無理しない
人と比べない
自分の中にあるベストを
早く寝る
お酒を飲みすぎない

今日、仕事しながらApple Musicにオススメされたストレイテナーなるバンド。
今までも何度か聴いていた。オススメされたので。その度に、名前は知っていたけれど、詳しく聞いていなかった。
今日は私の中で、ストレイテナー記念日とでも呼んでみようか、私の中でだいぶぐっと来た一日だった。
もともと90年代後半のUKロックであったり、ハイスタを始めとする日本のメロコア、イースタンユースをベースとする日本のエモコア、サンボマスター辺りを好物とする私にとっては、このバンドはむしろストライクなのであった。ディストーションの歪み具合。疾走感。リフの雰囲気。好きに決まってる。このバンドを教えてくれてありがとう、Apple Music。
私が高校生のころは、と昔の話をしても今更仕様がないのだが、あの頃はバイト代で月に1枚のCDアルバムを買うのが精一杯だった。
つまり月3000円。高校生にとっては、だいぶ大金だった。大学に入ってからもあまり変わらず、本当はもっとたくさんのUKバンドを知りたかった。
それが今ではサブスクリプションのおかげで、月1000円程度で、こんな感じにストレイテナーを聴くことができている。「あれちょっと聞いてみたいんだよなぁ」と思えるようなバンドを聴くことができるのは、リスナーにとってはだいぶ嬉しいことである。
エンタメ小説は、売れることを目的にしている。
純文学と呼ばれるような小説は、自分の内面から湧き出る想いを文章という形で可視化し、周りに読んでもらうことを目的にしている、ような気がするんだよなぁ。
昨日の朝ラン中、そんなことを考えたんだった。
いや、けどそういうカテゴリーはどうでも良くて、私が昨年くらいから描いている小説はその両方に当てはまるような気がしてて。
そうそう、そもそもカテゴライズしたくなっちゃう病ってのがあんま良くなくて、私のネガティブ思考に関連する話でもあるんだけど「そのどっちにも当てはまらない状態」を認めるのが、すごく気持ちが悪い。イエスかノーか。赤か青か。プラスかマイナスか。そういう教育を受けて育ってきたから?よく分からない。
グレーを認めると言うのは、多様性を認めるということにもつながる。もしかしたら私の中で、多様性というものを認めたがらないのかもしれない。いろんな考え方があって然るべきだし、58億人の考える、自分の中にある正義や信念に基づいて生きているだろうから、そのことに異議を唱えるつもりはなく、みんなそれぞれ自分の正義や信念を信じて、他人の邪魔をすることなく生きていったら良いのにな、と思ったりします。
朝食も、ごはん派、パン派だけじゃないと思うんだよね。食べない人、お茶だけ飲む人とか、いろいろいるもんね。
二日続いた雨がやみ、思わず嬉しくなって外ランをしてきたんだけど
なんとなく街を歩いている人たちみんなも同じ気持ちになっているような気がしたなぁ。
やっぱみんな、晴れのほうが嬉しいよな。
そりゃ、雨の日だってあるから、それに一喜一憂していること自体、どうかとは思うのだけれど。
図書館で、齋藤孝さんがニーチェの哲学について語っている本があったので思わず借りたんだけど、
うーん、
どうなんだろうこれは、と思うようなことがあって。
齋藤孝さんというよりは、ニーチェの考え方になるんだろうけれど、
過去を全部肯定せよ、みたいなところがあって。
論調としては、今の自分を作り上げたのは、過去の自分が選択してきた道があるから。
今の自分を応援するためには、過去、自分がイヤだったようなことも全部抱きしめなきゃいけないのかな、と思って。
それってかなりキツい。たまに、そういうイヤなことを思い出しては心の中で「んあー!」ってなり、一瞬でものすごく死にたくなるんだけど、それをなるべく忘れるように、思い出さないように生きている中で、それを全部愛せ、肯定しろ、っていうのは
うーん、すぐにはムリっすね、ってなってる。
そりゃ確かに、今の自分は、当時の自分がいたというのは否定しないし、そりゃそうなんだけど、過去に対してそんな感じで、全部包み込む必要があるかっていうとなんとも言えなくて、私個人としては、忘れた方が良い過去はダッシュで忘れるべきだと思うんだよなぁ。
思い出す度に「んあー!」ってなって、自分の心を病んでしまうから。
両方を生かすにはどうしたら良いのか。どうしたら、良いものか。
「んあー!」な過去を思い出してしまったら、「そういうこともあったなぁ…」って考えながら、そっとしてあげる、って感じかなぁ。
それで、自分の心にあるささくれが、わだかまりが、薄まったりするのだろうか。
分からんね。分からんよ。
人がおやすみすると、途端に崩れる体制は、管理者がそのリスクに対して十分な対策をおこなってきていないからだろう。
そんな1日だった。
あっという間。
ミーティングばかりで、自分の手持ちであるデスクワークについては、いつまで経っても片付かないばかりか、新たなものが積み重なっていくような雰囲気。
あぁ今日は暇だわー、とか、在宅勤務って楽すぎて逆に辛いわ、みたいなシチュエーションに一度も出会っていないから、私の中ではだいぶブラック感が漂ってしまう。
別に会社のことを悪く言うつもりはないのだけれど。
今の仕事、楽しいし。
楽しいんだけどさ、
あれ、
もうちょい、余裕が欲しいって話。
ミーティングのための資料作りにずーっと時間を割かれ、一つのミーティングを乗り越えたと思ったら今度は次のやつに向けた準備が、みたいなのを繰り返し、いつの間にか金曜のこの時間を迎えている、という状態。
忙しいのは、もしかしたら喜ぶべきなのかもしれないけどね。
ホント、仕事の記憶しかない。今日。
自分の価値観を、揺るがずに持っていることにポリシーと感じているような人は、私からすると合わないのかもしれない。
人によるから、私はその人に対して良いとか悪いとか、そういう判断ができない。私の判断なんてなんの意味もないから。自分の機嫌を取りたいだけだから。
だから、頑固な人、周りに合わせようとしない人、努力しない人には、今までずーっと「なんであの人は協力しないんだろう」と一人で悔やみ、がっかりしていたのだけれど、
それは私がその人に対して期待をしていたからであって、多分、ではなくきっと、私の思惑が間違っていたんだと思う。
そうすべきじゃなかった、ということ。
期待すんな、と1週間に20回くらい考えることがあって、それはつまり私が、人や、組織に対して期待してしまっていることの裏返しなのであるからなのだけど、少なくとも私の意識を変えるだけで、もしかしたら世界が変わってみてるのかもしれない。
同じように、厭世的な考えをずーっと持っていて、この世に対してなんの未練もありません、今すぐに命が終わっても良いです、と考えていたんだけど、
一方で、
例えば、もうすでに別れてしまった人に対して、もっと優しくすべきだったとしても、その人が死別してしまっているとしたらすでに手遅れで、それは後悔の一つで、
その点で、
私はまだ会いたい人がいるし、その人と会って話がしたいし、その人の顔が見たいし、てかずーっと見ていたいし、それはつまり家族であったり旧い友人であったりするんだけど、
そういう人たちとの、黄色いTシャツの番組みたいな言い方をすると「絆」というものが思い浮かぶんだけど、その絆があるから、まだ死にたくないな、と思うようになりました。
ただそこにも、他人には期待すんなよ、ということがあり、私が会いたいからと言って、向こうも同じように会いたいと思っているかは彼らの勝手なのだから、私はそこに期待しちゃいけないんだな、ということは忘れないでいたい。
またしても一瞬で1日が終わる。
それでも今日は、いつもとは違う瞬間があった。
と思ったけど、基本的に毎日、違う瞬間はあるでしょ。
在宅勤務をしていると、リアルに会う人間が、家族しかいない。
それでもまだ、家族がいれば恵まれているのかもしれない。
一人暮らしで在宅勤務だったら、本当に、人と会うことなんてなくなってしまうんだろうなぁ。
今、在宅勤務をしている人って何割くらいいるんだろう。
通勤での苦痛から逃避できるという大きなメリットを享受しながら、生きている。
私に取っては両面の効果があり、本を読むのが好きなので、その時間を充てられることがなくなったというのがちょっとキツい。
いや、そこは通勤時間分、本を読む時間にすれば良いんだけど。
その時間、今のわたしは一体どんなことに費やしているのだろう。
きっと眠ったり、仕事をしたりということになるんだろうけど。
それが意味のあることなのか、と問われると、素直にイエスとは答えづらい。
それでもまだ、眠るという点においては、私の欲望に対して素直に実行へと移しているのだから、それだけでもプラスなのかもなぁ。
仕事、つまり残業ということになるのだけれど、自分の中で「ここまではやっつけてしまいたい」と思うところまで仕事をした場合、仕事に拘束される時間としては長くなるんだけど、一方で私自身の精神衛生上は、大いなるプラスになるのだ。
難しいよね。なにを優先するかでしょ。
私が気持ちよくなれること、という点であれば朝は眠る時間だし、夜は自分が気持ちよくなるところまで仕事をやり遂げるっていうことになるでしょ、そう考えたらどっちも、私に取ってはプラスなのよね。
それでも最近は無理にでも19時退勤とかして、ランニングするようにしてる。
それも私の中では、気持ちよくなれる行動の一つだから。
そうやって、自分が何をすれば気持ちよくなれるかというのを考え、いくつか武器として持っておくのも、生きやすくなるためのヒントな気がするなぁ。
老後の世話をしてもらうのはイヤだ、恥ずかしいから
みたいなことを考えていたけど、明日には死んでしまうかもしれないと言うことに気づき、もうちょいちゃんと今を大事にして生きなきゃな、と思うようになりました。
これだけで、ポジティブに生きられているような気がしています。
こんな、小さな気づきだけで。
発端はセネカの、人生の短さについて、で、
私はそこからエッセンスだけを抜き出した本をちょっと読む機会があり、
そこから上記のような気づきを得たのですが、
すごいよね、2000年前の人が書いた本で、いまだに、心を動かされようとしてるんだもんな。
そう言うのを考えると、いつの時代も考えることに差異はそんなになく、つまり人生をいかに大切に生きるか、今を意識して生きるか、そこに尽きるのかなと思ったりします。
今を意識して生きる。
これが、もしかしたら本当の「意識高い系」なのかもしれない。
揶揄されるそれとは一線を画した、本来のやつ。
この言葉と、「自分探し」は割と、勘違いして揶揄されがちだよなぁと思ったりします。
自分探しについては、これはいろんな価値観と出会うことで、客観的に自分を見つめ直す機会があるのかなと思っていて、
私の場合、直近で考えると、ものすごいお金持ちの家で育った人と一緒に仕事をすることがあった時に、彼女の感覚と、私の感覚ってだいぶ違うよな、というのに気づき、私は、お金について割ときちんと地味に使うのが好きなんだなと思うことがありました。
自分探しっていうのは、そう考えると自分1人で見つけるのはもしかすると難しいのかもしれない。例えば荒野で、1人でとぼとぼと数十Kmの道のりを歩くとします。
当然喉は乾く。けど近くに水の出るような場所はない。困る。
こういうケースなのであれば、もしかしたら自分の価値観というのが見えてくるのかもしれないけど、こう言うケースにぶち込まれることは割と稀で、このご時世、他人の一挙手一投足に自分がどう反応するかで、あぁ自分ってこんなだったんだ、と思うことがあるんだよなぁ、と。
43歳になってもまだ、自分がどういうものか、はっきりわかってない。
83歳になったとしても、もしかしたら分かっていないのかもしれない。
こういうのって変わっていくだろうしね。