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  • 4月13日 自分の人生を生きるために、欲望に優先度をつけようぜという話

    4月13日 自分の人生を生きるために、欲望に優先度をつけようぜという話

    ふと、気になったサイトの記事。
    割と有名なメディアサイト「キナリノ」の、「誰かのための人生になってない?幸せな「自分の人生を生きる」ヒント」というタイトルの記事。

    誰かのための人生ってなんだろう。自分の人生ってなんだろう。

    人間は、自分のために人生を歩んでいると思っている。
    子供だととてもわかりやすい。
    自分の欲求を満たすために、自分の欲望に対して真っ直ぐに向き合って生きている。

    それが理想だとすると、大人(と呼ばれる人たち)は、自分の欲望に向き合って生きてはいないのだろうか。

    向き合って生きてはいないのだと思う。
    なぜなら、それをやってしまうと、ワガママだとか、周りから叩かれてしまうから。
    だから、そうならないように、世間の目を伺いながら、生きている人が多い。

    たまに、そんなの気にしてらんないわー、私は私の人生を歩むんだから、という人がいる。
    言い換えると「ロックな人」。
    そういう人に、憧れる人は多い。内田裕也に憧れてる人とか、ね。

    憧れるのと、そうなりたいと思う願望って、ちょっと違うと思う。
    仮に、私が内田裕也に憧れているとして、今、私が、仕事をやめて音楽で生きていくぜ!ロックだぜ!それがやりたかったんだぜ!となると、どうだろう。
    私の家族は、食べていけなくなってしまう。
    私には責任がある。家族を養っていくという責任。
    だから、本当はロックがやりたいのに、それを我慢して仕事したりしている。

    文句あるか、別にないだろ、大好きな家族が、美味しいご飯を食べる時に見せる笑顔が見たいという欲望を満たすために、働いているんだからな。
    ここまで考えるとどうだろう、私のやりたかったことって、「家族の喜ぶ顔が見たい」のであり、それは「ロックをやりたい」という欲望よりも上位に来ることがわかる。
    ロックをやりたい、けども、それよりも家族の喜ぶ顔が見たい。

    なんか話がずれてきた気がする。

    自分の人生を生きるために、自分の欲望を明確にすることってすごく大切だと思う。
    だけど、上で思考実験をしてわかったのは、100個の欲望があったとしても、それが全部同じ位置にならんでないよな、ということ。
    優先度が重要度があって、それに応じて、時には世間に合わせて生きたりしてるんだろうなぁ。

  • 4月12日 後悔について

    4月12日 後悔について

    後悔のない人生を歩もうというのは、いったいどういうことなのか。

    生きている限り、「あぁすれば良かった」みたいなことは容易に起こり得る。
    その時に、自分が選んだ道を「間違ってしまった」と考えることこそが後悔で、それは自分を否定し、自分の敵となってしまう。

    だけど、その道を選んだ時の自分はきっと、その道が正しかったと思っていたはずで、自ら悪い方向へと導くことは生存本能を鑑みるとしないはず。
    だとしたら、自分を信じて進んだ道を、そのまま突き進むことこそが、後悔のない人生を歩むための大切な考え方なんだと思う。

    そして「あぁすれば良かった」と考えるのは、一方的な見方であり、もっと多面的に見ることでその道が正しかったと思えるようになるんだと思う。

    自分を信じるって難しい。
    自分が歩んできた道が誤っていたと認めることもまた、難しい。
    けど、その、誤っていたと考える自分を信じること、肯定することもまた、自分を信じることになるのだから、

    つまりどんな道を選んだとしても、きっと正解なんだと思う。

  • 4月11日

    4月11日

    司馬遼太郎の関ヶ原を読み直している。
    どうする家康で、大河ドラマがやっているから。
    いつ買ったんだっけなぁ、買った当初は石田三成を推していた頃だったので、家康が悪者に見えてしょうがなかった。
    ところがそれかr幾年か経ったのちとなる今、それを読み返していると、石田三成の気の効かなさに切なくなってきてしまう。

    子供を想う、親の気持ちとも言えるほどの。
    じれったい、ってやつかもしれないなぁ。
    まぁ、司馬遼太郎のエッセンスが入り込んでいるだろうし、そもそも史実の通りに描くことは難しい局面もあるだろう。
    だからこれが石田三成の個性、という一方的な見方で捉えるのもちょっとアレだよなぁと思いつつ。

    もっと、周りに気を配ることができたら、西軍に軍配が上がったかもしれない。そうなったとしたら東京という街は今ほど栄えておらず、滋賀県のあたりが日本の中枢になっていたかもしれないと思いを馳せてみると、この戦いがあったから今の日本になってるんだよなぁと思ったりする。
    たらればだからね。思いを馳せるのは私の自由だけれども。

  • 4月10日 日立台までランニング

    4月10日 日立台までランニング

    ランニング。11km。レイソルのスタジアムを横目に見て柏の街を流して帰ってきました。気持ち良かった。

  • 4月8日

    4月8日

    相変わらず風が強い。
    春ってこんなに風の強い日が続くんだっけ、と曇り空を眺めながら思った。
    今にも降り出しそうな空だ。雨は洋服が濡れるから嫌いだ。

    ついさっき立ち寄った定食屋に、読みかけの文庫本を忘れたことに気づいたのは、店を出てから数時間経った後のことだった。
    ぶらぶらとウインドウショッピングをしていたが足の向きを変え、定食屋へと向かった。
    店は準備中という看板が掲げられていた。腕時計を見ると15時40分、確かにこの時間に休憩をする食べ物屋が多い。
    思い切ってドアを開けてみる。すると鍵がかかっておらず、客のいない店が視界に開けてくる。

    店には店主がカウンターに座っていた。手元に吸いかけのタバコと、俺が忘れてった文庫本があった。
    「すみません、その本を忘れてしまって」
    と私が言うと、
    「あーそうだったんですね、ちょっと面白いところに来たので、少し借りれませんか?今度来られる時までには読み終えておくので」
    と返ってきたので、思わず驚いた。俺としては同じ価値観を持ってもらえたことが嬉しく、
    「わかりました、いいですよ」と言い、
    「タバコ、私も一服していっていいですか?」と女性店主の隣に座った。

    「これサービスなんで」
    と焼酎グラスに氷と烏龍茶をどぼどぼと注いだものを出してくれた。早足でこの店まで来て、少し火照ってしまった身体に、冷たさが染み渡る。
    ぼんやりと厨房の方を眺めながら、タバコを吸う。吸って吐く、を2回繰り返すと、気持ちが落ち着いてきた。
    「お客さん、この辺にお住まいですよね?いつだったかランニングしてるとこをお見かけしたことがあるんすよね」
    おそらく私のことだろう。いつ見られたのか。首肯しながらそうですね多分、私ですと言ったら、私も近くなんですよ、と店主は言った。その時は食材の買い出しを終え、とても重たい荷物を持ちながら店に戻ろうとしていた時で、颯爽と駆けてくるのが見えて様になっていた、と続けて言った。

    タバコを1本吸い終え、翌週の週末あたりに食べに来る約束をした。店主はその頃には読み終えておくようにします、と言い、私は店を去った。
    もしかするとこれが常連を掴む手段かもしれないと感じたが、その手口に乗っても良いかな、と思った。
    服についたタバコの匂いを、春の強風が吹き飛ばしていく。

  • 4月7日

    4月7日

    たまーに、哲学的なことを考えてみたくなってしまう。

    自分の意識について。
    今、私が見ているものは、目から脳に入り、それを意識することで、あ、今、私、ブログを書いてるな、と認識できる。
    つまり脳がそれを意識しなければ、私は何も見ていないということになる。
    私の目に入ってくるものでも、今私はディスプレイを凝視しながらブログを書いているけれど、それ以外、視界の端っこに見える本棚は、私はそれに気づいているけれど、意識して見ていない。だけど私はそこに本棚があることを知っているから、見ていないけれど、そこにあることを理解している。

    私の意識とは。意識ってなんだ。脳の中で起こる気づき?

    私が過ごしてきた青春という一連の間隔で得た思い出が、いくつか脳裏に焼き付いている。
    その思い出は、まるで私の目に映るように、情景を思い浮かべることができる。
    それも意識なんじゃないのかな。
    中学校のグラウンド。野球部の練習。蝉時雨。水道の蛇口。
    あの時、本当に辛かった。真夏の練習。それが終わってからヘトヘトになって帰宅。
    蝉時雨、蝉時雨、蝉時雨。
    映像だけじゃない。音だって思い浮かべることができるんだよな。これも意識の一つなんだろうけど。

    Chat GPTに聞いてみた結果。分かったような、分かってないような。

    意識とは、知覚、思考、感情、判断、判断力、自己認識など、人間の認知機能の中心的な概念の一つです。つまり、私たちが自分自身、周囲の環境、そして私たちが持つ思考や感情に対して「意識」を持っているということです。

    意識は、認知的な過程として、我々の知覚や感覚から発生し、人間の脳が情報を処理する過程で生じます。これらの情報は、神経細胞間の化学的、電気的シグナルを介して伝達されます。

    意識には、自己認識、自己意識、選択的注意、睡眠や夢などの状態があります。ただし、意識がどのように発生するか、どのように脳の活動と関連しているかについては、科学的研究や哲学的な議論が続いています。

    Chat GPTの回答より
  • 4月6日 長嶋有と私

    4月6日 長嶋有と私

    長嶋有の作品は、いつもすかっとする。
    物語のすかっと性ではなく、歯切れの良い文章を読んだ時に感じる、爽快感。
    必要な言葉が最小限使われていて、物語も短編ということでさらっと読めるし、大好きだ。
    こんな風に文章が書けたら良いなー、と読むたびに思う。

    思うだけではダメで、余計な言葉をなるべく使わないように、日々、魂を綴っている。
    魂を綴る、なんて大それた名前にしてるけど、あまり出し控えせずに心の赴くままに書いていると感じる。
    インターネット上に流れる文章だから、それに合わせたリテラシーは守ってるつもりだけど、逆にいえば、それくらいしか制限をかけていないつもり。

    今日はほとんど家から出なかった。
    出ないから何も書けないかというとそんなことはなくて、顕在化された意識、つまり思いつきは8秒間に1回起きるってどっかで聞いたことがあるので、私の中の気づきはそれくらい起きているんだろうな。
    残念なのがほとんど覚えていないという点で、明け方に見た夢を覚えていれば、それについて文章を書くことだってできたのに。
    いや、良いのだ別に覚えていなくても。その程度のものなんだから。
    そしてこれから死ぬまで、8秒間に1回くらいの頻度で何かを思いついていくんだろうな。ほとんど捨てちゃうんだけど。

  • 4月5日

    4月5日

    辛い時には、涙を流したって良いんだよ。
    彼だと思っていた人が、私からのメッセージに既読をつけたくせに何も返してこなくなって、そこから2日が経った時、優しかった同僚がそう声をかけてくれた。
    私は別に、泣くために恋をしているんじゃないんだから。
    そう心の中で強がると、同僚は少し困った顔をした。

    もしかして、彼ではなかったのかもしれない。
    恋人という定義は人それぞれだから、私にとっては恋人だったけれども、彼にとって私はそれではなかったということだって十分にあり得るだろう。
    ただ、お酒を飲んだ席で、たまたまトイレのタイミングが一緒になり、その時に「二人で抜け出して、違うところで飲まない?」と言われた時、私の胸が躍ったのは確かだったし、そんな風に声をかけてくれたということは、多少なりとも私に好意を持ってくれていたということについては、私は確信を持っていた。

    きっと彼には何か返事ができない事情があるのだろう。
    そんな風にポジティブに考えられたら良いのに。
    だけど私にはそんな風に考えられない人間だから、

    私には、そんな風に前向きなことを考えられない人間だからこそ、

  • 4月4日

    4月4日

    この声が、誰かに届いているのだろうか。
    暗闇の中で、いくら声を張り詰めて大声を出したところで、その先に誰もいなければ結局、私が声を出したことを証明することすらできないのだ。
    誰もいない森の中で、木が倒れたことを誰も気づかないように。

    社会生活を、微力ながら営んでいると、他人がいてこその自分があるという存在証明にぶち当たる。
    私がいくら有益なツイートをしても、それを読む人がいなければ、誰も気づかない。私がそこにいるという存在証明を、表現することができない。

    結局人生は自己満足の連続だから、私が何を考え、どこで大声をはって発信したとしても、それで話が終わる。
    私が大声を出すという行動で、全てが終わる。

    独りよがりかもしれない。独りよがりに違いない。
    けれど、そこにいたということは、私自身がわかっていれば良いのだから。

  • 4月3日 希望の葉

    4月3日 希望の葉

    少しずつ木々に緑色が増えていくように、人間にも希望の葉が増えていくような時期がある。
    最初は自分でも気がつかないんだ。それはとても小さな葉っぱだから。
    だけどそんな状態から、忘れずに水をやって注意深く観察していると、だんだんと葉っぱが大きくなっていくのが分かる。
    そんなふうに、希望の葉が、大きくなっていくような時期。
    四季で言うと春のような時期なんだけど、それが人間の春なんだと思う。

    猫は窓から見える木々を眺めながら、そんな掴みどころのない話をした。
    アパートの窓の先に大きな木があることで、日陰になる時間帯が多くて洗濯物が乾きづらいという難点はあるものの、そのおかげで四季の移り変わりが分かる。
    そんな、良いのか悪いのか分からない木も、家族の一員みたいに感じている。

    猫は「ちょっとタバコ吸ってくる」と言ってベランダに出た。家の中では禁煙ということにしている。
    私が最初に住み始めたアパートだから、私の作るルールには従ってもらっている。
    そういうところが猫と似ているから、私は彼をそう呼んでいる。

    ベランダで、木を見ながらタバコを吸う彼の背中が見える。
    ついさっきまで一緒に寝ていたベッドには、彼の温もりがまだ残っている。
    彼と同棲し始めたのは、この温もりが欲しかったからだ。
    彼が来るまでは、この部屋には私以外に体温を持つ動物がいなかった。
    私の体温が、この部屋を構成する一つなのは寂しかったから、当時付き合っていた彼に同棲を持ちかけた。
    彼はすぐに、「一緒に住むよ」と言ってくれた。
    私が寂しがり屋だから、と彼は考えていたようだけれど、それは彼も寂しがり屋だということだ。

    春。私の中の春。彼の温もりを感じながら、希望の葉について考えている。