
なんとなく20時まで働こうと思っていたのだけど、JIRAのサーバーが無駄に重たくて仕事にならなかったので、中途半端なところで終わりにしちゃう
雨から雪
9時からのミーティングに合わせ、バタバタと8時40分くらいから起き出す。在宅勤務の恩恵を受けている。雨で外出するのも億劫だし。
9時から19時30分までほとんど休みなくミーティング。
ホント、よくそんなに喋ることあるよね、と感心してしまう。
明日も、明後日も、ずーっとそんな感じ。もう何ヶ月もそんなのが続いているので、もはやミーティングのない日は退屈すぎて、何をしたら良いのか分からなくなってくる。
ふと思い立ち、昨日からメモの切れ端みたいな投稿をするようになった。
今まではある程度時間を使い、きちんと自分なりに投稿内容を考え、推敲し、投稿してきたのだが、Twitterをやめたことで、その切れ端のようなつぶやきを発信する場がなくなったことが大きな転換点となった。
私のサイトがあるんだから、そこでつぶやけばいいじゃん、と。
幸いなことに、私のサイトはほとんど人が来ないような無人島なので、気ままに投稿することができる、だけどその一方で、Evernoteにメモっていくというのだと体裁があまりにも自由すぎてしまうから、それもダメよね、ということで、結果的に私のサイトに投稿するのがちょうど良い、ということになった。
とは言え、この投稿も然り、私は他人にこれを読んでもらうために書いていると言うことではない。むしろ、未来の自分が読むかもしれないので、そのために書いていると言った風情が一番強い。
というのも、私は過去のほぼ日手帳を読み返すのがなかなか好きで、まるで古い写真を読み返しているような気分になるのだが、それと同じようにこの投稿も、未来の自分が読み返すことを想定して書いている。
仕事で、強い上司がいて、3年くらい前までトータルで5年くらい憧れ続けてたんだけど
ロールモデルとして掲げるのは良かったんだが、それに自分がなれるのは不可能と気づいた3年前、
その人に対しては未だに憧れてはいるのだけれど、その人になりたい、という類の憧れとは別次元のものになった。
最近気づいたのは、私は、その人が教祖様になっている、宗教に入りたかったのかもしれない、ということ
単なる仕事の上司なので、宗教とかそういう話とは一線を画す話ではあるのだけど、
その人に見てもらえたら嬉しくなるし、声をかけてもらえても嬉しいし、
つまり教祖様なんだろうな、と。

手書きでメモに残すのがとても好きで、この3本の万年筆を気分で使い分けている。ペン先の太さと、メーカーが違うので、それぞれの書き味に差があってとても面白い。
一番下の黒いモンブランは、Mと太めだが、値段がダントツに高いという点もあり、書き味はダントツに良い。もっと細い、例えばFあたりの太さでモンブランを使ってみたいという気持ちが出てしまう。機会があれば銀座に行ってみたいなぁ。
kakunoはEF、ラミーはF。どっちもガリガリという、紙に引っかかるような感触があり、どちらも紙質を気にするような造りに感じる。それでもまだkakunoのほうはラミーに比べて滑らかさがあるので、EFと極細ではあるものの、いつまででも書いていけるような気がする。
ラミーも、まぁ悪くはないんだけど、ほぼ日手帳のトモエリバー向きだよな、と思う。
私は普段、500枚で数百円という、格安のコピー用紙を使っているので、その程度の紙に大して、書き味を妥協しなきゃいけないよねぇとか思ったり。
悲劇の誕生で、生きる目的などないと語ったニーチェは、その救済として芸術を取り上げた。芸術によって苦しみを忘却するのだと。
たしかに音楽とかはその傾向が顕著で、私も音楽に助けられたことは数知れず。私から音楽を取ったとしたら、40%くらい体重が減る気がする。

どうも自分に対して厳しいのではないか、と思うようになってきた。
そう思うこと自体は、一長一短ではあるので、その両面を見て評価すべきことではあるのだけれど、かねてから考えている「自分にとって一番強い味方は自分」を理想とすると、それに近づけるためには、優しくもあり、厳しくもあるというスタンスが一番適切だ。
自分を、許せない。怠惰な自分を。情けない自分を。自信のない自分を。いつまで経っても変わらない、自分を。
自分がうまくできた時でも、自分を褒めることをしない。というか褒められない。褒めるということを考えただけで、謙遜してしまう。誰に?自分に。
照れ臭いのだ。自分を褒めるなんて、と思ってしまう。
だから、自分は、外からの承認欲求に頼ってしまう。内からは承認されないから。
という点を、もう10年くらいのレベルで、考え続けている。
自分を甘やかす、とか、そんな風に捉えてしまうから、きっと私は、そう考えられないのだ。
ちょっと前に、20km走れた。あれすごかったよ。かなり寒い時期で、良く途中で諦めずに走れたよね。
これが、言えない。こうやって文字に書けるんだから、そのまま自分に言い聞かせれば良いだけなのだけど、上に書いた数十文字の文章は、他人へ向けた言葉のように感じてしまう。
拒絶してしまうということなのだろうか。
受け入れたくないということ?自分は、いつまで経ってもダメな人間だから?

家族四人で仲良くコロナ陽性となり、地獄の一週間を経た。
一般的な、健康的な身体を持つ四人なので、自然治癒力がきちんと働いてくれたおかげで、コロナとは言え、熱は下がり、料理をするところまで回復できた。
お酒を飲む気力だけはあまり湧いてこず、少しだけ挑戦したが苦味が口に広がった時に、時期尚早という言葉が浮かんできた。
身体を壊すと、健康の大切さが身に染みて実感できる。
私は、健康だったんだな、と気づくことができる。
これは、病気の中で得られる、数少ないメリットの一つであるように思う。
だからなんだと言うのだ、それに気づかないくらいずーっと、それこそ死ぬ間際まで健康なのが一番良いに決まっているだろう。
いつか明かりは消える。だけど、その、消える瞬間まで、暗闇を知らないほうが幸せに決まっているのだ。
辛い時期を知らない人は、挫折を知らない人は、不幸だと言われるが、そんなものは知らずに、辛い思いをせずに死ぬまで生きた人が一番良いに決まっている。
それが人生のスパイスだ、そういう方面の気持ちが人生を厚みのあるものにしてくれる、という考え方、よく分かるのだけど、辛い時期とか、挫折というのは人の価値観だから、それを得ることでプラスになった!と感じるかどうか、人それぞれなのである。
だから、無理して苦労をさせるということは、やるべきなのかもしれないけれど、一番良いのは、苦労しないということなのではないだろうか。