投稿者: hmgrbean

  • 生きがいなんてなくたって生きていられる

    生きがいなんてなくたって生きていられる

    子供の頃から、「夢を持て」とか、「生きがいを持て」みたいなことをたくさん言われて育ってきた。それはそれで間違っていない。夢を持つことで,自分の可能性を狭めることなく,むしろ広げるように成長していくから。生きがいを持つと,生きる自信に繋がるから。おそらく,世界中の子供たちは皆,大人からそんなことを言われて育っているように思う。
    私が子供の頃,記憶にあるのは,小学校6年生の授業で,自分の夢というテーマで作文をしたことだ。それは授業参観で発表する形となっており,先生としては「子供が何を考えているか」を発表させ,そして親がそのことを受けてどうのこうのみたいなことを狙っていたのだろう。
    そこで私は,「サラリーマンになる」という夢を発表した。それは夢と言えるのか?と疑問を呈することもやぶさかではない発表だった。私はおそらく,夢というものを見ず、自分の延長線上に何があるかというのを現実的な目線で考え、そして発表したのだろう。

    そして46歳になった今、その夢は叶えられ、私はサラリーマンとして20年以上働き続けている。その時、同じように夢を発表した人たちの中で、その夢とやらを叶えることができた人はいったい何割いるだろうか。残念ながら私は誰の夢も覚えていないし、それよりも前に小学校時代の友人とはここ10年くらい連絡を取っておらず、だからその夢を検証することもできないのだけれど。
    私は夢を見ていたのだろうか、こんな生活をする夢を?と思ってしまう。サラリーマンなんて今の日本では大多数を占めるだろう。そんな、謂わば誰でもなれるような職業を夢に据えるなんて、当時の私、自分の可能性をきちんと理解していたか、もしくは、夢というものを誤解していたのではないだろうか。

    そもそも、タイトルにも据えたけれど、夢とか生きがいがなくたって、人間はちゃんと生きていけるのだ。私はここ数年の中で、何度、夢とか生きがいのことを考えただろうか。たまに、ぼんやり、生きがいというテーマで物事を考えると、家族、特に子供達が成長するまではきちんと見守る、そういった意味で生きがいなのかもなぁ、なんて鼻をほじりながら考えたりもしたものだ。だけどそれは見方を変えると、生きがいではなく、単純に、親としての義務というだけだ。それを生きがいなんてカッコ良い言葉に置き換えたところで、話は美化されないし、子供たちは勝手に成長していくし、だから生きがいなんて必要ないんじゃ、と思うのだ。
    夢とか生きがいとか、そういうものがないと,ちょっと焦ったりもする。私はこのままぼんやりと生き続けていいんだろうかと立ち止まって考えてしまったりもする。だけどその時点で改めて,夢とか生きがいを考えたって,自分の生活はいつも通り進んでいくし,私は目の前にある家事や仕事をこなしていかなければならないから,意味がないんだと思う。

    夢とか生きがいっていうのは,もしかすると幻想だったのか。それを抱かなくなるとジョージオーウェルの1984年みたいな、曇った世界、希望がない世界のようになってしまうような気もする。あの世界は私には強烈すぎた。現在の、かの国のように言論が統制され、至る所で監視されているような生活を送っている人にとっては、それこそ夢とか持ったら政府に殺されてしまう、みたいになってしまうのかもしれない。
    だけどもしかすると、夢とか生きがいを強制的に考えさせられるような現代日本の義務教育は、ちょっと考えものなのかもしれない。
    いや、私は、そういうものを持っちゃダメだ、とは言わない。そうではない。けれど、夢とか生きがいとかなくても、ちゃんと生きていけるし、無理やり見つけるようなものではないから、意識的に見つけるんじゃなくて、自然と身についてくるような気がしてしまうのだ。

  • 今日がいつもと同じ1日だったとしても

    今日がいつもと同じ1日だったとしても

    さっき風呂に入ってて、ぼんやりと、「今日も何もない、ただの平凡な日だったな」、と思った。それでもまぁ判を押したような生活よりは少しはみ出すような出来事はあったけれども、メガネを外してぼんやりと今日の出来事を俯瞰してみると、まぁ、判を押してるよな、と。

    今日を一日、平凡に過ごしただけの私、これは失敗なのだろうか。
    悲観的に物事を考えていた頃の私だったら、「今日は何も生み出さなかった」と考え、少しの間落ち込むかもしれない。八年くらい前はこんな感じに思考プロセスだったよなきっと。今思い出すと、結構な頻度で毎日のように凹んでいたように思う。
    だけど今は違う。
    今の私は、ちょっと待てよ、というスタンスを取ることができるようになった。成長を感じる。
    そんな私は、風呂を出て、カミソリ負けをして血が滲んでいた顎にクリームを塗りながら、思考の続きを試みた。

    そもそも、人生の大半って今日みたいな、判を押したような生活なんだよな。
    それをドラマチックな日ではなかったからと言って、卑下することはないだろう。
    毎日、キラキラしている人生なんて、ゾッとする。
    キラキラだとか、平凡だとか、そんなのどっちだって良いこと。そもそも、人生に成功か失敗かなんて、ないんだから。

    では、今日はいい1日だったな、って思うのはどういうことなんだろう。少し考えてみる。そこで思いついたのは、身体的、精神的な部分が、昨日と比べて、弱まったりしていないこと、だった。
    つまり今日始まりの時点と、今、寝る前の時点で、自分というもののサイズが小さくならず、いつもの形で今日を終えることなのではないだろうかね。
    それって実は難しくて、ちょっとしたこと凹んだり、つまづいたり転んだりして膝を怪我したり、今日起きた時と比べてマイナスになることが多い。それも、死ぬこと以外はかすり傷という言葉に従えば、決してマイナスということではないんだろうな。

  • 今日のランニングと、今までの自分を愛すべきだろって話

    今日のランニングと、今までの自分を愛すべきだろって話

    今日は10km。外ラン。気温は7度くらいかな。ペースは前回と同じキロ6分20秒くらい。

    寒いは寒いけど、風がなくとても穏やかな関東地方を駆け抜けた。

    前回はジムでのトレッドミルだったから、退屈で飽きてしまって8kmしか走れなかったのを教訓にして、今日は外ランにしたんだけど、やっぱ外はいいな。いい感じに視線は発散し、次の信号、次の曲がり角へとゆっくりと自然に視線が移動する様は、走っていることの心地よさを増強させる気がする。

    だけど夕暮れ時に走ったせいか、街頭が弱い歩道で少しの段差につまづき、それで踏ん張った右膝に痛みを感じるようになってしまった。昔、大きめのケイデンスで走った時にも得たような痛み。ちょうど8kmくらいで被った痛みをぼんやりと抱えながら、残り2kmを走り切るか逡巡した。
    そこで止めることも、もちろんできた。けれどどうせ残り2kmを歩くことになるんだし、走れるところまで走ろうと心に決める。周りは真っ暗な市街地。相談できる相手なんていない。相談したところで、走るか歩くかの二択しかなくて、歩いているうちに体は冷えて寒くなってしまうだろうから、ええい!ままよ!とメニューを決めた井之頭五郎氏と同じ気持ちで、走ることを選んだ自分。だいぶ不安ではあったけれど、無事に目標にしてた10kmを走り切ることができた。心の中で小さくガッツポーズ。

    人生は選択の連続だと言う。朝、起きた時、その時点で、ちゃんと起きるか、もう少し寝るか、その段階ですでに選択していると言える。
    時折、「あの時、ああしていれば良かった!」などと考えることがある。というか毎日、そんな風に過去のイケてない選択を思い出しては、川に飛び込みたい衝動を得ることがある。
    だけど実際には、自分の思うがままに選択してきたはずだし、それがあとになって、それも数十年先の未来にまで「あれは失敗だった!」なんて気持ちを抱くようになるなんて、思いもよらない。

    きっと大事なことは、過去、その選択をしてしまった自分を愛することだ。
    その時にベストな選択をしたはずで、仮に打算的な選択をしたのだとしても、その時には「そうするしかなかった」はずなのだから、それをひっくるめて愛するべきなんだろう。

    なんて安い文章を書いているんだと思う。
    だけどこう書かなければ、私という自分自身が、溶けていなくなってしまうような気がするから。

  • ロディア(Rhodia)の良さに気づき始めています

    ロディア(Rhodia)の良さに気づき始めています

    文房具沼に浸っているうちに、何となく気になっていたロディア(Rhodia)No.11を使ってみた。これが思った以上に良くて、まるで自分と並走してくれるような感覚がある。

    やることはとにかく“書く”だけ。思いついたことをひとまずメモに落とす。
    併用してB6のノートも使っているけれど(ちなみにコクヨのソフトリング。万年筆でも裏抜けしないから好き)、アイデアを書き殴るには、B6って案外大きい。

    その点、ロディアNo.11は一言しか書けない。
    この“制限”がいい。
    余計な装飾が削ぎ落とされて、メモがだんだん洗練されていく感じがする。

    次は、この小さなメモパッドをどう日常のタスク管理に落とし込んでいくかを書いてみたい。

  • 誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    誰もいない路上で、たまたま落ちていた500円を拾ったからと言って、それは窃盗と言えるのだろうか

    哲学的な問題のやつで、人間が誰もいない森の中で、木が倒れた時、誰もその音を聞いていないのだから、木が倒れたとは言えないみたいな話。
    変な話だなー、と思った。私は理系人間でもあるので、まず、木が倒れたという物理現象があるのならば、音を誰も聞いていないからと言って、倒れていないとは言えないだろうと思った。
    だって実際に木が倒れているんだから。
    今、私がこの文章を書いている最中、きっとどこかの森でも木は倒れているのだろう。人間に音を聞かれず。ちょっと想像してみる。

    木はある時にたくさん降った雨のせいで、根腐れを起こしてしまった。それにより十分な栄養を渡らせることができず、ゆっくりと死を迎えたのだ。
    若木の頃は、自分が置かれた環境が許せなくて、花を咲かせて違う場所で育つことを願ったりもしたものだ。だが鳥や風によって違う場所へともたらされた自分の分身たちが、自分と同じ意識を持つという誤解のせいで、私はとんだ失敗をしてしまった。私は自分の意識が、私の分身たちと共有できるものだと勘違いしていた。だから、頑張って花を咲かせ、花粉を遠くへ飛ばせるようにしたのに。
    その失敗をきちんと理解してからは、「別の場所で育ちたい」という無謀な願いを捨て、この場所で生きていくと心に誓ったんだ。そして何十年もの時を経て、私は、こんなに大きくなった。私は無限に大きくなっていくのかと思ったんだけど、これも誤解で、ある程度まで伸びたら、自分の重さで大きくなることができなかった。それでも良いんだ。私は私としてここに、木として生きているのだから。
    このまま何年も生き続けるのだろう、そう思った秋の頃、雨が降り、足元の土が乱れてしまった。私は彼らと根を通して会話をしていたから、ーそれは日常の楽しみの一つだったんだけどー、ある日、急に土が意地悪になってね。何十年も彼と話していたのに、人間性が変わったかのように、驚くべき変化を遂げたんだ。
    そこからは早かった。意地悪によって根が腐り、そして十分な栄養が供給されなくなってしまった。やがて私は自分の重さを支えることができなくなって、ある日、突然、倒れたんだ。その時は隣の木を傷つけないように、木と木の間を狙って倒れることができたから、迷惑をかけることはなかった。
    倒れる時、バサーッ、と大きな音がしたな。私の最期の声を、隣に立っていた木や、いつも木の実を食べにくる動物や、土など、みんなが私の声を聞いてくれたんだ。圧巻だったよ。そうして私はこれから微生物によって分解され、他の木の栄養分になるんだよね。いい人生だったと思う。

    軽く考えてみたけれど、木が倒れる音は、人間がいなくとも、周りにいる動物や木、土が聞いているはずだ。
    だから、人間が聞いていない=木が倒れていないというのは、論理が飛躍している気がする。

    近い話なのかどうか分からないけれど、事実と解釈という話がある。
    木が倒れたという事実。
    それを観測した人が、「木が倒れた」と解釈する。
    この上なくシンプルな話だけれど実際は、木が倒れたのを見た、ということが必要で、つまり、見ていないと木が倒れたかどうか解釈できない、ということになるのだと。それはちょっと分かる。木が倒れたかどうか知ってる?と聞かれ、仮に私が木が倒れたのを見ていない、そして音も聞いていないということであれば、「いや、ちょっと分かんないっすね」と言うだろう。そういう解釈を持っていないから。
    あくまで自然な流れだけれど、これっておかしいことなのだろうか。

    ちょっと視点を変えてみる。

    ある日路上で、例えば23時、最寄り駅から自宅までの道。そこに500円が落ちていたとしよう。昨今、500円が落ちているなんてことは滅多になく、私は何十年も見ていない。だから500円が落ちていたとしたら、まず驚くだろう。そして、周りを見渡すだろう。それは、周りに人がいたら、500円をネコババするのは窃盗罪にあたるからだ。だけど誰もいない場合、私は500円を拾い、自分の財布に入れてしまうかもしれない。仮定だけど。実際にはそうするか分からないけど。
    間違いないのは、日本ではそれを「窃盗」にあたり、何らかの方法で500円を財布に入れている映像があり、それを警察が観測できるところにいたら、間違いなく捕まるんだけど、そういうのがなーんにもない場所で、500円を財布に入れたとして、いったい誰がそれを咎めるのだろう。

    いや、なんか違うこと言ってる気がしてきた。

  • 適度な休憩を取ることは、仕事にとってプラスなのか

    適度な休憩を取ることは、仕事にとってプラスなのか

    たまに、仕事に没頭すると時間を忘れることがある。特段自分の好きな仕事に集中している時なんかは、気づいたら数時間経っていた!なんてこともしばしば。
    仕事は、基本的には好きなんだと思う。私は仕事=誰か、何かに貢献するということを無意識のうちに、念頭に置いている気がする。だから、誰かの必要となるための仕事だったら喜んで引き受ける。一方、誰のためにもならないもの、何の価値もないような仕事に対しては、とても億劫になる。
    たぶんこれって仕事をする人みんな同じように思っているのではないだろうか。昔どこかで、意味もなく穴を掘り続け、ある程度掘ったら穴に土を入れて元通りにし、そしてまた穴を掘るという循環を続けると、人は壊れてしまうというのを目にしたことがある。そりゃそうだ、と私は思った。意味のない仕事は人間を壊す。同じノリで、無駄なパワハラみたいに、誰かの機嫌を取るためだけの仕事も、きっと同様だろう。

    さて、仕事に没頭する自分に関連した話で、ある程度がーって仕事を進めた後、経っていた時間を見た瞬間とか、仕事をやり遂げた時に、どっと疲れを感じるということがある。たぶんそれは「集中が切れた」ということだ。そんな時に、定期的に休んでいれば良かったなーと考えても後の祭りで、仕事の疲れを癒すには何か食べるとか、風呂、寝るなどの休息を取ることが必要だと考える。
    人間はそもそも、長時間労働に耐えうる身体を持っていないように思う。専門的な勉強をしてこなかったので詳しくは分からないけれど、8時間という、割と一般的に、一日で働くべき時間というのは、理に適っているんだろう。それ以上働くと集中力が落ちるし、腹は減るし。残業した後に電車に乗るのとかすげー辛いもんね。
    そうならないために、例えば、30分タイマーみたいな、ポモドーロテクニックみたいなやつは、きっと人間をいい感じに働かせてくれるんだろうな。やったことないけど。
    例えば、10時から11時までの間に2つの仕事を片付けなきゃいけないとしよう。それぞれ30分くらいあれば終わるような仕事。だとすると、25分頑張って、5分休憩、でまた25分、という風に繰り返せば良いんだろう。
    たったそんなことで良いのか?!と思うけど、これもどっかで読んだんだけど5分休憩は、本当に、きちんと休憩を取る必要があるらしい。そこで、あえて「何もしない」という選択肢を取ることで、「仕事の続きがしたくてたまらない」状態にし、それでモチベーションを上げるのだとか。
    なんだよそれ、ホントかー、なんて思ったけど、ちょっと想像してみると、確かにそうかもなと頷く自分がいたりして。
    私はどちらかというとせっかちなタイプで、Teamsのチャットやメールなど、可能な限り早く返したいタイプなんだけど、きっと私みたいなタイプはその、「何もしない」時間が耐えられない気がする。その5分の間にメールチェックをしたり、Teamsで来てたチャットに返事したり、きっとしてしまうんだろう。
    それだとダメで、厳密にやるのなら、いっそのことデスクから離れる、みたいなことを考える必要があるかもしれないなぁ。

    ちょっと目線を変えて、「休む」ということに目を向けたい。
    アドラー心理学的に言うと、まず働くということは、共同体への貢献、と今の私は理解している。
    で、ChatGPTに意見を聞いてみたんだけど、彼はこう言った。

    休むとは、「自分を社会へ返すための準備」

    へぇ、みたいな、新たな発見だよね。自分を社会へ返すって。そもそも自分は社会から借りていたんだ、みたいなね。
    共同体で生きるという、言わば現代の社会生活において、仕事をするというのは私の身体を使って、その共同体に貢献するということなんだから、仕事=社会貢献という目線で考えるならば、休憩はそれを行うための準備という風に考えることもできるよな。休み自体も貢献してることになるのかー、って感じだな。

  • 入れ替わりながら、生きている

    入れ替わりながら、生きている

    生きるって、どういうことだろう。
    生きる、って言っちゃうとどうも重たく感じてしまう気がする。
    なので、生きてるな、って思った瞬間のことを書こうかなと思う。
    未来の自分はそういうことを考えていた過去の自分を思い返し、改めてどんなふうに考えるのだろう。

    今日も一昨日に引き続き、10km走ろうと思っていたものの、気持ちが前に向かず走ることができなかった。
    言い訳を考えたらキリがない。寒いとか、家でのんびりしたいとか、今日は祝日で昼間は暖かかったはずなのにそれをスルーし、あっという間に夕方。
    近所のスーパーまで買い物に出かけたら完全にやる気がなくなってしまった。
    帰宅してお酒。
    けれど今日は焼酎のお湯割り1杯で終わりにした。走らなかったことからくる罪悪感を抱いたためだろう。
    その後、すべてのやる気がなくなり、決断するのがめんどくさい状態に陥った。
    仕方なくその場をやり過ごそうとする。タバコ。外は寒い。
    羽田空港から飛び立つ飛行機を4つくらい見送っているうちにタバコ終了。
    管制塔にいる人ってすごいよな、と考えた。

    数日前にも書いたけれど、人生って毎日がポジティブ、すべてのことに自信を持ってやり遂げることができます!というシーンは少ない。
    歳を取ると尚更、というのが最近抱いていること。
    こんな感じで、走ろう!と思ったのに走れなかった自分を認めないと、気分がより一層滅入ってくるのは知ってる。
    そういうのも引っくるめて自分を愛する必要があるんでしょ、と不貞腐れた気分でそれを受け止める。

    いつ、どんな時でも自分を肯定しないといけないんだろうか。
    自分を否定することは本当に悪いことなんだろうか。
    叱咤するというスタンスなのであれば、例えば今の自分に対しては、「明日走る!」というモチベーションにつなげることができるかもしれない。
    だけど明日は仕事が忙しそうで、帰宅時間が遅くなりそうだから厳しいよな、と諦める自分もいる。

    いったい、どの自分が本当の自分なんだろうと思う。
    自分の中に、100人くらいの人格がいるような気がする。
    それぞれの役割、例えば父親、夫、社会人、のようにいろんな帽子を被った自分がいるけれど、根本的には自分は一人なはず。
    走ろうと思ったけれど走れなかった自分、控えようぜと思ってるのにお酒を飲んでしまう自分、タバコを吸ってしまう自分、どの自分を信じ、背中を押せばいいんだろう。

    そんなことを考え、思いの丈をChatGPTにぶつけてみたら、バラの花びらを包んでくれるように優しく、自分を救ってくれた。
    ニーチェは、人間を一つの意志を持った存在としては見ていなかったらしい。
    いくつもの衝動がせめぎ合い、その時いちばん強かったものが前に出るだけだ、と。

    そう考えると、今日は「走らなかった私」が勝っただけで、「走りたい私」が消えたわけではない。
    明日、あるいはまた別の日に、そっちが前に出てくるかもしれない。

    生きるって、たぶんそういう入れ替わりの連続なんだろう。明日からまた仕事だ。

  • 走っている間、私は考えていなかった

    走っている間、私は考えていなかった

    今日は10km走った。
    風が強く、向かい風の時は前進するのがキツく、被っていた帽子の鍔が上にめくれ上がるほど。
    向かい風があまりにも強かったので5kmで終わりにしようかと途中引き返すことも考えたけれど、なんとか予定通り走り切ることができた。
    走り切ると言っても、途中信号待ちで休憩したりしたので、実質10kmを休みなく走るというところまでは到達できなかった。

    年が明けてから心機一転、走ることを趣味の一つに据えて過ごしている。
    去年は数カ月に1度走るかどうかくらいだったので、1月に入ってからすでに5回走っているという実績は、自分に自信が持てるような感覚を得ることができた。
    私にとって、過去、10kmだけでなくフルマラソンを経験しているというのは強い。
    全くゼロ経験の人と比べると、恵まれている気がする。
    身体が、筋肉が、走ることを覚えているから。
    そういうことって覚えてるんだよな、みたいなことを考えながら走った。

    いや、走りながらなにか考え事をしていたかというと、そんなことはなかった。
    走り出してから1kmくらいで今日のペースを掴んだら、思考はそこで置き去りにしていた。
    プン、と昔のブラウン管テレビを消した時のような音が頭の中で響き、そこからは信号で止まるかとか、ペースとか、息切れとか、走るルートとか、そういうものだけを考えるようになった。
    いつもこうだ。常日頃走っていた頃も同じで、何も考えることなく、淡々と走る生き物になった。

    何も考えていないというのは、生き物として、人間としてそこに在るのだろうか。
    今日は繁華街の一部を走ったので、その間はすれ違う人の目に私は映っただろう。
    だけど実際の私は、上述したようなことしか考えていなかったので、そこには確かに在ったけれど、考える生き物としてはイエスとは言えなかったような気がする。
    いや、無理に、なにかを考える必要なんてないのだろう。
    そもそも私は「走る」というイベントを体験しているだけで、それに没頭しているから、走ること以外のことは考える必要なんてなかったのかもしれない。
    他になにか考えるというのは、言わば雑念のようなもので、走ることを邪魔すると言っても過言ではない。
    おそらく、無理になにかを考えるべきということが、間違っていたのだと思う。

    それにしても走り終わった後に得られる爽快感の強さ。
    そのために走っているわ、といつも思う。
    代替できることってあるのだろうか。昨今のサウナブームで、整う、って言い方をする人がいるけれど、それに近いのかもしれない。
    サウナを趣味にしてみる?いや、時間が足りなすぎる。

  • 人間が成長したのは、苦しみからなのだろうか

    人間が成長したのは、苦しみからなのだろうか

    人間は死ぬまで成長できる、と考えていたけれど、時折、足踏みするよなと思ったりもする。

    足踏みする自分を許容しても良いのだろうか。そんなことじゃダメだろ!と鼓舞し、自分の成長を促すべきなんだろうか。

    促すには体力が必要だ。気力も同じくらい必要で、それらがないと自分の中で力が出てこない。

    成長のために、気力と体力を準備するのって難しい。40代も後半に差し掛かってくると、その両方が同じタイミングで満たされるってことが結構貴重なことなんだなと思う。

    だとすると、自然の流れに従って、死ぬまでぼんやりと生きるという生き方、考え方も貴重なのではないかと思う。

    貴重というか、考慮すべきというか。

    常に100%、いつでも発射できますぜ!というスタンスを作るのが難しくなっていくからこそ、ケセラセラ、Let it be的な生き方も考慮すべき、みたいな。

    たぶん、基本的には後者のスタンスで生き、自分の中で「今行けるな」と感じた時に、成長の機会を促すべくアクションを起こしていくことが必要なように思う。

    たぶん、って上で書いたけれど、きっとこれ正解ってないんだよな。

    だけど昨今、成長していかなきゃ!ってなることが多い。

    SNSとか見るだけでも、他人と比較してしまったりして、自分の武器の拙さ、弱さに辟易したりして。

    ちょっと哲学的な考え方に実を寄せてみると、これ系のことがすでに打ち出されているのに気づく。

    例えばニーチェ。自分で価値を作り、それを肯定すべき。苦しみは成長するための条件。(善悪の彼岸)

    ずいぶんとまぁ背中を押してくれるよな、と思う。

    いやそもそも、上記、私の前提が良くなかったかも、と思う。

    気力体力を十分に必要とする成長にばかり目を向けていたから、「できないときはしょうがない」なんて条件を加えていたんだ。

    そうじゃなくて、気力体力が十分じゃない時にでも、その時に持ってる気力体力で臨んでいけば良いだろう。

    自分の価値を創造するために、必ずしも気力体力が必要じゃないということ。

    そもそも、上述したけど、むしろ100%じゃない時の方が多いもんな。

    成長の機会、と言ってみても、それはいったいどんなことが挙げられるだろう。

    分かりやすいところで考えると、仕事をもっと効率的、効果的に進めるために、必要な知識を得ることとか。

    今の私で言うと数字を集計し、マネージメントへ報告するという業務が大半なので、数字が暴れているところをいち早く察知して、それの原因を探り、必要な対策を講じること、この一連の仕事をもっと効率的にやっていきたい。

    この流れで考えると、自分の仕事を効率化させるには数字を集計するところのスピード。あと正確性。もしくは、見方を変えてみると、一連の流れを自動化することも可能かもしれない。

    目の前にある仕事を毎月のように同じ作業を繰り返すこと自体は楽だ。あんま物事を考えなくて済むから。だけどこのご時世、このテの仕事は自動化すべきだという風潮をものすごく強く感じるので、その方向で考えていっても良いのかもしれない。

    仕事から離れてみるとどうだろう。このブログにも書いているけれど、ランニング。つい5年くらいの間に、ランニングをする習慣がなくなり、身体が太ってしまった。健康的な身体作りというのは、ライフワークとして考えていくべきなんだろうな。こんなところで倒れてなんていられないもんな。

    ランニングは日々、コツコツとやっていくことが肝心なので、なるべくそっち側に意識を向けて、頻度を上げて取り組んでいきたいと思う。

    仕事とプライベートという両面で、成長の機会というものを考えてみたけれど、その前に、こんな感じでブログを書くことだって自分の成長につながるのではないかと思う。文を書くって難しい。自分の考えを適切な言葉を使って可視化するのって、すごく難しい。けれどそういうものもランニングと同じで、日々、コツコツと続けていくことが必要なんだろうな。

    そう考えると、コツコツと続けることこそが、人間にとって一番大切なことかもしれないなぁ。

    結局、正解はないんだよな。でもニーチェはこう言った。『苦しみの訓練こそ、人類のあらゆる高まりをもたらした唯一の原因である』。私は、いったいどんな苦しみを抱きしめる?

  • 走れた日、書けなかった日

    走れた日、書けなかった日

    昨日5km走った。ペースも上がった。一昨日までの自分に打ち勝つことができた。
    距離、ペース共に速かったら他に気にするものなどないだろう。

    だけど、残念ながら、ブログを更新することができなかった。
    会社から帰宅後、すぐに走り、子供と風呂に入り、夕食、そして心療内科の薬を飲んだところで、クレイジージャーニーで砂漠に咲く花のやつやってて、それを観てしまった。
    そして、ちょうど終わることに睡魔。
    ブログを更新するタイミング無し。

    いっそのこと通勤中に更新とかしても良いのかもしれないけどね。
    iPhoneで、フリック入力でも書けるっちゃ書けるんだけど指が痛くなってしまってどうもね。
    たくさんの量を書くとなるとなかなか難しいよな。
    帰宅時にはHHKBを持ち歩いているのだから、どっかカフェとか、テーブルがあるところに寄って書くとかでも良いんだろうけど。
    そんなことするくらいなら早く帰れよって思ったりもして。

    なんの中身もない文を書いているなぁ。

    そして今日の日記。
    今日は仕事で、Excelのピボットテーブルをこれでもかってくらい使いまくった。
    毎日10個くらいのピボットテーブルを作っている気がする。そんな感じの仕事。
    7月に入社して、10月にアサインメントが変わってメインで集計・報告の仕事をするようになってからずーっとそんな感じ。
    最近はパイロットの色彩雫、蛍火を使っている。
    書いている時は薄いなー、って思うんだけど、少し時間が経つとだんだん濃くなっていく気がする。
    それでも濃いめのインクよりは薄いんだけど、仄かに放つ色彩の鮮やかさがとても美しくて癒やされる。

    今日の手書き日記を振り返ると、こんなことが書いてあった。そうだそうだ、出勤時にそんなことを考えていたんだった。
    「昔好きだった人に似ているからという理由で、今いる人を好きになったとしたら、それは失礼なことだ。お前が好きなのは「お前の記憶の中にいる、昔好きだった人」なだけで、今、そこにいる人ではないのだから。
    そりゃそうだ。それはただの未練というヤツだろう。

    では、昔好きだった人を今でも好きだと気付いた場合、人間は、どうしたら良いのだろうか。
    まず、再びアタックするのか(1)、空気がゆっくり抜けていく風船のように、ゆっくりと忘れていくのか(2)。それによって戦略が変わってくる。
    前者、再びアタックしよう!(1)の場合。
    まず、「再び」ということは、一度失敗しているはずである。
    そこでもまた選択肢があって、片思いから告白を経て散ったのか(1-1, 2-1)、それともいったん付き合ったけれどなんらかの理由で別れてしまったのか(1-2, 2-2)。
    こちらの後者、つまり2-2、いったん付き合ったけど別れたパターンでは、そこからやっぱり好きでした、に至るには、振られる、つまり向こうから別れを切り出される方が自然だろう。
    だって自分から振っておいて、やっぱり好きでしたってパターンっての、自分勝手すぎるだろ、と思ってしまう。

    いや。
    うーん。

    考えすぎだろう。というか、風呂敷を広げすぎだろう。

    いや、けどさ、自分から、例えば違う人を好きになっちゃってさ、だけどその後にやっぱあなたが好きでしたごめんなさい、ってこともあるよな。
    相手は振り回されっぱなしだけど。
    相手は、受け身で、自分から行動に移すような人ではないとしたら、一度離れた人が再び自分の元に返ってくるの、実は嬉しかったりするのかなぁ。

    考えすぎた。ちょっと面白かった、この思考実験。