ブログ

  • 悪い妄想を止めるべきか、続けるべきか

    悪い妄想を止めるべきか、続けるべきか

    誰にでも裏の顔があると思っていて、だけどそれを妄想していても何も良い結果は生まれないと思う。

    極端な言い方をすると妄想っていうのは暇つぶしの一つなのだから、誰かが私を嫌っているのではないか、と思い始めたら、それは暇潰しと一緒なのだ。
    他にもっと、考えることはあるだろう。
    だが、いったんそっち側のことを考え始めてしまうと、途端にそれだけで心が満たされてしまう。
    自分で止めようとしても、簡単に止めることができない。

    これは一種の、自分が培った思考プロセスなのだ。
    悪い憶測が悪い思い出を呼び出し、そして嫌な気分になる。
    同じように思考が展開したことは今までなかっただろうか。
    その、今までの思考プロセスに、新たな記憶(例えば嫌な気分を被った場合など)がプラスされると、負のスパイラルと化する。困ったものだ。

    これはどうしたら良いのか。

    二つの選択肢がある。

    強制的にやめる方法と、そのまま思考を展開させる方法。
    どちらが良いのかは分からない。
    私も同様の思考展開を何度も抱いたことがあるが、どちらにしても、あまり成功したという思いには至っていない。

    強制的にやめる方法というのは、簡単に言うと違うことを思い浮かべる。
    そうすることで、いつもの悪い思考展開を止めることができる。
    人間は一瞬でも違うこと、それも自分の興味があることを考え始めると、それまで考えていたことが消えてしまうように感じる。
    だからこれは有効な方法だろうと思う。
    ただ、そんな簡単に違うことが思いつくのだろうか。
    私が何度かやっていて感じたのは、違うことを考えようとしても、元々くすぶっていた思いが完了していない、納得していないから、結局戻ってしまうように感じる。

    だから、二つ目の選択肢があると思っている。
    これもまだ、自分の中で納得していない方法ではあるけれども。
    上述したように、一度思考が展開されていくと、それを容易に止めることはできない。
    よほどのこと、それこそ天変地異でも起きないと無理であろう。
    そして自分の意思とは違うところで思考が展開されているようにも感じるので、それをあえて止めず、流してみる
    そうすると、ある時、納得する瞬間が訪れる、ような気がする。
    気がする、というのはまだ自分の中で納得できていないから。
    というのも、悪い記憶に新たな悪い経験をプラスし、その悪さを増幅したところで、きっと記憶にしまい込まれるのだろう。それをまた新たに引っ張り出すことになるはずなのだ。
    だから、そうすると、また同じように、悪い経験をプラスし、雪だるま式に大きくしていって、終わりはいったいどこなのだろう、となってしまう気がする。

    そもそも、悪い思考を展開させることは、悪いことなのだろうか。

  • サディストとマゾヒストはどっちが強いのか

    サディストとマゾヒストはどっちが強いのか

    ある哲学書で、主人と奴隷の関係性について描かれていた。

    主人は奴隷の労働によって成り立っているから、主人は依存している。
    一方奴隷はというと、自分自身の労働によって主人を助け、労働という制約はあるものの、それを含めた全体の生活での自由を見つけ、それを確立していく。
    つまり助け合っているということだ。
    言葉尻だけを受け取ってしまうと主人のほうが偉そうに見えるが、それはあくまで言葉の上だけで、ある視点で見れば主人よりも奴隷のほうが自由だし、人間らしいと感じられる。

    その辺を読んでいた時に、それを現代で置き換えるとSとMの関係性になるのかな、と一瞬考えたので、その小さな芽を少しずつ大きくしてみたい。

    きっかけは飲み屋での話。以前(そっち系の話に強い)同僚が、SとMでは、Mがいないと成り立たないから、SよりMのほうが強いんです、って話をしていた。
    私はそれが、私の価値観を揺るがすほどの話だったので、数年前に聞いたのに未だに鮮明に残っている。

    私はSでもMでもない(ような気がする)から、どっちの気持ちも分かるような、分からないような感覚で、冗長な言い方になるがどちらも共感できるし、信じられない部分もある。
    例えば痛めつけるのが前提という点。
    相手の痛がる顔なんて見たくないし、わざわざ痛い思いをしてまで、と。
    どちらも信じられない。

    ただ、自由という点において、SはMの痛がる反応を感じ取らないと、自分の欲求は満たされない。
    だとすると、Sには不自由さが残る。
    痛むように痛めつけないとMは喜ばないから、うまくやらないといけない。

    一方、Mは、自分の欲求、痛めつけられたいという思いが叶えられるから嬉しい。
    自分の反応でSを喜ばせることができるという承認欲を満たせるという点でも嬉しい。

    だから、Mのほうが強いのではないのだろうか。

    もちろんこれは一方的な見方しかしていないので、もっと時間をかけて多角的な視点から見ると、いろいろな観点があるだろう。
    さらに私は前述の通りどちらのタイプでもない(と思う)から、私はどっちなんだろうと考えてみるのも、考えが拡がって良いのかもしれない。

  • これが誰かに向けた手紙だとしたら

    これが誰かに向けた手紙だとしたら

    こうして公開するということは、誰かに向けた手紙と同様なのだ。
    今の自分が抱いてる思いが、見知らぬ誰かに届くことだってある世界。

    まだインターネットがなかった少年時代、ボトルに手紙を入れ海に流すという、ボトルメールに言葉では言い表せないほどの憧れを感じていた。
    平たく言うとロマンなのだろうけど、それが今、こうして、実現できている世界にわたしは生きている。

    こうして、誰かに見られることを意識すると、途端に書きたいことが書けなくなるような、窮屈な思いを抱いてしまう。
    それはきっと自尊心から来るもので、良く見られたいという思いが根底にあり、だからこそ下手な文章を書けないと、思ってしまう。

    自分のサイトなんだから、自分の描きたいように書いたら良いではないか。自分を飾る必要なんて、そんなものは幻想なんだから。
    自分がいくら着飾ったところで、素の自分を変えることなんてできないのだから。

  • お前のその、両手のサイズ

    お前のその、両手のサイズ

    自分への戒めとして。

    昼食を摂ることも忘れ仕事に没頭するのも良いのだが、最低限、気持ちに余裕を確保しておくべき。
    仕事と仕事の隙間に佇む、自分の気持ちを緩めるようなことは、確かに仕事の成果には直接的には繋がらないが、生産性を上げる大きな要因であることは間違いない。

    沢山の仕事を捌くのも重要。
    多くの成果物を残すことも重要。
    だが、もっと重要なのは自分を見失わないこと。
    成果物は残せるかもしれないが、その代償として失う気力、それを再び獲得するのは容易なことではない。
    それにより暴飲暴食に走る。
    そして体調を崩す。
    治すのに時間がかかる。
    治るまでは仕事が辛い。
    そのまま負のスパイラルで、仕事の停滞、気力の低迷が続く。

    だからこそ、日々、自分のキャパシティを見誤らず、落ち着いて、適切なモチベーションの下で進めていくべき。

  • 今の世界に満足することだって必要なことだろ

    今の世界に満足することだって必要なことだろ

    地球はデカい。
    おそらく、多くの人は地球の全てを見る前にこの世を去ってしまうだろう。
    いくら金があったとしても、いくら時間があったとしても、さすがに限界がある。

    別に良いのだ。
    私は、世界の全てを見てみたいとは思うけれど、全て目にする必要はないのだから。

    世界の多くを見てみたいと憧れることは良いことなのかもしれない。
    が、今いる世界、今の私が、今のあなたが見ることのできる世界をきちんと見ること、きちんと知ることだって、ものすごく大切なのだ。

    要は、今の世界に満足しているかどうか。

    今、自分が見ることのできる世界に不満があるのなら、外の世界が気になってしまうだろう。
    そして、不満があるからこそ、外の世界がとても美しく、自分が満足する要素を多く含んでいるように見えるだろう。
    だが、今まで自分がそのように考えて、外に飛び出した時、想定していたほどの満足を手に入れたであろうか。
    今の自分は、その満足を従えて、生きているのだろうか。

    逆に、外の世界を知ることで、元々持っていた世界の良さに気づくことだってあるだろう。

    だから、外にばかり憧れていないで、今自分が持っているものを見つめ直し、価値を再認識するべきではないだろうか。

  • 夢とか持つべきではないのかもしれない

    夢とか持つべきではないのかもしれない

    理想の自分と比較するといつも、自分の至らないところが目に見えてきて、本当にイヤになる。
    この、思考の繰り返しについても、本当に嫌気が差す。

    なんでこうなったのか。

    つまるところ、めんどくさがることに起因しているのではないだろうか。
    めんどくさがることと、関連して、物事を先延ばししてしまうこと。

    理想の自分は万能型。なんでもできるタイプをイメージしている。
    現実の自分はというと、いろんなところに中途半端で、情熱を持って自分を磨いてこなかったことの結果だと容易に想像できてしまう。

    めんどくさがるのはなぜか。先延ばししてしまいたくなるのはなぜか。

    怠惰。怠けたくなってしまう。自分を律するのがめんどくさい。
    ぬくぬくしたところでぼんやりとお酒を飲み、生きていたい。

    多分、そんなところだろう。

    それはそれで良いのだ。それを選択したのだから。
    それならいっそのこと、理想の自分は「ぬくぬくしたところでぼんやりとお酒を飲みながら生きていくことです」と言い放てば良いだけ。

    けど、それができない。
    それは、自分の理想とは大きくかけ離れているから。

    理想とは。

    そもそも理想なんて持たない方が、幸せに生きていられるのかもしれない。
    夢なんて持たない方が、幸せに生きていられるのかもしれない。

    そもそも夢とは。持つべきものなのだろうか。理想も然り。

    人間は、成長すべきなのだろうか。

    自分のやりたいように生きる、ことが人生の目的なのであれば、やりたいように生きる≠自分を磨き、夢を実現させるというケースだってあるでしょ。

  • 内向的だって悪くないだろ

    内向的だって悪くないだろ

    相変わらずHSPとか内向的とかって記事があると読んでしまう。

    それ自体は悪いことではないのに(って言ってる時点で劣等感があるのが分かる)、つい、自分を肯定したいという気持ちが静かに眼を覚ます。
    そもそもそんな気持ちを劣等感として持っていたのは、いつからだろう。なぜだろう。それ自体、良いとか悪いとか、そういう次元の話ではないのに。

    子供の頃、物静かな自分は周りからシャイな人間だと思われていた。
    それがあまり良いことではないように思ったのは、クラスの人気者たちは明るくて活発、はきはき話す人が多く、それに引け目を感じていた。
    自分もそっち側になりたいと感じ、そして自分がもともと持っていた個性を殺し、明るく振舞うようになった。やがて、明るく振舞う方は、自分の個性として位置づけられるようになる。
    多分、他人から承認されたかったのだ。

    自分がもともと持っていた個性はどうなってしまったのか。
    そいつは静かに、自分の中に眠っていた。
    基本的にそいつはいつも眠っているが、時折、そっと目を覚ました。
    自分はそいつが起きたことに気づくと、そいつにそっと寄り添い、寄り添うことで自分がなんとなく温かな気持ちになることを認識した。

    本当は、そいつのことを忘れたくなかったのだ。
    忘れるべきではなかったのだ。
    大好きだったのだ。

    やがて、そいつは、ついに自分のものとして認められるようになる。
    今まで、卑下され続けてきたそいつは、市民権を得ると、自分に寄り添うべき個性として、存在感を現す。
    私は、両面の個性を認めることになる。

    外向的なものと、内向的なもの。
    そのどちらも自分の個性なのだ。

    どちらも、私が愛すべきものなのだ。

  • 日々、あっという間に過ぎていくから

    日々、あっという間に過ぎていくから

    この3連休、何してたっけ?と3ヶ月後に思い出そうとしても、なかなか思い出せない。

    そもそも思い出す必要はないのかもしれない、けど、忘れたくないことまで忘れてしまうから、せめてもの思いということで手帳にちょっとしたことを書き記す。

    小さな思い出を大切に記すことは、丁寧に暮らすことの第一歩な気がする。
    紙とペン、あと少しの時間があればできるのだから。

    そうやって少しずつ習慣にしていくと、やがて手帳の存在が大きくなっていく。
    手帳には、自分が良かったと感じる思いが残るからだ。

    手帳を開けば、気分が明るくなる。

    たぶん、こういう使い方が一番良いのではないかと思う。

  • 君が見てる白は、あの人が見てる白と同じ色じゃない

    君が見てる白は、あの人が見てる白と同じ色じゃない

    白って清潔。何にも染まっていない。まばゆい。雪。牛乳。

    先天的に目の見えない人に、白という色を伝えるにはどうしたら良いのか。
    適切に、最低限の言葉を使って伝える場合の、正解が見つからない。

    目の見えない人、って言い方をしたけれど、違う言語を使う人に対して、適切なニュアンスを含んだ意味を伝えるのが難しい。

    例えば、どうも。っていう言葉、これを日本語を知らない人に対して伝えるにはどうしたら良いのか。
    先に挙げた、白と同じ話。
    こんなにも難しい世界で、戦争をなくそうって言うのは到底簡単なことじゃないんだろうなと思う。
    戦争がなくなったほうが良い、ということがどういうことなのか、意味が分からない人だっているのだから。
    そんな世界に生を受けた人は、戦争のない世界がどんなに良いものなのか、想像がつかない。
    日本という国で、穏やかな西日を受けながら、こんな風にブログを書いている人間のことを想像することができない。

  • 学力で学校を選ぶことは、人を救うのか

    学力で学校を選ぶことは、人を救うのか

    自分の生き方は自分で模索していく世界になりつつある中、いろいろな人の考えを知り、自分だけの正解を導いていく世界。
    いろいろな人の考えを知ることが必要なのだとすると、偏差値の近い人が集まる高校という制度は正しいのであろうか。

    自分と学力の近い人たちが集まる学校。
    考え方の近い人たちが集まるのだから、気が合う人、沢山いるのだと思う。
    一方でそれは、もしかすると、多様性のある考え方を手に入れるチャンスを逃しているのかもしれない。
    一長一短なのかもしれない。
    どちらが良い、ということではなく、好みの問題。

    それがデメリットだと感じる人はおそらく、学校の外に出会いを求めていく。
    ボランティア活動やバイトなど、様々な境遇の人が集まる場所。
    おそらく、いろいろな考えを手に入れることができるだろう。

    生き方は人それぞれだから、自分の信じる道を進めば良いのだ。
    変化する必要はない、他の人から刺激を受けたくない、自分の中にあるもので十分という人だっている。
    正解は自分で見つける。