放り込まれたからって、新しい自分が生まれるかというとそんな簡単な話ではないからです。

    自分を見つける、という態度がそもそもおかしいよな。受動的なのが気に入らない。
    新しい自分を作りに行くという姿勢なら納得できます。こうなると肯定的だから。

    あの時、もし、積極的な自分になっていたら、今とは違う人生を送っていたのかな、と思うこともあります。
    そこには自分の願望はあまり入っていなくて、あくまで選択肢の一つという範疇でしかないけど。

    積極的になる、という人間性についても、結局相対的なものでしかなくて、ある人から見たら私は積極的に見えるのだろうし、ある人と比べたら随分と消極的な人生を送っているようにも見えるはずだから、なにを以って積極的なのかはわかりませんけども。

    少なくとも、自分がやりたいと思ったことについては、なるべくやり遂げてから死にたいなぁと思います。
    その目線で、もしかしたら、大学を留年することが決まったあの日、海外で暮らしたいって思ったのかもしれないなぁ。