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  • 3月28日

    3月28日

    大雨の降る空間の上には、太陽が燦々と輝いていると気づいた時に、私の知ってる世界は一部分だけで、その、言わば「無知の知」と言えるような気づきに、私の脳を伝わる電気信号のスピードと密度が上がったような気がした。
    一時期、「アハ体験」と呼ばれたことがあったが、人生において何度かその、脳がアップデートされる瞬間がある。
    おそらくそう思ってるだけで、実際には何も変わっていないだろう。
    私の場合、パキッとした音と共に、ぐわーっと脳がぐるぐるし出す感覚。

    人生において、何度もない機会。

    私は私の意識で生きていて、他の人は他の人の意識の中で生きていることに気づいた時とか。
    みんなそれぞれの人生を歩んできて、いろんな経験をして今のみんなができていると気づいた時。
    それに気づく瞬間、なんか適切な言葉があった気がする、忘れたけど。

    ちょっと脱線するけど、「子供は親を選んで産まれてくるのか」という話。
    私は、意識は後天的に出来上がるものだと思ってる派なので、子供が持つ意識はその親、ないし教育のために近くにいた人から培われるものだから、そう考えると子供は、周りにいる人から唯一無二のものとして作られる。だから、同じ意識を持ったまま、別の親の元で育つということはあり得ない。だから私の答えはノー。というか、親を選ぶという意識はそもそも存在しない。

    難しい。私の意識は、ただ、脳の中で動いている電気信号なのだから、その電気信号のOUTとINを結ぶ経路は私の経験によって作られているはず。その経路は、私が抱いた感情によって徐々に作られていくのだとすると、親とか、周りの人から受けた感情を元にして唯一無二のものとして作っていく。
    その思考回路の癖こそが、まさに私を表現していて、それが個性と呼ぶのかなぁ。知らんけど。

  • 自我について

    自我について

    私は、両親が出会い結婚していなければ生まれてこなかったはず。
    もし両親が出会っていなければ、もしくは出会っていても結婚していなければ、更に言うと子作りをしていなければ、私はこの世に生まれてこなかった、はず。

    私は、自我というものは産まれてから作られると思っている。
    今、外から雨音が聞こえていて、それが心地良い音と受け取る感覚も、
    それは両親が出会ったおかげ、結婚したおかげ、子作りしたおかげ、ではなく、産まれてから私が自分で育んできたものだと信じてやまない。

    そう考えると、子どもは私たち(親目線)を選んで産まれてきたんだよ、というのはあきらかに迷信で、それは親のエゴだと思う。
    そう信じることで子どもに対する愛情が増幅されるのかもしれないが、それがなくとも十分に子どものことを愛している。

    良く分からないのが、私はいったいなんなのだ、ということ。
    外見、内面、全ての特徴を総合的に捉え、私という人間ができている。
    特徴というのは私から見た特徴、他人から見た特徴、それぞれ別の視点があるのだから、最低4つの目が必要ということになる。私を形づくるものが何か。
    観察したら何かが見えてくるのか。
    今、この瞬間に私自身が考える私は、ただ、脳が電気信号を送っているだけに過ぎず、10秒前に考えていた私という像は、すでに過去のものになっている。
    ウイスキーを飲み、酔いが回る。それにつれ思考が歪んでくる。
    私は、もはやあの頃に認識していた私ではない。
    雨音が心地良いと感じていた私は、すでに数分前に置き去りにしてきた。
    やがて眠気がやってくる。この、心情的な描写はやめることなく、ずっと続けられる気がする。それが何を意味するのか。
    それはつまり、常にアップデートされ続ける私という像を表している。
    言葉を見つけるのに時間がかかるから、その合間に産まれた私は、それを表現する言葉を見つけることができないまま、過去のものになってしまう。
    時間って、ホント一瞬で過ぎ去っていくよね。
    私が死ぬまでのあと数十年(と思っている)は、永遠のように感じるけれども、その瞬間に私が思い描く気持ちを表す言葉が見つからずに、最期を迎えるのかもしれない。
    それに抗うかどうかは、その時の私が決める。