投稿者: hmgrbean

  • 悪い思い出との付き合い方

    悪い思い出との付き合い方

    ここ数日は、自分が過去とどう向き合っていくべきかという点について考えることが多い。

    最近、早朝に見る夢の印象が強く残る。
    季節が春へと移り変わっていくせいだろうか。

    春は出会いや別れという点で、様々な思い出がよみがえってくる。
    良い思い出もあれば、悪い思い出もある。

    良いとか悪いという、その受け取り方については、多分、時の移り変わりとともに変わってくることだってあるだろう。
    だから、今は良い思い出だとして受け止めていても、将来はそれが悪い思い出に変わることだってあり得る。

    おそらく良いとか悪いとか、そういう評価をせずにフラットな目で思い出を保存しておくことができれば良いのだ
    だけど思い出は自分だけのもので、それには多くの場合評価が付いてくるから、そこを切り離すのは難しい。

    悪い思い出は、それを思い出すだけで不快な気分になってしまう。
    思い出さなければ良いのだが、不快な気分を期待値として無意識に持っているため、それをわざわざ思い出してしまう。
    人間の悪い仕様だと思う。
    悪い思い出は、思い出さなければ良いのだ。
    ふっと不意に浮かんでくることがあるので、その際は、10秒くらい経ったら忘れるように心がける。
    違うことを考えると、悪い思い出が自然と頭の中から消えていく。
    それを繰り返していくうちに、悪い思い出が頭の中に浮かんでこなくなる。
    これは、思考のトレーニングで、自分の悪い思考プロセスを断ち切るために必要だと、何かの本に書いてあったものである。
    私はこれを日々実践しているが、なかなか難しい。
    そのうちに、悪い思い出が良い思い出に変わってくれないものかと、春を待つようにぼんやりと、その日が来るのを待っている。

  • 深く考えずに生きることの潔さ

    深く考えずに生きることの潔さ

    考えすぎは良くない。
    だいたいのことにおいて考えすぎると、悪い方向へ行きがちである。
    特に、生きることの目的や、死ぬことへの不安、他人とのこと、この辺りを考えると良くない。
    昨日のブログでも取り上げたが、過去も良くないだろう。

    人間だもの、それらについて何か感じ、そこから何か考えていくことは自然なことなのだと思う。
    ただそこで、あまり考えすぎないようにするべきで、もっと言うとそれらから何も感じないことが大切だ。

    ただ、そのあたりから創作される物語は多い。
    多分、心の琴線に触れやすい敏感な箇所で、人々はそれを観ながら鑑賞に浸ったりするのが楽しいから、作品になりやすいのだろう。
    過去を想う作品。このテーマだけでも良いストーリーが描けそうな気がする。

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  • 日常生活を豊かにすることの意義とか意味とか

    日常生活を豊かにすることの意義とか意味とか

    手の届く範囲には、全力を尽くす。
    これはいろいろな哲学の考え方で、基礎となるものだと思う。
    哲学に正解は無いと思うので、少し濁したけど。

    手の届く範囲は、自分の意思でどうにかなる物事。
    自分の意思、それ自身や、自分が今持つ体力、気力、財力を使って手に入れられる物事。

    手の届かない範囲は、自分の意思ではどうにもならない物事。
    シンプルに言うと、過去と、他人の感情。

    私はこのブログで理想論ばかり語っていて、書いてる途中によく、「とは言うものの現実はね…」と思っている。
    だから、過去についていつまでもグダグダ悩むし、
    あの人、私のこと嫌いなんだろうな、と他人の感情についても、
    同様にいつまでもグダグダ悩んでいる。
    残念なのが、それで良いのかもしれない、と自分を肯定できていないのが、
    また自分らしいな、と思ってあきらめてしまう点だ。

    自分の人生を豊かに彩るために、生きるべきなのは間違いがない。
    それを生きがいにする、という言い方は決して言い過ぎではないだろう。
    だとすると、どうすれば良いのか。

    やっぱり、できる限りで構わないから、手の届かない範囲には極力手を触れないことだ。
    そして、手の届く範囲に、全力を尽くす必要があるのだろう。

    そのためには、日常生活に全力を尽くすということになる。
    自分が機嫌良く暮らせるように、好きなものに囲まれるようにするべきだし、
    邪魔だと思うものは目に触れないようにすべきだ。

    自分の体調があるから、そうすることで疲れてしまうのであれば、
    まずは体力回復に努めるべきで、ゆっくりと、自分の機嫌が良くなるような環境を作り上げていくこと、
    そしてそれを続け、生きがいだと言えれば、
    私は、胸を張って生を全うしているんだ!と言えるだろうと信じてやまない。

  • 勉強って言い方にもやもやする

    勉強って言い方にもやもやする

    義務教育では勉強という、あまり好きでないものに取り組むことで、集中力を養うことができるのかな、と考えたことがあった。
    好きなものではないものでも、とりあえず5分くらい取り組んでみると自然とやる気が出てくるというか、始まるまでの嫌な気分、めんどくさい気分が払拭されると思っていて、それを学ぶための場所なのかな、と。

    けれどその仮説は、全く違うように思う。今は。
    そもそも勉強=あまり好きでないものという前提ってなんだ。その偏見は、と。

    話を集中力にいったん戻す。
    きっかけは長男の姿勢から。

    長男は幼稚園年長から小1の頃にかけて、世界の国旗を全部覚えるという偉業を成し遂げていた(親バカ目線はご容赦いただきたい)。
    世界の国旗、数百はあるだろうか、彼はそれをぱぱぱっと、それこそ1か月くらいで覚えてしまったのではないだろうか。

    彼はそれを、勉強と捉えていただろうか。
    分からない。なぜなら、彼は楽しんでやっていたからだ。

    そう考えると、自分が好きになる、それに浸っていると時間を忘れるくらいに没頭することができるような物事を見つけることが先決なのだろう。
    そしてそれに浸っている時間は自然と集中するのだ。

    意識せずに、集中する。

    一般的にはワーキングメモリを強くするとか、そういう脳科学的な側面もあるだろうけど、まずそれよりも前に、楽しむという気持ちが自然と湧き上がるように捉えないといけないのだ。
    それには自主的な気持ちを持つことが必要なのだろう。

    そして、ここで、冒頭で少し脱線しかけた勉強=あまり好きでないもの、という伏線を回収できる。
    勉強という括りがそもそも良くないのだと思う。
    学校で学ぶものだけが勉強ではない。
    長男は、国旗を覚えるという行為、多分、ゲームのように考えていたのではないだろうか。
    記憶ゲーム。
    勉強ではなく。

    では、学校で学ぶものを「勉強」と呼ぶことに対する是非は。

    最近、私は自己啓発系の本ばかり読んでいる。
    仏教、禅、哲学、ミニマムライフなど。
    それらは、私は勉強と捉えていない。趣味だ。

    一方で、これらを学問として学ぶと、勉強になるのだろうか。
    良く分からない。
    勉強と呼ぶこと自体が良くないのではないだろうか。

    生きることが勉強、と捉えることだってできる。
    起きる。ご飯を食べる。歯を磨く。勤労の義務を果たす。夜、自分の好きなことをする。眠くなったら寝る。
    この、日常のルーティン。
    私がこの世に生まれてから過ごした15322日(調べた)で、覚えている日はほとんどないだろう。
    だが、生きていることで何かしら刺激され、自分で考え、何かをアウトプットするという業を過ごしている。

    それは言い換えると、勉強なのではないだろうか。

    良く分からない。学歴社会に警鐘を促したいとか、そういうレベルの話ではなく。

  • 人と比べるくらいなら、自分の生を全うしてみろよ

    人と比べるくらいなら、自分の生を全うしてみろよ

    自戒を込めて。

    ここ半年くらいで、だいぶ気持ちを切り替えてきているのだけれど、私はすぐ他人と自分を比べてしまうところがあって、自分はダメだと思うこともあれば、逆に、あいつはダメだと思うことがあったりもする。
    他人と自分を比べることで、相対的に自分が劣っているとか、優れているとか、そんなことを考えてしまうのはもしかしたら人間の性なのかもしれない。
    人間というか、生き物の性だったりするのかな。

    けどそれって人の生き方として正しいものではなくて、その先には自分が破滅する世界しか残っていないのだから、まず、人と比べるのをやめましょう、という教えに則り、その辺の考え方を改めるようにした。
    そしてその辺はだいぶ改まったような感覚がしていて、個人的にこの取り組みは非常に納得のできるものだったと思っている。

    と、思っていたのだけど、
    実は全然そんなことなかった。

    というのも、私は、他人が、当時の私と同じように、他人と比べているのを見ていると、まだそんなことを思いながら生きているのか、それはだいぶもったいない、と思うようになっていた。
    それはある意味では、私とその人を比べていることになる訳で、結局、私は堂々巡りしていて、自分と他人を比べることから抜け出せていなかったのだ。

    それに気づいた時、私は、このループから抜け出すことができないのだと痛感し、割とリアルに死にたくなった。
    抜け出したかったのだ、この、人と比べてしまうという愚かな思考から。

    この辺りは本当に最近気づいたことで、だから、まだ、現在進行形で、死にたいと思っている。
    楽になりたいから。

    だけど人間は、生き物は生にしがみつかないといけない。
    自然に死ぬまで生き続けないといけない。
    そんな罰を背負っているのだから、ここで投げ出して死を選ぶ訳にはいかないのだ。

    だったらどうするか。

    もっと、より良い人生を送ることができるよう、考え方を変えるのしかないのだろう。
    全く分からない。方向性が見えない。

    けど、それでも、生きていくという姿勢を貫かなければならないのであれば、
    いっそのこと、その、他人と比べてしまう自分をどこかに打ち捨てておいて、
    その抜け殻には目もくれずに前を向いて生きていった方が、

    人間の姿勢として正しい方向に向かっているのではないのだろうか。

    その抜け殻は、思い出した時に、拾いに行こう。

  • 雄弁に語るよりも、傾聴を大切にしたい

    雄弁に語るよりも、傾聴を大切にしたい

    このブログは、前置きを必要とする。
    それくらい怖い。これを表明することに自信がない。
    賛否両論あるだろう。
    そもそも賛と否だけで表すことはできない。
    それこそグラデーションのように、各種様々な意見があるのだろうと推測する。

    発端は、自分が成長するためには、どういうインプットと、どういうアウトプットを組み合わせていけば良いのかという自問だった。
    吸収するだけでは、人は成長しない。
    暗記しようと英単語帳ばかり見ていても、それをテストという形でアウトプットする機会がなければ、自分の実力がどの程度ついたのかは分からない。
    だからこそ、適切な量のインプットと、適切な量、そして適切なタイミングのアウトプットが必要なのだと感じている。

    そこで表題に戻る。
    私は、人前で雄弁に語ることが得意ではない。
    感覚の問題なのかもしれないが、根本的に好きではない。
    それよりも、アウトプットという観点では、相手のことを引き出すための相槌、より深いところへ切り込むための方便や算段など、そういう点で細かな武器を持っていたいと感じている。
    人と話す時の相槌が自分の成長を試すテストだなんて、だいぶ変わっているように感じる。我ながら。目指すべき職業として、インタビュアーを選ぶべきなのかもしれない。今更ながら。

    一般的には、雄弁に語ることの方が見栄えが良いだろう。
    自分のアウトプットを測る場所として、より最適だ。
    うまくやり遂げることで、自分の自信につながるのかもしれない。
    だけど私は、傾聴することで相手が気持ち良くなること、私が相手のことを十分に知ることが、自分に自信がつくように感じるのだ。
    屈折してるなぁこれ。

  • 障子の向こうが見たかったおじいさんのこと

    障子の向こうが見たかったおじいさんのこと

    先日Twitter断ちをした時に、彼と同じ心境なのかもな、と思う瞬間があった。
    何度か。
    彼は「絶対に見ちゃダメですよ」という忠告を無視し、障子を開けてしまった。
    そしてその障子の向こうにいた鶴はそれに憤慨し、飛び立ってしまう。

    お爺さんはなぜ、我慢できなかったのだろう。
    人間はなぜ、「やっちゃダメですよ」と制限をかけられたものに対して、強い興味を示してしまうのだろう。

    先週、Twitter断ちをした時に、何度も何度も、TwitterのTLを閲覧したいという思いに駆られた。
    フォローしている人のツイートに、それほどまでの魅力があったのだろうか。
    自分の日常を誰かのシェアすることに、それほどまでの魅力があったのだろうか。
    なぜそこまでの魅力を感じるのか。禁断症状とまではいかないけれど、一日に一回以上はTwitterのことを考えた。

    多分、いくらか誇張している部分があるように思う。
    正直なところ、私が、暇だったのだ。
    Twitter以外に時間を潰す方法は、思いに耽ることか、本を読むことくらいしかなく、それにはどちらも気力を使うので、なるべく気力を使わない方法ということで、Twitterという選択肢がとても魅力的だったのだ。
    だから、多分、それに代替できる楽しみを見つけることができたら、自然とTwitterから離れていくのではないかと思う。今のところは全く思いつかないけれど。

    考えたいことがたくさんあって困る。
    お爺さんはなぜ、その忠告を守れなかったのか。
    お爺さんは多分、障子の向こうで何かしているのだけれど、それがなんなのかものすごく気になったのだろう。気になるということは、魅力を感じるということだ。忠告を破るほどの魅力とは。ここが私が持つ想像力の限界である。

    次に私が考えたかったのは、Twitterとの付き合い方。
    多分、私はゼロかイチに決めつけたがる性格なのだろう。
    その間にある、0.5でTwitterと付き合っていきたい。ほどほどに。

  • 頑張れの代役

    頑張れの代役

    頑張って、という、相手を応援するための言葉が、容易に使えなくなった。
    相手への思いやりにかけるから、という理由で。

    言葉の流行は、時代の流行でもある。
    メンタル系の疾患がポピュラーになってきたからこそ、この「頑張れ」が使えなくなってしまったのだろう。

    良い傾向なのかもしれないが、一方で、頑張れに代替する言葉が簡単に思いつかないという面もある。
    言葉の流行に、自分の頭が追い付いていないのかもしれない。

    相手を応援するための言葉が、適切な言葉が、見失われてしまった。
    見失うというのは少々言い過ぎか。
    多分、その相手のことをきちんと考えることで、適切な言葉が出てくるのだろう。

    考えた結果、頑張って、が適切なのであれば、それは発するべきだろう。
    大切なのは考えることで、それこそが思いやりで、「頑張れ」という言葉を欲しがっている人だっているのだ。

    そう考えると、「頑張れ」が容易に使えた時代は、頑張れと発した時の半分以上が社交辞令程度の重たさしかなかったように感じる。
    それは時代のせいではなく、私が十分にその人のことを思いやらなかったということが発端だろう。

    相手のことを、適切な重さで見ること。
    軽すぎず、重すぎず。
    とても難しい。

  • 可能性の話

    可能性の話

    不惑というのは40歳のことを指す。
    これは自分の可能性についてどのように捉えるかという点において、そういう年なのかな、とふと考えた。

    自分の将来について、可能性は無限大で、極端なことを言うと死ぬ直前まで自分の将来というものの可能性は無限大に広がっていると考えることもできるのだろう。
    私は自分が今持っているリソース、例えば身体能力、思考力、財産、家族、といったものの枠を超えて広げて考えるほどの突飛な可能性を考えないタイプなので、多分そんなに大それたことを考えることはできないだろう。

    これは見方を考えると、自分の可能性を狭めているのかもしれない。
    自分が持っている、制限と言い換えることもできるだろうこれらのリソースを元に、自分の将来を考える。ある種真っ当なことのように思えるが、例えば今、私が「国会議員になり、その先に総理大臣、そしてその暁にはこの日本を明るい国にしたい」のようなことを考えなくなってしまう。

    別に私が大志を抱き、国会議員を目指そうとしても良いのだろうけど。

    話を戻す。40歳が不惑と言われる所以。
    多分、そこには、私が上述したようなリソースが固まってくる頃なのだろう。
    仕事に就く、家族と生活を営む、この辺りの観念が定まることによって、将来の方向性が狭まってくる頃。
    人生は細かな選択というのだろうけど、私はその都度で自分の最善と思える選択をしてきて、今の自分が出来上がっている。
    だから今の自分がこうなっているということに対して後悔をするのは違う。その都度で選択をしてきた自分を否定することになるからだ。

    今の自分自身、そして自分を取り巻く生活の色々な部分を考えると不満があるかもしれない。けど、過去の自分が選択してきた結果こうなっているのであって、それによって将来の選択肢が狭まってきたとしても、それはそれとして納得して、その狭まった選択肢の中で自分が機嫌良く生きていくためにはどうしたら良いか、それについて真剣に考えれば、良いだけなのだろうか。

  • まるで紐をちぎって逃げたがっているかのような

    まるで紐をちぎって逃げたがっているかのような

    風が強いので右へ左へとものすごい速さで舞っています。そのうちにこの紐が切れてどこかへ行ってしまいそうなほど。