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  • 生きることについての定点観測(42歳になったばかりの目線)

    生きることについての定点観測(42歳になったばかりの目線)

    子供が生まれた辺りから(私が30歳の時に長男が生まれている)、初詣等の神社でのお参りでは、「家族みんなが平穏に暮らせますように」といった願い事になった。
    平穏に暮らすことがいかに難しいか。それを理解し始めたのが、ちょうど30歳になった頃だろうか。

    生きていると、本当にいろんなことがある。
    機嫌良く、平穏に、死ぬ瞬間まで生きることが、人生で一番目指すべき目的のように感じている。

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    神様への願い事の変遷

    子供の頃、思春期くらいまでは、〇〇が欲しいとか、〇〇に合格したいとか、私利私欲に走っていたような気がする。
    高校生くらいまでだろう、明確にそういうお願いをしていたのは。その頃、自分の中で、何か満たされない思いがずっと根付いていたように思う。
    やがて、だんだん、歳を取るにつれ、考え方が変わってきた。恋人ができ、結婚し、子供ができた。ライフステージは徐々に移り変わり、自分だけではなく家族という存在が増えてきた。そのうちに、価値観が変わったのだろう。私利私欲となるものはみるみるうちに無くなっていった。その結果、私を含めた家族全員が(時には私以外の家族が)、健康で幸せに、平穏でなにごともなく暮らせるように、という願いに変わった。多分、平穏に生きることの難しさが分かってきたからこそ、それを神頼みにしているのかもしれない。

    別に、神様に責任を持ってもらおうとしている訳ではない。というか、そもそも、あまり神様を頼りにしていないか。神様のおかげ、という言い方も理解できるが、基本的にそこまで持っていくのは自分の実力だと考えているので、自分の努力が99%で、最後の1%くらいが運なのではないだろうか。
    努力をすること自体は、意識の高いことなのだろうか。正しく生きることに対しての価値観に従い、自分がどれだけ努力するかどうかは生きるためにやるべきことなので、意識の高いとか低いとか、そういうレベルの話ではないだろう。そもそも意識の高い低いというのは相対的なのだから、考える必要はない。

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    自死しちゃいけない理由についての定点観測

    数年来に渡って考え続けている「自死しちゃいけない理由」については、未だに答えが出せていない。
    頻度こそ減ったものの、未だに、月イチくらいの感覚で、それを肯定しようとする自分がいることに気づいている。周りが悲しむから、という至極真っ当な理由が一番適切、妥当なように感じるが、それはずいぶんと独りよがりだ。周りが悲しむかもしれない、というのは自分の思い込みなのだから。それに気づいてからは、いよいよ、この世に自分の生をつなぎ留めておくものがなくなったように感じている。つまり、何のために生きているか、何のためでもない、という程度の話。
    死ぬ権利というのもあると思っている。どうせいずれはみんな死んでしまうのだから、それが早まっただけなのではないだろうか。もし自分が死んだとしても、自分を知ってくれている人たちの心(というか頭の中)には自分という存在が(ある程度は)残る。だから安心して、というわけでもなく、彼らの心に私が残るからどうということはないのだけど。
    それでも、簡単には死んではいけないんだろうな、と思っている。周りのみんなが、その道を選んでいないから。日本は自死する人が数万人いると言われているものの、私の周りでは1人も聞いたことがない。もし、周りにそういう人がいたら、私は続けていくのだろうか。分からない。けれど、生きなければいけない、というのは、どうも偽善者な気がしてしまって、気が引けてしまう。

  • 自分の機嫌は、自分で取るしかない

    自分の機嫌は、自分で取るしかない

    不安や怠惰など、自分のパフォーマンスを下げる要因はいつまで経っても消えない。
    それらが勝手に消えてくれるのを待つというスタンスでも良いのだけど、もしかしたらそれを待っているうちに人生が終わってしまうかもしれない。
    もしかしたら、プロアクティブに、自分から進んでその状況を消え去ることのできる武器を持っておく必要があるのではないだろうか。

    あなたにとって「機嫌の良くなるツール」とはなんだろう

    これ系の投稿を幾度となくしてきたように思う。
    題材が被ってしまうのは、私一人がやっているブログなのだからしょうがない。
    私自身が、自分の機嫌をコントロールするのが上手くないから、こうして何度も取り上げて書いてしまう。

    自分の機嫌は自分で取るしかない。

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    まず、自分でうまく「機嫌が悪くならないように」コントロールすべきた。未然に防ぐために、機嫌を悪くするような行動を取らないように、きっかけを持たないようにすべきだ。

    このやり方が通用するのであれば、機嫌が悪くなるようなことはない。
    だけど、人生というのは、そんなに甘くない。

    もし、機嫌が悪くなってしまったら、それをすすんで排除すべきだ。なるべく早く。全力を尽くして。

    それには、自分の好きなもの、好きなことを見つけておくと良いだろう。誰かに依存するとその人の都合を考えなければいけないので、自分一人でできることのほうが良い。
    好きな食べ物、映像など、個人差があるものの、手っ取り早く扱えるもののほうが良い。

    それを手に入れたら、自分の機嫌が直るまで没頭してみる。機嫌が悪くなるのは周りにも悪影響を与えるし、なによりそれ自体がストレスなのだから、なるべく早く取り除く方が良いのだろう。

    できれば、機嫌が悪くならないようにするほうが良い

    のだけど、人生ってそんなに甘くない。
    機嫌の悪くなるようなことがあるから、逆に、機嫌を良くするものの良さが見えてきたりする。

    たぶん、自分の機嫌を損ねるようなものにはなるべく近づかないようにするのが得策なのだ。
    そんな簡単にできることではない。

    そんなに、簡単にできることだとしたら、そもそも自分の機嫌が悪くなるなんてことがないのだから。

    であればどうするか。

    自分の考え方、価値観の捉え方を変えてみるなど、自分自身を変えることが必要なのかもしれない。

    価値観も私の好きなトピックで、柔軟な価値観を持つことで、自分の機嫌を損ねずに済むというメリットを享受することができる。
    だいたいにおいて、機嫌を悪くする原因が、「自分の期待通りに人生が進まないこと」なのだから。
    事実は1つしかないのだが、それを100人の人間が捉えることで、100個の解釈ができるのである。
    それを肯定せず、否定もせず、ただ受け止めることで、自分は平常心を保ち続け、そして機嫌も悪くならずに済むから。

  • 友人は、簡単には選べないけど、自分の人生を大きく左右することがある

    友人は、簡単には選べないけど、自分の人生を大きく左右することがある

    いい人生を歩みたいと思ったら、前向きに生きている人間を近くに置くべきである。
    と考えたのだけれど、いい人生っていうのは相対的なものだから、いい人生とか悪い人生っていうのは、なにかを基準に置くんだよな、とふと考えた。
    違う、相対的に見ていい人生とか悪い人生とか、そういうことを書きたいわけではないので、修正する。

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    自分は、周りにいる人たちによって染められることが多い(気がする)

    あくまで私個人や、私の周りにいる人を観察して感じること、という前置きをさせていただく。
    自分の思想に基づいて人を選んでいくという趣向があるはずだから、自分の思いに賛同してくれる、もしくは、賛同してくれるまではいかずとも肯定してくれる人間が集まるような気がする。

    自分がそういう人と一緒にいたい、同じ時間を過ごしたいと感じるのは、彼ら彼女らがとても心地良いからだ。

    なぜ、心地良いと感じるのだろう。

    それは、自分の思い通り、もしくは思いと近いものを、彼ら彼女らが持っているからだ。
    すると、だんだん自分の思いが強くなっていく。自分の生き方は間違っていなかったんだ、と周りの人間が反応する様を見て、気づく。

    多分、その時点での自分が考える生き方以外にも、様々な生き方があるはずだ。180度違う考え方を持っている人間だっているはずだ。
    しかし、その時点での自分は、それ以外のことを思いつかない。
    思いつく術がないから。

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    自分の考えに近い人間が集まる世界は、是か非か

    是でも非でもない。
    心地良いのだから、そこから抜け出そうとする気持ちというのは、自然に弱まっていく。
    居心地の良い場所、安全な場所に留まっていこうとするのは、生き物の本能なのだろう。
    それを是と考えるか、非と考えるかは、自分の外に世界があるかどうか、その世界に対して魅力を感じるかどうかである。

    井の中の蛙として、自分がいる世界で十分だという考え方がある。
    外の大海に気づいて、そっちに魅力を感じるという考え方もある。
    どっちが良いかは、自分の考え方次第である。

    一般的に、後者のほうが、人生を俯瞰した時に、浮き沈みがあったものの経験という物差しで見たら、プラスだった、と考える人が多いような気がする。
    だけどこれはあくまで価値観だから、私はどちらが良いかとは言えない。
    私は、ある程度後者、大海に思いを馳せて生きてきたが、ある時を境に自分がいる世界で十分だと思うようになった。
    ある時と言っても大きな出来事があった訳ではなく、なんとなく、そっち側を目指すことに疲れを感じた時だ。

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    最後に満足するかどうか

    死ぬ直前まで大海を目指す人がいるかもしれない。
    私のように、どこか人生の途中で、大海を目指すことに興味がなくなる人がいるかもしれない。
    どっちも正解である。
    間違いではない。

    では、どっちを選ぶのか、と考えた時に、私が思いついたのは、後悔という言葉だった。
    死ぬ間際になって、後悔をしない人生を選ぶのが、自分にとって一番良いことなのではないだろうか。
    もしかしたら、大海を目指すことを早々に諦めたほうが、後悔をしないかもしれない。
    大海を死ぬ直前まで目指す方が。
    どっちが良いと感じるか、なんとなく想像は付くものの、死ぬ直前まで分からない。
    それまでは、少なくとも、自分が気持ち良いと感じる方を選ぶべきである。

  • 良き相談相手は、相談したいタイミングと内容をちゃんと考えから選びたい

    良き相談相手は、相談したいタイミングと内容をちゃんと考えから選びたい

    人は悩む。
    何に対して悩むのか。
    自分の思い通りにならないことに対して、悩む。

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    相談するタイミング

    以前、「悩む」と「考える」は違う、と言った主旨のブログを書いたことがある。
    私の考えをざっくり書くと以下のような感じ。

    • 悩む : その場で立ち止まる。自分の気持ちを確認する。前に進む前の、充電する機会
    • 考える : 前に進もうとする。今考えている課題を解決するための方法が分かっていて、それを実行しようとする。

    人が他人に相談したいと思うのは、前者の機会が多いように思う。
    後者はすでに自分が何をなすべきか分かっていて、それを実行する時には、他社の声を必要としないからだ。

    冒頭に書いた通り、悩む内容の根本は、「自分の思い通りにならないこと」が多い。
    生き方、対人関係など、自分の考えることに対して現実は、だいたいにおいて大きく外れる。それに対して「自分の思い通りではない!」と憤慨するばかりでは、世の中が生きづらくてしょうがない。
    だから、そこで、自分の考えを改め、現実に対して折り合いをつけていく。そこで、自分の考えを改めるタイミングで、誰かに相談するという機会が生まれる。

    良き相談相手ってどんな人だろう

    最良の相談相手とは、自分のことを100%理解してくれる人である。
    しかし、残念ながら、自分を100%理解してくれている他人というのは存在しない。
    親や兄弟など、自分の個性を十分に理解してくれる人たちですら、自分の望むような相談相手になってくれない。
    相手には相手の都合や、考え方があるからだ。
    彼らが自分に寄り添ってくれる保証なんて無いのだ。

    カウンセラーという選択肢もあるかもしれない。
    だけどカウンセラーに会いに行くにはそういう施設を探し、予約をし、お金を用意する必要があるのだ。これはなかなかハードルが高い。
    かかりつけのようなカウンセラーがいるのであれば良いけれど、そもそも、悩みを持つ人がそんな人を持っているとは言い難い。

    ここで、哲学の本などを読むと、「自分自身」と書いてあることがある。相談相手が自分。
    言いたいことは分かる気がする。
    自分は上述した、自分のことを100%理解してくれる人間だから、きっと最良なのだ。だけど私は、これは難しい気がしている。
    なぜなら、自分の考えという枠を超えることができないから。
    自分の考えに固執してしまうから。
    他の人に相談すると、他の人の考えを聞くことができるから、自分という枠を超えた考えを手に入れられる可能性が高いのだ。

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    話を聞いてもらいたいのか?選択肢を増やして欲しいのか?

    視点を変え、相談する内容について考えてみたい。

    他人に相談する時は、上述の通り、悩んでいる時だ。
    その悩みの深さ、広さ、進捗に応じて、人に相談する内容が変わる。

    冒頭の頃は、悩みがモヤモヤとしている。
    だから、その悩みの本質は何か、整理をする必要がある。
    そのため、最初は「話を聞いてくれる人」が必要だ。
    その人に話を聞いてもらううちに、自然と自分の中で課題が整理されてくる。他人に話をする場合、順序立てて話をしていく必要がある。
    だから、自分の中である程度の整理が必要なのだ。

    そしてその悩みが後半になるにつれ、だんだん自分の考えが浮き彫りになってくる。
    そのタイミングで人に相談する場合は、自分の考えに同意して欲しいのか、違う選択肢を提示して欲しい場合が多い。
    ある程度自分の考えが他人から見ても真っ当な場合は、背中を押して欲しい場合が多いだろう。
    自分の考えが真っ当かどうか、一般的に見て適切かどうか、他人に相談することで見える場合がある。

    そこで選択肢がある程度はっきりすれば、悩むフェーズは終わりで、次は考えるフェーズに入る。

    私はこの世界を勉強した人間ではないので、これは民間療法みたいな枠を超えることはないだろう。
    だけど私が多く悩んできた中で、このようなやり方があるような気がしている

    私はこれからもたくさん悩むだろう。
    本当は、上述したように「自分自身」を相談相手として築き上げることが大切なような気がしている。
    相談する手間を省けるし、自分を知る良い機会に違いないからだ。
    だけどそれには自分の考えを柔軟に持っておかないといけない。
    広い考えを、きちんと身に着けることができるよう、日々鍛錬が必要と思う。

  • 笹の船で海を渡る | 角田光代 | ☆☆☆☆

    笹の船で海を渡る | 角田光代 | ☆☆☆☆

    第二次世界大戦中、少女時代だった女性の話。彼女は疎開中に出会った(と思われる)女性と人生を共にし、いろいろなものに執着しつつも、自分の人生を見つめ直して過ごしていく。

    角田光代の小説をKindle Unlimited で見つけてしまったので、取得してから没頭するかの勢いで読んでしまいました。

    小説についての感想

    過去は変えられないという言葉を何度かこのブログでも書いています。
    もうすでに過ぎてしまったことだから。

    だけど、よく考えたら、「過去」という事実は変えられないけど、「過去に対する考え方」だったら変えることができるよね。

    Photo by Keira Burton on Pexels.com

    この主人公は、自分の人生はあまり恵まれていなかったと考えていて、それがベースとなって被害妄想癖を持っているように感じました。
    自分に親切にしてくれる人や、娘、息子、夫というとても近い存在の人間に対してまで、信じられないところを持っていました。

    それはなぜか。
    その辺りを、ずっと考えながら読んでいました。

    疎開先ではお世辞にも恵まれた生活とは言えず、自分の理想とはだいぶかけ離れた境遇で、少女時代を過ごしていたこと。そこから、元の家に戻ってからも兄弟間で諍いを起こしてしまうこと。風美子という存在。全て、彼女自身で意見を持つことなく、周りに任せてきたことが裏目に出て、自分で決めなかったことを全部他人のせいにしてきたのかな、という点。
    この辺りは他人事とは思えず、読んでいて胸が痛くなる場面が何度もありました。

    人を信じること

    妄想が悪化すると人を疑うようになることがありますよね。
    SNSをやっていれば、他人からの評価が気になる。私は誰からも好かれていないのではないか。
    会社でも。家族間でも。
    疑いだすとキリがないですね。そして妄想は脳内で強い刺激となり、それを快感と勘違いしてしまうそうなんです。
    だから、人間は妄想してしまうのだとか。

    Photo by Felix Mittermeier on Pexels.com

    それは、意識的にリセットする必要があるんですね。妄想ばっかりしていると、疲れてしまうので。

    私は、リセットする方法としては、人を信じることを意識的にやっています。
    あとは、妄想していると気づいた時には、違うことを考えるようにして、その妄想から逃げるようにしています。
    そうしないと、いつまで経ってもそのことばかり考えてしまうからです。

    この主人公も、そういうところがあるように思いました。過去への執着、人への執着。それは妄想なので、いくら考えても答えは出ず、疲れるばかりです。何か違うことをしてみたら良かったのかもな。

    いやぁ、それにしても角田光代さん、これは2013年頃の作品だそうですが、相変わらずエグいの描くなぁと思いました。
    ちょっと心が痛むので、もう読みたくないです。
    言葉を使った表現にさすがだな、と思わせるところが多々あったので星4つです。

  • 1年の途中で手帳生活を始めたいと思ったらバレットジャーナルという選択肢を考えてみよう

    1年の途中で手帳生活を始めたいと思ったらバレットジャーナルという選択肢を考えてみよう

    手帳には始める時期がある

    先日の記事で、手帳は1月はじまりか、4月はじまりしかないと書きました。けど人間はわがままだから、それ以外のタイミングでも、手帳を持つ生活を始めたい!という思う人がいるでしょう。1月に向けた前年9月から。4月に向けた2月から。つまりおよそ7か月程度しか、始められる時期が無いのです。
    時期を過ぎた場合には安売りしていることもありますね。それでも十分なのですが、そうすると何も書かないページが生まれてしまいます。それに我慢できない場合など、ストレスになることだってあり得ます。

    手帳を見返す時間はとても掛け替えのないものです

    バレットジャーナルという選択肢

    検索してみるといろんなページが出てきます。私が参考にしたのは以下のページです。
    https://www.wakibungu.com/wct/bujotop/
    和気文具というサイト。立派です。私はここを読んで勉強させていただきました。なので、こちらを読めば全部分かります。
    バレットジャーナルのポイントは以下です。きちんとした定義があるのでしょうけど、私が捉えたポイントは以下です。

    • ハードルが低い
      • まず初期投資が100円でも十分です。なんなら0円でも。手帳って、新たに始めようとするとだいたい1000円以上の値段が付いています。初めての場合、「途中で続かなくなっちゃうかも…」という不安があるので、できることなら初期投資は押さえたいものです。
      • バレットジャーナルで必要なものは、ノートとペン。それだけです。だから、家に使っていないノートがあって、使いかけのボールペンなどがあれば、それで十分に開始することができるのです!その場合は初期投資が0円になりますね。すごい。
      • そのうちに、好きなテイストのノートが見つかったら、そっちに乗り移ることが考えられるので、その辺を最初から好きなノート等を買っておくと、途中から切り替えることなく使えるので、後々面倒なことにならずに過ごせます。
    • いつからでも始められる
      • まぁ実際は1月や4月からのほうが気持ちが良いのですが、バレットジャーナルは完全に自分の好みで作ることができるというのが大きなポイントです。だから、例えば2月から始めようと思ったら、1月のページは最初から作らなければ良いのです。
    • 完全に「自分の好み」で手帳が作れる
      • 一般的な手帳は、年間カレンダー、1か月ごとのカレンダー、週間や1日ごとのページ、そして路線図やら時間割やら体重遷移グラフなどなど、「自分には必要ないんだよなぁ…」と思えるようなものが入っていたりします。実は私はほぼ日手帳を10年くらい使っています。けど私には上述した時間割、体重遷移グラフというのは、まともに使ったことがありません。かと言って落書きすることもなく、そのまま使われずに1年が終了…。もったいないですよね。そうなんです。もったいないから、バレットジャーナルなんです。
    お気に入り!と感じる組み合わせを考えてみると面白い発見が見えてきたりします

    手帳を持つ目的とは

    別の投稿でも書きましたが、そもそもあなたは何のために手帳を使うのでしょうか。バレットジャーナルを使ったとしても、既製の手帳を使ったとしても、そこにはきちんとした芯を作らなければいけません。目的は、「自分の成長を可視化すること」なんです。そこを見誤ると、ただの日記帳になってしまいます。私は手帳の90%くらいはそうなっていますが…。ので、そこはきちんと考える必要がありますね。手帳の裏表紙辺りに、そういうモットーみたいなもの、書いておくと良いのかもしれません。

  • 最期に誰の声を聞きたいだろうか

    最期に誰の声を聞きたいだろうか

    縁起でもない話だが、人生で最期を迎える時、誰の声が聞きたくなるのだろうか。
    その瞬間を真面目に想像したことがないから、全く想像がつかない。
    現実的には、病気や重たい怪我等で生死を彷徨う瞬間なのだから、誰かの声が、という意識はないのかもしれない。

    だけど、もし、その瞬間だけ、頭の中にあるカオスが全てクリアになり、誰かの声に集中できるとしたら。

    Photo by Gelgas Airlangga on Pexels.com

    ぱっと思いつくのは、私の場合、やはり妻であり、子供たちである。
    一番近くにいるし、世界で一番信頼しているし愛しているし、なにより離れたくない。

    結婚していない人は親であったり、恋人であったり、たぶん、今近くにいる人、近くにいるように感じる人だろう。

    そういう意味では、好きな芸能人だったりするかもしれない。

    誰でもいいのだ。

    誰でもいいのだけど、そういう人を持つことが、人生を豊かにしてくれる一つなのだと思う。

    最期というと大げさだろう。
    だけど、寝る前の「おやすみ」を言ってくれる人は誰だろう、という問いかけに対し、
    上述したような人が浮かんでくる人はきっと、人生を豊かに暮らしているような気がする。

    いや、違う、違うのだ。
    これを読んで、「私にはそんな人いないし、今後もいないかもしれないから」と自暴自棄になる人だっているだろう

    今はそうかもしれない。
    今を嘆き、だから人生はつまらない、と思うかもしれない。
    けれど、生きていればそういう人に巡り合う確率が生まれるのだ。
    今、首を吊ってしまったら、その確率がゼロになってしまうのだ。

    だからこそ、生への執着を。

  • 優しいの意味を真面目に考えてみると混乱する

    優しいの意味を真面目に考えてみると混乱する

    優しい人ほど怒らない、という一文を目にする機会が割と多い。

    怒る怒らないと、優しい優しくないに相関があるとは思えない。

    また、優しい人ほど怒った時がヤバい、みたいな迷信を耳にすることもある。

    これも真相はどうだか、という気分だ。
    私は割と怒らないタイプ、静かなタイプと見られていて、だからこそ上記に関連した話を受けることがある。

    こちらとしては、一切関係ないよな、と思いつつも。

    まず、優しいってどういうことだろう。

    優しいって感じるのは人それぞれなのだから、私が考える優しいと、あなたが考える優しいには大きな隔たりだって
    ある気がするのだ。

    優しい=怒らないという仮説。

    怒らないのは、あなたに期待していません、だからあなたのやることにこちらは反応しません、というスタンスだ。

    これが、優しいと言えるのだろうか。
    期待しているしていない、という見方が出てきてしまった。
    全くもって収拾が付かない展開である。

    あらー、そうなんですかー。いいですよ全然!大丈夫です!
    の裏側に、「もともとあなたには期待していませんでしたから!」というスタンスがいるのだ。
    これのどこが一体、優しいというのだろうか。

    優しいをググってみた。

    姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。

    つまり外見、態度としての形容詞だということだ。
    つまり、中身に関しては問わないということだったのだ。

    だから、「もともとあなたには期待していませんでしたから!」というスタンスは、どうだって良かったのだ。

    私は今まで、その、内面的な部分まで含めた態度に対する形容詞だと思っていた。
    間違っていた。

  • カテゴライズすることで得られる、その場しのぎの安心感

    カテゴライズすることで得られる、その場しのぎの安心感

    私は内向的だから。私はO型だから。私はHSPだから。

    誰かが決めたカテゴリーに則って、私は私のことを理解することがある。
    しかしこのカテゴリーに100%合致するはずはない。
    これを決めた人は、私のことを見て決めた訳じゃないから。
    私が、「なんとなくこれかな」と決めたカテゴリーに則っただけだから。血液型以外。

    だけど、例えば、私はHSPなんだと自覚するだけで、生き方が楽になるのはなぜなのだろう。
    私は本当はHSPではないのかもしれない。
    ただ、「HSPはこんな人」みたいなウェブサイトで、HSPの人が持つ傾向と、生き方の指南を見ることで、気持ちがだいぶ楽になるのは事実だ。

    多分、安心感が得られるのだ。
    その記事を見る前と、見た後で、何が変わったのだろう。

    うーん。

    あまり良く分からないが、一つ考えられるのは、自分を客観視できたということではないだろうか。
    客観視すると、自分のことではあるものの、自分のものから少し離れたところから、自分を眺めることができる。
    そうすると、今の自分がどう見えていて、これからどうすべきなのか、少しわかるのかもしれない。

    うーん。
    違うかな。

    少なくとも、この安心感に助けられることは多くて、私らしい生き方を模索する中で、この類のカテゴライズは参考になっている。
    私は、内向的らしく、HSPらしく生きていけば良いのだ、という指針を持つことができている。

  • 手帳を使う目的

    手帳を使う目的

    基本的に手帳は1月はじまりか、4月はじまりである。
    日本で生活することを考えたら、その年、その年度が始まる時期に手帳を開始するというのは、ある種自然なことだ。

    だが手帳業界に取ってみたら、この時期しか売るタイミングを見込めないというのはなかなか辛いものがある。

    そして私たち消費者も、例えば7月くらいに転職したとして、その時期から「手帳を始めてみるか!」と思っても、タイミングが合わず、その動機がいつの間にか消失してしまう。

    この、大切な機会を損失するのは、非常に勿体ないな、と思う。

    そもそも、手帳に何を求めるのか。まずそこに立ち返る必要があるように感じる。

    日々の予定を書きたい。実績を、日記を書きたい。1年を通して活動したことを可視化したい。手帳を持つ人によって様々なことが浮かんでくる。

    そういう、目先の目的を考えるのも良いが、その先にあるのは自分の成長を可視化したいということになるのではないのだろうか。

    そう考えると、自分の成長が可視化できればどんなツールだって良いはずだ。

    であれば、Campusのノートに、自宅にあるボールペンを使うなどで十分だ。
    少しでもそこにこだわりたい人が、自分の好きな書き味の紙、ペン、などにこだわったり、マンスリー、ウィークリーのカレンダーがあらかじめ入っているほうがありがたいなどの趣向が重なり、その結果として手帳を選択するということになるだろう。

    私もほぼ日手帳に万年筆という、変なこだわりを持ちながら数年にわたって手帳生活を続けているが、上記についてずっと悩んでいる。

    というのも、私にとってはほぼ日手帳についているマンスリー、ウィークリーのカレンダーや、グラフを書く欄など、不要に思えるのだ。
    だけど習慣を変えるのに少し抵抗があり、10年程度ほぼ日手帳を使い続けているのを、ここでやめてしまうのか、と自問自答する日々を送っている。