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  • めんどくさいは悪だけど、魅力的

    めんどくさいは悪だけど、魅力的

    日々、いろいろとめんどくさいことをこなし、過ごしている。

    めんどくさいという感情は悪だ。何のメリットもない。

    そんなものはなるべく早く取っ払うべきだ。

    分かっている。
    分かっているけど、そのめんどくさいという感情に振り回され、
    怠惰になりたい自分と、律しなければいけないという意識が闘う。

    結果、怠惰なほうが勝ることが多い人生と、律する方が多い人生、それぞれが迎える未来の差はとてつもなく大きい。

    それぞれ、飴と鞭に例えられることが多い。

    どちらが良いということはない。なるべく機嫌良く生きていくことが人生のモットーと考える私は、
    それぞれ、どちらでも良いから自分が機嫌良く生きていければ良いと思っているから。

    大切なのは、自分が選んだ生き方に対して責任を持つこと。

    律ししすぎると疲れてしまう。ひどくなると精神を病むことだってあるだろう。
    怠惰になりすぎるとなにごとにも甘えてしまう。社会に適合することが難しくなっていくかもしれない。
    だけどそれぞれ、自分が選んだ生き方なのだから、胸を張って、生きていけば良い。

  • 我慢していることに気づかない人間

    我慢していることに気づかない人間

    我慢することがデフォルトになっている人がいる。
    そんな人は、「自分、ほんとは我慢してるんすよね」という気持ちにすらならない。
    それがデフォルトだから。

    それがデフォルトでも、ストレスなく生きていける人なら問題ないだろう。
    だけど100%の人がそういうわけではないはずだから、困る。

    デフォルトで我慢していることが自然だから、それが原因で被ったストレスすらもデフォルトとして感じてしまう。
    そしてその状況を打破する必要性を感じない。デフォルトだから。

    私は学級委員をやるタイプだった。
    その時代、私はみんなの模範になることが固定観念としてあった。
    その結果、自分が生きたいように生きることができず、それがストレスになっていたことにも気づいていない時代があった。
    ちびまる子ちゃんの丸尾くんタイプか。
    彼は彼なりにポリシーを持っているように見える。
    が、それによって自分の本当にやりたいことができないと気づいた時、ダメージを受けるだろうか。
    それを「我慢」として考えてしまったら、多分、自分が無理している証拠なのだろう。
    その判断が難しい。

    私は、どうやら無理していたと言うことになるのだろう。
    社会人になり、いくつかの経験を経て気づくことができた。
    きっとそれは幸運なことなのであろう。

  • なんの役にも立っていない

    なんの役にも立っていない

    なるべく客観的に、今自分の置かれている環境を見渡してみて、それに対して今の自分が、その環境に対して何か役に立つようなことを担っているのだろうかと考えた時に、その答えが、何一つとして浮かんでこなかった。

    つまりそれは自分が今、この地球という環境に対してなんの役にも立っていないということを意味する。むしろ空気を吸い何かを食べ、つまり地球のリソースを無駄に消費するだけの生き物ということになるのであろう。

    私はいなくなった方が良いのだろうか。
    生き物は食物連鎖などで、この地球という環境に対して役に立っている。みんなそれぞれ、何らかの役割を担っている。
    それに比べて私は。私は、無駄に、この地球がもたらすリソースを食い荒らすだけの生き物なのではないだろうか。

    ここでもし私がなんらかの宗教に対して敬虔な信者だったとしたら、これを神様に懺悔することで、心が救われるのかもしれない。
    だが、残念ながら私は明確な信心を持っていない。
    だから、そのやり方で救われることは、おそらくないのであろう。

    だけど私は、まだ死ぬわけにはいかない気がしている。
    地球に悪影響を及ぼす存在なのかもしれない。
    上述したように地球がもたらす貴重なリソースを食い荒らすだけの生き物なのだから。
    そんな私でも、生を全うするという役割を担っているのだ。
    それが地球に対してどんな貢献をするのか、全く分かっていない、けれども、生きる。

  • 私は凡人だから

    私は凡人だから

    日々、何かをインプットし、このように文章を排出している。
    この文章自体も、新たなインプットとして受け止め、それを基にしてさらに新たな文章を排出したりも、する。

    だが、私がここで紡いでいる文章は、インプットがなかったら出来上がらなかったのだ。
    つまり、インプットしたもののコピーということになる。
    インプットしたものをいくつか組み合わせて排出したりもするから、それは見方によっては自分のオリジナルかもしれない。
    だがその組み合わせ方も結局どこかで誰かが考えたやり方に則っている(ような気がする)から、私の完全なオリジナルというのは、もはや生まれないのではないか。

    私がここで考えつくようなものは、世界のどこかで誰かがすでに考えているはずだ。
    私がそこまで突飛なことを考えることができないというのは、十分に理解しているから。
    私が今、両手に持っている知識や経験は、どっかで誰かから受け継いだものに違いないから。

    昔、アイデアの作り方という本を読んだことがある。
    昔、と書いているが、今でも私の本棚に眠っている。
    それを先日、少しだけ開いた。
    そこには、「あり得ないものを組み合わせてみる」と書いてあった。
    それを読んだ瞬間は、確かにそれは新しいアイデアが作られるような気がする。

    が、

    例えば、目の前にあるものを組み合わせてみよう。

    紅茶が入っているティーカップと、付箋。
    これらを組み合わせると、何か浮かんでくるだろうか。

    アイデアとしてあるのは、それぞれ、オフィスで日常的に使うものである。
    ぱっと思いついたのは、ティーカップに付箋を備えたもの。
    だけどティーカップは洗う。付箋は水に弱い。
    だがそれは水に弱い付箋という先入観を持っているからで、材質を水に強いものに変えたらどうだろう、と新たな発想が思い浮かぶ。

    ここで、悪魔が登場する。
    そんな発想、世界のどこかで誰かがやってて、その人はきっと、製品化しているよ、と。
    私はそこでやめてしまうのだ。

    私は凡人だから。

    私は、凡人だから。

    多分、自分の生み出したアイデアによほどの自信があれば、それを製品化して売るところまでの情熱が生まれるのだろう。

    その情熱は、自分にあるのだろうか。

    大学の頃、遊びでTシャツにアイロンプリントをして売るということをしていた。
    友人が1枚だけ買ってくれただけだったが、元手は0円だったので、痛くはなかった。
    Tシャツをデザインするのが好きだった。
    それをビジネスにしようと思ったのは、ある程度の自信があったのかもしれない。
    今の自分には、そこまでの情熱はない。

    残念だけど、私は凡人だから。

  • 脇役としての生き方

    脇役としての生き方

    表に出て、ばーんと活躍する生き方は好きではない。
    裏で、そういう人をサポートする方が好きだ。

    だけど、そうも言ってられない。
    年齢を重ねてくると、自然とそういうシーンに出くわすこともある。
    なんとなく、人当たりの良いところを上司に買われ、他方との調整役を命じられることもある。
    最初のうちは、気が張っているということもあり、緊張しながらやり取りをしていく。
    そのうちに他方と仲良くなっていき、緊張の糸がほどけ、私の得意な雰囲気へと流れていく。

    そうするとどうなるか。
    気を良くした上司は、周りは、私のそういうところを見て、他の同じような業務を回す。

    私も、これが私のストロングポイントだ、と半ば勘違いをし、バキバキとこなしていく。
    こうして経験は積まれ、実績も増え、私はそれ系の強い人間となっていく、

    ように見えるが、本来はあまり、こういう表に出るのは好きではないのだ。
    表に出る人に資料を作る・渡す、などのほうがよほど好きなのだ。

    だから、ひずみが生まれる。私自身の中に。

    こういう、他とのやり取り系に強いのは自分でも理解している

    が、

    それが好きではないから、本来はあまりやりたくない、というジレンマを抱えたまま生きている。

    最初から、それ、やりたくありません!と言えれば良いのだが、
    既にその、私がそういう系に強いという認識が周りに育まれているため、そうなることはない。

    そのうちに麻痺し、私は、私の意思を無視して続けていけば良いのかもしれないけど。

    それが果たして良いことなのかは分からない。というか、良くないだろ。

  • 自由って難しい

    自由って難しい

    自分は自由だ。

    自由ってなんだ。

    自由、っていう文字を何度も繰り返し、その文字自体を凝視していたら、じゆうって読めなくなってきた。

    森博嗣によると、自由は、自分が計画した通り、予定した通りに生きること、だそうだ。

    こんなにシンプルに、自由の意味を定義できるなんて!と、私は彼の才能に嫉妬した。

    自由について少し考えたい。

    生活な自由と聞いて連想するものは、たしかに、自分が思い通りに生きていることにつながる。思い通りというのは言い換えれば計画した通り、予定した通り、になるから、森博嗣の言い方はまさに的を得ているように感じる。

    難しい。
    自分が計画できなくてはいけないし、
    計画を遂行できなくてはいけない。
    計画するためには気力が必要だし、
    遂行するためには気力、体力が必要だからだ。
    つまり自由を得るために、準備が必要なのか。
    自由を得るために、体力作りをしなければいけない場合があるのか。(計画した内容が体力を必要とする場合)

    休日、家でダラダラすることだって自由だ。
    だがこれも同様で、ダラダラするための気力が必要なのだろう。
    私は日々、何か成果を残したいタイプなのでダラダラすることがあまり得意でなく、なので、私にはダラダラするための気力が足りていないのだろう。だから、ダラダラするための気力を準備する必要がある。

    強引な展開だろうか。私には強引に見えない。

  • 劣等感は自分が成長するためだ、にあまり納得できていない

    劣等感は自分が成長するためだ、にあまり納得できていない

    なぜだろう、すっと腹落ちしていかないのは。

    なんとなくむず痒い思いをしているのは。

    素直に受け止めると、まぁそうだろうな、その劣等感を払拭するために自分が成長していくんでしょ、となる。
    だけど、全ての人がそうかというと、そうではないと思う。

    その劣等感に負けてしまう人、もしくはその劣等感と仲良くなってしまう人がいるからだ。
    自分が抱くもやもやとした思いが、文章になっているか怪しい、けどその辺りの人たちのことを置き去りにしてませんか、という思いがある。

    多分、前者、劣等感に負けてしまう人は、それを乗り越えるための元気が足りないということだ。
    劣等感は狂暴だ。
    こちらが隙を見せた瞬間に、一気に襲い掛かってくる。
    そして、こちらはそれに打ち勝つための術がなく、元気もなく、布団の中に潜り込んでしまう。
    劣等感を作り上げたのは自分だというのに、自分が作り上げたモンスターに負けてしまう。
    人間だから、そういう時だってあるだろう。
    やがて時間が経ってその罪悪感を作り出したのは自分だと気づくことで、もしかしたら、布団から出る瞬間を迎えられるかもしれない。

    後者、劣等感と仲良くなってしまう人については、これはむしろ歓迎すべきなのかもしれない。
    仲良くなるというのは、つまり、自分の価値観を変えることだ。
    劣等感を抱く事象に対して客観的に見て、自分の理想を下げる(言い方が適切かは分からない)ような考え方の変更を伴うことで、その劣等感を払拭してしまう。
    もしかしたらこれは、自分の成長という観点においては、良くないことなのかもしれない。
    ただ、人間はみんな成長していくべきという考え方自体も私はあまり納得できておらず、現状に満足するという選択肢だってあってしかるべきだと思う。

    成長という言い方が、あまりしっくり来ていないのかもしれないなぁ。

  • 愛に飢えていると

    愛に飢えていると

    私はいくつかの時代で、このようにブログを始めてはやめるを繰り返してきた。なんとなく気が変わって、急にやめることが多く、今回もそんな感じで突然やめるような気がしている。熱しにくく、冷めやすいと考えている。

    書いていることはあまり変わりなく、いくつかのブログを移り変わっていても、ずっと承認欲求だとか、価値観について考えてばかりだった。たぶん、その方面を考えるのが好きなのだろう。何が好きなのかというと、私自身の確固たる信念がなく、他人から受けた刺激によって常に変動するところだと思う。私自身の確固たる信念がないことは、歓迎すべきなところだろうか。賛否両論あるだろうけど、私はそれを気に入っている。私が何者にでもなれるからだ。

    さて、そんなブログだが、以前、私のブログは愛に飢えていると感想をもらったことがあった。それはいったいどういう点だろうか。私にはそれが未だに分かっていない。

    もしかしたら私が承認欲求について、自分の意見を書いているところを見たのかもしれない。そこには、まるで私が誰かからの承認を欲しているように見えたのかもしれない。人の意見だから、私はとやかく言える立場にないのだ。他人だから。他人には他人なりの考えがあり、私はそれを肯定や否定をせず、ただ、聞き流すだけ。

    私の、このブログを書く目的は、自分の意見を可視化することであり、誰かから承認されたいという思いは一切ないのだ。ここには嘘偽りなく、私のためにこれを書いていると断言できる。

    それなら自分の日記にでも書けば良い、という、私の中から沸き起こる意見に対して、私は何度も考えた。だけどこうしてウェブ上に流している。理由は簡単で、人に見られる体裁を保つためだから。

    これからしばらく、相変わらず書いていくだろう。他人からの承認も必要としていない。私自身に承認されることで、喜びを得るような人間だから。

  • 悪い思い出との付き合い方

    悪い思い出との付き合い方

    ここ数日は、自分が過去とどう向き合っていくべきかという点について考えることが多い。

    最近、早朝に見る夢の印象が強く残る。
    季節が春へと移り変わっていくせいだろうか。

    春は出会いや別れという点で、様々な思い出がよみがえってくる。
    良い思い出もあれば、悪い思い出もある。

    良いとか悪いという、その受け取り方については、多分、時の移り変わりとともに変わってくることだってあるだろう。
    だから、今は良い思い出だとして受け止めていても、将来はそれが悪い思い出に変わることだってあり得る。

    おそらく良いとか悪いとか、そういう評価をせずにフラットな目で思い出を保存しておくことができれば良いのだ
    だけど思い出は自分だけのもので、それには多くの場合評価が付いてくるから、そこを切り離すのは難しい。

    悪い思い出は、それを思い出すだけで不快な気分になってしまう。
    思い出さなければ良いのだが、不快な気分を期待値として無意識に持っているため、それをわざわざ思い出してしまう。
    人間の悪い仕様だと思う。
    悪い思い出は、思い出さなければ良いのだ。
    ふっと不意に浮かんでくることがあるので、その際は、10秒くらい経ったら忘れるように心がける。
    違うことを考えると、悪い思い出が自然と頭の中から消えていく。
    それを繰り返していくうちに、悪い思い出が頭の中に浮かんでこなくなる。
    これは、思考のトレーニングで、自分の悪い思考プロセスを断ち切るために必要だと、何かの本に書いてあったものである。
    私はこれを日々実践しているが、なかなか難しい。
    そのうちに、悪い思い出が良い思い出に変わってくれないものかと、春を待つようにぼんやりと、その日が来るのを待っている。

  • 深く考えずに生きることの潔さ

    深く考えずに生きることの潔さ

    考えすぎは良くない。
    だいたいのことにおいて考えすぎると、悪い方向へ行きがちである。
    特に、生きることの目的や、死ぬことへの不安、他人とのこと、この辺りを考えると良くない。
    昨日のブログでも取り上げたが、過去も良くないだろう。

    人間だもの、それらについて何か感じ、そこから何か考えていくことは自然なことなのだと思う。
    ただそこで、あまり考えすぎないようにするべきで、もっと言うとそれらから何も感じないことが大切だ。

    ただ、そのあたりから創作される物語は多い。
    多分、心の琴線に触れやすい敏感な箇所で、人々はそれを観ながら鑑賞に浸ったりするのが楽しいから、作品になりやすいのだろう。
    過去を想う作品。このテーマだけでも良いストーリーが描けそうな気がする。

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