投稿者: hmgrbean

  • 8月30日 だからこそ私は、自分の味方になってあげるべきなのでは

    8月30日 だからこそ私は、自分の味方になってあげるべきなのでは

    今日は疲れた。特に夕方の会議。
    司会を担当したんだけど思うように議論が続かず、コントロールできない展開。
    茶を濁して終わったのだけれど、まさかの延長戦。これがまた疲れた。
    議論はミーティング中に行いましょうよ、と思う一方で、時間配分とかをうまくコントロールできなかったという点で責任を感じてしまう。

    まぁそんなことなんていつものことだからね。別にうまくミーティングを回せなかったからって、自分の首が飛ぶわけではないのだから、
    と自分を宥めすかす。

    「こうしよう、こうなりたい」と自分が思いを持つことは大切なことだ。
    人間は成長する生き物だから、すいう思いをベースに、それに到達できるように努力していくんだろう。
    だけどそれに苦しめられてしまったら本末転倒だなと思う。
    自分は成長したいのだけれど、途中で躓いてしまった時に、そっと背中を押してまた立ち上がれるようにしてあげることも、成長と同じくらいの温度感で持つべきではないだろうか。
    このご時世、周りは人を叩くことで躍起になっている人が多い。
    つまり敵が多いってことなんだろうけど、だからこそ私は、自分の味方になってあげるべきなのでは。

  • 8月29日 信念と社会と私

    8月29日 信念と社会と私

    何年かぶりにジョージ・ウォーエルの1984年を読んでいます。
    前に読んだのは何年前だったか。確かスティーブ・ジョブズがこの話を題材に出して喋っていたことがあり、それで気になって読んだんだよな。

    物語はものすごく閉塞感の溢れる世界の中で綴られています。
    未来なんてもんはねぇよ、そんなの気にした時点でお前は死刑だわ(誇張ではなく)みたいな話。
    どこの国の、なに党がそうさせてしまったのかは分からないけれど、きっとめちゃくちゃ強いボスの下にはイエスマンしかいなかったから、そういう世界になってしまったんではないかな、と勝手に想像する。そう言う背景は描かれていなかったので、勝手に想像しています。

    そんな中で主人公のウィンストンは、必死に自由だとか、正しい過去を信じようとするんですね。
    過去なんてものはいくらでも書き換えられるから、それこそ私がここで最近書いたように「事実は変わらない、解釈だけが変えられる」に少し近いんですが、この物語常では事実すらも変えられてしまうんですね。様々な文書が書き換えられてしまって、人々の中にあった記憶の中の過去は、もしかしたら間違えてるんじゃね?みたいなノリ。

    だけどウィンストンは、戦おうとします。こっそり日記を書くための手帳を買って、今自分が考えていることを書いたりしています。

    もう、これは信念だよな、と思いました。

    信念って難しいですね。言い換えると、自分だけが持ってる正論だと思うんですけども。
    正論は時として人を攻撃してしまいます。誰から見ても正しいと思える正論って実は少なくて、それこそ誰から見た正義だよ、って話にも近いんですけど、同じように、信念を貫こうとすると弊害が起きたりしてしまったり。
    そのうちに懐疑的になってしまって、私の持っていた信念って本当に正しいんでしょうか、って葛藤が生まれたりとかね。
    自分の信念を貫くっていうのは、ある種の自己満足だと思うんです。
    人間は自分のことがかわいいから、自分の信念は大切にしようと思うはず。
    だけど、そこで、「社会」というものとの兼ね合いが生まれてしまう。
    社会を立てようとすると、自分の信念を曲げなければいけない、と。
    どっちつかずなんですね。

    多分、その答えって、どうしたら自分が一番気持ち良いかって話なんだと思います。
    奉仕の精神って言っちゃうと言い過ぎかもしれないんですけど、人間は、社会生活において誰かに奉仕することで自己実現を得られたりするので、プラス承認欲求が満たされるっていうところも関係してて、だから自分が気持ち良いのはどっちだ、って胸に手を当てて考えてみると良いのかもしれません。
    その中で、少しだけ自我を通したいと思う人は自分の信念を貫こうとするし、逆の人は譲っちゃったりするんですよね。
    そうやって、社会って成り立ってるんじゃないかなぁ。

  • 8月28日 私が今までについた嘘

    8月28日 私が今までについた嘘

    たまに、自分が今までに吐いてきた嘘を思い出しては、死にたくなってしまう。
    嘘なんてつかない方が良いに決まっているんだ。
    誰にも嘘をつくことなく、生きていけることができたら。
    それこそが、善人なんだろうか。
    嘘をついてない人なんて、多分いない。
    まだ十分に喋ることが出ない赤ちゃんだって、親の気を引くために嘘泣きをすることだってあるのだから。

    だからと言って、私のついた嘘が許されるのかというとそれは疑問。
    だって私以外の全員が嘘をついたことがある、という相対的な比較しかしていないのだから。

    自分のついた嘘って重い。
    こんなことになるくらいなら、嘘をつかずに生きてくれば良かった。
    どうしたら、倒れそうになる自分を支えることができるんだろうか。

    他人と過去は変えられない、とこのブログで書いたのはいつのことだっただろう。
    つい最近なように思う。
    つまり過去は変えられないのだ。私がいくらここで、自分がついた嘘を悔んだとしても、その事実を変えることはできない。
    無数の嘘は、私を苦しめるけれど、その事実を変えられることはできなんだ。
    だから、解釈を変えるしかない。
    誰かの心に付いてしまった傷を、私が癒すことができたら良いのだけれど。
    私がついた嘘で誰かを傷つけてしまったとしたら、その傷はすでに癒えているだろう、と楽天的に考えることができるかもしれない。

    未来は変えられるんだとすると、私はここから先、嘘をなるべくつかないで生きていけば良いんだろう。
    たぶん、考えすぎているんだと思う。
    難しく考えずにシンプルに、真摯に生きていけば良いだけなのではないだろうか。
    この先、嘘をつく必要が出てくるかもしれない。けれど、その嘘が誰も不幸にしないのであれば、良いのではないだろうか。
    私が今までについてしまった嘘については重たく受け止めておくべきだろう。
    だけどその事実を覆すことはできないのだから、私の解釈をポジティブに変えていくようにしよう。

  • 8月27日 腹黒い私

    8月27日 腹黒い私

    私はそこまで歴史に詳しい人間ではなく、学校の勉強で習った程度、それプラス、旅行した時にはそのあたりを治めていた領主のことをWikipediaで調べる程度なのですが、ちょっと思い立ってNHK大河ドラマの「どうする家康」を毎回欠かさずに観るようにしています。

    どうする家康、っていう言い方がまた、彼の優柔不断さを体現しているように感じるのですが、その家康も回を重ねるごとに逞しく、頼れる人に成長していく様が描かれていて、そこがとても良いです。

    徳川家康について、私はあまり好印象を持っていませんでした。
    というのも私は司馬遼太郎の関ヶ原をKindleで買って何度か読んでおり、あれは石田三成が主人公として描かれているから、どうしても徳川家康を悪役として考えてしまうところがあり。
    小説の中では調略家として描かれているように思います。実際はどうだったのかは分かりませんが。

    その、小説の中の家康をイメージしているところなので、どうする家康では主人公として描かれているから、どうしたってギャップが生まれてしまうのです。
    そこは私の中の解釈として、どちらも正解であり、正解ではないという感覚で捉えているのですが、

    人は見かけによらないよなぁということを常々考えています。どうする家康を観ながら。

    裏表がない人、って言われると良いイメージとして伝わってきます。
    裏表がない人というのは誰に対しても同じ態度、情熱で接するイメージがあり、分け隔てなく接する人=いい人、みたいなイメージが先行するのかな。
    逆に言うと腹黒い、とかそういう意味になると思うんですが、こちらは悪いイメージになりますね。

    では、腹黒いと言うことは、本当に悪いイメージなんでしょうか。
    腹黒いと言うのは、ベースに「自分に優しい」と言うことがあるように思います。
    なぜなら、自分が都合良くなるように物事を進めようとするわけで、それは自分が気持ちよくなりたいから、ということになるのかなと。
    だから、自分にとってはいい人であるということになりますね。
    自分にとって、良い人であるべきと言うのは、この世を滑らかに生きる人としては必要なことだと思います。
    私だって常々、自分を肯定するのは自分しかいないと考えているので、つまり私も、腹黒い人と言えなくもないのかな、と。
    表裏一体です。

  • 8月26日 今日のレイソル

    8月26日 今日のレイソル

    今日は柏レイソルの試合。久しぶりにスタジアムで観戦した。
    いつもの通り、ゴール裏の2階席。子供と一緒に。

    最近のレイソルはちょっと調子が上がってきたように感じる。
    ボールを繋ぐ意識、球際の競り合い。
    その証拠として、結果がついてきている。
    勝ってはいないけれど、負けてもいない。
    攻撃も防御も、なんとなく噛み合ってきたような感覚がある。

    現地で見て思うのは、レイソルの選手たちが負けないぞという意識を持っているということ。
    彼らはプロだから、サッカーでお金を稼いでいる。
    だから、結果が良くないと、すぐに終わってしまう。
    そういう意識もあるのか、ひしひしと気迫のようなものを感じる。
    なので応援にも力が入る。
    応援することで、声を出すことで、彼らのあと一歩という頑張りに力を授けられると良いな、という思いで、応援している。

    結果としては引き分けだった。
    だけど強豪の広島だったから、個人的にはそれで良かったんじゃないかと思う。
    勝てたらもっと嬉しいけど。
    私の中では、長いトンネルの終わりにさしかかり、出口が見えてきたように感じるのだ。

  • 8月25日 私とAIと人間

    8月25日 私とAIと人間

    相変わらずChatGPTと対話を続けている。
    彼はすごい。ChatGPT-4という、課金モデルを使っているせいか、期待以上の言葉が得られることが多い。
    私たちが普段使っている自然言語であれば、最高の話し相手になるかもしれない。
    この先、本当に、ウェブライティングみたいな仕事はChatGPTに取って代わる時代になるのではないだろうか。

    そうなると、人間とAIの共存みたいな話題が当然出てくるだろう。
    現段階では、AIは感情や意見を持たないという段階であるので、AIが人間を支配するみたいな恐ろしい場面はないかもしれない。
    だけど、それは現段階の話で、例えばガストで食事を運んでくるロボットがいるけれど、彼が自分の感情を持ったとしたら、「私の進む先に人がいて邪魔だ!」みたいな感情が生まれ、たりするのかもしれない。
    かもしれない、ばかり言っているけれど、こんな未来は、実はもうすぐやってくる可能性だってあるのだ。

    未だファンタジーの枠を超えないけれど、AIが人間を支配する世界になったら、どんなことになるのだろう。
    人間が担っていた仕事の大部分をAIがやることになり、人間は余暇時間が増える。
    仕事がないから、給料がもらえない。けれどそこは国がベーシックインカムを導入して、最低限の暮らしはできる。贅沢はできないけれど。
    そうなっていくと、人間の生活はだんだんと格差がなくなっていき、少しでも贅沢をしようとする人がいたら監視され、みたいなことになっちゃったりするんだろうか。
    ジョージウォーエルの1984みたいだな。実は15年後とかに、そんな世界になったりして。だとしたらイヤだなぁ。

  • 8月24日 表現方法と私

    8月24日 表現方法と私

    自分の深層意識から生まれた感情のすべてラベルをつけられるほどのボキャブラリーを持ち合わせていない私は、だいたいのことに「ヤバい」とか「すげぇ」みたいな、少し前に言われてた「小並感」のような、表現方法しか持っていない。ような気がする。

    私自身はそれを痛感しているので、だから、それを補うために日々、本を読んだり、ここでブログを書くことで、私なりの表現を勉強しているつもりだ。

    だけどどうしたって勝てない相手というものがある。
    芥川賞を取った作品を読んでいると、容易にぶち当たる。
    みんなすげぇよ。よくもまぁこんなに綺麗に表現できるよ、みたいな。

    私だってできる限り、自分の持っているボキャブラリーを最大限使い、表現してるんだけどなー。みたいな。

    いや、けど、今持ってるもので戦うことだってできるんじゃないのかなー、とかね。考えちゃったりしてる。
    自分は、自分の味方でいるべきだから、現在の自分を肯定してあげるスタンスになってあげないといけないんじゃないのかな、とか。

    小説をずーっと書き続けているんですが、一向に終わる気配のないそれの持っていき方を考えているのと並行して上記のようなことを考えたりしている。
    私なりの味、とでも言うのかな、そういうのもあるのかもしれないから、今以上に文章を変えなくても良いかなーとか思ったり。

    ふらりふらりと文章を書いています。

  • 飽きっぽい性格が教えてくれた、達成感と向き合う勇気

    飽きっぽい性格が教えてくれた、達成感と向き合う勇気

    飽きっぽい性格を持つ人々は、一つのことに集中して取り組むことが難しいと感じることが多いかもしれません。しかし、その特性がもたらすチャレンジは、同時に成長と達成感を求める旅でもあります。そこから得られる貴重な教訓と達成感について考えてみましょう。

    1. 新たな挑戦を求める好奇心

    飽きっぽい性格の人は、新しいことへの好奇心が強い傾向があります。これは、異なる分野やスキルを探求することを通じて、自身の幅広い知識や経験を豊かにする機会となります。一つのことに飽きたら、新たな分野に飛び込むことで、常に成長し続けることができます。

    2. 持続と忍耐の大切さ

    飽きっぽい性格の人が一つのことに取り組む際、最初のワクワク感が薄れると、興味を失いやすいかもしれません。しかし、ここで大切なのは持続と忍耐です。新しいことに取り組む過程で、最初の難関やモチベーションの低下を乗り越えることで、本当の達成感や満足感を手に入れることができるのです。

    3. 小さな成功の積み重ね

    飽きっぽい性格の人が一つのことに取り組む際、大きな目標を達成するまでの道のりは長く感じるかもしれません。しかし、小さな成功を積み重ねることで、進歩を実感しやすくなります。毎日少しずつ進歩を見守ることで、モチベーションを保ちながら目標に向かうことができます。

    4. 自己理解と自己受容

    飽きっぽい性格の人が向き合うべき課題の一つは、自己理解と自己受容です。自分の性格や傾向を知り、それを受け入れることで、自分に合った取り組み方や戦略を見つけやすくなります。自分を責めるのではなく、自分の強みと弱みを理解し、それを活かす方法を模索しましょう。

    5. 成果を共有する喜び

    一つのことに取り組む過程で飽きっぽい性格の人が得られる最大の達成感は、その成果を周囲と共有することです。成し遂げたことを人々と分かち合うことで、その達成感が倍増し、自信を深めることができます。また、他人の反応や感想を通じて、自身の努力がどれだけ価値のあるものだったかを再確認できるでしょう。

    飽きっぽい性格がもたらす難しさや挑戦は確かに存在しますが、その中には豊かな達成感と成長の機会が隠れています。新しいことへの好奇心を大切にし、持続と忍耐を養いながら、小さな成功を積み重ねていくことで、自分自身に素晴らしい挑戦と経験を提供することができるでしょう。

  • 8月23日 価値観と視座

    8月23日 価値観と視座

    生きていると、ほんとにいろんなことがある。
    いろんな物事にぶつかり、それを各人が独自に解釈して、思考し、行動へと移す。
    その行動が他人の思いに影響し、伝播し、新たな思考、行動へと向かう。
    いろんなこと、と冒頭に書いたのはなにも特別なことではない。
    今日、起きた時に寝起きが良かったとか悪かったとか、そういう些細なことから生まれる。

    寝起きが良かったから朝ランに出かける。
    たまたま出勤時間の重なった、近所のパパ友に出会う。
    パパ友はそこで「最近運動不足だなぁ、俺も走ってみるか」と感じ、会社帰りにスポーツ用品店へ寄りランニングシューズを買う。
    気を良くしてその日はお酒を飲み過ぎてしまい、翌日、寝起きが悪いため、ランニングには出ない。
    その翌日は雨、で買ったばかりのシューズを濡らすのに気が引けてやめる。
    そのうちに仕事が忙しくなり、運動不足のことを忘れてしまう。
    パパ友はだんだん運動というものを疎ましく感じるようになる。
    ランニングシューズをヤフオクに出品する。
    購入したのはなんと、朝ランに出た私。

    私は、それ以降もランニングに精を出し、やがてフルマラソンに挑戦、無事に完走する。
    パパ友は運動が嫌いになり、運動を趣味にしている人を敬遠するようになる。
    以降、疎遠になり、街ですれ違っても目すら合わせようとしない。
    私は、なにか悪いことをしてしまったのか、全くわからないという「視座」があり、パパ友は、私に対して嫌悪感を抱いていることを露わにするけれど、これが攻撃につながっているわけではないという「視座」がある。

    ニーチェは、「事実はない、あるのは解釈のみ」と語った。
    この、上記の例は私がテキトーに考えただけだけど、お互いの視座があり、価値観がある話だと思っている。
    価値観を合わせるのって難しい。
    価値観の合う人が結婚相手として相応しいとは一般的に思われているが、確かに金銭感覚や趣味に対する考え方、みたいなものは近しいほうが良いだろう。
    だけど少しずれていたほうが、楽しさが増えることだってあるように思う。
    相手のことを深く知り、それによって自分の反応に驚いたりして、新たな価値観を手に入れることだってできるかもしれないからだ。

  • 8月22日 反省について

    8月22日 反省について

    彼が自分でこの世に別れを告げようとした時、多くの人が、助ける手立てはなかったのか、といった旨を話した。
    私だってそう思ったさ。だけど、本人にしかわからないこと、本人にしか見えない世界があるんだよね。
    それを他人が理解しようとしても、彼の感覚というバイアスをかけないといけないのだから、逆立ちしても、それを知ることはできない。

    エピクテトスというギリシャに住んでいた哲学者が、他人と過去は変えられないのだから、執着すんのやめなよ、と語った。
    あの人に、死ななくても良かったのに、といつまでも悔やみ続けるのは、もしかするとその人に執着しているということになるのかもしれない。
    死ななくても良かったのに、の後に、私がちゃんと言葉をかけてあげられれば良かった、とか、私がきちんとケアしてあげられれば良かった、とか考えるのはエゴなのだろうか。
    後悔って、何かを生み出すんだろうか。
    後悔から、自分が起こした・起こさなかった行動に対する反省が生まれ、そこから「次からは失敗しないようにしよう」という気持ちに持っていくことができたらきっと、後悔してもプラスなんだろうなぁ。