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  • 人とのつながりは、広げるべきなのか

    人とのつながりは、広げるべきなのか

    この頃、いろんな人の意見を目にすることが多く、疲れてしまうことがある。多くの人と関わりたいというのは、群れたいという本能?から来るものなのか分からないけど、自然と、沢山の人と関わりたいと思うタイミングが、年に数回くらいの感覚で訪れる。

    これは一つの欲求なのかもしれない。欲が出ると、多くの人とつながろうとしてしまう。その背景には、いくつかの理由があるのかなと思ってて。

    • 自分を知ってほしい。もしくは他の人からの反応を得たい。承認欲求から来るものなのかな。
    • 新しい刺激がほしい。今の自分が持っている思想にマンネリ感を抱いていて、それをバージョンアップさせたいから、他人の意見を聞きたい、とかね。

    人と繋がりたいという気持ちは、本来は、悪いことではないのかなと思う。自分を成長させるきっかけになるので。変わることに対し不安を抱くことはあっても、自分を成長させたいという気持ち自体は応援されるべきで、そのための行動を妨げ続けるのは、なんか自分を停滞させるような気がしてイヤなので。

    だけど、そうとは言え、私の場合はタイミングとか、気の持ちようというのが割と多くて、そしてどちらかと言うと億劫になることが多いので、ポジティブに人と繋がりたい!と思うのは少ないのだよね。これはもしかしたら、残念なことなのかもしれない。

    来年はもうちょっと、人と関わる機会を増やすようにしようかなぁ。そっちのほうが、なんとなく良い気がするので。

  • いろんな見方がありすぎて良く分からなくなっちゃう

    いろんな見方がありすぎて良く分からなくなっちゃう

    自我を通そうとすると、カドが立つことってあるじゃないすか。
    自我というか、ワガママ。
    その辺を考え出してしまうと、いろんな立場の人が考える、ものの見方っていうものを考えてしまって、結局どれが正解か分からなくなり混乱しちゃうんすよね。

    一方で、たまには自我を通すことも必要で、それは「生きてて良かったと感じるポイント」を稼ぐ必要があるからで、それも含めると、ホント、難しい世の中だよなぁと思う。

    自分のことを一番に考えるのが、もしかしたら生きる上で一番正しいことなのかもしれないよなぁ。
    それをきちんとやっていかないと、自分のこと、嫌いになっちゃうから。
    けど、自分の考えるワガママを一番に考えるって、なんかちょっとイヤだなぁ。
    傲慢な人じゃん、って思ってしまうから。

    多分そこってバランス感覚が必要で、ワガママ 対 思いやり という2つの要素を都度考える必要があるかなと思って。
    相手に譲るっていう、思いやりを調整していくのが一番現実的なのかな。
    どっかで聞いたことのある、「自分の思いのうち、51%分を思いやりとして相手に譲る」っていうのが、自分を愛しつつ、相手に譲ることのできる最強なものかもしれません。

  • 自分の思いは過去の積み重ねだから、

    自分の思いは過去の積み重ねだから、

    今、抱いている気持ちは自分の未来を作るのだよね。

    自分なんてそうそう変わらないから、と思うんだけど、「いつもすき家ばかりだから、たまには吉牛にしてみよう」「いつもスニーカーばっか履いてるけど、たまにはブーツにしてみようかな」みたいな、そんな軽い気持ちの切り替えによって、自分の新しい未来が生まれたりするんだよな。

    そう考えると、自分なりのルーティンワークっていうのは、自分を固める効果があるけど、変わらないというリスクを孕んでいるのだよね。

    変わる自分を肯定しているのは、それは向上心から来ているもので、たぶん、今の自分はちょっとポジティブなバイオリズムで生きているのかなぁ。

    変わることは怖くない。

    人間は今、現在の自分を保とうとする人間だから、変わることに臆病になってしまう。

    変わらなくても良いのよね。そっち側も肯定したい。それは全部、自分の意思だから。

  • SDGsがいまいちしっくり来ない

    SDGsがいまいちしっくり来ない

    SDGsという言葉は急に、目にするようになった印象があります。
    個人的には今年、コロナという言葉とともに、流行りだしてきたような印象。
    子供が小学校で学んできたという話を聞き、学校教育にも取り入れられるようになったのか、と。

    SDGsという言葉自体は目新しいですけど、17からなる目標自体は目新しいものではない印象です。
    それぞれが、昔から、世界的に言われてきたような問題ばかり。
    それこそ私が小学生だった30年前にも、同じように学校で取り扱われてきたように思います。

    けどなー、なんて言うんだろ、イマイチしっくり来ないんですよね。
    なんで急に?いまさら?という気分がまずあって。
    そりゃ、前向きな話ですから否定するような向きのものではなく、私だって子供たち、子孫に対してこの地球が他の惑星から影響を受けるまでは繁栄していってもらいたいと思っています。
    なので、やれる範囲ではやっているつもりです。
    無駄なものは買わない、とか、水を大切に、とか、その程度ですけど。

    あと、こういうのって押し付けられてやるものではないと思っている自分がいます。
    あくまで自発的に、でしょ。上述してますけどそれ目線ではやってるし。
    これが流行ることで、誰かが得をするのかな、みたいなことを考えてしまったりして、それは良くないな、と思いますけど。

    多分、それ以前に、もっと身近にある問題に着目しても良いのでは?と思ってるんだよなぁきっと。
    ぱっと思いつくのは、高齢化社会とかさ。8050問題みたいに言われてますけど。
    それに絡む年金問題とか。私は41歳という、ちょうど青年と老人の間にいる年代なので、私たちが主体となって行動を起こしていく必要があるのかな、とかね。

    あとは所得格差とか。
    9%チューハイが売れる理由とか考えると、単純にもっと所得を上げる必要があるのでは?と思いますけど、それじゃあどうやって?とかね。ノーアイデアですが課題として存在するのは認識しています。

    ちょっと脱線しましたけど、長期目標としてSDGsがあるのは良いと思うんですよ。
    だけど、それを達成するためには足元にある課題をクリアする必要があるのだから、それに対しては私は何ができる?というのを考えていっても良いのかなぁ、と。それが自己実現()にも繋がってくるのかな。

    そんな、意識の高い人間ではないので、まぁ、ここでぼんやり考えて終わってしまうんですけどね。。

  • 無いものねだりなのかな

    無いものねだりなのかな

    ここ数日、どうにもこうにも気持ちが上に向いていかず、家族以外と会うの、ちょっとキツいかな、、と思っていて、週末に飲みの予定が入っていたのだけど、泣く泣くキャンセルする羽目に。

    自分のせいです。ごめんなさい。

    本当は家族と話すのすらもちょっとな、、と思っている状況なのだけど、家族とは喋っていないといけない状況が多々あるからそこは頑張っているのだけど、本当は、一人でいたい。

    家族から救われることだってあるのだから、そこは持ちつ持たれつでしょと思いつつも、上に向けていこうという気持ちの落とし所が見つかりません。

    人間は生まれてきた時も、死んでいく時も一人なのだから、孤独とは常に寄り添っているはずで、自分自身と話し合う時だって孤独なのだから、その瞬間を大事にすれば良いのだと思います。
    ただ私の場合は自分自身と話し合うのは周りに誰もいない時に行いたいので、常に家族の誰かがいるような状態だとそれを確保するのが難しい。
    まぁ、そこは理解のある家族なので、ちょっとの間一人にさせてほしい、とお願いすればその状況は作れるのですけれど。

    そうすると私は「家族みんなで一緒にいないといけないんじゃないか」的な考えを持ってしまい、思考がぐるぐると巡ってしまい、何がしたいのか分からない状態に陥ってしまうのです。

    めんどくせ、って思う。

    多分、シンプルに、「〜しちゃいけない」って思考をやめたらいいんだと思う。

    一人になっても良い。
    こうやって自分を肯定することで、私は私の行動に対してケチを付けることなく、自分のやりたいことを思う存分できるのではないか、と。
    制限をかけているのは自分自身。

    家族といると一人になりたいって思うし、
    きっと独り身だったら誰かと一緒にいたいって思うだろうから、私は無いものねだりなんだろうなぁ。
    現状に満足していないということなのかな。

  • どこかで無理してる

    どこかで無理してる

    こんがらがっている。

    なにか、ストレスが溜まっているのかな、と客観的に自分を見ようとしているのだけど、良く分からない。

    もしそうなら、そのストレスを発散できるようなことをしてみたら?と思うのだけど、何をどうすれば良いのか、全く見えてこない。多分、なにもしたくない、というのが正解なのかな。

    強いて言えば、うっすらと消えていきたい、くらい。誰かが悲しむから、消えられない、と思っていて、結局それは独りよがりなんだよなと思うものの、消えることすら好きにさせてくれないのか、と、この世の正常な人たちが作ったルールにがっかりしてる。

    違う、きっと違う。消えることはきっと、正しいことじゃない。

    嫌われる勇気に、今、手元にあるもので生きていくように考える、みたいなところがあって。

    私、ないものねだりをしていて気持ちが疲弊していくパターンが良くあって、それこそ月に一度くらいの頻度で起こるのですけど、もしかしたらそれなのかなぁ。

    ぼんやりと気持ちを整理させつつ、どうにか落ち着いていこうとしている過程で書いているので、とりとめのない文章になっているのだけど、

    あと、たぶん、

    最近、自己啓発系の本を十冊くらいバーって読んだので、そのせいで新しい情報が入ってきて、混乱したっていうのもあるんだよな。情報過多ってヤツですな。自分の器は急には大きくならないので、自分のペースで情報を取り入れ、そこから取捨選択するっていうプロセスは、よほどのことが無い限り逸脱しないほうが良いような気がする。

    こんな感じの思考プロセス、ぼんやりとこんがらがっちゃって、ただ、いなくなりたいなぁ、、と思うヤツ、矯正してサヨナラしたいなぁ。
    いや、これがあるからこんな感じの日記を生み出すことができるのか。その、享受されることの方を活かすべきなのか。

  • 自分探しという活動の意味が分からない

    自分探しという活動の意味が分からない

    20歳の頃、自分探しと銘打って、ニュージーランドに住んでたことがありました。半年くらい。
    半年とは言え、その大半は「早く日本に帰りたい」と思ってばかりで、あまり楽しんでなかったです。

    その理由は、シャイで、あまり自分からガツガツ行くタイプではないので、純粋に楽しくなかったから。
    そんな人が自分探しで行ったとしても、結局シャイな自分を再確認して終わり。
    積極的とは言えない自分の性格、なのに、自ら海外に行こうとする、という積極的な姿勢、相反しますよね。

    その心には、今の自分に満足していないという気持ちが存在しているはずで、だからこそ新しい自分を見つけに行きたいでしょう。
    けど、新しい自分はそこにはいません。急に、別の環境に放り込まれたからって、新しい自分が生まれるかというとそんな簡単な話ではないからです。

    自分を見つける、という態度がそもそもおかしいよな。受動的なのが気に入らない。
    新しい自分を作りに行くという姿勢なら納得できます。こうなると肯定的だから。

    あの時、もし、積極的な自分になっていたら、今とは違う人生を送っていたのかな、と思うこともあります。
    そこには自分の願望はあまり入っていなくて、あくまで選択肢の一つという範疇でしかないけど。

    積極的になる、という人間性についても、結局相対的なものでしかなくて、ある人から見たら私は積極的に見えるのだろうし、ある人と比べたら随分と消極的な人生を送っているようにも見えるはずだから、なにを以って積極的なのかはわかりませんけども。

    少なくとも、自分がやりたいと思ったことについては、なるべくやり遂げてから死にたいなぁと思います。
    その目線で、もしかしたら、大学を留年することが決まったあの日、海外で暮らしたいって思ったのかもしれないなぁ。

  • 人生に、ある程度のロマンは必要

    人生に、ある程度のロマンは必要

    基本的に、以下のマインドで生きています。

    • 幽霊はいない
    • 占いは嘘
    • 血液型も信じない
    • 夢で何を見ても関係ない

    なんというか、根拠のないものについてはあまり信じたくないと思う節があります。

    割とつい最近までそんなことなかったんですけどね。
    明確な根拠はよく分からないのですけど、哲学の本を読んでいるうちに、なぜかそういう心持ちになりました。

    占い、血液型、信じないの、つまらん男よね、と思ってしまう。
    話を合わせるという面で、多少は興味を持ったら良いのでは?と思ってしまう。

    そういえば12月も中旬に入った今、改めて思い出しましたけど、私、本厄なのにお参りには行きませんでした。
    家族に勧められ、お守りは買いましたけど。

    結局お参りしたところで病気にはなっちゃうだろうし、とか考えるとどうしても億劫になってしまって。

    けど、一方で、そういう文化が根付いているということを、きちんと理解しておく必要性、ね。

    占いなんて、一つのメジャーな産業になっている気がするもんね。
    それだけ、占いに執着する人がいるわけでしょ。

    例えば大きな買い物をする時。
    家とか、車とか、人生でそんなに頻繁に買わないものを買おうとする時。
    迷いますよね。
    迷った挙句、自分じゃ決められなくなって、誰かに助言を求めるじゃないですか。その矛先が、占いなんですよね。

    占いは、占星術とか、なんらかの根拠をもって未来を指し示してくれますが、その結果については正しかったかどうか、誰も気にしてませんよね。
    そこで「悪い結果が出た!お金返せ!」となるのはお門違いなんです。
    だから、占いによって得られた助言によって、自分が全部の責任を負いながら決断をするんですね。
    そこに、一切の責任は持たない。
    けど、占いはそれでいいんです、その位置付けが一番最適なのだと。
    それでもなお、人間が占いを気にするのは、そうしたほうが人生が豊かになる気がするから。

    なによりもまず、楽しいですよね、占い。血液型とか。星座とか。朝のニュースでやってる占いで1位だったりすると、なんとなく嬉しい気分になり、12位だとなんとなく残念な気分になります。

    あと、占いとか、根拠がないから意味がないというのは先入観なのだから、人生を楽しむという意味では、それ含めの人生にしていくと、もっと豊かになるのかもしれないなぁ。

  • 恋なんてただの思いこみなのに、

    恋なんてただの思いこみなのに、

    恋は、自分で勝手に作り上げたイメージから始まる。

    あの人の表情が好き、だからもっと見ていたい。
    優しくされた。もしかしたら好きなのかも。
    これらは全部、妄想。

    しかもその思いの先にあるもの、恋のゴールが「好きな相手と結ばれること」だとすると、自分一人では到達することができないのは明らかだ。
    相手の気持ちも、同じ方向に向かわなくてはいけないのだから。

    それなのになぜ、恋をしたがるのだろう。

    人間の本能だから。
    そんな理屈じゃ、納得できない。
    そんなの、義務教育で習っている。

    きっと恋は、嬉しいからだ。悲しいからだ。

    成就すると、きっと嬉しい。生きてて良かったという気持ちになる。
    失敗すると、きっと悲しい。生きてる価値なんてないという気持ちになる。

    成就でも失敗でも、その瞬間を越えてしばらく経つと、あれは一つの経験になったな、という気持ちにだってなるのだ。

    つまり、満足するのだろう。

    良くたって悪くたって、自分が満足することになる、はず。

    けどね、わかる、失敗、怖いよね。

    あの人、自分のことを好きになってくれるか、分からない。
    50%の確率とか、そういうのすらも、分からない。
    なぜかと言うと、思い込みだから。

    相手の気持ちをある程度推し量ることはできても、確かめるには、恋のゴールに向けて進めるしかないのだ。
    確かめたいから、みんな、恋をしていくのだろうか。

    小さな一歩だけど、それは、やがて、ゴールに向けた大きな一歩になるのだろう。
    小さな一歩、ものすごく怖いけど。