投稿者: hmgrbean

  • 三島由紀夫 潮騒 ★★★★☆

    三島由紀夫 潮騒 ★★★★☆

    青年があの航海を経て見た景色は、以前は遠いものだったんだけど、やがてそれが手の届く距離に近づいたんだねぇ、としんみりしてしまいました。
    彼は、自分が成長していく様を自分で理解しつつ、周りにいる人たちとの関係が、最初は小間使いだったような立場から、自分が経験を積むことでだんだん一人前に認められていくという点を、この三島由紀夫という作家は丁寧に、瑞々しく描いていて、さすが、後世に語り継がれる名作を描くだけあるな、と思いました。

    三島由紀夫の作品は、これが初めてでした。当時の時代背景とか何も知らず、これが彼の前期なのか後期なのかみたいなもの、というのも知らないままに、ネットでオススメに入っていたからという理由で借りたのですが、読んで良かったー!という読後感がありました。
    ストーリーの展開が、この先どうなっていくの?!というエンタメ感はありつつも、海の美しさ、十代の若者たちが胸に抱く思惑など、少ない文量ながらも丁寧に描かれているなと感じました。

    新治は急いていた。千代子はそれを知っていたから、彼よりももっと急いた。言葉は出ず、あの告白はまして出なかった。新治が自分の目の前に一秒でも永く居てくれるようにと祈りながら、彼女は目をつぶった。すると彼の寛恕をねがった気持ちが、実は彼のやさしさに触れたいと思う久しい希望の、仮面をかぶったものにすぎないことが分かるのだった。
    三島由紀夫 潮騒 第79刷 P99

    これは、千代子が新治に恋い焦がれる状況で、新治と別の女性との恋仲を打ち砕くようなことをしてしまった後に、新治のもとへ訪れ、そのことを寛恕してもらいたい(もういいよ、みたいな許しを得たい)つもりで訪れたわけです。しかし新治は仕事に入っていて忙しくて、十分に千代子のことをかまっていられない状況で、だけど千代子としては大好きな新治を眼の前にしているから、その中でのドキドキ感とか、そういういろんな思いが込められているな、と思いました。
    結局新治はこの後、千代子に優しい言葉をかけて、この場面は終わるのですが、新治の優しさとか、言葉少なで語る男らしさ、個性みたいなのが前面に出てくるような、素晴らしい場面でした。

    そうだ、三島由紀夫の凄さとして、場面の臨場感の勢いがすごいと思いました。物語は島での生活と、船上での生活(というか仕事)、大きく2つの場面で描かれるのですが、穏やかで美しい、島の自然や、その島で暮らす人々の生き生きとしたやり取り、一方、嵐の中、荒れ狂う波を進む船の状況など、文章でその風景を描くには実際に見に行かないと描けないのではないかと思うのですが、三島由紀夫はまるでそこにいたかのように、具体的な描写で文章が描かれていて、はー!すごい!と思ってしまいました。

    そして、経験とともに成長していく若者の心情もまた、具体的で分かりやすい平易な言葉を用いて描かれていて、とはいえ現代風に言うとエモさも十分に含まれていて、あぁ、私の才能では私が抱いた思いを正確に書き綴ることが出来ない、、悔しい。

    夕方沖を走る白い貨物船の影が、ずっと以前に見たときとは別種のものであったが、また新たな感動を新治に与えた。
    「俺はあの船を知っている。船の生活も、その艱難も、みんな知っているんだ」
    と新治は思った。少なくともその白い船は、未知の影を失った。しかし未知よりももっと心をそそるものが、晩夏の夕方、永く煙を引いて遠ざかる白い貨物船の形にはあった。

    かつては遠くに眺めたあの「未知」に、たしかに一度、新治はその堅固な掌で触ったのである。彼は沖の白い船に自分は触ることもできると感じた。
    三島由紀夫 潮騒 第79刷 P141

    新治が一度、遠くの海に仕事で連れてってもらい、島の外を見た後に感じるシーンです。十代の青年が、経験を経て一回り大きくなったことを実感したところを精緻に描いていて、こんな書き方ができる三島由紀夫はカッコいいですね。それは自分がかつて同じように、自分が経験によって成長したことを実感するシーンがあり、それと新治の成長を重ね合わせたのかもしれません。
    もっと私に文才があれば、、、くっそ。。

    ★4つにしたのは、これからもっと三島由紀夫を読んでいこうと思っていて、その基準にしたかったからです。これを5にしてしまうと、後に辛くなってしまうことがあるかもな、という自分の浅ましい気持ちが発端になっています。

  • 三島由紀夫に出会いました

    三島由紀夫に出会いました

    さて、図書館で次はどんな人の小説を借りようかなと思い、ぼんやりとインターネットを見ていたところ、三島由紀夫の文体がものすごく美しいという投稿を見つけまして。

    私の中で彼のイメージは、なんか白いハチマキを頭に巻いて、それで防衛庁(現・防衛省)の前で切腹して自殺したとか、それすらも曖昧ですがなんかそんなイメージを持っていて、私も、まぁそう考えてみたら右寄りな人間なので彼の思想に合致するかもしれないと思い、図書館で検索してみました。

    意外にも、と言ったら失礼ですが、没後何年も経っている人なのに、まだ借りたい人がいるようで、いくつかの人気作は予約待ちという状態でした。私の中で「今すぐ読みたい!」という熱が高まっていたので、その中から、「潮騒」という本を借りました。

    まだ、半分くらいしか読んではいないのですが、ざっくり言うと海辺の田舎町での青年が過ごす日々、とでも申しましょうか、その中での葛藤や、淡い恋心みたいなものが綴られいて、遠い日の自分と重ね合わせるシーンがいくつかありました。

    瑞々しい描写

    まだ一作しか読んでいないので、三島由紀夫の凄さは分からないのですが、ざっくり70ページくらい読んだところで、風景の描写とか、青年や女性が抱く思い、みたいなものを、まるで本人が思いを綴っているかのような書きっぷり。はぁ、こういうところに作者の思いが込められているんだろうなと思うばかりです。

    ストーリーの展開も面白いものではあるのですが、それ以上に、途中途中で描かれる上述のような描写のインパクトが強くて、ストーリー以上にそれのほうが強くて、半ばストーリーを忘れてしまうようでした。多分私の頭が追いついていないんだと思います。

    いや、きっと三島由紀夫の凄さは、そういう瑞々しさだけではなく、ストーリー展開にもその個性が描かれているんだと思います。そういう意味で、私はおそらく、一度読んだだけだと足りなくて、何周も読むことで、彼が描きたかったことをようやく吸い取れるような気がします。

    まだまだ足りないな、まだ一作目だもんな。

    もうちょっと深く潜ってみたいと思います。

  • 仕事終わりにSRV250 ルネッサにちょっと乗ってきました

    仕事終わりにSRV250 ルネッサにちょっと乗ってきました

    今日は仕事を終え、バッテリーを新品にしてから一度も乗っていなかったので、調子を確認がてら近所のスーパーまで行ってきました。
    直線距離にして片道2kmくらいでしょうか。

    前回までの記事はこちらです。

    アイドリングが安定した!と安心したブログを載せていましたが、いざ走ってみると、だんだんとアイドリングが下がっていき、アクセルをちょっと開けないとエンストしてしまうような状況に。実際5回くらいはエンストしたでしょうか。。
    ですが、アクセルをちょっと開けておけばエンジンは回ってくれるので、とりあえずスーパーまで。

    サクッと買い物を済ませ、帰りはすこーし遠回りして、2.5kmくらいを走ってきました。
    アイドリング時はエンストしてしまうものの、いざ走り出してしまうときちんと吹け上がりますし、時速60km/hくらいまでは出ることを確認しました。(タコメーターは付いていないので回転数は不明です)

    そして最後の最後、あと200mくらいのところにある、最後の信号待ちでエンスト。それ以降、セルでかけようとしてもエンジンは回ってくれませんでした。

    原因は不明

    今週末をかけて、2chの過去ログを読み漁ってみたいと思います。
    同じような症状のことが書いてある気がするんだよなぁ。

    あ、その前に、エンジンオイルはきちんと交換したいです。
    前回までのブログにも載せていますがPRIのまま一昼夜放置してしまったので、ガソリンダダ漏れでエンジンの中にまで入っているという話があり、なのでエンジンオイルを早急に替える必要があると思っています。
    エンジンオイルを替えたらアイドリングが安定した、とかだったら嬉しいんだけどなぁ。進展がありましたらまた更新したいと思います。

  • インプットが足りてないのかな

    インプットが足りてないのかな

    ここ数日、割と毎日ブログを書いていたものの、今日になってから急に筆が進まなくなりました。
    おそらく、インプットが足りてないからかな、なんて思います。
    私はインプットとして図書館から借りた本とか、Kindleで過去に購入した本などを読み返したりしますが、今日はどんなに過去の資料を読み漁ってもピンとくるものがなく。
    そういう時は、おそらく、インプットが足りてないんだと思います。

    インプットすると、何が良いのか

    インプットインプットと言っていますが、これは「情報を取り入りれる」ということになります。
    かといって適当にインターネットを漁ってみても、そういう、これだ!というものに辿り着かず、時間だけを浪費していて、結局私の身になったかというと、決してそんなことはないんですね。
    いわゆる、心の琴線と言いますか、そういう、私のアンテナに引っかかったものがないと、なかなかそのインプットからアウトプットに持っていくのは難しいように思います。
    そういう時、どうしたらいいか。
    アンテナを低くして、普段の感度よりもいろんなものを吸収しやすくしてみると、良いのかもしれませんけど、そういう時はノイズも入りやすいように感じます。
    そのノイズを、勘違いして「これこそが私の求めていたものだ!」と紐解いてみると、実はそんなことなくて、もともと知っていた知識の二番煎じだったり、そもそも私が吸収すべきものではなかったりと、結果的に時間の無駄で自分の求めていたものではなかったりします。

    ではどうしたらいいのか

    なかなか難しいんですが、私が今まで暮らしてきた中で、ちょっと感じるのは、自分が引っかかりやすい言葉をあらかじめ覚えておくと良いのかもしれません。
    私で言えば、生き方、とか、価値観、とか、事実や解釈、みたいなものは引っかかりやすいです。
    また、趣味で言うと、ランニング、メダカ、盆栽、などと言う感じで、趣味があればあるほど、引っかかりやすいように思います。
    それら全てが引っかかったサイトを全部見にいくのもまた難しいことですので、あらかじめ、そう言うものが投稿されやすいサイトを巡回するようにすると、良いように思います。
    1990年代の頃は、自分のお気に入りサイトをインターネットブラウザのお気に入り登録をして、それを巡回したものです。

    は、結局あの頃と今と、何も変わっていないと言うことなんですかねこれ。
    私は私の生きたいように、生きているだけなんだけど、これはつまり、あのころとそう変わらないということなのではないでしょうか?!

  • 物欲は悪魔か

    物欲は悪魔か

    物欲、それ自体は悪いことではないと思うんですよね。
    そのためにお金を稼ぎたい!頑張って働こう!っていうモチベーションになるので。
    一方で、ものを必要以上に持ちすぎるのは考えるべきで、それが生活の質に影響するからで、例えば、自分の家に入りきらないくらいのスニーカーを持っていて、しょうがないから近所にコンテナを借りてるんです、みたいなのは、果たして必要な物欲なのか?と自問自答が必要なのではないでしょうか。
    これ系の話、ニーチェも言っていて、おおよそ、私が上述したようなことなのですが、考えさせられる内容となっています。

    所有欲に征服されるな
    所有欲は悪ではない。所有欲は働いて金を稼ぐことをうながし、その金銭によって人は充分な暮らしを送れるばかりか、人間的な自由と自立さえ得ることができる。
    しかし、人が金銭を使っているうちはいいのだが、所有欲が度を過ぎるようになると、人を奴隷のように使い始める。もっと多くの金銭を得るために、ありったけの時間や能力をついやす日々が始まるのだ。所有欲は、休みさえ与えてはくれない。
    こうして所有欲の手下となった人は、完全に拘束される。内面の豊かさ、精神の幸福、気高い理想、といった人間としてたいせつなものは無視されるようになる。あげく、金銭面だけが豊かで内面がごく貧しい人間が出来上がる。だから、所有欲がどこで自分を征服しそうになっているか、よく注意しておかなければならない。
    ニーチェ 漂泊者とその影

    所有欲を悪者に見立てるあたり、さすがニーチェという感じですね。
    上述した、スニーカーを家に入り切らないくらい集めるのが好きという例、それはそれで内面の豊かさは持っている場合だってありそうです。スニーカーを集めることによって、自分が満足に生きられれば良いのかもしれません。
    だけど、ニーチェが言うように、内面の豊かさ、精神の幸福という観点で見ると、いくらスニーカーをたくさん買ったとしても、まだ欲しい、まだ欲しいと新たなスニーカーを求めるようになるように思います。

    では、どうしたらいいのか

    限度を決める、ということが良いように思います。
    スニーカーは、例えば15足までいったらいったんストップする、とか。
    おそらく、私にはスニーカーを愛してやまない人の気持ちが残念ながら分からないので、15足なんて少なすぎる!と思うのかもしれません。
    だけど際限なくスニーカーを求めようとするのは、ニーチェの言う「人間としてたいせつなもの」を蔑ろにしているように思うのです。
    所有欲を高めていくのは良いですが、一方で食費を極限まで削り、病気になり、この世を去ってしまうとなったら、スニーカーを天国に持っていくことはできないのだから、結局意味のないものになってしまうんじゃないかなぁ。
    棺桶に入れられるのはごく僅かです。そして、そもそも、死んでしまったら無ですよね。
    天国って上述しましたが、そんなものは幻想に過ぎないのですから、ほどほどに愛し、人生を謳歌すべきなのです。

  • 孤独を愛せよ

    孤独を愛せよ

    最近、齋藤孝さんが書いている、「孤独を生きる」という本を読んでいます。
    齋藤孝さん、結構本書いてますよね。
    今まで何冊読んだかなぁ、5冊くらいは読んだかもしれません。
    今回手にしたのは、孤独を味方につけよう、みたいなコンセプトの本。
    孤独と聞くと、まるでそれが悪いことのように思えますが、それを肯定的に受け止めようという趣旨。
    はー。って感じです。
    確かに孤独って、周りから拒絶されて、社会生活がうまく行かず、誰とも喋らずに一日が終わってしまうという状況。
    いいことなんて何一つなくて、まぁ、人と話さずでも一日を乗り越えることは実質可能だとは思うんですが、それでも、なんとなく前向きにならない、なれないような状況のように感じます。

    孤独と、孤独感は違う

    ・ 孤独は、ひとりきりの状態
    ・ 孤独感は、一人の時の気分
    孤独だー!と思っていたけれど、気分の問題だから、そう深刻になることはない。
    孤独感をキャッチするためにいろいろ事情を探ったり、相手の真意を確かめたりするのは面倒

    相手の真意を確かめようとするあまり、無理にコミュニケーションを取ろうとしたり、深く探ってしまったりして、ギクシャクした関係になってしまっては元も子もありません。
    面倒なことになってしまうより、いったんそこから離れてみるというのも大切だそうです。

    ひとりでいる時間が人を育てる

    齋藤さんが、孤独をポジティブなものとして捉えるというのは上述しましたが、過去の著名人でも孤独を愛する人が、いい言葉を残しているということで、いくつか、本で引用されていました。

    のがれよ、私の友よ、君の孤独の中へ。
    強壮な風の吹くところへ。蝿叩きになることは君の運命ではない。
    ニーチェ 市場の蝿

    齋藤さんはこの本の中でニーチェを取り上げていて、私もニーチェは好きな哲学者の一人なので、この言葉に感銘を受けました。
    現在だと、東京キー局の問題が、まさに大きな旋風を巻き起こしています。
    SNSなどで多くの人が、糾弾する対象を見つけては声高らかに、お前が悪い!と言っているのを目にします。
    私はその波に乗らず、傍観している立場(実際は傍観すらもしておらず、興味がないのですが)をとっていますが、ある一面では私も孤独の中に逃れているのかもしれません。
    大勢の人たちに紛れて、誰かを糾弾することも、ある一面では、良いことなのかもしれません。自分のストレスが発散できる、とか。
    だけど、私の優先順位は、そこじゃないんだよなぁ、というのを感じます。
    それよりかは、一人になって、孤独を楽しむ方が良いかな、と思います。

  • コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

    コミュニケーションのために使う労力を惜しまないか、その逆か

    これは私の場合に限るのかもしれませんが、頑張ればコミュニケーションをきちんと取ることができて、つっても年相応の、45歳の普通の社会人って感じの程度ではあるのですが。

    だけど、そんな風にコミュニケーションをたくさん取った時、例えば会社の社員交流会みたいな、いわゆる飲み会みたいな場を経て、帰宅したらどっと疲れを感じることが多いです。

    シンプルに、コミュニケーションを頑張って取った証な気がしていて、例えば、コミュニケーションの強者みたいな人って、疲れたりしないのかな、と思いました。

    コミュニケーションは疲れる?

    本来、人が構成する社会生活って、コミュニケーションがあってしかるものだから、そこに払うコストってしょうがない、払わなきゃいけないような気がするんですけど、そもそも、コミュニケーションって疲れるものなんですかね?

    生きていくには必要なコストって今言ったばかりですが、果たしてそれは本当なのかと。

    というよりも、コミュニケーションって、頭を使う?のかもしれないですが、どういう時に頭を使うんでしょうか。

    • 雑談をする時、(いい意味で)適当な話題を探す時
    • 雑談をする時、相手が気持ちよく話せるように相槌を打つ時
    • 仕事をする時、みんなで課題に向かって解決策を練る時に、いい感じのアイデアを出す時

    いや、3番目のやつは厳密にはコミュニケーションのためのコストではないか。

    どちらかというと問題解決のためのアイデアを考える時ですね。

    私の場合、私はどちらかというと聞く方に回りがちなので、その時の相槌の打ち方、話を引き伸ばしたほうが良いのか、終わり二持っていくべきなのかみたいな時に、結構頭を使っているような気がします。

    疲れるけど、それが必要なコストかどうか

    ぐだぐだと書いてしまいましたが、肝心なのって、自分にとって、それが必要かそうではないか、という価値観なのかもしれません。

    不要だわ、そのために消費するカロリーがもったいない、という人はだんだんコミュニケーションの頻度を下げていき、最終的には殻に閉じこもってしまうのでしょう。

    私は、私の中での最上の理想はそっちがわなんですけど、それだと生きていくために得る必要のあるお金を手に入れることができなくなってしまうので、「頑張って必要と感じているコスト」と思っているような気がします。

    生きていくには社会生活に溶け込む必要があって、それには必要なコミュニケーションを取って、そうやって自分をすり減らして生きていくことになるわけですが、一方で、やっていくと慣れていくってこともありますよね。

    慣れてくるとコストが下がっていくので、気にするほどでもないレベルまでコストが下がっていけば、それはコミュニケーション強者ということになるのでしょう。

    これって難しいですよね。十人十色の考え方の中で、相手はどんな人かっていうのを見極め、今までの経験の中から同じタイプを思い出し、その引き出しを開け、そこから出てくる「雑談の作り方」や「相槌の打ち方」みたいな素材を、相手に合わせて出していく必要があるんです。

    慣れていけば、その引き出しがどこにあるかを瞬時に見つけることができるから、探す手間とか、そういうコストは最小限になるのでしょう。

    コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん強くなっていく

    コミュニケーションを取っていけば、相手がある程度の種類に分かれていくワケで、上述のいわゆる引き出しがどんどん増えていくんですよね。

    それは相乗効果で、ロジカルに考えるとこんな感じかな。

    1. 会話を開始する
    2. 相手を見極める
    3. 新しいタイプ?
      1. 新しいタイプを受け入れる
      2. 引き出しが増える
    4. 既存のタイプ?
      1. 過去の引き出しの中を見に行く
      2. その人に合った素材を出し、会話に合わせていく
    5. 次のターンへ

    こうして、コミュニケーションを多く取っていく人は、どんどん引き出しが増えていくんですよね。

    タモリさんなんてのは何十年も色んな人とテレホンショッキングをしてきた人なので、ものすごく膨大な引き出しを持っているのでしょう。

    どっちがいいとか、そういう話ではないので、自分に合ったペースで、コミュニケーションの幅を増やしていくと良いのでしょう。

    生きていくのって難しいです。

  • SRV250 ルネッサ バッテリーを変えてみたらアイドリングが安定したっぽい

    SRV250 ルネッサ バッテリーを変えてみたらアイドリングが安定したっぽい

    前回までの記事はこちらです。

    SRV250ルネッサ 復活に向けての進捗

    先日、日頃からお世話になっている 4DN wikiと、2chの過去ログを読み漁ってみたら、「アイドリングが安定せず、エンストしてしまう」というのは、バッテリーがヘタっていて電圧が足りてないから、スパークプラグから火花が飛ばないことがあるとか。

    これを読み、私の頭に電球の光が灯りました。

    それまで私が使っていたバッテリーは、購入時に入っていたものを充電して使っていたのです。

    なので、先日買ってあったバッテリーを満充電して、先程、小雨の降りしきる中、バッテリーを付けてみました。

    すると!アイドリングが安定するではないですか!

    驚きました。

    だけど、合点が行ったのも事実で。

    前回までのブログで書いた通り、走り出して1kmくらいしたところでエンストするんですよね。

    それって、よく考えると、セル始動する時は、ヘタったバッテリーなりに頑張って火花を散らして、そして走り出しのところまではできる限り頑張って来たんだと思うんです。

    だけど1kmくらい走ったところで電圧が降下し、とうとう火花を散らすまでには至らなくなってしまったのではないか。いや、おそらくそうだろうということ。

    今日は小雨が降る天候なので、近くを走るのは諦めましたが、それでも、次回のライドに期待が持てる状況となりました。

    次になにをしよう

    いったん、バイクが安定して走れるようになるまではいくつかタスクが必要だよな、という観点で考えると、これで十分に乗れるのかもしれないですが、まだやることとして

    オイル交換

    が残っています。

    ここにも難関が。というのも、ドレンボルトを開けるための工具がないんです。

    インターネットを調べる限り、どうやら19mmっぽいのですが、ルネッサのドレンボルトの位置はフレームが邪魔しており、いい感じにレンチがハマらないということで。

    写真撮ってくればよかった。今度載せます。

    また、どうやら19mmっぽい と上述しましたが、本当に19mmなのか怪しいのです。18mmかもしれないし、20mmかもしれない。モンキーレンチを物差し代わりにして測ってみた時には、どうやら19mmっぽいぞ、という感じ。

    ここで散在するのもアレだしなー、とか、

    いっそのことソケットレンチのセットを買っちゃう?!とか、

    だけどダイソーで買ったソケットレンチセットあるから、それの工具と組み合わせて使えたらいいから19mmのだけがあればいいんじゃないかなぁとか、

    そんなことを考えています。

    貧乏性、というヤツにちょっと近いのかもしれないですが、ダイソーで買ったソケットレンチ、今はもう売られていないようなんですが、500円の割に、ルネッサのバッテリー交換くらいなら楽勝で対応できたヤツなんです。

    ラチェットのとこ、差し込み 6.5mm (1/2)っぽいから、それに合うソケットレンチで19mmのやつを買えれば良いのかなぁ、それが一番お金のかからないやり方っぽいですね。

    ソケットレンチセット、現段階で一番安いセット、楽天で探してみたらこれっぽいですね。これ買っちゃうー?いやいやー、ダイソーのやつあんじゃん、というところでせめぎ合っています。


  • SRV 250 ルネッサ バッテリーの外し方

    SRV 250 ルネッサ バッテリーの外し方

    ちょうどバッテリーを外す機会がありましたので、せっかくなので写真を撮ってきました。ほぼ、自分への備忘録という形になりますが写真付きで投稿してみます。

    1. サイドカバーを外す

    めちゃくちゃ分かりやすいのですが六角レンチで外します。

    そして、左上の六角のやつを外しても、そのままパカッとはいかないんですよね。
    右側に、はめ込み式?って言うんですかね、これを丁寧に外さないといけなさそうです。
    無理やり取ろうとするとおそらく、サイドカバーが割れると思います。
    私のはすでにヒビが入っているので、丁寧にゆっくりと外しました。。

    外すとこんな感じです。

    2. バッテリーの+とーを外す

    端子のカバーがあるのでそれをぐいっとずらし、外します。
    外すのはマイナスのほうから。アホな私はプラスから外そうとして、火花が飛びました。

    プラスドライバーか、もしくは六角レンチを使って外します。私のルネッサはすでにプラスのとこがなめていて回らないので、六角レンチを使って外しました。

    3. バッテリーを固定しているやつを外す

    バッテリーのカバーっていうんですかね。それを外します。
    これも六角レンチです。
    右側のここ↓と、

    左側のここ。

    めちゃくちゃ錆びてますね。気にしてませんが。

    この2つを外すと、ぱかっと開き、バッテリーが外せるようになります。

    外したあとはこれ。

    写真を見て気付いたのですが、チェーンがサビサビだ、、、
    これちゃんとメンテしないとダメですよね。チェーンオイルみたいなのを買わないとダメですかね。

    私が購入したバッテリーはこちら

    Super NATTO(スーパー納豆?)というメーカー?のバッテリーと、それの充電器がセットで6000円でしたので、それを購入して使っています。
    充電器があると安心ですね。私はまだバイクが調子が良くなくて、エンジンが全然かかんないので、バッテリーがあると一晩かからないくらいで充電できるから、それで安心して使っています。
    ちなみに貧乏性な私、もともとついてたバッテリーを充電して再利用しています。
    ので、こちらで買ったバッテリーはまだ使っていません。充電器はばっちり使えているから、おそらくバッテリーも大丈夫なんでしょう。


  • 目の前にある日々の生活に、足をきちんとつけて生活しよう

    目の前にある日々の生活に、足をきちんとつけて生活しよう

    今日はニーチェの言葉から。
    昨日ブログに更新した、マルクス・アウレリウスより若干わかりやすいです。時代が近いからかもしれませんが。
    私はKindleのPrime readingやUnlimitedでニーチェについて描かれた本を読む程度の知識しかないので、彼のことを深くまでは存じ上げないのですが、割と私たちの生活に密着したことを書いてくれるよな、と思っています。
    今回取り上げた言葉も、まさに私たちの「生活」をどう捉え、暮らしていくべきかを表してくれていて、その通りだよなぁ、実際はそんなふうにはいかないけどさ、みたいなことを考えたりしています。

    生活を重んじる
    わたしたちは、慣れきっている事柄、つまり衣食住に関してあまりにおろそかにしがちだ。ひどい場合には、生きるために食っているとか、情欲ゆえに子供を産むなどと考えたり言ったりする人もいるくらいだ。そういう人たちは、ふだんの生活の大部分は堕落であり、何か別の高尚なことが他にあるかのように言う。
    しかしわたしたちは、人生の土台をしっかりと支えている衣食住という生活にもっと真摯な眼差しを向けるべきだ。もっと考え、もっと反省し、改良を重ね、知性と芸術的感性を生活の基本に差し向けようではないか。衣食住こそがわたしたちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。
    「漂白者とその影」より

    歳をとると1年経つのがあっという間に感じる、というのを45歳になった今、まさに実感していて、それってもしかしておろそかにしちゃってるからかな、と思いました。

    もっと人生を味わって生きるべきだ

    おそらくニーチェが言いたいのは、日々、感じていることをもっとちゃんと味わって生きろよ、ということなんだと思います。
    自分の意思で動かせる物事に対しておざなりに決断するのではなく、選択肢をちゃんと吟味して、決断したあとは初心を忘れることなく前を向いてきちんと過ごしていこう、自分の意思で動かせない物事については、現実をありのまま受け止め、それでも生きていくという姿勢を忘れないようにしよう、みたいな?考えすぎですかね。決して考えすぎではないように思いますが。
    実際、どうなんでしょう。
    上述の通り、一年があっという間だわ!1月だって今日でもう終わり?!まだ正月休みな気分だったわ!みたいな感性で生きていて、ほんと、日記がなければ、例えば1月14日に私がどこでなにをして、なにを食べたかみたいなのは、完全に忘れてしまっています。なにかをしながらご飯を食べると、ご飯の味って分からないんですよね。テレビやスマホを見ながらご飯を食べるというのは、食事に対して失礼だよな。
    ニーチェが言うように。

    衣食住こそが私たちを生かし、現実にこの人生を歩ませているのだから。

    ほんとそうなんですよね。なにか特別なことをした時にだけ自分の感性を込めるのではなく、日々の衣食住、そこに目を向けて、足るを知るとちょっと感性が似てるようにも感じますが、日々、もっと味わって生きていきたいと思います。